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1. 国民百科事典7

を示した れた北 , われる。 ノレネサンス 制作者もそれまでのギルド 中欧諸国においてもうかが それは宗教改革の遂行さ る領域において現世的 , 世俗的傾向 マの凱旋門にならったフアサード ンドレア聖堂に単廊式の構成とロー い理解を示して , マントノヾのサンタ つづいてアルベルチは古代様式に深 豊かな力強い内部空間を作り上げた。 において , 単純明快な比例に基づく ローチェ聖堂付属のパッチ家礼拝堂 式に踏み出した。さらにサンタ・ク 胆な中央ドームを考案して新しい様 とどめながらも二重殼構造による大 イオーレ聖堂に , ゴシックのあとを スキが / サンタ・マリア・デ . ル・フ て , フィレンツェでは , / プノレネレ 造営が続けられたミラノなどに対し てなおゴシック様式による大聖堂の 建造 , 修復された。 15 世紀にいたっ 宗教建築が , 中世にもまして活発に リアでは聖堂 , 修道院 , 礼拝堂などの み出すまでにいたる。 1 ) 建築イタ 紀初めの統一的な古典主義様式を生 いに大都市に吸収され , やがて 16 世 独自の芸術表現をみせながら , しだ その他の中小都市は , 地方色豊かな はローマおよびベネチアが栄える。 の中心、であリ , 15 世紀末 ~ 16 世紀に びその周辺のトスカナの田丁々が芸術 - 紀においては , フィレンツェおよ たのはフィレンツェであり , 14 ~ 15 美術を生み出した。その先頭を切っ 芸術活動が , 多彩で , けんらんたる ベネチア , ローマなどを中心、とする 展カヾみられ , フィレンツェ ラノ らポルゲシアの興隆に伴う都市の発 であるイタリアにおいては , 早くか 〔イタリア〕ルネサンス美術の中心 ある。 てそれぞれ独特な成果をみせるので た。それによって , 西欧各国におい 拡大され , その内容は一変させられ たに登場し , 芸術表現の場は一挙に 暗法 , 肉付法などの近代的画法が新 陶器などの新しい技法 , 遠近法 , 明 いジャンル , さらに油絵画法 , 彩色 的建築 , 肖像画 , 歴史画などの新し で , ・宮殿 , 市庁舎 , 邸館などの世俗 芸術の舞台であったが , それと並ん とする装飾活動は依然として重要な した。教会堂建築および教会を中心 術の内容自体にも大きな変化を及は、 芸術の人間化の傾向は , また , 芸 に制作していた。 や貴族 , 法王ら権力者の保護のもと の学芸の場合と同様に , 強力な君主 芸術活動を行なうにはいたらす , 他 術家は , まだ近代的意味で独立した うになったとしても , 多くの場合芸 しかし , 個人の能力が認められるよ しい技術 , 科学の成果を駆使した。 ーマの古代文化にあこがれつつ , 新 ようになった。彼らはキリシア , ロ した個人として各自のオ能をふるう のような同業者共同体を離れ , 独立 5 2 4 を示した。 15 世紀末から活躍してい た / プラマンテは , 中 - 世のノヾジリカ 様式に対して集中式プランを進め , 1502 年のテンヒ。ェットの力強い統一 感によって盛期ルネサンス様式を決 定づけた。彼によって最初のプラン をたてられ , ミケランジェロによっ てイ修正されたローマの / サン・ピエ トロ聖堂はルネサンス建築最大の成 果とされる。しかし , ルネサンス建 築の特色は , 宗教建築よりも , 役所 , 病院などの公共建築物 , 個人の邸館 ( パラツツォ ) などにいっそうよく現 われている。フィレンツェに生まれ たノヾラツツォ建築は , ゴシックのを垂 直性を強調した様式に対し , 安定し た水平性を強調し , 随所に古代建築 のモチーフをとり入れて , 単純素朴 ながらカ強く明快な建築表現に達し ミケロツツオの手になるノヾラッ た ツオ・リカルジや , クロナカが完成 したノヾラツツオ・ストロツツイなど がその例である。また公共建築物で は , ローマ風の円柱の上にアーチを 連続させた正面部をもっプルネレス キの孤児養育院 ( フィレンツェ ) や , 法王の居所であるバチカン宮殿など があげられる。 2 ) 彫刻彫刻におい ても , 先頭に立ったのはフィレンツ ェであった。 14 ( ) 1 年 , 洗礼堂の門扉 & のためのコンクールが行なわれ , 慮リ 的な激しい表現を示すプルネレスキ が敗れて , 優美で絵画的な / ギベル チが選ばれた。キ・ベルチは , その後 半世紀を費やして , 洗礼堂の二つの 門扉を完成するとともに , その装飾 的 , 絵画的様式によって , のちの彫 刻界に大きな影響を与えた。キ、ベル チとはは、同じ時期に , . / ドナテロが 鋭い写実に基づく表現主義的作風に よって , 近代彫刻への道を開いた く聖ジョルョ > くダビデ > をはしめ , 幾多の傑作を残したドナテロは , キ、 ベルチとは対照的な力と激情の表現 にその特色をもち , その鋭いリアリ ズムは彫刻家のみならす , 画家にも 大きな影響を与えた。 15 世紀のフィ レンツェ彫刻は , はかに独自の柔ら かな美しさを示したルカ・デラ・ロ ッビアが出たが , 後半期にいたって , べロッキョ , ボライウォロ , さらに やや遅れて / ミケランジェロが登場 する。ミケランジェロは , 最初は古 典主義的傾向が強いが , しだいに激 しい動きやダ、イナミックな表現力を 示し , く奴隷 > やく口ンダニ ニのヒ。 エタ > などは , すでにのちのノヾロッ ク彫刻を予告している。また , 世俗 的な主題として , 15 世紀以来 , 肖像 彫刻 , とくに胸像彫刻 , 廟墓彫刻 , 騎馬像彫刻 , 古代的モチーフによる 装飾彫刻などが登場したことも忘れ てはならない。 3 ) 絵画絵画は , 早 く 14 世紀初めから , 中世風の類型的 表現を乗り越えて , 人間的表情と現 実的空間をめざした力強い様式が , / フィレンツェ派 , / シエナ派の中 に生したが , とに / ジョットはア ッシジやノヾドノヾの壁画において , 単 純化された形態のもつ造形性と安定 した構図による空間性を兼ね備えた 絵画世界を実現した。 15 世紀のフィ レンツェは , ジョットを受けて , い っそう力強い写実的な肉付法と , 統 一的構図による緊張感を付け加えた / マサッチョの絵画に始まる。彼は , プランカッチネし拝堂の装飾壁画によ り , 絵画の世界に初めて完全に写実 的な人間像をもたらした。その後 , マサッチョによって始められた立体 感のある人体表現 , 正確な明暗法に よる空間表現がさまざまな形で追求 され , ルネサンス絵画の黄金時代を 築いていく。 15 世紀半ばごろには , 敬虔な修道僧画家フラ・アンジェ リコが , ゴシック風の華麗な色彩表 現と , ルネサンス風の統一的画面構 成とを総合した神秘的な美の世界を 作り上け , もうひとりの修道僧画家 フラ・フィリッポ・リッピは , 宗教 的主題の絵画にさえ世俗的要素をと り入れた。ゴッツォーリは豪華な風 俗画を描き , ドメニコ・ベネチアー ノも , 明るい色彩表現によって知ら れる。これに反し , カスター ヨ ウッチェロらは , むしろ線描表現に すぐれ , 写実的傾向の強い作品を残 した。一方 , フィレンツェ以外の都 市では , 同し 15 世紀半ばごろ , ポル ゴ・サン・セポルクロに生まれたフ ランチェスカは , 単純化された形態 と調和のとれた色彩により , 宗教的 な深い静けさに満ちあふれた傑作を 数多く制作した。またパ ドノヾでは , みごとな遠近法の適用と鋼鉄のよう に堅い表現に特色を示すマンテー ャが活躍した。 15 世紀後半になると , フィレンツェは , メジチ家の当主ロ レンツオの保護のもとに , ポッチチ ェリ , ーく ) レジーーノ , ギノレランダヨ フィリッピーノ・リッピら , どこ力、 甘い叙情性を宿した名手たちが絵画 をおしすすめ , フィレンツェの堕落 をいきどおる / サポナロラのきびし い改革をよそに ( ポッチチェリは例 外 ) 夢のように美しい色彩世界を作 り上げた。同しころ , ボライウォロ ゃべロッキョらもフィレンツェにあ って広大なアトリエを指揮し , 次の 古典主義芸術を準備していた サンス絵画の最高の表現は , 16 世紀 初め , ローマ・に舞台が移ってから完 成された古典主義に現われる。その 代表的大家は , / レオナルド・ダ・ ケランジ ビンチ , / ラファェロ ェロの 3 人である。法王ュリウス 2 世とレオ 1() 世は , それぞれミケラン ジェロ , ラファ工ロにノヾチカン宮殿 内の壁画装飾や , シスチナ礼拝堂の 天井画などの制作を命した。レオナ ルドはすでに 1 5 世紀末ミラノでく最後 の晩餐 l{f> を描き , く岩窟第の聖母 >

