中国 - みる会図書館


検索対象: 国民百科事典7
319件見つかりました。

1. 国民百科事典7

力も新興の / 契月えに圧せられて遼 東を保てす , 高句麗の故地には遺民 がって / 渤海韆国を建設した 渤海は 7 世紀末に建国し , 満州の 大部分と北鮮の一部を領有した。今 の東京城 ( 上京 ) を主都に五京 , 15 府 62 州あり , 中国文化を受け入れて 「海東の盛国」と称された。唐や新羅 はもとよリ , 奈良時代 , 平安時代の 日本にもしばしば使節して通貢して いる。渤海の盛時は 9 世紀まで続き , 満 'J•I•I は奥地まで開発されていった 1 ( ) 世紀初め , モンゴ、ル高原を統一し た契母 ( 遼 ) は , 満州に侵入して渤海 を滅は、し ( 927 ) , その故地に東丹国 を建てたが , やがて東母国の本拠を 遼河の下流域に移し , 渤海の遺民を もことごとく移住させてしまった。 かくて満州の奧地はふたたび未開の 野に逆転する。こののち奥地で活躍 を始めるのは , それまで高旬麗や渤 海人 ( 満州系だがモンゴルと混血 ) に おさえられていた純ツングース族 , すなわち / な・真である。 12 世紀初め , 女真は今のハルビン付近から興って 民族の統一をなしとげ , 国号を / 金 と称した ( 1 115 ) 。やがて中国の宋と 結んで遼を滅ばし , 次いで華北を征 服 , 宋室を南に追った。しかし攵真 人はなお人口か・少なく , ために満羽ヨ の人凵を尽くしてまで華北の経営に っとめねばならす , 満州の本上は空 虚に等しい状態であった。したがっ てモンゴル帝国の勢力が華北に及ぶ や , 金は本に引き上げることもで きす , 華北の地で滅亡した ( 12 34 ) 。 満り・日はモンゴル人の手中に帰し , モ ンゴル帝国 ( 元 ) は満州を越えて , 朝 鮓半島の高麗まで完全な属国とした。 元にかわった明も満州の支配を続け たが , やがて女真人の勢力が伸びは しめ , 明の支配は南満に圧縮されて いった。かくて明の袞亡に伴い , 真人はふたたび興り , 17 世紀初め , 東 満の地に建国して後金と称し ( 16 16 ) , 次いで南満の平野に進出して瀋陽い に都した。さらに内モンゴルを征服 して国号を / 清と改め , さらに中国 の内乱に乗して北京に兵を進め , 明 のあとを受けて中国全 I•. に君臨する に至った ( 164 4 ) 。清朝は , 満州の同 族をあげて中国に移住させ , これを 旗人と称して優遇した。政治の中枢 にすわったのも満州人であった。か くて満州の地はふたたび空虚に近い 状態となったが , 清朝は中国人の満 州への入植を許さす ( 封禁の令 ) , い わゆる東三省 ( 盛京 , 吉林 , 黒竜江 ) を置いて中国本 E と区別し , 満州の 確保につとめた。ンべリアを東進し たロシアに対しても , / ネルチンス ク条約を結んで , 満州への入をく いとめた ( 1689 ) 。やがて中国人は禁 令を犯して満り。 l•l に進出し , ことに 19 世紀以後 , 清朝が外圧に苦しみ , ロ シアに備えて満州への移民を奨励す 9 1 ると , 中国人は肥よく地を求めて満 り、 l'l に殺到した。すでに満州には満州 人なく , 名実ともに中国の一部と化 していったが , 日清戦争に敗れてか らは ( 1895 ) , ロシアの進出がめざま しく , 旅順 , 大連に基地を構え , シ べリア鉄道の支線を満州に敷設し ( 東清鉄道 ) , 沿線に近代都市を建設 した。しかしロシアの満州占領は日 本や英米の好まぬところであり , 日 本は英国と同盟したうえ , ロシアと 戦い ( 19 ( ) 4 ~ 05 ) , ロシアの勢力を北 満に退け , 南満に勢力をはった。日 本は / 関東州と / 南満州鉄道株式会 社を根拠にして , 満州支配の足場を 固め , ことにロシア革命ののちは﨑 州全を独占しようとし , 中華民国 の政情が不安定なのに乘して , 着々 と植民地化の準備を進めた。その帰 結が / 満州事変 ( 1931 ~ 32 ) であり , 満州国の建国であった 満州国は 1932 年 3 月 , 清朝の廃帝 溥儀さきの宣統帝 ) を執政とし , 祈京 ( 長春 ) を都として成立した。や がて全熱河省を含む領域も定まり , 34 年からは帝政が施行されたが , れはいわば日本の傀儡国家で , 軍 政各般にわたり日本が , とくに関東 軍が実権を握っていた。かくして「王 道楽 f-- 」の名のもとに全体主義的な 政治が行なわれ , 日本の軍需基地 , 前進基地とするための重工業建設が 進められ , 日本資本も導入され , ま た日本からの移民が奨励された。し かし , このかげで , 中国人 , 朝鮮人 による東北人民武装隊などが抗日闘 争を続けていた 日本の敗戦とともに満州国は崩壊 し , 満り、 l'l はソ連軍に占領され , 中共 軍に引き渡された。国共内戦の余波 は満り・ l'l にも及んだが , 解放軍はしだ いに優勢となり , 48 年 11 月には東北 人民政府が成立 , 中華人民共和国の 成立とともに , 満り・ l'l は完全に中国の 一部となり , 中国の「東北」部とし て経済建設が進められている。した がって今日 , 正式には「満州」とい う呼称はない。 〔山冂〕 まんじゅう饅頭蒸菓子の一種。 起原は中国三国時代の諸葛孔明呂 が遠征中 , 河川の風波を静めるため 犠牲の代わりに羊 , 豚の肉を小麦粉 に包んで水神に供したことにあると いう。したがって本来は肉まんしゅ うだが , あんいりのものは 14 世紀に 京胤の建仁寺の屯山神師が中国から 連れかえった宋人林浄因が , 奈良に 住んで塩瀬姓を名のりまんしゅうを 製したときはじめてつくった。その 後桃山 , 江戸時代初期茶道の隆盛期 をむかえて , 現行の形態を完成した まんしゅうを大別すると 2 種あり , ーは塩瀬の用いた薬 : まんしゅうで , 焼ミョウバン , 重ソウなどを原料と するイスパタで皮を製する方法であ り , 他は京都虎屋に発する酒まんし マン、ンユウ ゅうで , 甘酒の素に小麦粉を加え てわかせ , 皮をふくらす方法である。 江戸時代に至ってまんしゅうは諸国 に普及したが , 砂糖は高価な調味料 であったから , 貴人大名の間には用 いられていても , 一般庶民の間では もつばら塩あんが用いられ , いなか では明治時代までその風習はのこっ ていたと考えられる。加賀前田藩に は毎年旧暦 6 月 1 日 , 氷室を開き , 江戸幕府に天然氷を献上する行事が あったが , その日には藩士一同に氷 室まんしゅうを供した。それが塩あ んだったので , 金沢では現在でも 7 月 1 日に菓子屋が塩まんしゅうを製 して販売している。江戸末期以後 , 表皮にもあんにも種々のくふうか らされ , 皮にソバ粉を用いた「そば まんしゅう」 , 同しく皮にヤマノイ モをすりおろして加えた「薯蕷鬟よま んしゅう」があり , あんにもアズキ , 白アズキを用い こしあん , つぶし あん , 大納→ 新んのみつつ、けをカ日え た小倉れあんなどがある。〔富永〕 まんしゅうじへん満州事変 19 31 ~ 32 年にわたる日本の満州 ( 中国東 北地方 ) 侵略戦争。日本の満州経略は , 日露戦争以後南満州鉄道を中心とし て行なわれてきたが , 1928 年の張作 霖 3 ん爆死事変以後急速に高まった 中国の民族主義運動 , 排日連動によ って重大な脅威を受けるに至った。 おりから日本国内は世界大恐慌のた め窮乏と破たんにひんし , それを救 うためにも満蒙の危機が強調されて いた。そうした情勢にあせる / 関東 軍の将校たちは , 満州の政治的支配 を企て , それによって日本の権益を 安全ならしめるとともに , 満州をソ 連に対する軍事基地 , 中国革命抑圧 の拠点としようとした。 31 年 9 月 18 日 , 関東軍は奉天 ( 潘陽 ) 郊外の柳条 溝で満鉄線路の小爆破事件を起こし , これを中国の張学良軍の行為である として , ただちに全面的な軍事行動 を開始し , 現地に近い北大営兵営を 占領 , また満鉄沿線の中国軍兵営を 19 日はやくも奉天を占領 , 攻撃した。 また満鉄沿線を制圧した。 21 日在朝 鮮軍の 1 個旅団が軍司令官林銑十郎 の独断で満州に派遣され , 戦闘はた ちまち全満州にひろがった。ときの 若槻 ( 礼次郎 ) 内閣はとりあえす事 件の不拡大を声明したが , 現地の軍 部になんらの権威をももたなかった。 同時に事変は世界に衝撃を与え , 9 月 30 日国際連盟は事件の不拡大決議 を日本を含む全会一致で採択した しかし 1 ( ) 月 8 日 , 日本の錦州爆撃で 連盟の空気は硬化し , 11 月期限っき の日本軍撤退要求を採択し , 12 月英 人リットンを長とする調査団の派遣 を決議し , 32 年 1 月米国も , 日本軍 の満州における行動に対する不承認 の原則を宣言した。その間も日本軍 は軍事行動を進め , 31 年中に奉天 ,

