平安時代 - みる会図書館


検索対象: 国民百科事典7
454件見つかりました。

1. 国民百科事典7

く片輪車蒔絵螺鈿手箱〉 に世紀 東京 東京国立博物館 平安時代後期において優しい美しさに純日本的な趣を発揮した蒔絵は , と くに責族たちの好みにあい寝殿造りの室内を飾る調度類あるいは経箱など の法具に応用された。東京国立博物館のく片輪車蒔絵螺鈿手箱〉や金剛峰 寺のく沢千島蒔絵小唐櫃〉はもっとも代表的な遺品である。それらは螺錮 の手法も加わって優婉 ( ゆうえん ) な装飾効果をあけている。 このきわめて 貴族的な芸術として発達した蒔絵は , 鎌倉時代にはいっても引き続き京都 でつくられ , 前代の様式がそのままうけつがれたが , 伝統的な表現の上に時 代の風潮を反映しての一種の力強さがあらわれており , 鎌倉初期の鸛岡八 嗜宮のく籬菊蒔絵螺錮硯箱 > の張りのある器形 , 金一色の手法などにはその 特色がみられる。室町時代をすぎて桃山時代になると幸阿弥家の人たちに よっていわゆる高台寺蒔絵なる清新な様式が打ちたてられ , 一種のゆきづ まりをきたしていた蒔絵界に新風を吹き込んた。高台寺蒔絵の出所となっ た京都高台寺には豊臣秀吉とその夫人高台院所用と伝える調度類がかなり あり , 薬味箱はその一つ。江戸初期は東京国立博物館のく葡萄栗鼠蒔絵食 籠 > のようにさらに洗練された蒔絵か現われたが , 元以後は類型イヒした