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5 3 3 く聖母子と聖アンナ > などの名作によ の名でよばれている独自の美術が 権による統一体制が確立され , 強力 形成された。活発な商業活動 , 市民 って , 完ぺきな技法と調和のとれた な中央集権国家を作り上げていた 完成を示す古典主義芸術を作リ上げ 社会の進展を背景に , 工芸などの装 そのため , フランスの芸術は , イタ 飾芸術が発達したが , ことに絵画で ていた。ラファ工ロの数多くの聖母 リアにおけるような多彩な地方的特 は , 油絵を創始し , 写実主義 , それ 像も , 甘い , 優雅な表現のなかに 色はみられす , 宮廷趣味 , 貴族趣味 も日常生活を主題にした精密な描写 豊かな人間・羅をたたえており , すぐ の強い優美な芸術世界が尊ばれた れた技巧のさえとともに , 長く後世 や清新な風景表現によってイタリア 15 世紀を通して文化的にはイタリア の規範となった。この古典主義芸術 に一歩先んじた。すでに中世末期 , に遅れていたフランスは , 16 世紀初 ニアチュールなどの優雅な筆致の は , その後 , アンドレア・デル・サ め , 国工フランソア 1 世のもとに ルトらによって受け継がれたが , 15 うちにもそれらはきざしていたが , 積極的にイタリア文化の導入を図っ 27 年 , カール 5 世のローマの荒略以 ガンの大祭壇画く神秘の小羊 > の作 イタリア人画家プリマチーチェ た 者 / バン・アイクの徹底した写実に 降 , 社会的不安と動乱を反映した / マ を派遣して古代芸術の遺品を買わせ より北欧ルネサンスは始まる。アイ ニエリスモへと移行していく。 16 世 たり , ロッソ・フィオレンチーノ クは宗教画のはかにくアルノノレフィ 紀にローマと並んで大きな役割を果 レオナルドらをフランスに招いたり ニ夫妻〉など一般市民の肖像画など たした都市に , 水の都ベネチアがあ したのがその現われである。フラン る。現世的商業都市ベネチアでは , 日常的テーマをとり上げ , いすれも スにおけるルネサンス美術でとくに 早くから色彩豊かな世俗芸術が発達 鋭く対象に沈潜して , 正確 , 綿密な 注目すべきは , 15 世紀の後半と 16 世 したが , 15 世紀末ごろから / べリ 現実描写を行なった。つづく口ジャ 紀の前半と , 2 回にわたって大がか 一家が登場するに及んで , 美術史 ー・ノヾン・デノレ・ワイデンは悲に りに造営されたフランス中嗇に地方 , の表面に浮かび出ることとなった。 みちた宗教画を劇的に描いて , アイ ロアール川流域の城館建築である。 クに劣らない影響力をもった。彼や ロアール河畔の城館は , 中世の軍事 シチリア生まれの画家で , 油絵の技 ディノレク・プーツ , フーゴー 的意味をもった要さいとはまったく 法をフランドルからイタリアに導入 デル・グース , メムリンクなど , 示 別に , 純粋に行楽のための別荘とし したといわれるアントネロ・ダ・メ 教的テーマを敬虔な真情をこめて描 ッシナも , この開花に大きな役割を て手られ , シャンポーノレ , シュノン いたが , 技法の上ではきわめて写実 果たした。べリ 一家の後は , カ アンボアーズ , プロアなどの ソ 的な油絵表現であった。一方 , ポス ルバッチョのような風俗描写を得意 各地にすぐれた傑作を残し , / ルー は現実世界とはまったく無縁の怪奇 とする画家も出たが , 世紀の変わり プル宮の完成した古典様式に及んだ。 な幻想を描き , 奔放な想像力をもっ 目に , ジョルジョーネが日爰かい光に 絵画は , 15 世紀においては雄大な映 像世界をもった天オフーケやムーラ て , 極端に誇張したカリカチュアの けぶる田園風景によってベネチア派 ンの画家が登場したが , 16 世紀には 絵画を高め , その後 , 同門の / チチ 悪魔的表情を創造したが , 描写その ものはあくまでも精細であった。 アーノの登場によって , 完全にイタ 16 クルーエ父子の肖像画や , 甘美で装 世紀になるとフランドル絵画の創造 リアの代表的画派となった。その後 飾的なフォンテンプロー派がみられ 力は袞え , イタリアにあこがれて平 るにとどまる。彫刻では 16 世紀のグ のべロネーゼ , チントレットらは , ージョンが優雅な古典様式の作品で 板な折衷様式に陥っていったが , プ むしろマニエリスモ芸術に属すると ループル宮などを飾った もし、えよう。またノヾノレー ~ ク ) コレッジ リューゲルは一方でポスを発展させ 〔英国〕英国は 15 ~ 16 世紀にはル不 ョもその動的な表現と大胆な明暗の て幻想的 , 風刺的画面を残すととも に , 素朴な農民の生活情景をいきい サンス美術は開花しなかった。建築 使用によりバロックの先駆とみなさ では 16 世紀のチューータ、、一 - 一様式におい れる。 4 ) 工芸中世以来の伝統を受 きと現わした。なおフランドルの現 て古典様式への好尚が示されるが , 実主義的態度は , すぐれた市民的諸 けて , ルネサンス期においても , ス テンドク、、ラスなどの教会堂付属の装 建築に反映されている。 代表作ハンプトン・コー - ートが示すよ 飾芸術 , 彫金 , ぞうげ彫り , 金銀細 〔ドイツ〕 15 世紀ドイツは , 建築 , うにゴシック様式からの過渡的様式 コこなどの工芸は , ひろく行なわれた に終わり , ルネサンス的な明・央さに 彫刻 , 絵画 , それぞれゴシック末期 が , 世俗的傾向を反映してとくにル 欠ける。絵画でもわすかにヒリャー の多様な展開のうちに , ゲルマン民 ネサンス期に栄えたものに , 陶器 , 族特有の表現主義的傾向を示した。 ドらのミニアチュール肖像画が現わ 寄せ木細工など , 日常の器物 , 家具 れる程度で , ドイツのホルバイン この表現主義的性向はリーメンシュ 類がある。陶器は / マヨリカ焼とよ ネーデルラントの A. モルら外人作家 ナイダー , ファイト・シュトスの尚彡 ばれた明るく華麗な色彩の焼物が , の肖像画が画壇を代表した。 ルネサ 刻 , ションがウアーの絵画はもとよ 15 世紀ごろからイタリア各地で行な ンス建築 , 古典主義絵画は 17 世紀以 り 16 世紀初めの / グリューネワルト われるようになった。また , フィレ にも顕著であるが , 15 世紀末 ~ 16 世 後にもちこされる。 紀の絵画で , フランドル , イタリア 〔スペイン , ポルトがル〕スペイン ンツェの . ルカ・デラ・ロッビアは , 特殊なうわぐすりによる彩色テラコ 美術の景彡響下に古典的表現と統一さ は 16 世紀になってイタリア・ルネサ ッタの技法を考案し , メダイヨン , ンスを導入してからも , 中世以来の れ , ドイツ絵画の黄金時代を現出し 伝統が強く残り , 建築においては金 門扉装飾などの装飾芸術や , 洗水盤 , た。ホルバインの市民的肖像画 , ク 噴水 , 置物などの器物類にひろく用 銀のはなやかな装飾でおおわれるプ ラナハの教的なビーナス , アルト ラテレスコ様式がます栄えた。 16 世 いられた。 / ピサネロもすぐれたメ ドルファーの群集画など独自の趣を ダルを制作した。また寄せ木細工も , 紀後半フェリペ 2 世のもとに古典様 呈するが とに / デューラーーは , 長持、櫃などの道具類 , 室内の壁の 再度にわたるイタリア旅行を通して , 式が実り , / ェスコリアル修道院 上覆装飾などに用いられ , 鋭い線描 イタリアの華麗な古典様式を摂取し , が建設されたが , 世紀未にはすでに 表現や , 幻想的風景画の展開の場と 自己のドイツ的心性をみごとに結品 パロックへの移行が示され , ルネサ なり , 絵画にも影響を与えた ンス様式は短命に終わった。云画 させている。またドイツ・ルネサン 〔ネーデルラント〕イタリア・ルネ 彫刻は 16 世紀を通して宗教感情の強 スはことに版画に傑出し , 木版 , 銅 サンスと同しころ , あるいは少し遅 版および木彫りに独自の技術的洗練 い表出が特徴的で , やがてイタリア れて他の欧州諸国にもルネサンス美 を示したが , 油絵を含めて全般に , からノレネサンス未期のマニエリスモ 宗教改革の苦悩が深く刻まれている 術が開花したが , ことに 15 世紀のネ 的作風を学び , バロックを準備した ーデルラントにおいて , イタリアと ポルトがルでは , 一般に地方的様式 とをみのがせない は別にフランドル派 ( / フランドル ) 〔フランス〕フランスは早くから王 を出ないなかで , 15 世紀の大画家ヌ ノレネサンス