2. 国民百科事典7

モウリモト 2 4 1 霊長類の盲腸はあまり発達がよくな 覚され , それが視神経をへて , 大脳 く ( ヒトの盲腸は 5 ~ 6 cm), ことに へ到達する。 / 目 ヒトや類人猿の盲腸の先端部は , 急 〔網膜の病気〕網膜疾患は俗に黒そ に細くなって , 長さ数 cm の虫垂 ( 虫 こひと称し , その本態はさまざまで , 様突起ともいう ) となる。 / 虫垂炎 全身疾患に伴われることが多い。ま はイに盲腸炎という。 〔細川〕 た , 網膜はその後方にある脈絡膜か もうはつ毛髪頭部の皮膚には ら栄養を受けているので , しばしば える / 毛すなわち頭毛のことで , 全 両者が同時に侵され網脈絡膜炎 ( ま 身の皮膚をおおう柔らかい毛 ( 生毛 ) たは脈絡網膜炎 ) となる。網膜の神 を除けは , 人体中もっとも数の多い 経繊維が集まってできる視神経も網 毛である ( 約 1 ( ) 万本 ) 。長さも最大で , 膜とともに侵されることが多い。多 1 ~ 1.5 m にも達しうる。個々の毛 くの網膜疾患のうちおもなものをあ の成長速度は 1 カ月に 1.5 ~ 2 cm は げると次のようである。 どで , 3 ~ 5 年間成長を続けたのち 梅毒で眼底が一面に濁るびまん性 モウソウチク 脱落してはえかわる。毛の密度 ( 1 c m2 網脈絡膜炎 , 結核のため眼底の血管 当りの数 ) は 15 ( ) ~ 3 ( ) ( ) 本で , サルの類 冬にたけのこを掘ったという二ト四 に破たんをきたし網膜や硝子体に出 孝のひとり盃宗の名にちなんだもの に比べてかなり少ない。しかし類人 血を起こす壮年反復性網膜硝子体出 猿 ( オランウータンやチンパンジー ) といわれる。 〔佐竹〕 血 , 結核アレルキ、一のため眼球後極 もうたくとう毛沢東 ( マオッォ の頭毛はむしろヒトよリ少ない密度 部の網膜に円形の浮腫亡ゅを生する中 中華人民和国 である。ヒトの頭毛は色調や形 ( わし 心性網脈絡膜炎 , 不明の原因で眼底 1893 ~ の政治家。中国共産党中央委員会主 に浮腫 , 出血などをくりかえすべー れなど ) がさまざまで , 人類学的に重 席。湖南省湘潭県の農家に生まれた。 要な形質である ( / 人種 ) 。色は主と チェット病 , 高血圧症のさいの網膜 長沙の師範学校卒業 , 半年はど北京 して毛に含まれる色素 ( メラニン ) の 血管硬化 , さらに進行し腎臓炎から 大学図書館に勤務 , マルクス主義者 量によって変化し , プロンドの毛に 萎縮腎に移行するとき起こるタンパ 李大釗の指導をうけた。帰郷後 , 文 は色素がほとんどない。なお赤毛に ク尿性網膜炎 , 糖尿病の末期に眼底 化団体文化書社の組織 , 堆誌く湘江 含まれる色素は , やや酸化の程度が 出血を起こす糖尿病性網膜炎 , 高度 評論 > の発行などを通し湖南で / 五・ 異なっているといわれる。いろいろ 近視や網膜の嚢状変性のため , 網膜 四連動を推進した。 192 ( ) 年に社会主 な毛髪の色を区別するために毛色計 に裂け目ができ , あるいは脈絡膜炎 義青年団の地方組織をつくり , 翌年 が考案されており , フィッシャー の浸出液のために網膜が眼底からは 7 月の中国共産党創立大会に湖南代 がれてくる網膜剥離 , サラーのものがよく使われる。また 1 ~ 5 歳の 表として参加 , 23 年中央委員。翌年 小児にでき , 放置すれば生命を脅か 白髪は毛の皮質の色素がなくなって 空気の小粒を生したものである。 の国共合作で国民党の候補執行委員 す網膜膠腫 , 網膜黄班部が変性を となった。 25 年の五・三十運動以後 , 起こす種々の型の網膜黄班部変性な / 美容 〔細川〕 湖南農民の組織化にのりだし , 26 年 もうふ毛布紡毛織物の一種で どがある。 / 夜盲症 〔萩原〕 広州の農民運動講習所の所長となっ もうりうじ毛利氏鎌倉時代以 おもに寝具として用いられる。英語 た。 27 年く湖南農民運動視察報告 > 来の武家で , 中国地方の有力大名家 のプランケットにあたり , 田各して を発表し , 農民運動を軽視する陳独 「ケット」とも俗称された。たて糸に 鎌倉幕府創立に功のあった大江広元 秀ら党主脳を批判した。 27 年の国共 の第 4 子季光が相模ゑが国毛利荘を領 綿糸あるいはスフ糸 , よこ糸に太い 分裂にさいしては , 「秋収暴動」を し毛利氏を称したのに始まる。季光 紡毛糸 , あるいはたてよことも紡毛 指導したのち , 湖南 , 江西省境の井 は三浦泰村の乱に加担して滅びたが 糸を用いて平織りまたはあや織りに こを革命根拠 その第 4 子経光は難を免れて安芸 岡山にたてこもり , 織り , 縮充 ( 羊毛繊維をからみ合わ 国吉田荘に家名を残した。次いで時 せフェルトさせること ) をして起毛 地とした。 31 年江西省端金を中華ソ して仕上げる。色は無地 , 模様織り 親は足利尊氏に吉田荘地頭職を安 ビエト共和国の首都として , 臨時政 府の主席となった。 35 年 1 月貴州省 堵され , 吉田荘郡山り城に居住 などあり , 2 重織りにしたものも多 した。その後しだいにこの地に勢力 遵義で開かれた中央政治局拡大会議 く , 両端は飾り縫い , 縁布をつける。 ( 遵義会議 ) で党の指導権を握り , 大きさは 1 枚毛布としてはふつう幅 をたくわえ , 元就にいたり陶 : 氏を滅 一宣言で抗日統一の方針を確立 は、し安芸 , 周防 , 長門をかを領し , さ 142Cm , 長さ 19 m の程度のものを標 した。日華事変では , く実践論 > ( 19 らに尼子氏を討って中国地方 1 ( ) カ国 準とし , 小形のものは幅 132Cm , 長さ 37 ) , く矛盾論〉 ( 1937 ) や , く持久戦 185Cm くらい , 大形のべッド用のものは を経略した。その孫輝元 ( 1553 ~ 16 論 > ( 1938 ) , く新段階論〉 ( 1938 ) , 幅 152Cm , 長さ 2 ( ) 3cm 以上のものもあ 25 ) は , 元就の子である叔父吉川元春 , く新民主主義論 > ( 194 ( ) ) などを著わ る。重は 135 ( ) ~ 168 ( ) g のものか、多い 小早川隆景らに助けられて織田信長 して戦争の見通しをたて , 整風連動 ベビー用毛布は幅 69 ~ 76cm , 長さ 94 と争い , 本能寺の変後は豊臣秀吉に を起こして党風の刷新をはかった。 ~ 1 ( ) 2cm である。羊毛の毛布のはか , 属し , 8 カ国 12 ( ) 万石を領し広島に 綿毛布 , スフ毛布 , 合成繊維毛布な 45 年中央委員会主席となリ , く連合 居城した。しかし関ガ原の戦いには 政府論 > ( 1945 ) で戦後の新中国建設 どがある。毛布はときどき日光乾燥 西軍に参加したので徳川家康のため の方向を示した。 49 年に中華人民共 することが衛生的で , 洗たくは , 中 長門 , 周防 2 国 36 万石に格下げされ , 和国が樹立され , 59 年まで国家主席。 性洗剤で踏み洗いをして押し絞って 萩城に移った。のち敬親にいたっ / 中国共産党 かわかす。高級の羊毛毛布はドライ 〔野沢〕 て長門山口に移り , 明治にはいって もうちょう盲腸小腸が大腸に ニングが適当である。毛布に 〔福田〕 華族 , 公爵となった 連絡するところで , 大揚の下端部が は綿布のカバーをかけて使用すると もうりもとなり毛利元就 1497 〔小川〕 便利である。 膨出していき止まりの袋小路のよう ~ 1571 戦国時代の武将。弘元の次 になった部分をいう。は虫類や鳥類 もうまく網膜眼球をとりまく 男。幼名は松な丸。 1523 年毛利家の にもすでにそれに当たるものがみら 3 層の膜のうち , 鞏膜 , 脈絡膜に 主となった。当時の毛利家は大内 , れ , は乳動物では , ウサキ、などのよ 次いで最内層に位置する。 尼子両氏の間に介在する弱小な勢力 目をカメ うにセルロースを多く食べるものが ラにたとえると網膜はフィルムに相 であったが , 元就のときこれまで属 長く発達した盲腸をもつ。食肉類や 当し , 尢は網膜の視細胞によって感 した尼子氏より離れ大内氏に帰属し , L 沢東 毛利冗就