2. 国民百科事典7

例がない。日本で特筆すべきことは 製紙法の改良によって , コウゾ , ツマタなどですいたすぐれた紙の本 が生まれたことである。また 8 世紀 になると現存するものでは世界最古 の印刷物であるく百万塔陀羅尼 > が 発行されたが , その後は長く跡を絶 って , 平安時代にはいると経文や文 学作品を上質の和紙の上に美しい筆 づかいで書き写すようになった。藤 原秀衡や平清盛などの美しい写経 , 平安末期からの絵巻物などは , 欧屮日 中世のさし絵本と並んで日本の本の 芸術といえる。書物の形態は , 奈良 時代まではもつはら巻子本であった が , 平安時代初期から , このほ力、に 横に長くつないだ紙を折りたたんで 作った としのない折り本 , 折り本 の前後の表紙を連続させた旋風葉 , 紙を 1 葉すつ中央から縦に二つ折り して折り目を表紙にのリ付けした粘 葉もまたは胡蝶装などの冊子ジ 本が行なわれるようになった。平安 時代の末から鎌倉時代になると , 中 国の影響で木版印刷がひろく行なわ れるようになり , おもに仏教関係の 書籍が寺院から刊行された。また慶 長 ( 1596 ~ 1615 ) 年間には勅命によっ て日本最初の木製活字本が現われ , く古文孝経 > く日本書紀神代巻 > など の , いわゆる慶長勅版本が刊行され た。一方 1590 年には耶蘇 : 会士のワ ーによって , グーテンべノレ クの活版印刷術がもたらされて , 「キ リシタン版」数種が誕生したが , キ リシタン禁止のため後続がなかった。 江戸時代には木版のみが全盛をきわ め , とくに京都 , 大阪 , 江戸の業者 が浮世絵師を使って発行したさし絵 本は , 木版印刷のすぐれた技術をみ せている。江戸時代の末になると , 西洋の活字印刷術がはいってきて洋 学書の印届リも一音るでは行なわれたが 現在の日本の活字印刷の基礎を築い たのは本木昌造の努力による。彼は 幕末の 1852 年に鉛活字を用いてく蘭 和通弁 > を刷り , 明治になって今日 の号数活字の制定など活字印刷の緒 をつけたのである。 和書の種類はさまざまだが , その 料紙の大きさによって , 大本 ( 美濃 紙以上の大きさの料紙半折の形 ) , 美濃本 , 半紙本 , 中本 ( 美濃本半截 ) , 小本 , 豆本などがある。また懐中用 として横としの・小形のものが作られ た。そのはか筆者 , 校正者 , 出版者 の名を冠して「定家本十佐日記」な どの名があり , 編集や校正や出版の 年時によって「元永本古今集」「正 平版論語」など , その装丁や形状や 料紙から「青表紙本」など , その伝来 や所在などから「金沢文庫本」「足 利象本」など , その書写の様式や版 式などから「仮名書論語」「十行本」 などがある。また本のとし方にも独 得の和綴の方法がくふうされ , 大和 : 3 綴 , 四つ目 , 康熙綴 , 亀甲綴、麻 の葉綴 , 唐本などがあった。 〔本の種類〕現在日本の本の形は紙 の規格によって決まる。 1929 年から 紙の寸法は A 判 B 判などの標準規格 が定められている ( / 紙 ) 。一方内容 は千差万別であるが , / 図書館の利 用する / 十進分類法によって一応分 類することができる。ただし用途や 目的によって , たとえば児童書と一 般書 , あるいは単行本と全集本 , 新 本と古本 , 文庫本やシリーズ本など という名称もあるし , 特殊なものと して点字本 , 限定本 , 稀覯 ! う本など もある。本の世界は , その著者であ る人間の世界と同しく深い。 20 世紀 後半 , 第二次大戦後に本は新しい変 容を示しつつある。ーっはマイクロ フィルムやマイクロカーードが考案さ れ , 在来の本のペーージを板度に縮写 できたために , 巨大な蔵書施設を要 しないようになったことで , また つは , 録音テープの発達によって , とばを音で収めうるようになった ことである。本は長い間の紙による 王座を去って , まったく異なった材 質による , 大きな飛躍をとげるかも しれないのである。 〔本を扱う心得〕英国の愛書家プレ イズは本には 10 個の敵がいると指摘 している。それによると , 1 ) 火 , 2 ) 水 , 3 ) ガスと熱 , 4 ) ちりとそまつな 扱い , 5 ) 無知とがんこ , 6 ) シ・ミ , 7 ) そ のはかの害虫 , 8 ) 製本師 , 9 ) 収集家 , 10 ) 中と子どもである。製本師と いうのは西洋では自家製本が多いの で , 略装の紙表紙の本 ( ペーパー ック ) を自分で製本しなおすときに その職人か本をだいなしにしてしま うことをいったものである。また収 集家というのは本を手に入れたくて 盗んだり , 入手した本を隠しこんだ りする人々のことで , この意味では 本を借りて返さない人もやはり本の 敵に数えられるであろう。本を日光 にあてたリ , 火は、ちの上にかざしで はこリを放置し , 湿気の 言冗んだリ 多いところに置いていれば , 本がい たみやすいことはプレイズのいうと おりである。 / 印刷 / 出版 / 製本 〔瀬田〕 ポン B onn 西ドイツ西部 , ノル トライン・ウェストファーレン月ヨ , ライン川左岸の都市。ドイツ連邦共 和国の首都。人口 142986 ( いい 3 ) 。中 心街の南方約 2.5 のライン河岸に 連邦議会議事堂が新築され , そこに いたる間のコプレンツ街には大統領 官邸 ( ビラ・ノ、ンマーシュ 首相官邸 ( シャウムプルク宮 ) などの 政府官庁 , 各国の大使館などがある。 産業としてはアルミニウムなど軽金 属製品 , 製粉 , 文房具などの工場が ある。市内には、参事会聖堂 ( 11 ~ 13 世紀 ) , 大学 ( 1818 建 ) , ポッペルスド ルフの水城 ( 1715 ~ 40 , 現在はポン 大学の自然科学研究所 ) , べ ンの生家 , 1959 年建設のべートーベ ン・ホールなどがある。ポン博物館 にはネアンデルタール人の頭骨が所 蔵され , 旧墓地にはシューマン夫妻 , ーヾンの母 , W. シュレーゲ ルらの墓がある。ポンははしめケノレ ト人の集落であったが , ローマ時代 にはその城さいとなった 1273 ~ 17 94 年までポンは選挙侯であるケルン 大司教の居住地となった。近世以後 , ルイ 14 世の侵略戦争 , スペイン継承 戦争 , ナポレオン戦争などで荒らさ れた。 1949 年この地でドイツ連邦共 和国の憲法が採択され , ポンはその 首都として一躍国際都市となった。 〔生野〕 ポーン Böne アルジェリア東音に , 地中海に面する港市。ポーヌともい う。チュニジアとの国境近くに位置 し , 人口 135150 ( 196 ( ) ) 。住民はフラ ンス人 , イタリア人 , マルタ島人な 洋書の製本は , 本製 , 南京製 , 仮製に大別される。本製 は糸としした中身を仕上断裁して表装した。紙でくるん だもので高い技術を要する。左図はすべて本製で , ホロ ーバックは開きよく読みやすいが開閉の力が背にかかる ので背が離れやすい。タイトバックは形がくすれないが 開きが悪い。フレキシプルバックは本が平らに開くが , 背が曲がるため背文字がくすれやすい。南京製は針金と しで本製と同し体裁の表紙にしたもので ( 右図中央 ) , のはか , がんだれ , たれ皮表紙などがある。仮製は糸と しや針金としの本を表紙と中身とを同時に断裁したもの で , 製本工程が簡単であるため , 教科書や雑誌など安価 で大量に生産される本に用いられることが多い 第、背のつき方 背の形 ホロ ーー / ヾック タイトパック フレキシプルバック 丸背 , 総くるみ , みぞっき 角背 , 継ぎ表紙 , みぞっき 角背つきつけ のりとじ 針金とし ( 平とじ ) 針金とじ ( 中とし