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ロンドング ロンドン ( 補 ) 1965 年 4 月から大口ンドンの 境界と管轄組織が改正 され , 1965 年・の推定人 ロは 7978234 である。 古い建造物の改築は シティカ、らトラフテノレ ガー広場あたりにかけ て盛んに行なわれてお リ , タイムズ新聞社正 面も一新された。また 郵便省タワーは高さ 189 m 余 , ロンドン中心部 における最高の建造物 で , 1964 年完成した 193 ( ) 年代から考えら れていたロンドンの都 市問題を解決するため に「大口ンドン計画」 か・進められている。 れは , ロンドン郊外に ニュータウンを開発し て 1 家族当リ約 I()() 坪 はどの密度に押さえ , しかも緑の田園のふん 囲気に親しませようと するものである。 で , ローマの属州プリタニアの商業 上の中心、として繁栄したが , 4 世紀 後半サクソン人の侵攻が激しくなる とともに衰え , 5 世紀初めローマ軍 のプリタニア撤退によって , 一時ま ったくさびれた。 5 世紀半ば以降 , アングロ・サクソン人がプリタニア に渡来 , 定着し七王国を建設したが , ロンドンはその中の一つのイースト・ サクソン王国の都として復活し , 9 世紀に統一イングランド王国が成立 すると , 首都はウインチェスターに 定められたが , ロンドンは商業上の 大中心地として , イギリス第 1 の都 市になって繁栄した 1066 年ノノレマ ン朝を開いたウィリアム 1 ・世は , ロ ンドンに自治権を与え , また城壁の 東にロンドン塔を築いて軍事的拠点 とし , 次のウィリアム 2 世はウェス トミンスター宮殿を造営して , ロン ドン塔とともに王の居所とした 12 世紀末ジョンはロンドンを最初の自 治都市として認め , 市政は有力なギ ルドを母体とする市参事会 , および それより選出される市長が行なうに 1215 年マグナ・カルタが いたった 発布されたさい , ロンドンも貴族と ならんでこれまでの既得権が確認さ れた。 13 , 14 世紀には羊毛 , 毛織物の 取引市場として大いに繁栄し , 人口 も数万をかぞえ , しだいに西郊のウ ェストミンスターと町か、つなか、りは じめた。こうした経済力の上昇によ り , 国内政治のうえでも , ーっの独 立的勢力としてのロンドンの動向を 無視できなくなった。チュータ、、一絶 対王政の成立とともに , ロンドンも 新しく国民国家の首都として生まれ 変わリ , 16 世紀末ェリサベス時代の 後半には人口も 20 万に達した。 17 世 紀半ばの清教徒革命では , ロンドン は革命派を支持して革命を成功させ たが , 和制下にはあいついで大き な災疫を受けた。すなわち , 1665 年 に起こったベストはたちまち 40 万の 人口のうち約 % を奪い , さらに翌 66 年には有名な大火がおこり , はとん ど全市が焼けた。しかしただちに復 興計画が実行に移され , 木造は禁止 され , 中世的な木造小住宅と狭い道 路の不潔な市街は , レンがと石の近 代的都市に生まれ変わった。 17 世紀 に開始された海外進出 , また 18 世紀 後半からの産業革命により , 英国が 世界の政治 , 経済をリー - ドするとと もに , ロンドンも世界の政治的 , 経 済的中心として空前の発展を現出し , 19 世紀以降は , 世界最大の都市とし てしばしば国際会議が開かれた。ま たこの間 , 住宅はしだいに郊外に移 り , 市の中心、部はオフィス街となり , ロンドンは近隣の町や杓・とつながっ て , 今日のロンドンの姿が形成され た。 19 世紀末以降 , 英国の世界経済 に占める圧倒的地位が失われ , さら に 2 度の大戦によってその国際政治 6 3 2 上の地位も低 - ドすると , ロンドンも 世界の圧倒的中心たるの役割を失っ た。第二次大戦で被害を受けた建造 物は多かったが , 着々と復興され , 現在なお世界有数の経済的中心、たる 地歩を保持している。 〔青山〕 ロンドンぐんしゆくかいぎロン ドン軍縮会議 193 ( ) 年 1 ~ 4 月ロン ドンで開かれた米国 , 英国 , フラン ス , イタリア , 日本の五大国の海軍 軍縮会議。 1921 ~ 22 年の / ワシント ン会議では主力艦の制限比率が定め られただけだったので , 各国は補助 艦の増強を競うようになった。 27 年 ジュネープでの米英日 3 国の軍縮会 議が決裂したあと , 英国のマクドナ ルド内閣の提唱でこの会議が開かれ , その結果 , 補助艦の保有総トン数の 比率をはは、米 1 ( ) , 英 10 , 日 7 とする こと , その他ワシントン海軍条約の 一部改訂などが定められた。フラン ス , イタリアは補助艦制限に参加し なかった この条約は大型巡洋艦を 米国の 60 % しかもてないなどの点で 日本軍部の不満を招き , 国内でいわ ゆる統帥権問題をひきおこした。 〔斉藤〕 ロンドンデリー Londonderry 英国 , 北アイルランドの北端の海港。 人凵 55 ( ) ( ) ( ) ( 1963 ) 。市は大きな : 巷湾設 備をもち , 主として牛を輸出する。 麻 , 小麦粉 , 酒 , くつ , 農機具 , ター , チーズなどを産し , 漁業の中 心地 , 農産物の集散地でもある。 545 年聖コランバがここに修道院を建て 9 ~ 11 世紀デーン人の侵入でし た ばしば焼かれた。 1608 年の大火後 , ロンドン市の管理下に入り , 名まえ をそれまでのデリーからロンドンデ リーと改め , プロテスタントの移民 発電が盛んで , ミラノを中心に鉄鋼 , 化学 , 製紙 , 繊維 ( 綿 , 絹 ) 工業が行 なわれ , またアルプス越えの国際通 商の要地にあたる。 568 年にロン / ヾル ジア王国の中心地となり , 12 ~ 13 世 紀にはロンバルジア都市同盟が商工 業の繁栄を基礎に勢力をふるった。 その後ミラノ公国のビスコンチ家 , スフォルツア家の支配 , スペイン , オーストリア , フランスの支酉己をへ て , 1859 年イタリア王国に併合さ れた。 〔山本〕 ロン′ヾ′レ・ジ・アじん .. ロン / ヾノレシン・ア 人東ゲルマンに属する一部族。ラ ンゴバルト人ともいう。紀元ころ工 ルべ川下流地方にいたが , しだいに 南下し , 5 世紀にはドナウ川上流地 方に進出 , 6 世紀にはいってこの部 族の拡大が始まり , しばしばゲピー ド人と戦い , またアリウス派キリス ト教に改宗した。アウドイン王のと き , ビザンチン皇帝よりノヾンノニア 地方への移住を認められ , さらに 568 年その子アルポイン王のとき , 北イ タリアにはいってロンノヾノレジア王国 をたてた。この王国はポー川流域を 中心に中部イタリアまで拡大したが , 制度 , 習俗 , 宗教がイタリア人と異 なるため , 彼らとの対立が解消せす 混乱をつづけた。 8 世紀半ば , その 王アイスツルフに圧迫されたローマ 法王ザカリアスはフランク王 / トピピ ンに援助を求め , 小ピピンはイタリ アに遠征して彼を破り , ラベンナ地 方を奪って法王に献した。これを「ピ ピンの寄進」という。次いでカーノレ 大帝は 774 年 , ロンノヾルジア王デシデ リウスを破って捕虜にし , 王国はフ ランクに併合された 〔青山〕 入植が始まった。 〔志賀〕 ロン′ヾードカー、、ロン / ヾ ード街 Lombard Street 英国 , ロンドン のシチにある街路の名。 13 ~ 16 世紀 ーこで欧州の金融業者として活躍 したロンノヾノレジア人 ( ジェノノヾ , ミフ ノはしめひろくイタリア商人 ) に由 来する。街路自体はわすか 2()() ~ 30() ーーには手形交換 m にすぎないが 所があり , 毎日 4 回手形の決済をし ている。イングランド銀行 , 株式取 引所 , 為替交換所なども近くにあり 第一次大戦後ウォール街にその地位 を奪われるまで世界の金融界の中心 地であった。 〔志賀〕 ロン′レジア Lombardia イタ リア北部 , スイスとの国境をなす州。 面積 23800km2 , 人口 739 ( ) 492 ( 1961 ) 。 主都はミラノ。アルプスの南斜面か ら , ポー川流域平野に及び , 北部に はマジョーレ , ルガ、ノ , コモ , ガノレ ダなどの氷河湖がある。やや大陸性 の気候で , 南部では小麦 , トウモロ コシ , 米 , サトウダイコン , 麻の栽 培が行なわれる。牧草地は州総面積 の 20 % , 森林は 20 % を占める。水力 ロンプロゾ Cesare Lombroso 1836 ~ 1909 イタリアの精神医学者 , 犯罪人類学者。 1867 年パビア大学教 授 , 76 年トリノ大学精神医学 , 法医 学教授。犯罪者には頭がい骨その他 に一定の身体的特徴があることをつ きとめ , これは原始人の身体的特徴 が長い世代をへだてて再現したもの で , このような人は犯罪者たること を宿命づけられていると主張。また 天オと精神病者の類似点を研究した。 主著にく犯罪人論〉 ( 1876 ) がある。 〔遠藤〕 ロンボク〔島〕 Lombok インド ネシア中部 , 小スンダ列島中にあり , バリ島とスンノヾワ島にはさまれ , 面 積約 5()00km2 , 人口約 70 万。島は一 般に丘陵性の山地で , 北部にはイン ドネシア第 1 の高山リンジャニ火山 ( 3726m ) がある。海岸はけわしいが 南部には平野がひろがり , 米 , コー ヒー , 綿花などを産する。西岸のア ンべナン港が島の門戸で , 綿花など を積み出す。バリ島との間のロンポ ク海峡は生物の分布について東洋区 とオーストラリア区の境界線となる ウオレス線が通る。 〔遠藤〕