3. 国民百科事典7

リッコクシ 4 7 ( ) て発展した。 1894 年甲午改革の一つ この時代の作品には伝姜希顔の ち三つに分派し , そのうち道宣 ( 596 として , 奴婢や賤民の解放が行なわ く山水図〉 , 石敬のく竜図〉 , 李上佐の ~ 667 ) の南山宗だけが宋代まで伝わ れた。工鉱業は政府が直営し , 私的 った。日本には 754 年 / 鑑真によ く松下月歩図 > などがある。後期にな 生産はあまり発達しなかったので , って伝えられ , 東大寺戒壇院と唐招 ると山水画は中国の南画の影響をう 民間には定期市や旅商人があるだけ け , 文人画が盛んになる。花鳥画は 提寺がその専門道場となった で , 商業都市は生まれなかった。 , 中国の伝統的画風によったが , 金弘 最澄の没後 , 叡山に独自の戒壇が のように社会経済の発展が立ちおく 道がでて洋風の画法をとり入れ , 名 建てられてから , これにおされて衰 作く闘大図〉は彼の作と伝えられる。 れていたうえに , 19 世紀以後 , 資本 微し , 鎌倉時代に至って唐招提寺 主義列強が進出し , さらに日本の植 に覚盛ぅ , 西大寺に叡尊 , 泉 また彼は風俗画もよくした。肖像画 民地化が進められたので , 李朝末期 もこの後期に発達し , 写実をおしす 涌黔ぅ寺に俊荷ヒが出て , ようやく の近代化は ; ゆがめられたものとな すめた。書は後期において朝鮮風の 復興した。しかし戒律の護持が厳粛 肥厚な書体が完成し , また飛白風の であるだけでは安心、立命はえられな った 〔文化〕儒教は国教としての地位を 書も行なわれた。しかし中国の金石 いし , 民衆の救いからも遠いために 学者らとの交渉をもった金正喜は李 漸次袞退した。現在は唐招提寺に律 確立し , 朱子学が学ばれ , 官立の学 宗 , 西大寺に真言律宗が伝えられて 朝第 1 の書家といわれた。工芸のう 校がつくられた。中期以後は私立学 ち李朝を代表する工芸品は陶磁であ 校である書院が普及し , すぐれた学 いる。 〔石田〕 者が出た。出版も盛んで江戸時代の る。白磁 , 黒磁 , 鉄絵 , 染付 , 辰砂 , りつしゅん立春陽暦 2 月 4 日 日本の儒学にも影響を与えた。庶民 三島手 , 刷毛目をはじめ諸地方で民 ごろ。現在では太陽の黄道上の位置 文学として民話小説が多くつくられ が黄経 315 。のときを立春とする。古 間日用器としてさまざまな陶器か焼 たが , 政治を批判した社会小説でも かれた。これらはいすれもその素朴 代中国の暦法では 1 年を二十四気に あるく春香伝 > は代表的作品である。 さ , 静けさによって , ことに日本の茶 分け , その最初の気を立春とした。 活字印刷され保存された 500 年間の 趣味の「わび , さび」の精神にかない 中国の古俗では , この日天子は東郊 王朝の記録く李朝実録 > 1709 巻は に出て春を迎え , また , 民間でも春 前期や後期初めの茶わんは , 日本で 餅んや生菜を食べ , この日を祝った 史料としてきわめて価値が高いもの ことに珍重されている。漆工や木器 清朝時代には順天府の役人が春牛図 〔宮原〕 はまたこれに相応して素朴さがあり , である。 〔美術〕李朝美術は便宜上これを前 を天子に献し , この式が終わると春 漆器には螺鈿ネんが多く , 美しい員を 期と後期に分け , 前期は太祖の即位 大きめに象眼している。木器はたん 牛を引き出して打った。これを打春 といった。日本でも延喜式によれば , の 1392 年から文禄慶長の役まで , 以 す , 机などから日常用の諸器がある 宮中諸門に土牛童子の像を立て , 立 後は文物も一変するので , 李朝最後 が , その民芸品としての美しさが近 春の前夜半に撤去することが行なわ の李王 4 年 ( 191 のまでを後期とする。 来あらためて認められている。染織 れた。また元日を年の初めとする慣 李朝の文化は高麗のあとをうけ , は淡い原色のものが一般に好まれ , 行と並んで , 立春を新年の初めとす 面では明の影響をうけ , 儒教と仏教 とくにとりたてるはどのものはない。 / ( 別刷 ) 朝鮮 / ( 別刷 ) 陶磁器 が並立して行なわれた。建築は都市 る風習が並行的に行なわれた。大晦 は中国の制度をならい , 昌慶宮など 日みの行事である豆打ちその他の 〔杉村〕 りつこくし六国史奈良時代か 多くの宮殿が建てられたが , 当初は 行事が立春の前日の節分に移行した 例が多いのはこの理由による。なお おおむね中国の宮殿建築を小さくし ら平安時代初期にかけて律令政府が 中国の正史にならって編集した六つ たものである。しかしこの間に李朝 太陰暦では立春が旧年中にくること これを「年内立春」という。 様式は確立し , 宮殿のはか書院 , 楼 の官選史書の総称。いすれも勅選 , も多く , 「年のうちに春は来にけり一年をこ 亭などの小建築に中国と趣を異にし 漢文体 , 編年体である。 1 ) / く日本書 た美しい屋根のこう配をもっ建物が 紀〉 30 巻 , 書紀 , 紀ともいう。神代 ぞとや言はむ今年とや言はむ」とい つくられた。彫刻は仏像は宋 , 明 , 高 から持統天皇 ( 697 ) まで。 720 年舎 う在原元方の歌は , 年内立春を詠し 人らね親王らが選進。 2 ) く続日本紀〉 麗の形式を学び端正なものが初期に たものである。 〔鈴木〕 はあるが , 後期になるとくすれてく リッター Karl Ritter 1779 ~ 40 巻。続紀ともいう。文武天皇の即 1859 ドイツの地理学者。マクデブ る。石刻には陵墓の両側に配置した 位から桓武天皇まで ( 697 ~ 791 ) 。 797 年菅野真道ら選進。 3 ) く日本後紀 > 40 ルクに近い町クウェドリンプルクに 石人 , 石馬 , 石羊などがあるが稚拙 生まれた。 1798 年フランクフルト・ 巻 ( 10 巻だけ現存 ) 。桓武天皇の治世 である。絵画も仏画は後期になると アム・マインの銀行家の家庭教師と から淳和天皇の譲位まで ( 792 ~ 833 ) 。 みるべきものはなく , 山水画は初期 時代はなお宋元の画風をのこし , 安 散逸が多いが , く類聚物う国史〉やく日 なって , かたわら大学に学び , 1814 年からはゲッチンゲンに移ってもっ 堅のような名人がいてその傑作く夢 本紀略 > などである程度まで補える。 ばら地理学を研究した。 19 年フラン 遊桃源図 > が今にのこされている。 840 年藤原緒嗣ら選進。 4 ) く続日本後 クフルトで歴史の教師となったが , 紀 > 20 巻。仁明天皇 1 代 ( 833 ~ 85 の。 翌 20 年ベルリン大学に招かれ , 初代 869 年藤原良房ら選進。 5 ) く日本文徳 地理学教授として生涯を終えた。主 天皇実録 > 10 巻。文徳実録とも略す。 文徳天皇 1 代 ( 85 () ~ 858 ) 。 879 年藤 著く地理学 > などによって , 人間と 原基経ら選進。 6 ) く日本三代実録 > 50 自然 , 歴史と舞台との関係を地理学 巻。三代実録ともいう。清和 , 陽成 , の課題としたことは画期的であり , A. v. フンポルトと並」 : 近代地理学の 光孝天皇 3 代 ( 858 ~ 887 ) 。 901 年藤 建設者である。 〔折見〕 原時平ら選進。しかしこれ以後 , 律 りったいえいが立体映画平面 令制度のゆるみに伴い勅選の史書の 編集はとだえた。これらの記述はあ のスクリーンに映写しながら 3 次元 くまでも帝紀中心主義で , その性質 の立体感を起こさせるようにくふう 上日常的な事がらや社会生活などに した映画。 3 D ( 3 次元 ) 映画ともよ ばれる。ステレオ方式とシネラマ方 〔奥野〕 ははとんどふれていない。 りつしゅう律宗仏教の一宗派。 式とある。これらは 1900 年ごろから 「四分蹶律」を根本律典として中国 フランスで考案されていたカ { 第二次 大戦後の米国で製作された。またソ に興った。慧光を開祖とするが , の 中国の立春の行事「春 牛」。く清俗紀聞〉より 春牛 !

4. 国民百科事典7

などの果実を産し , 豚の飼育は全米 でも有数である。またオレゴン州と 並んで林業の盛んな州であり , 鉱産 物としてはセメント , 石炭 , 金 , 銀 , 鉛 , 亜鉛 , 水銀などを産する。 / コ ロンヒ、ア川の水力発電による豊富低 廉な電力を利用したアルミ精練も重 要であり , またノ、ンフォ ドには全 国唯一の国立プルトニウム精製工場 がある。ヒ。ュージットサウンド沿岸 には石油精製所が多く , 林産加工 , 食品加工に加え , 近年は航空機工業 , 化学工業が発展しつつある。またア ラスカの好漁場をひかえて水産業も 活発に行なわれている。 この地域の 最初の定住は 1811 年で , はしめオ レゴン州の一部だったが 53 年準州 , 89 年 42 番めの州になった 〔行尢〕 ワシントン W a sh i ng ton 米国 の首都。その範囲は連邦区である / コロンビア区と同一である。国会 議事堂前広場をはしめ , おもな広場 から道路が放射し , これに東西と南 北に走る 3 ( ) m 道路で整然と区画され , 一般の建物は高さを制限され , モー ル公園や桜で有名なポトマック公園 をはしめ多くの公園や緑地を配し , 町全体が公園のように美しい。立法 , 行政 , 司法関係の庁禽 , 外国公館の 集まる政治都市であるはかリでなく ジ・ワンントン大・、 / : その他の 大学 , 国会図書館 , 国立美術館 , 国 立博物館で代表される教育文化の中 心、でもある。多くの鉄道 , 道路が集 中し , 国際空港や港の施設に恵まれ た交通の要所で , ホワイトハウスや ン記念上などを訪れる観光 ワンント 客も多い。 , 商業は盛んであるが , 工 業は印刷 , 食品加工 , 製紙 , 金属加 工などにとどまる。なお第二次大戦 後 , 郊外がメリーランド州やバー -- ジ ニアり・ l•l に伸びて , メトロポリタン人 ロは 228 万 ( 1964 ) を数える。市政は 大統領が選ぶ 3 人の委員会が担当し , 立法および予算の決定は国会が行 〔石光〕 ワシントンカ、いぎワシントン会 議 1921 年 1 1 月 12 日 ~ 22 年 2 月 6 日 , 米国の提唱でワンントンに開かれた 海軍軍備制限問題と極東 , 太平洋問 題についての国際会議。この 3 カ月 間に本会議や委員会などの各種の会 合がかさわられ , 海軍軍縮条約 ( ふ つうワシントン条約とよは・れる ) は しめ 7 条約 , 12 決議が成立した。海 軍条約は主力艦の総トン数を米国 5 , 英国 5 , 日本 3 , フランス 1.75 , イ タリア 1.75 と定め , 中国に関する九 カ国条約は以上の五大国のはか中国 , ベルギー , オランダ , ポルトガルに よって結ばれ , 中国の主権 , 独立 , 領土の尊重を約し , 米国の唱える中 国での門戸開放主義を認めた。太平 洋に関する日本 , 英国 , 米国 , フラ ンス四カ国条約は太平洋の現状維持 , 日英同盟の廃止などを定めた。また 6 6 1 山東問題については米英のあっせん によって日本 , 中国間に条約が結ば れ , 日本はベルサイユ条約によって 得た山東省での旧ドイツ権益をほと んど中国に返還することになった。 この会議によって米英の圧力の前に 日本は第一次大戦中に極東に獲得し た地位から大きく後退することとな り , 1920 年代の東 , 太平洋での諸 大国の勢力関係が定まった。〔斉藤〕 わすれかい〔忘貝〕ハマグリに 似た二枚員。波の荒い外洋に面した 砂地にすむ。殼は凸レンズ状にふく らみ , 表面はなめらかで紫色の班紋 がある。 2 枚の殼の合せ目にある靱 帯のところが深くへこんでいるのか、 特徴。殼長 10 cm くらいになる。福島 県以南の各地に分布し , チョウセン ハマグリとともに漁獲され , 食用に されるがますい。 〔奧谷〕 わすれなぐさ〔勿忘草〕欧州 , アジア原産のムラサキ科の一年草ま たは多年草。高さ 40cm , 茎は横に広 ~ 6 月にウメの花に似たか がり , 5 れんな小花を穂状につけて咲くが , 花穂の先端は巻いている。花は初め ピンクで , しだいにコバルト色に変 わる。和名は英名の forget-me-not に由来する。園芸品には大輪 , ピン ク , 濃紫色 , 白色などがある。通常 秋まきで寒さには強く , 関東地方で は霜よけを要しない。水湿地では野 生化するはどよく育つもので , 乾燥 地には不適。種子は黒くて小さく光 沢がある。 / ( 別刷 ) 園芸〔浅山〕 ワーズワース W i Ⅱ i a m Wo r d s- worth 1770 ~ 1850 英国の詩人。 レーク・ジストリクトとよばれるカ ンバーーランドに生まれ , 1791 年ケン プリッジ大学卒業 , 95 年以来 / コー ルリッジと親交を結び , 98 年両者の 作品を合わせて出したく叙情歌謡集〉 はロマン主義時代のロ火となった 田夫野人の生活を平易なことばで歌 うべきことを説いたその序文と , の集の最後を飾るくティンタン寺院 詩章〉はく老水夫行〉とともにとく に有名である。またそのころから自 伝的瞑想詩く序曲 > を書きはじめ , 1805 年 88 ( ) ( ) 行あまりの初稿を完成 したが , その後も加筆を続け , 5() 年 彼の死後にはしめて発表された。学 生時代からたびたび大陸各地を旅行 し , 青年時代にはおりから進行中の フランス革命に大いに共鳴したが それが恐怖政治の様相を示したこと に失望し , 晩年は保守主義に転した。 しかし自然と人間の神秘的な霊交を 信しる一元的汎神論ともいうべき思 想を終生変えなかった。 〔小野協〕 わせい和声 ny の訳。高さの異なる二つ以上の 音の同時的結合による合成音のこと。 和嗇と同義と考えられる場合もある か , 嗇楽の流動的な流れの中で , 前 後関係から切り放して縦に切り取っ た数音の同時的な結合が和音である のに反して , 和声は前後関係の中に おかれた数音の同時的発生の継起で あるといえる。音楽が純粋な単旋律 から一歩進んで , これになにか別の 音を伴うと , すでに和声的要素が加 わったことになるか・ , ヨーロッノ、の 音楽では , 9 世紀ごろの 2 声のオル ガヌムにそれか・みられる。そののち 音の組合せはしだいに発達して , 16 ~ 17 世紀にはいくつもの旋律を重 ね合わせて歌う多声音楽が隆盛をみ た こでいくつかの旋律の組合せ の結果としていろいろな和声が現わ れるが , それはまだいわば偶然的な 合成音であって , 同時的な響きその ものを意識してそれらの配置によっ て音楽を構成しようという本来の和 声的音楽が発達したのは , 18 世紀以 後である。 18 世紀後半から 20 世紀初 めまでがふつう和声的音楽の時代ど される。この狭義の和声的音楽では , 楽曲ははとんど長調と短調にかぎら れる。ハ長調とかイ短調とかいう / 調 はその中心となる主和音 ( トニカ , 記号 I または T で表わされる , ハ長 調の場合ハーホート ) と , これに対 して 5 度上 , および 5 度下の三和音 ( 属和音 , ドミナント , 記号 V また は D , ハ長調ではトーロー 属和音 , サブドミナント , 記号Ⅳま ハ ) を対置させる たは S , へ ーとによって確立される。その他 の和音はこれらの主要な和音 ( 主要 和声 ) の機能を代理するもの , また はその変形などとして扱われる ( 副 次和声 ) 。これらの和音によって楽 曲の終止を形づくる一定の定型 ( 終 止形 , カデンツ ) か、つくられ , この終 止形が楽曲の全体に作用して楽曲構 成の基礎となるのである。こでは また協和音と不協和音は対立的なも のとして意識され , 不協和音が協和 音に進行して解決感を与えることも 古典音楽の時代には和声的興味の一 っとなっていた。しかし 19 世紀後半 から半音階的な変化音や不協和音の 使用が多くなって , ロマン派後期の 音楽では調の確定的な感しをはかす 傾向が強くなり、 2 ( ) 世紀には , 和音 を調内部の一定の機能から切り放し て , その響きのもっ感覚的効果をと らえて自由に用いたり , 二つ以上の 異なる調を同時に重ね合わせたり , あ るいはまた和音を構成するのに従来 のように 3 度の積み重ね ( ノ トなど ) を捨てて 4 度で和音をつく るなどいろいろ新しい試みが行なわ れ , けっきよく調に基づく和声の法 則はやぶられ , 調そのものを否定し た音楽が現われるようになって , 本 来の意味での和声的な音楽の時代は 終わったとみられる。現代では 1 オ クタープ内の 12 の音にまったく同等 の地位を与える無調音楽や / 十二 音楽や / ミュージックコンクレート ワセイ ワスレナグサ 花の拡大 ワスレガイ ワーーてワーーース