3. 国民百科事典7

「イ いノラを ) = 診を夐を 日支ら 日古 く鳥獣戯画〉 日本漫画は , 奈良時代にはすでに法隆寺金堂天井裏 の落書のようなすぐれたものがあったことが近年の 発見によって明らかにされている。平安時代末期に は鳥羽僧正覚猷 ( かくゆう ) 作と伝えられる有名な 絵巻物く獣戯画 > ( 京都高山寺蔵 ) が描かれ , 図中 随所に擬人化されて躍動するカエル , サル , キツネ , ウサギなどのユーモラスな場面を展開している。鎌 倉末期の作といわれるく絵師草紙〉は藤原信実作と 伝えられるもので , 軽快な筆で貧しい絵師が僥倖 ( ぎ ようこう ) を夢みてついに失敗するコメディーを描 いている。江戸時代にはいると英一蝶がでて元禄時 代らしい軽快な風俗漫画をつくりだした。つづいて 浮世絵派系統から葛飾北斎 , 歌川国芳 , 鍬形蕙斎が あらわれ , それぞれく北斎漫画〉く荷宝蔵 ( にだから ぐら ) 壁のむだ書 > く職人尽絵巻〉など個性的な漫画 作品をつくった。また , 民俗絵画として発達した 大津絵などもユーモラスな漫画の一つに数えられる 。ー久れ 0 : 00 漫画 4