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ロッ / ヾ クライナを中心、とした地域は , 肥よ くな黒上地帯をなして , 古くからヨ ロッノヾの穀倉とよばれている。 のように東ヨーロッ / ヾ地区は , 交通 を妨げる山脈もなく , きわめて平た んなまとまりであるため , 一方では 大陸的な農耕文化が , 単調で封鎖的 な無数の小社会を定着させると同時 に , 他方では東洋はどでないにして も , 強大な政治権力を発生させ , ま た南部では , 生活様式を異にした東 方の諸民族 , とりわけステップ地帯 をかけめぐる遊牧的騎馬民族の侵略 にさらされる危険があった。しかし その場合 , 地形の平たんな東ョーロ ッノヾでは外敵の侵入をくいとめるこ とは至難のわざであり , いきおいそ の余波は西ヨーロッパ地区の東境に 及ぶことがし一よしは一であった で , 東ョーロッパは西欧文明の防衛 者であるという考え方が生まれる。 つまり東西両ョーロッパ地区の境界 線が , 実質上 , 「ヨーロッパ文化」の 防衛線となる機会が多かった。 いわ ゆる西ヨーロッノ、をヨーロッノヾの本 体とみる考え方は , ーっには人種上 の問題および宗教 , 政治の問題が関 係してしゞるが , いまーっには , この ような地勢と外敵の関係からくる歴 史的感覚も手伝っていると思われる。 いすれにしてもソビエト連邦の成立 までは , 東ヨーーロッパは都市の発達 の遅れた地域であり , 農業と牧畜を 主業とした後進地帯であったという ことができる。 以上のことを民族的な区分との関 連でながめると , 最初の地中海周辺 地区は , 堆多な群小民族を含みはす るが , その基調としてはキ、リシア , ラテン系民族の色彩の濃厚な地帯で あり , 第 2 の西ヨーロッパ地区は , フランスのラテン系民族を除けば , 英国 , スカンジナビア半島をも含め て , だいたいゲルマン系民族の地域 であり , 第 3 の東ョーロッノヾ地区は , 東洋諸民族の混血があるとはいえ , スラブ系民族が圧倒的に多い地域で ある。このことは , これら 3 地区の 文化と社会の特性を考察する上で , 忘れてはならない重要な点である。 〔歴史文化〕歴史文化的な見地に ってョーロッ / ヾを大観するとき , キ リスト教的統一体ということをぬき にして考えることはできない。なぜ なら「ヨーロッノヾ」という意識は , 人種的 , 民族的な対立感から生した というよりも , むしろイスラム教徒 その他の異教徒に対する共同防衛の 感情が根底となって生まれたものと 思われるからである。ヨーロッノヾの 歴史を概観すると , 古典古代といわ れる時代は , いわばもつばら地中海 世界の歴史であり , 前述した西ョー ロッ / ヾ地区や東ヨーロッノヾ地区は , 古代世界にとってはきわめて従属的 な地位か , さもなければこれに縁の 4 1 1 ない別世界にすぎなかった。 し、し、カ、 えれば歴史文化的な「ヨーロッパ」 は , 古代には存在せす , ようやく西 ローマ帝国の滅亡 ( 476 ) からカール 大帝の戴冠ま 80 ( ) ) にかけて , しだい に形成されたものなのである。すな わちローマ末期から一進一退の形で キリスト教が普及するとまもなく , 北方から素朴なゲルマン民族やスラ プ民族が南下して , ョーロッノヾの各 地に , 帝国の理念および普遍的宗教 をわくとして , 濃淡いろとりどりに ローマ人とスラブまたはゲルマン人 との混合ないし融合現象が起こり , その結果だいたい 8 ~ 9 世紀のころ に至って , ヨーロッ / ヾの一応の社会 的 , 文化的基盤ができあがった。と ころがそのころには , すでに地中海 世界はビサ、ンチン世界と西ヨーロッ ヾ世界という東西二つの世界に分裂 し , 前者がローマ以来の伝統をうけ ついで皇帝法王主義の中央集権国家 を保持したのに反し , 後者はゲルマ ン部族国家の分立という前提の上で , ローマ法工とフランク帝権との二つ の中心を仰ぐ独特の体制をうちたて たのである。これ以後 , 同しキリス ト教でありながら , 東半分のギリシ ア正教圏と西半分のローマ・カトリ ック圏とは , 教義上 , また政治上 , 複雑な緊張関係に立っこととなった。 しかしそうした対立にもかかわらす , キリスト教世界が異教徒に対してで きるだけ共同戦線を張ろうとっとめ たことは , イスラムの侵入や十字軍 の遠征にさいしてとられた西ョーロ ッノヾとビザンチンとの直接 , 間接の 協力がこれを証明している。 これを要するに「ヨーロッ / ヾ」は , 東はアラビア , ベルシアから , アフ リカ北部を合わせて , 西はスペイン に至るあの広大なイスラム圏にとり 囲まれたキリスト教的文化圏として 浮かび上がったわけであるが , しか し政治や社会や文化の発展様相には , 東ヨーロッノヾと西ヨーロッノヾとでは かなり大きな相違が認められる。東 半分では , 皇帝の権力が絶対視され , 煩雑な官僚制が最後まで維持されて , 農民や市民の活発な自己主張がおさ えられる傾きが強かったのに反し , 西半分では , フランク王国以来漸次 封建制度が普及し , 諸国家分立の勢 カ均衡ということが , 政治の枢軸を なすとともに , 中世中期以来 , 農民 や市民の自治のめざめが強く , 生産 力の向上と政治意識の高揚が顕著で あったからである。この点 , 封建制 度は近代社会と比べると伝統主義的 な貴族支配の体制であるが , 古代的 , ビザンチン的な単一強制国家と比べ るならば , はるかに民衆の生活を向 上させる素地を包蔵するものであっ たわけで , 単純にこれを政治的アナ ーキーと規定することはまちカ { いで ある。事実 , 中世末期の西ョーロッパ 農民の団体意識を無視して , 宗教改 革を論することは困難であり , 12 ~ 13 世紀イタリア市民の富力を無視し て , ルネサンスを考えることは不可 能に近い。 うして西ヨーロッノヾは , 13 ~ 16 世紀に大きな精神史上の変革を達成 ルネサンスの結果 , 中世的世 界観は動揺して , 人間の力による自 然と人間の発見がなされ , 宗教改革 の結果 , 西ヨーロッノヾの聖界はカト リックとプロテスタントの二大陣営 に分裂した。他方また 15 世紀の末葉 には , 航海術の発達によって新大陸 , 新航路が発見され , 世界交易のシス テムは大きく変化した。 これらの大 きな変動は , 17 ~ 18 世紀にいたって 近代国家の競争を生む前提となり , 自然科学の発達はやがて産業革命を ひき起こす原動力となった。信仰と 理性 , 宗教と科学の調和ある発展を 示した中世的思考様式は , ルネサン スと宗教改革をきっかけに , ようや く分裂をきたすこととなったが , 近 代ョーロッパは , その分裂をこえて 国家相互の競争に走り , 資本主義社 会の繁栄をたたえるとともに , 西ョ ーロッパ以外の世界に対しては , 植 民地確保の争奪戦に乗リ出すことと 「ヨーロッノヾの優越感」は なった このようにして 18 世紀に基礎をおか れたわけである。他方ビザンチン帝 国は 14 5 3 年トルコに滅 0 よされたが , すでにそのころは西ヨーロッノヾ商人 の経済活動が東方に進出している時 代であり , またまもなく世界交易の 舞台は大西洋岸にきりかえられる時 代にあたっていた。そのため東ヨー ロッパは , 経済的にも文化的にもヨ ーロッパの指導権をにぎる機会がな く , 17 世紀以降はとくに西ヨーロッ パの思想や技術 , 制度を摂取 , 模倣 する立場に立たされた。そしてその なかから大きく立ち E がって列強に カ日わったのカ { , 「第 3 の口一マ」モ スクワを首都にばっ興したロシアで ある。したがって 18 ~ 19 世紀は諸国 家体制または列強の勢力均衡という ョーロッパの伝統的あり方が , 国民 国家群を中心に維持され , 互いにし のぎをけすった時代であったと考え られる。ところがこのような内にお いては均衡 , 外に対しては優越とい うヨーロッノヾのあり方は , 20 世紀の 2 回にわたる大戦の結果 , 大きな動 揺を余儀なくされるにいたった。文 化的にはもともとヨーロッノヾから出 たアメリカとソビエトの , 世界政局 に占める比重が極度に大きくなり , 古いヨーロッノヾはいわーよ両勢力の暗 い谷間に苦しむこととなった。かっ て歴史家ランケによりヨーロッノ、の 守護霊とまでいわれた国家群の勢力 均衡は , 確かにヨーロッパ文化の多 様性と諸民族の歴史的個性を守るの に適合した理念であったが , 今日に ヨ