5. 国民百科事典7

巻子本当 . , い、、宀ゞ 2 能にかわって , 世俗的な本 , 文学や 知識の本が大幅に民衆に開放され , 民衆本という安本が行商人によって 売り広められた。本の内容はその形 式とともに , 著しく多様になった。 刊行点数もそれに比例して , たとえ ば英国での本の . 数は , 1510 年には 13 , 80 年には 219 , 1810 年には約 600 , 1913 年には 12379 となる。 19 ~ 20- 世 紀の間にみられる飛躍的な増加は , 大和綴 麻の葉綴 亀甲綴 製紙術と印刷術との近代的発明によ の紙の原義であり , また聖書を表わ 重い貴重な本を門外不出として鎖を るもので , 1840 年から始まる木材ハ 和書の各種装本形式 かけることもあった。羊皮紙よりも すバイプルの語もギリシア語をへて ルプの製紙法と , 1815 年に始まる鉛 軽くて安くて扱いやすい紙の発明は , / ヾピノレスにさかのは、る。ノヾピノレスは 板シリンダ印刷方式以後の日進月歩 本の歴史にとって画期的であった。 続けて長い巻物にすることもできた。 が , 書物生産の姿を変えたのである。 パピルスの巻物の両端につまみのあ 初め 2 世紀のころ中国で , 樹皮や布 〔洋書と和書〕西洋の本を洋書とよ る軸をつけ , 巻いてまん中を縛り , 類をくすし , たたき , 漂白し , かわ び , 日本の本を和書というが , 中国 木箱や土器に収めた。書字生は 25cm かして紙を作ったのが , 8 世紀ごろ と日本とを含めて明治以前の和本は , イスラム諸国に伝わり , さらに 12 世 ほどのアシのべンと , すすにアラビ 洋書の体裁と著しく違ったものであ アゴムなどを加えて作ったインキで , る。洋書の伝統は本が単独によろ 紀からしだいに欧り料にはいった。 ノヾピ . ルスに字を書いたカ { , そのため れが羊皮紙にかわるようになったの ( 鎧 ) われた 1 個ののように堅固で は , 印刷術の発明以後で , 東西での に簡略な筆写文字が発達した。のち あるのに対し , 和本は軽装自在の冊 紙の使用は IO 世紀以上のひらきがあ 子として , 数部をまとめて帙や補 のアレクサンドリアの王室図書館で る。最古の紙は 137 年の文書であり , にはいり横臥する。本文の組が文 は , パピルス本 70 万巻をこえる蔵書 その成分は樹皮と麻であった。以後 を誇ったという。 字の性質上 , 横組と縦組 , 左右逆に 〔羊皮紙本と紙の本〕獣皮を書写の 紙の本は巻物となり , 折り本となり , 始まるのをはしめとして , 和本は片 面刷にして折って袋とじにし , 洋書 材料とすることは古くからあったが , 綴本となって発展する。 は両面に印刷して 1 葉 2 べージとな 〔印刷革命〕中国では 1040 年ごろ畢 これが本式に本の資材となったのは , る。装丁は洋本がもともと皮装に金 昇が膠旨泥活字を作ったというが , 前 2 世紀ごろからである。そのころ 欧州でもかなり早くから木版 , 泥版 具つきからしだいに布装 , 紙装とな / トアジアのペノレガモンでは , エウメ の印刷があり , また活字の試みも行 ったのに対し , 和本は渋や漆で補強 ネス 2 世がアレクサンドリアに劣ら した紙装が大部分で , 時おり布装が なわれた。しかし 15 世紀半ばにドイ ぬ図書館をつくろうとしたが , エジ ツのグーテンベルクが , 金属による みられる程度で柔軟を主としている。 プトでパピルス紙の輸出を禁したた 洋書の表紙は , 豚やャギや子牛や羊 可動性の活字を使い , ブドウ絞り機 め , ベルがモンの言夸る羊やヤギの皮 の皮を使うのが本装とされ , その丸 を利用した印刷機を操作して印刷術 を利用して羊皮紙を作るのに成功し ぐるみを全 { 装 , 背と四すみを皮に たため , 以後 15 ( ) () 年以上にわたる羊 を興してから , 本はまったく面目を するのを半装 , ほかに四半装 , 四三 皮紙時代が続いたという。ます羊や 改めることになった。有名な四十二 装のように表紙の平へかかる部分 行聖書がグーテンベルクの印刷によ ヤキの皮をなめし , それを薄くそい の多少によって名称がある。背部は で作るが , これには両面が書けるし るものか , 彼のあとをついだフスト 丸背と角背とあって , とし方 , つづ の製作かは異論があるが , それを最 折ることもできたために , ついにノヾ りの材料によって製本も異なる。表 初の勝利として , 1457 年には頭文字 ヒ。ルスを駆逐し , 巻く本に代わって 紙をあけると , 見返し ( 片側は表紙 つづる本の体裁をうちたてて , 後代 も全部が印刷によってなったフスト 裏にはりつけられ , 他方は遊び見返 の規範となった。 / 羊皮紙をパーチ とグーテンベルクの弟子シェファ し ) , 次に前とびら , 題とびらがあ との 3 度刷聖書が出たことは , 従来 メントとよ」 : のは , ラテン言吾のベル はしがき , 目次があって , 本文 の手写本に対する決定的な革命であ ガ、モンの紙からきている。羊皮紙本 り , がくる。和本では表紙に直接題箋芫 った。また写字体にならった活字体 を完成し伝えたのは中世修道院の僧 たちそ、ある。 6 世紀初めに聖ベネジ によって , 1500 年より前に作られた があって , 背をくるむことなく , 天 印刷本は , 揺籃まえ期本とよばれて , 地に角布をあて , 種々・なとし方で糸 クッスがイタリアに僧院を設け , 以 近代本の祖先として尊重されている。 後 1 ( 用 ( ) 年は各地の僧院の書写室が休 ひもによってぶっこ抜きにしてから 最初の聖書印刷以来 50 年の揺鹽期を げあげていく。本文にいたる川頁序は みなく活動した。修道僧は傾斜した 洋書のように厳密ではない。 写台に向かい , 25 cm x 45 cm の羊皮紙 へて , 印刷術は急速に全欧州に広ま 〔和書の歴史〕日本の本は洋書の歴 を半分に折り , 鵞がペンで各種イン った 本の歴史に欠くことのできない名 史と違って , いきなり紙の本から始 キを用いて聖句を写す。羊皮紙 4 枚 まる。く日本書紀 > によれば , 610 年 ( 折って 8 葉 16 ページ , これをフォ は , イタリアのアルドウス・マヌチ に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日 ウス Aldus Manutius ( 1450 ~ 1515 ) リオという ) ごとにのどに皮ひもを 本に伝えたといわれ , 現在残ってい 通し , それらを重ねて 1 冊にすると , である。彼は学者 , 印刷者として全 る最古の本は 7 世紀初めの聖徳太子 ひもで山になった背ぐるみに , 皮を 欧州の古典学者を集め , おりから興 の自筆といわれる巻子本のく法華 かぶせて表紙とした。またその表面 ったギリシア古典復興に精力的にカ 義疏であるとされる。これの から / トロへかけて金、具をうったり を尽くし , 10() 種以上の古典を刊行 遺品としての確実性にはいくらか疑 表紙に宝石をはめたりして , 装丁の して , ルネサンスの推進者となった。 問があるとしても , 天武天皇の 14 年 こうして 1 個のろう 彼はアルド体とよばれるイタリック 美を竸った ( 686 ) に書写されたと認められるく金 な / トさな櫃のような書物ができる 書体をはしめて作りあげ , 文章記号 剛頂陀羅尼経〉は確実な遺品で , これが欧州の本の概念となった を導きいれ , ノンプルをつけ , 表紙 以下奈良時代の本の遺品は数千点に 本文の頭文字やページのわくに彩飾 に押型を考案した。アルドウスたち のばり , 10 ( ) () 年以上昔の紙の本がこ の努力によって , 本は急速に発展し , を施し , なかに美しいさし絵を入れ んなに多数残っていることは世界に そのために中世の聖書や祈疇 : う書万 ることもあって , 本は美術品であり , 唐本 折り本 康熙綴 4