4. 国民百科事典7

ワカ 6 3 9 が , 一方では散文文学の分野で , く源 上憶良や大伴旅人黜 2 , 旅人の子 んで , この後の歌風の基本となる三 で , 繊細な感受性に孤独な悲しみの 氏物語 > く枕草子〉のようなすぐれた作 大歌風が成立するに至った。しかし 情を歌い , く万葉集 > の最後を飾って 品が現われはしめた時代でもあった 新古今風は技巧的にすぎる要素を多 いる大伴家持らがある。これらの そうした時代環境のなかで , 和歌の く含んでいたため , その点に対する 歌人中 , 人麻呂は短歌と同時に長歌 反省がまもなく起こった。定家もそ 発想法のうえにも変化が生したので にもすぐれているが , 長歌形式は彼 ある。この後つづいてく金葉和歌集〉 の晩年に選んだく新勅撰和歌集 > で 以後袞えていった。また旋頭歌はく万 く詞花和歌集 > と歌風が乱れたが , 平 は , 平淡でより実情的な傾向の歌風 安時代末期に藤原俊成がく千載和歌 を示している。和歌はこのころ以後 , 葉集〉のなかでも作者名のわかるも 万葉風の歌をよんだ源実朝を例外 集〉を選ぶに及んで , 調べを整え , のはわすかに 6 首で , その大部分は として沈滞していく。定家の子の為 旧 2 派に分かれていた歌風を統一 民謡風のものであり , く万葉集 > の末 した。彼は古今風を模範として古典 家は定家の晩年の歌風を受け継ぎ , 期ころにはかえりみられなくなって 為家の子の代になって二条 , 冷泉 , 調を復活させるとともに , 幽玄とい いたとみられる。 京極の 3 家に分立してぞれぞれに家 う理念を確立して , 象徴の世界を新 〔平安時代〕平安時代にはいると , しくひらいた。それは中世の和歌の 学を継承したが , 歌風は一般に固定 和歌はしばらく漢詩に圧倒されてふ みならす , ひろく芸術全般の方向を 化の傾向をたどった。そうした間に るわなかったが , 9 ( ) 5 年醍醐をい天皇 あって , 文学的に注目すべき歌集と も指示するものでもあった。俊成と から / 勅選和歌集選進の命がくだり , しては , 鎌倉時代末期に京極為兼が 同時代のすぐれた歌人には西行ぅ 数年して / く古今和歌集〉が選ばれ がいる。彼は出家ーてその生涯の多 選んだく玉葉和歌集 > と , 南北朝時 るに及んでふたたび盛んになった。 代に花園院の監修で選ばれたく風雅 くを旅にすごし , 孤独の境涯のなか 同集の作品は , 1 ) 「よみ人しらす」の に歌をよむという , 新しい詩人の生 和歌集〉とがある。前者はみがきあ 時期 , 2 ) 僧正遍昭ぅ , 在原業平 , げられた感覚性に , 後者は内観的な き方を示した。その歌は強い叙情性 文屋康秀ふんやの撰法師 , 小野小町 やすひで , の底に深い思念を沈めた個性的なも 深さに特色をみせている。さらに室 大伴黒主らの / 「六歌仙」の時期 , 町時代初期には正徹が出て , 定 のである。この俊成と西行とは , 平 3 ) 紀貫之齠ヌ , 紀友則翳 , 凡河内躬 安時代から鎌倉時代への転換期の混 家の新古今風を継承して清新な歌を ーおおしこう壬生中大みぶのらの「選者」 十巨ちのみつね , ッじ、フただみね 乱のなかで , 正統的な歌風を継承し よんでおり , これら南北朝時代から の時期の 3 期に分けることができる ながら , 和歌史に新しい道を切りひ 室町時代のすぐれた歌は , いすれも が , いったいにく万葉集〉の時代と らし、た 象徴主義的な方向をとっている。勅 比べると調べが軽快になっている。 〔鎌倉時代〕鎌倉時代初期には , 後 選集は , 室町時代中期に選ばれたく新 また万葉風が現実的であるのと比較 鳥羽院を中心に / く新古今和歌集 > 続古今和歌集 > をもって終わりとな すると , より観念的 , 技巧的傾向を おびていて , 世に古夸風と称せられ が選ばれた。その代表歌人は , 後鳥 ったが , く古今和歌集 > から同集まで をニ十一代集とよんでいる。