5. 国民百科事典7

コンスタンチヌス門より右手 / くラチヌスの丘をのぞむ 上コンスタンチヌスー世がミルウイウス橋にマクセンチウス を破った記念門。ローマ帝国がキリスト教世界の一員にはいる 預言の門でもあるかのように立っている。下左前ページてカ ストルとホルックスの神殿後方右寄りに 2 本柱の側面が見える のがこれである。ーこにローマの国庫があった。下右現存す る古代唯一の騎馬像である。ルネサンスの騎馬像が勇者のそれ であるとすれば , これは民衆に呼びかける哲学者のそれである サトウルヌス神殿 , 土台は前 42 年 , 柱は 4 世紀 カンビドリオ広場に立つマルクス・アウレリウス騎馬像、 2 世紀 2 ローマ

6. 国民百科事典7

く新火器発明者の幻想〉ドー こ、工 - く説教〉ホガース 近代漫画の始祖ドーミエは , 19 世紀の 1830 年 代をスタートに 70 年代普仏戦争時代までも活 躍した漫画家で , その石版漫画は王政派やプ ルジョアなどをふるえあがらせた。掲出の石 版漫画はその晩年の作品である。シャ / ヾンヌ は象徴的な宗教画家であるが , 他の一面では 底ぬけのユーモリストでもあってく牛の人肉 屋〉のような痛快な漫画のいくつかを残して いる。レアンドルは 1 9 世紀後半に活躍したフ ランスの世相風俗漫画家でウィットに富んで いる。 19 世紀末から 20 世紀初頭へかけては英 国のビアズリー , ペートマンらの鋭い白黒の ペンの漫画がでた。ビアズリーは若くして死 んだがくサロメ〉 ( ワイルド ) の悪魔的さし絵 画家として名高い。第一次大戦後のドイツで は , 反戦漫画家グロスのはげしいミリタリズ ムの暴露画がでたが , のちにスペインのピカ ソも , スペイン内乱における人民戦線派支持 者としてくフランコの嘘 ( うそ ) 〉を摘発した く雀 ( すずめ ) 百まで > ゴヤ 亠 / くフランコの嘘〉ピカソ ロッノくノ、〉グロス く責重な財産を守るヨー くサロメ〉 ビアズリー く心理学 > ペートマン

7. 国民百科事典7

明代の芸術の精緻 ( せいち ) は , 陶 磁にもつどもよく示される。賞徳 , 成化、永楽 , 第靖 , 万暦など・の諸窯 は世界的に有名であるが , なかでも 宣徳の染付 , 成化の五彩ど染付ー永 楽の白磁、嘉靖の金瀾手その他の色 絵付 , 万暦の赤絵なごは代表的なも のごされている。またいわゆる古染 付 . 古赤絵ご称される天啓窯の雑器 は , その図がらの自由奔放なおもし ろさで他に類がなく , どくに日本か らの注文により焼かれたものも多い 金瀾手花島文の仙盞瓶 16 世紀 古染付郊馬図皿 17 世紀