6. 国民百科事典7

ライン / 、ノレ 4 1 6 員 6 名からなり , 国民議会は定員 59 谷にある著名な保養地。標高 799 m 。 名 , 任期 5 年 , 普通選挙で選出され インターラーケンの西方 l()km にある。 付近に泉や滝が多いためこの名があ る。産業は農林業が主で総人口の 90 り , シュタウブノヾハやトリュンメル % がこれに従事し , ケシと米が主要 ノヾハの滝は有名。ュングフラウへの 産物だが , 米は年間約 2 万トン輸入 登山電車の起点である。 / ( 別刷 ) ア する。スズ , 鉄などの地下資源や豊 ノレフ。ス 富な森林資源があるが , 技術や資本 〔生野〕 ラオカイ Laokay ベトナム民 の不足で未開発である。農業も原始 主共和国 ( 北ベトナム ) 北部 , 中国と 的焼畑耕作で食糧の自給もできない。 の国境近くにある町。中国側の河口 スズ , タバコ , コーヒー , 木材など と対する。ソンコイ川とハノイ ~ 昆 を若干輸出するが , 毎年大幅な入超 明鉄道に沿い , 通商の中心地である。 で輸入資金のはとんどを米国の援助 資金に依存している。〔生活・文化〕 付近ではリン灰石を産し , 埋蔵は質 旧フランス領インドシナ連合から独 量ともに世界第 2 といわれている。 立したインドシナ諸国のうちでもっ 老開とも書く。 〔渡辺修〕 とも文化が遅れている。宗教は小乗 ラオコーン Laokoon ギリシア ーゼルまでさかのは、れるようになり , 仏教で , 憲法第 7 条に「仏教はこれ 神話中トロヤのアポロン神殿の神官。 を国教とする」と規定してあるよう 現在では貨物輸送量は年間 1. 3 億 ~ ギリシア軍がトロヤ城を包囲して IO 1. 5 億トン ( うちドイツ 1 億トン ) に 年めのある日不意にギリシア軍は陣 に文字どおりの仏教国である。子ど 達する。水位の変化は中部ドイツで ライン川 ( 補 ) ライン 地に大きな木馬を残して船出したの もが 12 , 13 歳になると一般に仏門に 川からマイン川をへて はわすかだか・下ラインでは著しい。 はいり , 18 , 19 歳になると黄衣を脱 で , トロヤ人は敵が帰国したものと ドナウ川にいたる運河 いで結婚生活にはいる。男は成年に 31 年に定められたライン航行規約は 思って喜んだ。残された木馬をめぐ 計画が進められている 68 年に修正され , 今日ではすべての 達するとひざからへその下まで入れ って , これをアテナにささげられた ( ドナウ川の項参照 ) 。 墨をする習慣がある。国祭日は憲法 国が河口からパーゼルまでの自由航 ものだから城中に入れようとする説 またポーデン - ピー ~ / ヾ 発布記念日 ( 5 月 11 日 ) と独立記念日 行権をもち , ライン中央委員会が管 と , 敵の悪だくみだからがけから投 ーゼル間を , 1350 トン 級の合舶の往来を可能 ( 7 月 19 日 ) である。国民の 75 % が文 理している ( ドイツは 1936 年脱退 , げ落とせという説が議論されたとき , にする「上ライン川航 盲で , 国内の政治的不安定のため教 50 年再加盟 ) 。事故はライン航海局 彼は入れれば町は滅びると予言した。 行計画」が決まり , 西 育の普及は遅れている。〔歴史〕 14 裁判所 ( ケルン所在 ) で扱われる。沿 ところが彼が神に祈っているとき 2 ドイツとスイス両国で 世紀半ばにラオ族を統一したランサ 岸には古都としてマインツ , コプレ 匹の巨蛇だが海から泳いできて , 彼 着工中である。 ン王国ができたが , やがて北部のル ンツ , ポン , ケルン , ブドウ酒 ( ラ と 2 人のむすこに巻きついて締め殺 アンプラノヾン , 南音 6 のビエンチアン した。巨蛇は彼の結婚を怒ったアポ インワイン ) の名産地としてビンゲ 王国に分裂し , のちしだいに袞えた。 ロンの送ったものだといわれる。木 ン , リューデスノ、イム , アースマン 馬は城内に引き入れられ , 彼の予言 19 世紀後半からベトナムに進出した スノ、ウゼンなどカゞある。 〔岩淵〕 フランスと西隣のタイとがその支配 をいれなかったトロヤは滅亡した ライン′、′レト Max Reinhardt 前 1 世紀のアゲサンドロス , ポリド 権を争ったカ { , 1899 年フランスはル 1873 ~ 1943 ドイツの演出家。本名 アンプラバン王国を保護国 , 他を植 ロス , アテノドロスの 3 人によるラ M. Go 旧 mann 。ウィーンで演劇を学び , オコーン像は有名。またレッシング 民地としてインドシナ連邦に編入し 舞台に立ったが , 1894 年ドイツ座の 座員となり , 1902 年から「小劇場」 た。第二次大戦中日本軍によってラ はその著くラオコーン > で , ラオコ ーンとむすこたちの死についての文 を創設 , 近代劇を新演出によって上 オス王国が生まれたが , 戦後スファ 学的表現と美術的表現の相違につい ヌポンらによる民族独立運動が盛ん 演して注目された。 05 年からドイツ になり , 1950 年 8 月民族統一戦線組 座を経営 , その他の劇場も含めて 20 て述べている。 〔高津〕 織ノヾテト・ラオが結成され , 北部を 数年間ひろく舞台表現の可能性を追 ラオス Laos インドシナ半島北 中心に反仏武力闘争を続けた。その 求してけんらんたる演出を展開し , 部の王国。北は中国の雲南省 , 東は 間 49 年 7 月ラオスはフランス連合内 ドイツ演劇の中心的存在であった。 ベトナム , 西はタイ , ビルマ両国 , ユダヤ人のため 33 年ナチスに追われ , 南はカンポジアと境を接する。面積 で独立 , 53 年 IO 月完全独立したか・ , パテト・ラオの闘争は続き , 54 年ジ 以後米国を中心に舞台 , 映画で活動 236800km2 , 人口 1925 ( ) ( ) ( ) ( 1963 ) 。首 ュネープ協定で停戦 , 57 年 11 月王国 都はビエンチアンだか、 , べつに王者に 〔春川〕 政府との協定で連合政府に参加した。 ラウ工 Max von Laue 1879 ~ ルアンプラノヾンがある。〔自然・住 ノ、テト・ラオは合法政党ラオス愛国 民〕一般に山岳地帯で , けわしい山 1960 ドイツの物理学者。コプレ 党となったが 59 年 5 月ふたたび内戦 ンツのくのフ。ファッフェンドノレ 地と高原が連なり , その間をメコン となり , スフアヌポン党首らは捕え ラオス ( 補 ) ラオス国 フの生まれ。ゲッチンゲン大学で W. 川とその支流が流れる。北東部の高 王は , 1959 年即位した られたが脱獄した。 6 ( ) 年 8 月コン・レ フォクトの影響を受けて理論物理学 原は標高 1300m くらい , ベトナム国 サノヾン・ / ヾッタナであ 境の山地では 2500m に達する。・局地 を志望 , フランクフルト・アム・マ 大尉のクーデターで中立派のプー る。 63 年 2 月中立派が イン大学教授 , ベルリン大学教授な 的な差異はあるが , 全般にモンスー マ内閣が生まれ , 62 年 6 月ジュネー 左右に分裂し , 6 月左 プ会議の結果 , 左 , 右 , 中立三派連 ン的気候で , 5 ~ 10 月が雨季 , 11 ~ どを歴任。 1911 年結品格子による X 派閣僚はふたたびノヾテ 5 月が乾季 , 11 ~ 2 月は涼しく , 2 ~ 合政府がつくられ , ラオス中立化の ト・ラオ地区に帰り内 線の回折を理論的に予測 , 12 年実験 戦は再燃した。 65 年 1 ( ) 5 月が暑い。国の大部分は森林地帯 に成功して「ラウェ班点」を得た 宣言か、調印されるに至った。 月バテト・ラオ軍はラ 〔渡辺修・鑞山〕 で , メコン川沿いの平地に農業地帯 14 年この業績によりノーベル物理学 オス人民解放軍と改称 , が開ける。住民は仏教徒でタイ系の ラオチュー老酒中国でつくら 賞を受賞 , 独立に同じ結果に達した 全土の 6 割を支配して れる釀造酒の総称。かめに入れて密 ラオ族がもっとも多く , はかに中国 プラッグ父子とともに結品物理学の いるといわれる。 封して貯蔵し , 古くなるはど熟化し 系 , インドネシア系の山地種族や中 先駆者となった。このはか量子論 , 一方 , ベトナム戦争 の拡大は , 米軍機のラ 国人 , ベトナム人がいる。国語はラ て風味がよくなり , 価格も高くなる。 相対性理論 , 超電気伝導などを研究。 オス国内を通るホーチ 代表的なものに / 紹興酒と黄酒 ( ホ オ語で , タイ語に近く , 文字もタイ 〔後藤〕 ミン・ルート爆撃を招 ラウタープルンネン L au t e r. 文字によく似ている。〔政治・経済〕 アンチュー ) がある。黄酒は鮮黄色 き , 65 年 12 月からさら 立憲王国で , 議会は二院制。王国議 brunnen スイス中部 , べノレニーズ・ で甘味 , 酸味ともに強く , アルコー に B52 爆撃機が使用さ 会は国王指名議員 6 名と国民議会議 アルプス山中のラウタープルンネン ル 9 ~ 13 % , 総酸 0.43 % , エキス分 れはしめたといわれる。 4 ラオコーン像。高さ 2.4 2 m 。アゲサンドロス ら 3 人の共作。大理石 ラインノ、ノレト