そして 羽院のほか前記の俊成 , 西行をはじ ている独自の歌風を形成するに至っ このころ以後 , 和歌は一般に固定化 めとして , 藤原定家 , 藤原家隆 , 藤 ている。この後く後撰和歌集 > く拾遺 和歌集〉が古今風を継ぐ歌風をもっ 原良経 , 式子ヒき内親王 , 慈円らであ の傾向をいよいよ深め , 文学的には るが , 同集の歌風の中心となってい 連歌に圧倒されていった。 て選ばれ , く古今集〉と合わせて三代 〔江戸時代〕江戸時代の和歌は , 室 るのは定家の歌風である。定家は俊 集とよばれている。この三代集まで 町時代末期の固定化した歌風を打破 成の子で , 構成的 , 唯美的な歌風を の歌風は一般に調べもをく整い , 即 開拓した歌人である。それは和歌史 するところから始まった。木瀬三之こん 興的傾向が強い。次のく後拾遺和歌 上空前の新しい性格をもっていたわ 戸田茂睡いらがその先駆者であるが , 集 > の時代となると , 題詠的傾向が けで , そういう歌風の強い影響を受 相当強く現われはじめ , 歌風のうえ 長い伝統を有する和歌においては , けているく新古今和歌集〉は , 新古 にそれまでとは異なる傾向が出てき 古代和歌に規範を求めて , 前代の末 この時代は , 和泉式部会とい 今風とよぶべき独自の歌風を形成し 流を否定しようとする運動がやがて た う情熱的なすぐれた歌人が現われた こに万葉風 , 古今風と並 起こった。そういう運動を行なった ており , 24 五家宝 ( 熊谷市 ) 25 吉原殿中 ( 水戸市 ) 26 卵そうめん ( 福岡市 ) 27 そばは、うろ ( 京都市 ) 28 水戸の梅 ( 水戸市 ) 29 かるかん ( 左 ) , かるか ん饅頭 ( 鹿児島市 ) 30 文 - 日 - 漬 ( 鹿児島市 ) 31 蕗砂糖漬 ( 秋田市 ) 32 外郎 ( 山口市 ) 33 外郎 ( 名古屋市 ) 34 タルト ( 松山市 ) 干菓子と半生菓子 1 きぬた ( 半生 ) 2 桜花金 代結び 10 わらび 玉糖 ( 半生 ) 3 紅丸寿 ( 十 ) 4 さわらび ( 干 ) 各地の名物菓子 1 長生殿 ( 金沢市 ) 2 二〇加 5 寒水の蝶 ( 干 ) 6 寒氷の桜 ( 干 ) 7 ぎゅうひ せんべい ( 福岡市 ) 3 亀の甲せんべい ( 下関市 ) 椿 ( 半生 ) 8 松竹梅こはし ( 干 ) 9 雲平の鶴亀 , 4 草加せんべい ( 草加市付近 ) 5 麦落雁 ( 館林 松竹梅 ( 干 ) 10 雲平のひさご ( 干 ) 1 1 春の水 市 ) 6 ケンピ ( 南国市 ) 7 八橋 ( 京都市 ) 8 二 ( 干 ) 1 2 菜の花 ( 干 ) 1 3 色紙 ( 干 ) 1 4 きぬた 人静 ( 名古屋市 ) 9 粟おこし ( 大阪市 ) 1 0 五万 ( 半生 ) 門わらび ( 左 ) と桜 ( 右 ) ( 干 ) 石衣の 石 ( 岡崎市 ) 1 1 瓦せんべい ( 神戸市 ) 笹飴 小だんご ( 干 ) 1 7 つほ形らくがん ( 干 ) 結び ( 高田市 ) 13 諸越 ( 秋田市 ) 14 五色豆 ( 京都市 ) 笹 ( 干 ) 四栄え松 ( 干 ) 1 5 柿羊羹 ( 大垣市 ) 1 6 山川 ( 松江市 ) けのし梅 ( 山形市 ) 1 8 豆板 ( 京都 震平細工と有平細工雲平細工 1 ばたん 2 1 9 南部せんべい 桜 3 水紋 4 はかま 5 山吹 6 こばし桜の ( 盛岡市 ) 20 かつおぶし ( 高知市 ) 幻越の雪 つ一よみ。有平細工 7 ーよたん 8 はかま 9 千 ( 長岡市 ) 22 鶴の子 ( 福岡市 ) 23 舌鼓 ( 山口市 : 和菓子 1 2 5 17 8 18 8 8 3 1 4 2 15 1 16 10 13 19 11 9 12 6 10 13 15 16 18 19 17 21 27 20 22 2 2 30 26 29 32 34