8. 国民百科事典7

ロシアゴ 6 0 4 ア語に分化していった この一大口シ 致を提唱し実践した歴史学者 , 作家 まっていったことなどの理由による。 ア語が今日ふつうにいわれるロシア N. M . カラムジン ( 1766 ~ 1826 ) の功 ロシア文章語の発展と密接なつな 語である。ロシア語はモスクワ大公 績が大きい。 18 世紀のロシア語の歴 がりをもつのは辞典の編さんである。 国の興隆に伴い , 教会スラブ語を基 史を要約すれば , 1 ) 文章語がしだい 19 世紀の大辞典だけを時代順にあげ 礎として , これにモスクワで実際に ると , ますく口シア・アカデミー辞 に民衆の会話体に接近していった 舌されていたロ語の要素を多分にと と , 2 ) 前記の三つの文体の間の壁が 典 > ( 1789 ~ 94 ) , 次いでアルファベ りいれた形で新しい文章語として登 とりのぞかれ , 単一な民族語として ット順に編さんされた同しく口シア・ 場し , ついには北東ロシア全体の標 のノルマカ { できていったこと , 3 ) 標 アカデミー辞典 > ( 1806 ~ 22 ) , 次に 準語となっていった。 17 世紀以降に 準ロ語のノルマが確立されつつ文章 4 巻からなるく教会スラブ語・ロシ なると , 教会スラブ語と , 官庁の文 語のノルマに近つ・いていったことで ア語辞典 > ( 1847 ) , 最後に V. I . ダー 書や世俗的文学作品に用いられてい ある。次いで 19 世紀にはロシア文学 リ編さんの 4 巻のく詳解辞典〉 ( 186 3 たもうーっの文章語との統一が進み , の父といわれるプーシキンが , 教会 ~ 66 ) にはすでに約 20 万語が収録さ スラブ語の単語やいいまわしを民衆 18 世紀には民族語としての単一な口 れていた。ダーリの辞典は 19 世紀の シア語が形成されはしめる。この過 の単純で自然でいきいきとしたロ語 ロシア人民の生活百科辞典ともいう 程は印刷術の発達や中世の国際学術 と結合させ , 文字どおり単一な民族 べきもので , 今日でも利用価値が大 語たるラテン語の影響によって促進 語としてのロシア語を確立するうえ きく , 195 5 年にはソ連で複刻版が出 され , さらにピョートル大帝の文字 に画期的な役割を果たした。ロシア 版されたはどである。 改革 ( 1708 ~ 10 ) によっていっそう早 文章語が西欧の発達した諸言語に対 1917 年の社会主義革命はロシア語 められた。ピョートルは従来のキリ 等な一員として仲間入りしたのは , の語彙に大きな変化をもたらした。 ル文字をラテン文字にならって単純 前述したようにその文法的形態論 , プーシキン以後であったといえる。 化し , 現在もほとんどそのまま用い 19 世紀のロシア語史でとくに注目を 文章論はすでに確立されており , 大 られているロシア文字を制定した ひくのは文法構造の変わり方と語彙 した変化はみられなかったが , しか しかし依然として , 格調の高い文章 の変わり方の速度が不均衡だった し帝政時代の階級社会を反映した単 語 ( 教会用 ) と民衆の俗語とその中間 とであろう。文法構造のはうは基本 語がすたれ , 代わって新しい人間関 にあるもうーっの文章語とが併存し 係や社会機構を反映する単語がひろ 的にはすでにプーシキン時代の 1810 た。これらを体系づけ , 相互の音韻 く用いられるようになった。日本で 年代までに確立され , それは今日ま 形態 , 文法形態を組織化したのが , も知られているタワーリシチ ( 同志 ) , で根本的には変化なく存続している 大学者で詩人であったロモノソフの のであって , その後の時期に変化が コルホーズ ( 集団農場 ) などはその一 く口シア文法 > ( 1755 ) である。彼は みられたのは主として動詞の完了体 例である。また科学技術の急速な進 教会スラブ語とロシア語をはしめて と不完了体の形態上の対応関係と , 歩に伴い , 新語が続々生まれたこと , 明確に区別し , 「高 , 中 , 低」の三つ シンタクシス ( 文章論 ) の発達面に限 文化を大衆化するため話しことばや の文体を定め , 用いる目的によって これに対し語彙のほうは急 られる。 出版物の用語にも平易化 , 大衆化が 速に豊かになっていった。それはプ これらを使い分けるべきだと唱えた 進んだ。主として農村で用いられて この中間的文体が民族語としてのロ きた数多い地域的方言も , 農民階級 ーシキン , ゴーゴリにはじまる 19 世 シア文章語の基礎にしだいに定着し 紀ロシア文学の数多い大作家たちに が言語の面で都市に対立する要因が ていくが , その発達にあすかってカ よって , 素朴で力強く自由な民衆の ひしように少なくなったことと教育 ロ語が文章語にひろくとり入れられ 文化の普及浸透によって , しだいに があったのは 18 世紀 30 ~ 40 年代以降 文章語に統一されていきつつある。 のロシア文学であり , 中でも言文一 たこと , 西欧との関係が日ましに深 このほか最近のロシア語の発達傾向 としては , 生活テンボのスピード化 ロシア語のア ) レファベット ーは硬音祥 , 2 は軟自 : 符でイと発音 に伴い意思疎通手段としての言語も 活字体 筆記体ローマ字読み方 活字体 筆記体ローマ字読み方 ダイナミックになり , テンポが速く ⅡⅡれ なってきたことがあげられる ( これは Aa レイ ア 世界的傾向でもある ) 。たとえば , 略 工ノレ 語の増加 , 母音で終わる女性名詞を Cc 子音で終わる男性名詞にかえること 工ス ヴェ によって , 音節を一つ節約する傾向 ノ / 乙 その他がそれである。辞典の編さん ウ では新しい時代の要請に一たえて , デ D. N. ウンヤコフのく口シア語詳解辞 中中 0 尸 Ee ど宅 f 工フ 典〉 ( 4 巻 , 1935 ~ 4 ( ) ) が出版され , Xx kh 近年ではアカデミー版のく口シア言吾 イヨ YO 辞典 > ( 4 巻 , 1957 ~ 61 ) があり , また t s zh 同しくアカデミー版でく現代ロンア 33 ch 文章語辞典〉 ( 17 巻 , 1950 ~ 65 ) が刊 ⅢⅢ 行された。 sh イ ロシア語には北部 , 中部 , 南部の 田Ⅲ 24 イ 4 shch Ⅱⅱ 3 方言がある。これはだいたい 12 ~ トコェ 15 世紀ごろ生まれたもので , 現在で ( ノん k カ blbl も存続している。北部方言はレニン グラードからポルガ流域以北で用い 工リ 0 られ , 力点のない。 ( ・オー ) もそのま MM エム ま。と発音するのが大きな特徴であ HH エヌ る。これに対しスモレンスク , リャ Oo ザン , ポルゴグラード ( 旧スターリン オ グラード ) 以南の南部方言は , 力点 一三ロ シチャ トヴェルディ ミヤフキー てナーク ヤ E 0