7. 国民百科事典7

リトマス 4 7 5 歴代 E 朝が長い経験をつんで形成し , リート L i ed 中高ドイツ語で , 低平な . 丘陵と平野からなリ , ネマン 歌われる詩の「節」を表わす liet が 隋唐両帝国に至って完成したもので 川が中央平地を流れてバルト海に注 あったから , その模倣にさいして少 日ロ冫原。 = 五ひろくは歌 , 歌謡をさすが , ぐ。氷河の作用による堆石堤 , 砂地 , なからぬ修正を加えたとしても , 経 ふつうはドイツの歌曲をいう。つま 湖 , 湿地が広い面積を占める。人口 験も乏しくまた中国よりはるかに生 り叙情詩を歌詞とした声楽曲で , の 8 ( ) % はバルト語派に属するリトア 産性の低かった日本の社会に応用す の意味では , 物語的な / バラードに ニア人 , 次いでポーランド人 ( 9 % ) , 対応する。しかし狭義には , 主とし ることは困難であった。したがって ロシア人 ( 9 % ) などである。重工業 中央政府の熱意にもかかわらす , 律 てピアノ ( オーケストラの場合もあ の発展速度ははやく , 工作機械 , 電 る ) を伴奏楽器とする 19 世紀以降の 令制が財政上の諸制度を通して社会 気機械 , 農業機械などの生産がある。 ドイツ歌曲をさす。ラテン語に代わ の経済構造にまで浸透したのは短い 金属 , タービン ( カウナス ) , 精密電 って , ドイツ語を歌詞とする歌は , 期間にすぎなかった。班田収授法が 気機械 ( ビリニュス ) , 綿織物 , 造船 12 世紀ころから始まるが , 中世の吟 ( クライベタつ , 皮革 ( シャウリャイ ) 規定どおりに実施されたのは 8 世紀 遊詩人ミンネゼンガーの作った単声 いつばいにすぎす , 調庸の相 . 悪化と などは著名。国上の 65 % は農地 , 16 の歌や , そのあとをうけたマイスタ 滞納とは 9 世紀以後はなはだしくな % は森林で , 麦類のはか , アマとサ ージンガーの歌も , リートの源流に E 地制度に関して律令制に対 トウダイコンの栽培が多い。畜産で った 数えることができる。さらにルネサ 立するのは荘園制であるが , 初期荘 は , 昔から馬の産地として有名であ ンス期には , 多声リートが , フラン 園は墾田永世私有法を法的根拠とし ったが , いまでは乳牛 , 肉牛と豚の スのシャンソン , イタリアや英国の 飼育が盛んである。リトアニアが歴 て 8 世紀後半から激増した。郷戸や 房戸として政府に掌握されていた班 マドリガルとともにドイツで栄えた。 史に登場するのは 10 世紀末で , 当時 17 , 18 世紀には , 独唱あるいは合唱 は多くの小公国が分立していた 田農民が , この初期荘園に吸収され に , 和声的な , いわゆる数字っき低 世紀には北からリポニア騎士団 , 南 ていった過程は , まさに律令制の崩 音 ( コンチヌオまたはゲネラルノヾス ) からドイツ騎士団の侵入をうけた。 壊過程でもあった。社会の基礎構造 の伴奏を伴うゲネラルバス・リ 13 世紀前半リトアニア公国が形成さ と遊離している行政機構だけが比較 が盛んであった。 18 世紀後半の古典 れ , 15 世紀には黄金時代を迎えた。 的に生きながらえ , 9 世紀にはしば 派時代に作られたリートは , 民謡的 , 18 世紀末以後ロシアの行政県に編入 しば機構改革が行なわれて見かけの 歌謡的で単純素朴なものであったが , されたが , 1918 年にいたり不安定な 上の安定が続いたが , それも摂政関 白が常置されて律令制の代表者であ がら独立国となった。 4() 年 6 月ソ連 、イドン , モーツアルト , さらにべ る天皇の実権を代行する 1 ( ) 世紀に至 ーベンにいたって , ようやく狭 軍が進駐し , 8 月 3 日ソ連邦に加入 した。第二次大戦中の 41 ~ 44 年には って変質した。官制の一部分だけが い意味でのリートの世界 ( 芸術リー ドイツ軍の侵入をうけたが , 同年末ふ 名目的な朝廷とともに中世 , 近世ま ト ) が開拓されはしめる。次いでシ たたびソ連軍が占領した。〔渡辺一〕 で生きのびたのである。 ューベルトの登場により , ドイツ・ 要するに律令制は日本古代社会が りとくぜん李徳全 ( リー ロマン派歌曲の誕生をみるが , この 必然的に生みだした支配体制ではな ュワン ) 1896 ~ 中華人民共和 流れはシューマン , プラームス , ウ い。大化前代以来支配層を形成して 国の社会事業家 , 政治家。牧師の家 オノレフ , R. シュトラウスに受け継カヾ いた天皇と朝廷豪族とが , 7 世紀の に生まれ , 協和女子大学卒。 29 歳の れ , 1910 年代からはシェーンベルク 東アジアならびにその一部としての とき馮王祥と結婚 , 日華事変中は重 やヒンデミットらの現代のドイツ・ 日本に起こった政治的 , 社会的変動 慶で婦女慰労総会および中ソ文化協 李徳全 ( 補 ) 1958 年中 リートへと移行した ートは , ふ 国共産党に入党 , 65 年 に対応して , 中国から採用した「一 会婦女委員会を指導した。第二次大 つう同し旋律で詩の各節をくりかえ 衛生部長 , 中国紅十字 君万民」の理念に基づく統治技術で して歌う「有節歌曲」と , 詩の各節 戦後 1949 年・に中華全国民主婦女連合 会会長をやめ , 中国人 ある。しかしその実現は日本古代国 会副主席 , 衛生部長 , 中国紅十字会 の内容の変化に応して旋律までが変 民政治協商会議全国委 家の全構造を規定し , その後の社 会長となり , 中国の婦人運動 , 児童 わり , 初めから終わりまで歌いとお 員会副主席となる。他 的変動の過程に深刻な影響を及ばし 保護運動 , 産制運動を指導してきた。 す「通作歌曲」に分けられるが , に中華全国婦女連合会 たということができる。 〔青木〕 国際会議にもたびたび出席し 54 , 57 般に前者は単純で歌謡的 , 民謡的な ( 旧中華全国民 i;. 婦女・ りつりんこうえん栗林公園香 年に来日した 連合会 ) 副主席を兼ね 性格 , 後者はより複雑な性格をもっ 〔吉永〕 ている。 川県高松市栗林町にある紫雲山山ろ ている。なお , 教会リートというの リトマス li tmus リトマスゴケ はドイツ語の歌詞により歌われる宗 くの名園。総面積 75000m2 で , 旧藩 などの地衣類から得られる紫色の色 主松平氏の別邸を 1875 年県立公園と 〔海老沢〕 素。酸 ( 水素イオン指数 p H 4.5 以下 ) 教歌をさす。 して一般に公開し , 97 年に大改修し により赤色 , アルカリ ( pH 8.3 以上 ) リード Herbert Read 1893 ~ た。純洋式の北庭と , 林泉の美しい 英国の詩人 , 評論家。リーズ大学に で青色に変色するので , 酸 , アルカ 純日本式の南庭とに分かれ , 園内に リの指示薬 , 酸性気体の検出に用い 在学中 , 第一次大戦に従軍。帰還後 動物園 , 美術館 , 商工奨励館などが る。リトマス水溶液をろ紙に浸して エジンバラ大学などで美術を講した ある。高松駅からバス 8 分 , 国鉄高 この間く裸の勇士たち〉などの詩集 , 乾燥したリトマス試験紙 , セッコウ 徳線栗林駅の西 7()0m 。 く詩とアナーキズム > などの評論集 , 〔伊崎〕 自伝く純な目〉のほかく芸術の意味〉 リディア Lyd ia 小アジア西部 の古代王国。首都はサルディス。僭芫 などの芸術論で芸術創造の原理 , 機 主ギゲス ( 前 7 世紀半ば ) の時代に勢 能の解明につとめた。寓話く緑の子 > , 力をふるい最初の鋳貨もこのころ作 戯曲く女の議会 > などもある。第二 られた。アリアッテス王がメディア 次大戦後はハーバード大学教授など 王と戦ったさい , ターレスの予言し 歴任。 1965 年来日。 た日食 ( 前 585 年 5 月 28 日 ) が起こっ リトアニア〔共和国〕 L ith u a n i a たのは名高い。クロイソス ( 在位前 リトノヾ L i etu va ともいう。ソ連 , ヨ 560 ~ 前 546 ) は小アジア西半の支配 ーロッノヾ・ロシア北西部の共和国。 者となり , ギリシア文化愛好者であ 面積 65 ( ) 0 ( ) krn2 , 人凵 290 ( ) ( ) ( ) ( ) ( 1 ・ 964 ) 。 ったが , ベルシアのキルス大王と戦 主都ビリニュス。国土はロシア平原 って滅ーよされ , リディアはベルシア の西部にあり , 北西部はバルト海に の一州となった。 面し , 南西部はポーランドに接する。 〔板倉〕 12 李徳全 栗林公園これは旧態 がよく保たれている南 庭の一部で , 池は南 , 橋は偃月 ( えんげつ ) 橋 , 遠景の建物は拘月 ( き くげつ ) 亭であり , 背 後の森は紫雲山

8. 国民百科事典7

リツリョウ りつりようきやくしき律令格式 中国の唐代に完成され , 日本 , 朝鮮 などでひろく行なわれた法体系。律 はおもに刑罰法規 , 令は非刑罰的 , 行政法的規定で , この両者を柱とし , これに随時臨時に改廃 , 修正 , 補充 を加えるものが格 ( または勅 ) で , 式 はそれらの施行細則である。中国の 法典編集は前 4 ~ 前 3 世紀にさかの は、るとされ , 春秋戦国時代から秦漢 にかけて , 国家権力による刑罰法規 を中心に組織化された。しかし初め は律と令はかならすしも明確な区別 はなかったが , 以後歴代の法典編集 をへて , 隋唐時代に律令格式の性格 が確定し , 4 者が組み合わせられて ーっの法体系となるにいたった。隋 では開皇 , 大業の律令があり , 唐で は律はほほ 7 回 , 令は十数回改訂さ れているが , とくに開元 25 年 ( 737 ) の律令は決定版として , のちの中国 法体系の基本となった。唐以前の律 令はすべて散逸しており , 唐の律令 も多く散逸しているが , 仁井田陞ら の研究でかなり復原されている。唐 以後も , 社会発展 , 行政財務の複雑 化に応して時々に詔勅が下され , そ れをまとめて編勅 , 条制 , 条格などと よぶ法典が作られたが , 中心的骨格 はやはり唐律令で , 明代にいたって 膨大な明律が編せられ , 清代に受け 継がれ清末にいたった。朝鮓でも 10 世紀の高麗で唐律令が受け入れられ , 次いで元明律も採用され , 李朝では 明律を中心とする法典か行なわれた。 また , 安南 ( ベトナム ) においても唐 律令 , 明律の影響の濃い法典が行な われた。 〔菊池〕 〔日本〕日本が中国の中央集権制と その基本法典である律令に注目した のは , 7 世紀初めに大和 : ま国家の体 制的危機が自覚されたときであった。 聖徳太子によって派遣された留学生 は , 帰国後の大化改新に政策立案者 となり , 諸制度に中国の律令法の要 点をとり入れた。天智天皇のとき藤 原鎌足らが初めて近江令を編集し たというが , その内容は不明である。 本格的な律令編集は壬申の乱によ って体制を一新した天武天皇治世に はしまり , 689 年浄御原艷み令が試み に実施され , 701 年 / 大宝律令が完 成し実施された。 718 年編集 , 757 年 実施の / 養老律令は大宝律令の部分 的修正にすぎない。 8 世紀末の桓武 天皇のときにも律令改正の動きはあ ったが , 9 世紀以後の法典編集は格 式に重点を移した。大宝以後必要に 応して発せられた格式の集成は , 弘 仁格式 , 貞観格式 , 延喜格式と 10 世 紀初めにかけて 3 度大規模に行なわ れ , それぞれ類聚三代格および / 延 喜式にまとめられて , その後の規範 となったが , 他にも交替式 , 儀式な どが国司交代や宮中儀式のために集 成されている。 〔青木〕 4 7 4 りつりようせい律令制律令に 基づく諸制度を統治手段とする支配 体制。日本ではふつう 7 世紀後半 ~ 10 世紀前半ごろまでが律令制の時代 とよばれる。日本の律令による諸制 度はほば次のとおりである。 〔行政機構〕中央政府は神祇い , 太 政うの 2 官に分かれ , 太政官は一 般行政を中務さ , 式部 , 治部 , 民部 , 兵部 5 、気刑部 , 大蔵 , 宮内の八省 に分担させる。別に弾正台が全官人 を監察し , 衛門 , 左右衛士 , 左右兵 衛の五衛府も天皇に直属して軍事や 警察を担当する。地方行政区画は左 右京職物 , 摂津職 , 大宰府など特別 区のはかは国 , 郡 , 里の 3 段階に分 かれ , 中央政府の官人のなかから交 代で派遣される国司が , 在地の有力 者である郡司 , 里長を従えて民政に あたる。中央と地方とは , 畿内から 放射状にのびて全国の国衙えくをつな ぐ幹線道路の各駅におかれた駅馬 , 郡衙におかれた伝馬によってつねに 連絡され , 命令や報告は原則として 公文書の授受によって行なう。また 中央 , 地方の諸官衙は , 長官気次官 判官 , 主典えかのいわゆる四等官と 以下多数の官人とによって整然と構 成され , 命令系統や権限も確定され ている。叙位や任官は官位相当制に 基づき , 一定年限を勤めて大過なけ れば位階が昇進し , 位階に相当する 官職に転任する。俸禄の布 , 鍬瓦田 地 , 封戸きなども位階や官職を基準 として支給する。司法権は独立して いない。行政機関である諸官衙が裁 判所を兼ねている。裁判はいちおう 証拠主義 , 罪刑法定主義により , 判 決には適用された律の条文を引用せ ねばならない。上訴の制度もある。 刑罰には笞ち , 杖 , 徒ず , 流る , 死の 五刑が 20 等級に分かれている。母法 である唐律に比べると日本律の量刑 はやや軽いが , やはり儒教の影響を 受け , 国家社会の秩序を乱す罪は「八 虐」とよんでとくに重い。 〔社会組織〕天皇以外の全国民は良 民と賤芫民 ( 奴婢 ) とに 2 分され , 良 民のなかから人徳やオ能のあるもの が登用されて官人となり , 天皇の行 政を助けるのがたてまえである。全 官人は位階によって序列づけられて いるが , その五位以上と六位以下と では , 本人の待遇 , 子孫の登用ほか 多方面にわたって大きな差別があり , 三位以上はさらに著しい特権をもつ。 三位以上は公卿 , 四位 , 五位は大 夫芟いと通称され , 公卿や大夫の子孫 は父祖の地位を継ぎやすい制度にな っていたから , 彼らは貴族とよぶこ とができる。かっての氏姓に対して 律令制は特権を与えていないか , / 氏姓制度時代の豪族が律令制下の 公卿 , 大夫の家柄になっているので ある。全国民は 50 戸すつの里に編成 され , 戸籍に登録される。奈良の正 倉院に伝わる 8 世紀の戸籍によれば , この戸は郷戸といい , 平均 2 5 人前後 の大家族である。里が郷と改名され , 郷が 2 ~ 3 の新たな里に分割された さいには , 郷戸も 2 ~ 3 の単純な構 成の小家族に分割されて戸籍に登録 されたが , この / ト家族は房戸という。 郷戸と房戸のいすれが当時の家族の 実態に近いかという問題では , 議論 カ { 分かれている。 〔財政制度〕律令財政の基礎は土地 と人民の国有制度にある。全国民は / 班田収授法によって 1 人当り一定 額のロ分田名の耕作を保障されて いる代わりに , / 租庸調をはしめと する現物および / 賦役による重い租 税を納めなくてはならない。それら のうち租稲は各国郡の正倉に蓄積さ れ , 国司が毎年これを出挙 ! いして利 稲を地方財政にあて , 一部分を米に ついて中央に送って官人の食料や給 与にする。地方財政の財源としてさ らに重要なのは毎年 60 日におよぶ賦 役労働の雑徭である。雑徭は道路 , 堤防 , 官舎などの修理新設のはかに 国衙の雑役にも充当される。中央財 政の財源は主として調庸である。全 国から農民の肩にになわれて中央に 集積された調庸は , 官人の衣料 , 食 料 , 給与に当てられるはかに , 政府 の企画した宮殿 , 都市 , 寺院の建設 などの大土木事業に徴発した農民た ちの給与にも使用される。いちおう 賃金として支払われるからこれは雇 役とよばれるが , 雇役も賦役の一種 である。賦役にはさらに仕丁と兵役 がある。仕丁は全国から 50 戸につき 2 人すっ徴発され , 諸官庁の雑役に 駆使される。兵士は成年男子 3 ~ 4 人につき 1 人の率で各地の軍団に勤 務し , なかから選抜された衛士は上 京して衛府に , 防人は大宰府に下 って勤務する。雇役以外のすべての 賦役にさいしての衣料や食料も農民 の自弁である。 〔実施過程〕上述した諸制度が完成 し , はは、実現されたのは 8 世紀前半 であり , その前後は成立と崩壊の両 過程に属する。律令制は中央集権を 前提とする。すでに大和国家の時 代の末期から , 権力を朝廷に集中し 全国に統一的な支配体制をしこうと する動きはあったが , 7 世紀半ばの / 大化改新で朝廷内部の対立が解消 するまでは徹底が不可能であった。 しかし改新後も , 朝廷内部では旧来 の諸豪族の勢力が依然として大きか ったから , 朝廷に集中した権力をさ らに天皇一人に集中することは不可 能であった。天皇一人への集中が可 能になったのは , 壬申の乱後の天 武朝においてである。天武朝で編集 されはしめた律令は持統朝で試みに 実施され , 8 世紀初めに / 大宝律令 として完成施行された。 しかし , もともと律令制は中国の

9. 国民百科事典7

リュウカプ 4 8 1 がよく国家を治めれば風雨を順調に のころ造られたらしい。枯山水完こ し , 魚産を豊かに恵むと信しられて 式の庭園で「虎自の子渡しの庭」とよ いた。竜の神話は , 一般にヘビを水 ばれ , 白砂の上に 15 の石が 5 ヵ所に をつかさどる神の姿として祭ること 配置され , 石は島 , 白砂は海 , 箒目警め は波 , スギゴケは松を表わし , 草木 から発生したとされ , さまざまな説 を排したきびしい作庭のうちに , 強 話が生まれたが , 諸族の神々が整理 い象徴的魅力を蔵している。相阿弥 され系譜だてられると , 東方 ( 春 ) の 作と伝えるが , 年代 , 作者とも確証 神の像とされ , また竜星の説話と結 合し , 竜星が東方に現われる ( 陰暦 はない。 / ( 別刷 ) 庭園〔木山〕 4 月 ) と , 雨ごい祭を行なってから りゅうがく留学ふつうには学 農繁期にはいる風習ができた。華南 生または学者 , 研究者が学習または 地方や東南アジアで , 川の神を祭る 研究の目的で長期にわたって外国に ため竜頭の舟を浮かべる習俗などは 滞留することをいうが , 今日では内 地留学ということばも使われている。 これに関連があると思われる。これ とは別に , 中国の童は雷やたつまき もつ無色の有毒気体。火山の硫気孔 日本では古くは遣隋使小野妹子に 4 の現象とも結びつけられた。中国の ガス , 温泉などに含まれ , またイオ 人の留学生と 4 人の留学僧が同行し 竜神信仰および説話は日本にもたら て以来 , 中国への留学生派遣が続け ウを含むタンパク質の腐敗によって られた歴史があり , 幕末には幕府や され , 竜は祥端まうのしるしとされ , も生しる。ふつうは , 硫化鉄に希酸 諸藩が欧米諸国に留学生を派遣した を作用させて作る。融点ー 82.9 ℃ , また海神 , 水神として神聖視された。 海神としての童神信仰は海人の集 例がある。明治になってからは欧米 沸点ー 60.4 ℃ , 液化しやすい。空気 団に伝承され , 一方 , 水神としての 中で点火すると青白い炎をあげて燃 学術の急速な移植を目ざして多数の 竜神は農耕儀礼に結びつき , 雲や雨 留学生を国費をもって欧米に派遣し える。還元性で , そのさいイオウを 水をつかさどる神として信仰される 遊離する。水溶液は弱酸性を呈する。 てきた。太平洋戦争の開始以来日本 硫化水素を重金属塩の溶液に通する 〔赤塚〕 人の海外留学はとだえていたが , 戦 に至った と水に難溶の各金属特有の色をもつ 〔西洋〕古代オリエントでは竜は悪 後は 1949 年から米軍の占領地救済資 金 ( ガリオア資金 ) による米国向け留 沈殿 ( / 硫化物 ) を生するので分析試 の象徴であった。この性格はそのま まユダヤ神話にも継承され , く新約 学生の派遣が開始され , 52 年からは 薬に用いる。酢酸鉛紙を黒変 ( 硫化 鉛を生しる ) することと特異臭によ 聖書 > にもヘビまたは竜は死と罪悪 これに代わって , 米国の在外資産の 〔落合〕 処分益金を文化交流にあてることを って検出される。 の根源として扱われた。西洋の竜は りゆうかどう竜河洞高知県香 定めたフルプライト法による留学生 ドラゴン d ra g on と一般によばれてお 美郡土佐山田町にある大鐘乳洞で , が募集されるようになり , 今日に及 り , これはギリシア語の drakon から 天然記念物。石灰岩からなる三宝山 きている。ギリシアにおいては童は んでいる。その後米国以外の諸国の の中腹にあって , 全長約 1.5 , 広 悪というよりは恐怖の対象となり ( ゴ 政府および財団からの , 先方の留学 ルゴン , ヒドラ , キマイラなど ) , と いところで面積 180 m2, 高さ 30 m に 費負担による日本人留学生招致の申 及び , 多数の石柱 , 石筍ド , 滝があ きには地中から鋭い目をもって財宝 入れがしだいに多くなり , 現在それ をみつけ出し , それを守る役割を果 って奇観を呈している。西本洞は弥 ら先方の費用負担によって日本人が この意味で童は相手を 生ごよ式文化の穴居生活の遺跡で , 洞 留学している国は 20 カ国に及んでい たしていた 恐れさせるために , 軍旗やたて ( 盾 ) る。また日本政府が国費を支給する 中から土器 , 骨片 , 貝殼などが出た の文様に使われた。アがメムノンの 留学生の制度も 50 年度から再開され , 神代窟には水を受けるために立てか たて , 東ローマ帝国の帝旗 , 英国の戦 現在は文部省所管の在外研究員費と けられたまま , 鐘挈しに埋もれた長頸 壺 3 がある。国鉄土讃線土佐山田 旗などがそれで , ノルマン人の戦艦 総理府所管のそれによってまかなわ のヘさきには竜の頭が彫刻されてい 駅からノヾス 30 分。 〔伊崎〕 れている。一方い日本の費用負担に りゅうかぶつ硫化物イオウと よって外国人を日本に留学させる制 た。しかし一般には欧州では悪とし ての性格のほうが強く , 聖アウグス これより陽性の元素との化合物で , 度は 54 年度から始められ , はしめの チヌスによれば悪魔はライオンと童 水素 , リン , 窒素 , 炭素などの硫化物 うちは主として東南アジア諸国およ の姿をとるという。聖ミカエル , 聖 もあるがふつうは金属とイオウとの び中南米諸国に限られていたが , 今 化合物をいう。天然には方鉛鉱 Pb S , ジョージなどの竜退治の伝説は中世 日では中近東諸国 , オセアニア州諸 キリスト教社会ではもっともよく知 セン亜鉛鉱 ZnS , 輝銀鉱 AgS , 輝安 国および欧米諸国からも招致される ようになっており , これらの在日留 鉱 S b 2 S 3 , シン砂 Hg S , 輝銅鉱 C u2 S , られたものの一つである。北欧の竜 はやはり悪の代表者で , それを殺す 学生のための留学生会館も国費をも 黄鉄鉱 F e S 2 , 黄銅鉱 CuFe S 2 , ペ って建設されている。また沖縄から ントランド鉱 ( Ni , Fe ) S , 磁硫鉄鉱 ことは騎士としてのもっともはなば も国費による留学生が毎年数百名す なしい業績とされていた。ジークフ つ受け入れられている。 ベオウルフ , アーサー王伝 説などは有名である。これらに現わ りゅうがさき竜ガ崎〔市〕茨城 県南部 , 常陸台地と利根川沖積 れる竜は概して巨大なヘビの形をし ているが , ジークフリ トの竜は足 低地にまたがる市。常磐線佐貫きか があり , アーサー王の童は翼があっ ら関東鉄道が通しる。 1954 年市制。 て空を飛んだという。 人口 34917 ( 1965 ) 。市街は古くから竜 〔佐藤〕 りゅうあんじ竜安寺京都市右 が崎もめん , 米穀の集散地として発 京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。 達し , 第二次大戦以後精密機械 , 食 「りようあんし」ともいう。創建年代 品工業が起こった。また国電常磐線 には諸説があるが , / 細川勝元が , による通勤者が増加し , 東京の衛星 徳大寺家から譲り受けた山荘に寺院 都市的色彩も強まっている。 を建てたのが最初らしい。応仁の乱 〔尾留川〕 で焼け , 勝元の子政元により 1499 年 りゅうかすいそ硫化水素分子 再建され , 有名な方丈前の石庭はそ 式 H2S 腐敗した卵のような臭気を 竜安寺境内を南上空よ りのぞむ。中央方丈前 に有名な石庭がみえる 危河洞鐘乳石の奇観 す を 3