9. 国民百科事典7

マナグア 6 1 跡にちなんで命名された。遺物の特 近代的な商店街で , 市の中心となっ ている。なお市の南部には , インド 徴からみれば , オーリニャック文化 独立運動初期に貢献したべサント夫 を基盤に発達したものといえるし , 人らの本拠神智学協会の本部がある。 人骨からみればいわゆる / クロマニ ョン人の残した文化といってよい。 〔斉藤〕 マドリガル madrigal 楽曲形式 氷河時代の終わりに相当していたの の一つ。最初は 14 世紀イタリアのフ で , 気候は寒冷で , 群れすむトナカ ィレンツェを中心に行なわれた世俗 イが主要食料となった。マドレーヌ 歌曲で , 歌詞は 2 ~ 3 節からなり , 文化はその骨角器の形と種類によっ 各節は 3 行すっ , そして最後に 2 行 て , さらに 6 期に細分されている。 の結びがつき , 音楽も詩の形式に従 その生活はちょうど現在のエスキモ この形式は 16 世 った形式をとった。 ーに似ていたといわれるが , 死者を 上はマドレーヌ文化に 紀の世俗的多声楽曲では , かなり自 埋葬するときには貝殼の首飾りを添 いうのは , 酒宴の残り物で下働きを 属する「指揮捧」の刻画 由となり 14 世紀のマドリガルとはは えなどし , 丁重な儀式が行なわれた 一部でトナカイの角で した人々が酒を飲む習慣で , 「まない 作られた呪術的遺物。 とんど関係がなくなる。これはイタ たこそげ」「まないた直し」「まない らしい。彼らが洞窟の天井や壁そ フランス , オート・ヒ。 リア貴族社会の , 洗練された社交的 の他に残した絵画 , 線彫り , レリー た払い」などともいい , ひろく行な レネー県ロルテ洞の出 な芸術として大いに発展した。この フ , 彫刻などは . 驚くべき写実性 , われている。 〔宮本又〕 上で , 長さは 24. 5cm 。 マドリガルは諸国にも広まったが , 迫真性を示す。 / ( 別刷 ) 人類 / ( 別 マナウス M a na u s プラジルヒ 下は骨角器 ( もり ) 刷 ) 洞窟絵画 ことにエリサベス朝末期のイギリス 部の都市。アマゾンの支流ネグロ川 〔芹沢〕 で盛んに作られた。 マナ mana メラネシアー帯の未 の左岸 , アマゾンの河口から約 1450 「関根〕 マトリックス / 行列 km にあり , 人口 154 ( ) 4 ( ) ( 196 ( ) ) 。大西 開民族の宗教にみられる非人格的な 力の観念。もとはメラネシアの土語 洋から大型汽船が航行し , アマゾン マドリード Madrid スペイン で「勢力ある」などを意味する語で 地方の経済 , 運輸 , 文化の中心地で の首都。人口 252 ( ) 143 ( 1964 ) 。同国の あったが , 転して , 呪術的原始宗教 ある。アマゾン川各支流地域の物資 ほは、中央 , 標高約 650 m の高原にあ 一般にみられる非人格的 , 非感覚的 の集散地であり , プラジルナツツ , り , マンサナレス川に面する。典型 な力の観念をさす。ときには超自然 ゴム , カカオ , 木材などを積み出す。 的な大陸気候で寒く長い冬 ( 1 月の 的な力と解釈される場合があるが , 20 世紀の初期 , ゴム景気で栄えたが , 平均気温 4.8 ℃ ) とひしように暑い夏 かならすしもそうとはかぎらない。 東南アジアでゴム栽培が行なわれは ( 8 月 23.5 ℃ ) を迎える。夏の気温は この力は精霊 , 人 , 生物 , 無生物な しめて以来 , 衰退した。ゴム景気時 しばしば 38 ℃くらいまで上る。降水 どあらゆるものに付着し , 転移性や 量は少なく年 419 mmo 政治の中心と 代を物語る豪華なオペラハウスが残 伝染性が強い。マナの観念は , コド っている。 1939 年までマナオスとよ して人為的に定められた町で , 商業 , リントンによって学界に紹介された 工業 , 農業の立地条件は本来なかっ は。れた 〔町野〕 たが , 現在政治 , 経済 , 文化の中心 まながつおマナガッオ科の魚。 となり交通網が集中している。工業 関西でマナガッオ , マナ , 魚津でギ も 20 世紀になってから急速に発展し , ンダイ , 岡山でメンナ , チョウキン , 長崎 , 熊本でマナガタという。背び 現在はバルセロナに次ぐ同国第 2 の 工業都市として , 飛行機 , 電気器具 , れ 10 棘 : よ 39 ~ 46 軟条 , しりびれ 7 棘 34 ~ 38 軟条。うろこはたいへん・小さ ゴム , プラスチック , 光学装置など はがれやすい。全長 60cm に達す を産する。市には数多くの美しい建 る。本州中部以南 , 朝鮮 , 中国から 物 , 噴水 , 彫像 , 広場 , 公園などを マライ諸島へ分布。外洋性であるが 配している。シベレス広場 , マヨー マドリード ( 補 ) 1959 マナがツオ 6 ~ 7 月ころ産卵のため内湾 , とき ル広場 , スペイン広場 , 18 世紀のサ 年「マドリードの塔」 という , 高さ 142 m , 37 に河口までくることがある。東シナ ン・フランシスコ聖 : 堂 , フェリーく 5 ( くメラネシア人〉 1891 刊 ) 。それに 階の摩天楼が完成。 世 ( 在位 1700 ~ 46 ) 時代の王宮 , レテ よると , メラネシア人の宗教活動の 海などでトロール漁業で多量にとれ 目的は , 顕著な効果をもたらすこの イロ公園 , そして市の北西郊にある る。肉は白身で柔らかく , 美味で関 近代的な大学都市などみるべきもの 力の利益を自分のために得ようとす 西ではとくに賞味する。照焼き , み ることにある。マナに類する力の観 が多い。またプラード美術館はエル・ 〔安田〕 そづけなどにされる。 マドリードの市街。左 マナグア Managua ニカラグア 念は世界各地の原始宗教にみられ グレコ , ーくラスケス , ムリリョ , ゴ は九つの大銀行をはし めとして官庁 , 教会 , 共和国の首都。国の西部 , マナグア ャらスペイン画家の名作をはしめと ( たとえは、 , 北米のアルゴンキン族 美術館などの立ち並 湖の南東岸、レオンの南東約 72 km の のマニトウ manitou など ) , 宗教の する世界的なコレクションを誇る。 アルカラ通り。右はマ 内陸にあり , 人口 2749 ( ) 1 ( 1964 ) 。商 また市の近郊には / ェスコリアル修 起原をこの力に求めようとする学説 ドリード第 1 の繁華街 ( プレアニミズム、マナイズム ) がた 工業 , 文化の中心地で食品 , 繊維 , 道院 , 内乱の戦死者を葬る大聖堂の ホセ・アントニオ通り あるバリエ・デ・ロス・カイードス 〔増原〕 てられた。 まないた真魚板 , 爼魚菜を調 ( 死者の谷 ) などの名所がある。マド ドは 10 世紀前半にムーーア人が築 理するために使う板。ふつうヒノキ , ホオノキ , カッラ , サクラなどで作 いた要さいに起原し , 1083 年アルフ オンソ 6 世がこれを奪回した。スペ られ , 用途により大小がある。もと イン統一国家の出現後 1561 年フェリ もと「まな」とは魚のことであり , べ 2 世がここを首都に決定 , 以後 16 魚を料理するための台であったもの 01 ~ 年を除き首都である。〔塙〕 が , のち菜類を切るのにも用いられ マドレーヌぶんかマドレーメ文 るようになった。山東京伝のく骨董 化ョーロッパ旧石器時代後期にフ 集〉には板の表で魚類を切り , 裏で ラン、スを中心に栄えた文化。その実 菜類を切るとしるしてある。まない 年代は前 16000 ~ 前 12000 年の間と たは足が二つついているのカ { ふつう され , 南西フランス , ドルドー ュ であったが , いまは足がないのカ { 般である。なお「まないた洗い」と のラ・マドレーヌ La Madel e i ne 遺