10. 国民百科事典7

がすべて結実するのではなくて , あ るものは未熟のうちに落ちたリ , お そく咲いたものは成熟することがで きない。開絮期間は 9 月上旬 ~ 11 月 上旬ごろまで続く。このように , 開 絮期間がしばらく続くから綿の摘み とりも数回に分けて行なわれる。 うしたわけで機械化が困難であった ので , 米国南部では黒人奴隷の手を 多く必要とした。しかし今ではコッ トンピッカができ , ひろくとリ入れ られている ( / 農業機械 ) 。摘みとっ た綿はよく天日で乾燥し , くリ綿 ( 実 綿から種子を除くことをくリ綿する といい , とれた綿毛をくリ綿という ) するまで保存する。くリ綿機械には 簡単な手動式から動力式のものまで 各種ある。このくリ綿を精製して中 入れ綿を作ったり , また紡績工場で糸 を作る原料にする。 / 紡績〔武田〕 綿花の生産と需給 綿が大衆の衣服原料として日常生 活の必需品になったのは , 英国で産 業革命の進展に伴い , 紡績機械が発 明されて綿製品が大量生産されるよ うになってからである。綿花の大規 模な国際取引はこのときから始まり , 英国の綿花輸入量は 19 世紀初めの 1 ( ) 万俵 ( 1 俵は米綿約 23 ( ) kg , インド綿 約 180 kg ) から半ばごろには 200 万俵 を越えた。 この需要をまかなったの が , 米国南部における綿作地帯で , その生産量は同じ期間に 30() 万俵に 達し , 世界の生産量の % を占めてい た。しかし南北戦争で南部の綿作地 帯は破壊され , 英国はこれに代わる 綿作地を求め , 古い綿産国のインド で増産をはかり , エジプトでは優秀 な長繊維種を作ることに成功した。 米国の綿作は 1880 年以後に立ち直り , 1929 年にいたるまでその豊凶は世界 の綿花相場を左右した。英国 , ドイ ッ , フランス , 米国内の新興紡績業 は品質と数量に制約のない米綿に依 存したからである。 1929 年の世界恐 慌は綿花にも大打撃を与えた。米国 大統領 Fr. ルーズベルトは , 価格支 持と作付制限を組み合わせた政策に よりこの危機を乗り切ろうとした。 1910 ~ 14 年基準のパリティ価格を算 出して支持率 ( 初め 80 % ) を決め , 商 品金融会社 ( C C C ) が現物担保に融 資するか買い取るかするしくみであ る。これにより 35 年には 90 % の耕地 が減反契約を結び、 550 万俵の減産 が行なわれて綿花市況は好転に向か った。しかし , 事態を救ったのはな んといっても第二次大戦であり , C C C の機能は一転して増産のための 農産物買上機関と化した。戦後の綿 花市場を特徴づけるものは米国の C C C のストックと , 独立した後進国 綿業の自立化 , アフリカ綿花輸出国 の誕生 , およびソ連 , 中国大陸など 共産圏綿業の膨張 , それに強敵化繊 の登場である。中国 , 東欧の共産圏 6 6 5 への包含は綿花の国際流通方式を変 えたばかりでなく , 拡大した共産圏 では綿花は増産の一途をたどった。 米綿種のソ連産綿は 57 年に 7 ( ) ( ) 万俵 ( 単命前 2 ( ) ( ) 万俵 ) を越え , 中国産綿 は 59 年に 87 ( ) 万俵 ( 戦前 3 ( ) ( ) 万俵 ) を記 録し , 米綿に対抗する力を備えた。 米国の過剰在庫が本格化したのは朝 鮮戦争後の 1954 年ごろからである。 世界景気の後退にもかかわらす支持 価格が 9 ( ) % に据え置かれ , 増産され 続けたからである。このためヒ。ーク 時の 56 年には 1 年 3 カ月分の在庫が あり , 国内相場は海外相場から完全 に遊離してしまった。米国政府は過 剰農産物処理法と MSA ( 相互安全保 障法 ) その他いろいろな措置で輸出 促進を図ったが , 生産抑制には大し て役だたなかった反面 , メキシコな ど他の輸出国を圧迫するだけに終わ った。一方 , インドをはしめノヾキス タン , エジプト , トルコ , アルゼン チンなどが綿製品の国内自給体制を 確立した。これらの国は , おおむね 国内紡績保護本位の輸出体制 ( 輸出 税とか輸出割当 ) をとっている。日 本の紡績業は日清戦争までは原料を 中国から輸入したが , 品質組剛のた めインド綿に代え , 製造綿糸が細番 手化するにつれて米綿使用が増して いき , 劣質で割高な内地綿花は自滅 した。第二次大戦まではインド綿 , 米綿 , 中国綿の順は変わらなかった。 戦後における綿花輸入の推移は第 1 表のとおりであるが , 米国 , メキシ コ , 工ルサルノヾドル , インド , ノヾキス ニカラグア , グアテマラなど タン , からの輸入が上位を占めている。現 在の世界綿花の生産 , 需給の状態は , 在庫については , 米国では 1957 年を 頂点として半減し , 米国以外では変 わらない。生産は過剰生産に悩んだ 米国では一時減産したが , 59 年あた りから旧に復し , 他では急増してい る。米国 , メキシコ , 中国 , ソ連 , インドなどが主要生産地で , 世界生 産額の多くを占めている ( 第 2 表 ) 。 消費は米国 , 中国 , ソ連などの綿業 国でも増加している。戦後 , 袞退化 をいわれた綿花はなお繊維原料とし もめん繊維のうちでも比較的短く太 いものが用いられ , 商品は品質によ って白綿 , 赤綿などの区分がある。 その原料としてはインド綿などが主 であるが , 紡績工場の各種の落綿も 混用される。開綿機 , スカッチャ ( 荒 切機 ) , カード ( 梳そ綿機 ) などにかけ て薄い膜状の綿とする。弾力があっ て色が白く光沢があり , 不純物の含 まれていないもので , 繊維の長いも のほど品質がよい。ひろく一般に / ふとん , 座ぶとん , きもの類の中 入れ綿などに適する。ときどき日光 にあてて乾燥することが好ましく , 湿気を除き , 厚さや保温力を回復さ せる。また使用して堅くなったもの は打直しによって含気性や圧縮性を 回復させる。よく乾燥して専門家に まかすが , ふつう 5 ~ 10% の目減り がある。 2 ) 絹綿繭の表面の毛羽 を主原料として作ったもので , もめ ん綿以前から使用されていた。また くす繭を綿状にのばしひろげたのを / 真綿という。絹綿の特徴は , 繊維 がやや長く , 強くて容積が大で保温 性にすぐれているが , 色は純白では ない。軽いのでふとん綿として , と くに掛とん用に適する。またきも のの中入れ綿としてもすぐれている。 3 ) カボック綿 ( パンヤ綿 ) / カボッ クは熱帯性植物の種子毛で , 繊維は 短いが軽くて容積が大である。繊維 のからみ合いが少なく , 固まりやす い性質があるが , 日にかわかすとよ くふくらむので打直しの必要がない。 ふとんの中入れ綿とするより , まく らやクッションなどの充てん材料と して適している。 4 ) 化繊綿 , 合繊 綿化繊綿は巻縮スフをもめん綿に 混用させたもので , 弾力に乏しく重 い。合繊綿は最近出回りだしたもの で , / 合成繊維を強く巻縮したもの であり , 化繊綿とよばれることもあ る。合成繊維の種類によって , ナイ ロン綿 , アクリル綿 , アセテート綿 , 塩化ビニル綿などがあり , 各種の商 標で市販されている。一般に強く弾 性があり , 軽くて容積がきわめて大 である。したがってふとんの中入れ 綿の場合では , もめん綿より重量は 30 —4()% 少なくてもよい。湿気を吸 いとる性質には乏しいが , 水にぬれ て固まることがなく , 必要によって はでき上がりの形のまま丸洗いする こともできる。打直しの必要ははと んどない。用途としては圧縮性が大 きすぎるので , 敷ぶとん用としては 適当とはいえぬが , 軽く保温性に富 むので掛ぶとんには好適である。た だし塩化ビニル綿は 70 ℃以上の熱で は軟化する傾向があるので , こたっ 掛ぶとんとしては注意を要する。ま た軽く洗たくができるため , 防寒用 のガウンやジャンノヾーなどの中入れ 綿とし , キルチングによってとめ付 ワタ 第 1 表日本の綿花 輸入状況 年度 1955 i956 1957 1958 1959 196 ( ) 1961 1962 1963 1964 注 数量 トン 494439 678638 661933 574782 661487 753135 795764 6 ( ) 2218 7 ( ) 7298 691778 金額 千ドル 383225 48 ( ) 389 448 ( ) 31 36 ( ) 89 ( ) 355312 4314 ( ) 2 511234 376663 434311 43199 ( ) く通商白書〉 ( 1965 ) による て需要されている。 ふとん綿 〔富山〕 商品として綿という場合は繊維の 集合体を主として充てん材料として 用いる場合にいう語である。しかし 特別の用途のものに / 脱脂綿がある。 綿花によるもめん綿がもっとも多く 用いられるが , 絹わた , カボック , 羊毛なども使われ , 近来は化繊綿 , 合繊綿も出回っている。そのはか綿 と同し用途のものに羽毛があり , ま た最近は / フォームラ / ヾーをはしめ ビニノレフォーム , ウレタンフォーム などの徹粒気はう体がある。 〔種類〕おもな綿の種類とその性状 , 用途は次のようである。 1 ) もめん綿 第 2 表主要国のく り綿生産高 年度 国別 アラブ連合 メキシコ 米国 フ・ラジノレ 中国 パキスタン トノレコ 1959 457 370 3170 466 2410 625 295 195 1603 1963 442 465 3337 652 977 421 246 1735 けて用いられる。 〔小川〕 注国連統計い 964 ) による