10. 国民百科事典7

メダノレ 2 2 1 を滅は、し , / サラセン帝国を築くが , 大麦などの農耕が行なわれ , また , イラク最大の輸出農産物デーツ ( ナ アッパス朝カリフは都をバグダード ツメヤシの実 ) の栽培も行なわれる。 に移し , その第 5 代ハルン・アッラ イラクはダムを建設して洪水を防こ シード ( 在位 786 ~ 809 ) のもとでメソ うとし , また農地を改良する開発計 ボタミアはイスラム国際世界のもっ とも重要な部分となり , バグダード 画も進めている。東部および北部に は世界の中心、として繁栄した。その は石油の開発も盛んである。〔西野〕 のち中央アジアから侵入したセルジ 〔歴史〕古代メソボタミアの北方の ュク・トルコが 11 世紀半ばから 12 世 高原地帯をアッシリア ( アシュール 紀まで王朝を建てたが , の国 ) , 南方の両川の沖積作用によ この王朝の 中心はむしろエジプトにあった ってできた平野を / バビロニア ( ノヾ 13 ビロンの国 ) とよび , バビロニアの北 世紀半ばのモンゴル軍の侵入以来メ 部をアッカド , 南部を / シュメルと ソボタミアはイル汗国 , チムールの よぶ。人類最古の都市文明がシュメ 帝国 , オスマン帝国などに支配され ーは旧海岸線 ルの地に興ったのはおよそ 5000 年前 たが , メソボタミアはその辺境地方 メソボタミア 0 のことである。この時代の代表的遺 に転落し , かんがい施設の維持がで 跡としては / ウルの「王墓」カ { ある。 きす , 荒廃して砂漠化してしまった。 この前後からセム系遊牧民アッカド 王宮跡の壁画が注目される。アッシ やがて第一次大戦中 , 英軍が占領し , 人がしだいに北方に勢力を得て , 前 リア , 新バビロニア期にも若干の壁 戦後はその委任統治地となり , 19 32 2 3 () () 年ごろ , その王サルゴンか、はじ 年独立王国イラクが成立した。 / イ 画の断片はみられるが , むしろ浮彫 めてメソボタミアを統一して「四界 りや彩色レンガによる浮彫りが , 多 ラク 〔板倉〕 の王」を称した。 このアッカド王朝 〔美術〕古代メソボタミア美術は , くの場合 , 壁画の役割を代行したも その複雑な歴史にもかかわらす , 初 のと考えられる。 / ( 別刷 ) メソボタ は東方山地のグチウムに滅は、される 期王朝時代この地方に最初の文化を カミ、 , やカ { て前 2100 年ごろシュメノレ人 〔中山〕 基礎づけたシュメルの造形上の伝統 のウル第 3 王朝カ { ふたたびメソボタ が強力であったこと , シュメルのあ ミアを統一し , その勢力範囲はエラ とに交替をくりかえした各種族がす ム , シリアに及んだ。前 2000 年ごろ べてセム族であったこと , などのた から東方のエラム人 , 西方のアムル めに一貫して明確な特色をもってい 人の侵略が激しくなってこの王朝は た。エジプト美術と同様 , メソボタ 滅び , イシン , ラルサ , ノヾビロン ミア美術も信仰と王権に奉仕したが , マリ , アシュールなどが分立するが セム系種族の信仰は , 彼岸の世界を 前 19 世紀にノヾビロン第 1 王朝が開か のぞみ霊魂の不滅を信するエジプト めたか〔目高〕メタ、、カ科の魚。 れ , 前 18 世紀後半 , ハンムラビが有 人たちとは対照的に , 死の世界を恐 京都でウキンタ , オキンチャ , 大阪で 名な法典を制定して帝国を治めた。 マメンジャコなど方言はきわめて多 このころから全オリエントに民族移 れ現実を肯定する。そのため , 彼ら の作品には , エジプト美術を特色づ い。背びれ 6 軟条 , しりびれ 17 ~ 19 動力 { 起こり , ノヾビロニアではイラン ける不動感 , 永遠性とはまったく異 軟条。全長 4 cm くらいにしかならな 系のカッシート王朝が , アッシリア 質の生命力の充実を観察することが い。体色には変異があり , 野生のク ではミタンニ王国が支配した ( アマル ロメダカに対し , 淡かっ色 , 白色お できる。 ナ時代 ) 。その後アッシリアは独立し , 建築は , 日乾レンガを主材料とし , よび黄赤色のものをヒメダカという。 ノヾビロニア・アッシリア対立時代が 初期にはジッグラトを中心とする大 本種は卵生であるが , しばしば体内 始まる。前 9 世紀ごろからアッシリ 神殿建築が発達 , バビロン第 1 王朝 で受精している卵を見かけるし , 胎 アが強大となり , 全オリエントを支 期以後には , これらの神殿建築と並 生魚のする追尾の習性をみせるもの 配する世界帝国を建てるが , その中 があるので , 胎生魚にかなり近い類 ネべ , ノヾビ んで , コルサノヾード , 心、はメソボタミアであった。アッシ とみなされる。本州北部以南の日本 リア滅亡 ( 前 612 ) ののち新バビロニア ロンなどに王宮建築が行なわれた 各地 , 朝鮮南西部 , 中国 , 台湾など ( / カルデア人 ) がその領上の中心部 彫刻は , 円筒印章その他の工芸的浮 を継ぎ , ネプカドネザル時代にノヾビ に分布し , 浅い池沼 , 水田 , みぞに 彫りと並んで , シュメル初期王朝時 すむ。実験材料にするはか , ヒメダ ロンは世界の都として弊栄したが , 代以降 , 充実した生命力 , 圧縮され 力は観賞用になる。 前 52 5 年アケメネス朝ベルシアに滅 〔安田〕 たプロポーションを特色とする丸彫 は、された。やがて前 4 世紀後半に遠 像が作られ , グチウム時代の多くの メダル me dal 金 , 銀 , 青銅 , 征してきたアレクサンダー大王は , グデア像にまで , その系譜を伝えて 鉛を材料とし , 片面もしくは両面に バビロンをその大帝国の中心としよ いる。初期王朝に続くアッカド時代 肖像 , 事件などを浮彫りした , おも うとしたが果たさすして死んだ。ア に小円板形の金属小品。鋳造もしく は浮彫りに特色を示し , 写実的迫力 は印刻される。貨幣でも古代ギリシ に富んだくナラム・シン戦勝碑〉な レクサンダーの死後 , メソボタミア どを残した。 バビロン第 1 王朝期以 ア・ローマの貨幣はこれに含まれる はセレウコス朝の支配下にはいった 後は主として浮彫彫刻を発展させ , が , 芸術的にもすぐれ , 史実の記録 カ { , やカ { てイラン系のノヾノレチア ( アル サケス朝 , 中国史料の安息 ) が興って という点でも興味深い。中世紀のメ ハンムラビ法典碑頂部の浮彫りなど を残しているが , 他方 , 鋳造彫刻に ダルは図様は素朴でみるべきものは メソボタミアを占領し , クテシフォ もすぐれた技術を展開させる。とく ない。肖像メダルの盛期はルネサン ンを都として最盛期にはシリア , イ スで , イタリアのピサネ口がすぐれ ンダス川まで勢力をのばして , 西方の にアッシリア美術において , この浮 ローマ帝国と抗争した。これを滅ば 彫りの技術は建築装飾と関連しつつ た作品を残した。・フランスでは 17 世 したのが / ササン朝ベルシア ( 226 ~ 発展した。絵画の遺品は乏しい。初 紀のギョーム・デュプレ以後大いに 発達した。今日 , メダルは装飾品と 651 ) で , アケメネス , アルサケス両 期王朝時代に , 竪琴などの装飾と 王朝を古代とよぶのに対し中世ベル しても作られ , 賞品および記念の目 して貝殼やラピス・ラズリ ( 青金石 ) 的を離れた芸術的なメダルも多くみ シアとよばれる時代を開いた。 7 世 によるモサイクが若干残されている 紀にイスラム勢力が興ってササン朝 られる。その種類は 1 ) 賞牌共進 が , 純粋な絵画の遺品としてはマリ ( テル・ノ、ラフ ) タ ( コルサバード ) 0 0 ( テペ・カ・ウラ ) ニネペカルク ( ニムルード ) アッシリア ハトラ 0 チ 0 アシュールグ / 、ツスナ 0 リ メディア ( ジャルモ ) 工クバタナ ( ハマダン ) 0 ( ペヒスツン ) 0 チルカ ( タクリト ) ( サマッラ ) マリ 丁 ビエシュヌンナ ( テル・アスマル ) ロ バグ外ード クテシフォン セレウキア ッカド シッノ 0 レ ( ジェムデ・・ナスル ) / 、ビロ、 0 0 ポルシッ / く キシュ 0 シ ラカ・シュ シュルツ / くク 0 ( テルロー ( テル・エ′し・ 200km オペイド ) 0 ゼ丿 工リドゥ 工ラム ア 砂 スサ 0 ア ( バスラ ) メダカ ピサネロ作のメダル