5. 国民百科事典7

2 6 1 「匿名芸術家協会展覧会」に 12 点出品。 記 > く和泉式部日記 > なども , 歌物 間続けて使用されることによってそ その中のく印象 , 日の出〉と題する作 語の系統をひいて「かな日記」の伝 の目的を果たすものであるから , 統を形成した。く源氏物語〉はこうし 品にちなんで印象派の名が生まれた れらの製品は単に定められた機能を た先行文学を基盤に大成された高峰 という。彼は対象の形態よりもそれ 果たしうるという条件を満たすだけ ということができよう。しかし平安 に変化を及は、す光と色に魅せられ , でなく , 使用中に生する外力の大き 時代末期になると , これらの王朝物 画面の明るさと色彩の純度を強調し さに耐えるだけの一定の機械的な強 直接カンバス上に短いタッチで明色 語文学は衰退し , 時代の変動とあい さをもっていなければならない。外 を並列した。また , 同し主題を異な まって新しい物語形式が起こった 力に耐えてもとの形状を保持する機 った時間に描きわけ , 刻々に移りゆ ーっはく栄花物語 > く大鏡〉く今鏡〉 械的な強さを物の強さというが , く自然の微妙な色合いと表情をとら く水鏡〉く増鏡 > などの歴史物語であ れは材料自体の強さと構造の強さの えた。代表作にくわら塚〉くスイレン〉 いまーっはく古今著聞集〉く十 二つの面に大別して考えることがで くルーアン聖堂 > などの連作がある。 訓抄 > く今昔物語 > などの説話物 きる。材料自体と基本的構造の強弱 / ( 別刷 ) 印象主義 語の系列である。さらにこれらは , 〔坂崎〕 を論する学問を材料力学といい , 主 ものあらがい〔物洗貝〕池や沼 , 武十の登場とともに発展して / 軍記 として骨組構造を扱うものを構造カ 物語を生むにいたる。軍記物語は古 水たまりなどに見られる高さ 2 cm く 学という。 このはか材料の化学的性 らいの巻員。殼の頭のはうは小さく , 代から中世への転換を示す文学史上 能や組織あるいは欠陥の有無の検討 , 、・ 殼のロのほうは広か・つている。殼は の指標である。 / 小説 さらに材料の表面処理などに関する 黄かっ色であるが , たいへん薄いの ものさし物差し長さをはかる 広い範囲の理論 , 研究が物の強さに で , 生きているときには , 殼の外か 計量器。大別して , 1 ) 単位の長さで目 関係している。 らまだら模様のある体がすけて見え 盛をした直尺 , 2 ) 木工用のさしがね , 〔材料の強さ〕工業材料が外から加 る。空気呼吸をするためときどき水 まがりがね , あるいは裁縫用のもの えられる力の大きさに耐えてもとの 面に出てくるが , のように直角の 2 辺に目盛をつけた このとき水の表面 形を保つ能力が材料の強さであるが , 張力を利用して水面下をつり下がっ 曲尺 2 ( 「工作」の項の別組「家庭工 加えられる外力には , 引張り , 圧縮 , たようにはったりする。泥の上や水 曲げ , わじりなどさまざまな種類が 作」参照 ) , 3 ) 鋳型用や製図用として 草の上についているケイ藻などを食 あり , それに応して , 引張強さ , 圧 一定の伸縮率で目盛をした直尺およ べ , 春先に水草の _E などにゼリーに 縮強さ , 曲げ強さ , わしり強さなど び曲尺 , 4 ) 巻尺 ( テープ状 , ひも状な 包まれた邯を産む。ヒメモノアラカ、、 とよばれる。このはか同じ種類のカ ど ) , 5 ) たたみ尺 , 6 ) れん尺 ( 一定の 長さの棒を鎖状につないだもの ) , 7 ) でもそれが衝撃的に加えられる場合 イは , 形はよく似ているが小形 ( 高さ 約 1 cm ) で , 家畜の寄生虫の肝蛭 はさみ尺 ( / ノギス , マイクロメータ , と静かに加えられる場合とでは作用 の中間宿主である。 が異なるので , 衝撃強さが別に考え ダイヤルゲージなど ) , 8 ) 回転尺 ( 電 〔奧谷〕 ものがたり物語広義には小説 線尺やタキシメータ ) , 9 ) 端面尺 ( プ られ , また同一カがくりかえし加え ロックゲージやノヾーゲージのように 一般をいうカヾ , ロマン ( フランス語 ) られる場合の疲れ強さ , 一定負荷が 長時間加えられる場合のクリープ強 の訳語として使われることもある。 端面間の長さで長さを示すもの ) とな ロマンは元来「ロマン語でつづられ る ( / ゲージ ) 。しかし一般には目盛 さ , 耐摩耗性 , かたさなども材料の をした直尺や巻尺を物差しというこ たもの」の意味で , 中世の騎十物語 強さに関係した性質であり , さらに をさすこともあり , 16 ~ 17 世紀に流 材料が高温あるいは低温下にあると とが多い。構造も用途によリ多様で , き , 薬品 , ガスなどに接触している 行した架空の誇張された物語をさす 簡単な板状 , 棒状から , 精密なもの ときなどには材料の強さは変化し , 場合もある。転して物語性に富んだ では断面を H 型や X 型にし , 材料も それぞれ材料力学と関連をもつ各種 小説をロマンというようになった 木 , 竹 , 合成樹脂 , 金属 , 白金など 英語のロマンスも同し意味である。 の材料試験法によって実験的に調べ の高級金属やその合金 , 水品など精 日本文学史の中で物語という場合は , 密さの程度に応して選ばれる。 / 、間 ることができる。これらの材料試験 はそれぞれ試験の種類と試験される 平安時代から鎌倉 , 室町時代にかけ が目盛を読めるのはせいぜい ( ). 2mm で 材料に応した一定の形状と大きさを あるが , バーーニヤ ( 副尺 ) をつければ て登場したいくっかの文学形態をさ もった試験片によって行なわれ , そ す。元来「もの」とは古代信仰にお rnm 程度まで読みとれ ( / ノキ、ス ) , / ける霊のことであり , 「かたり」は の結果が他のものと比較される。 マイクロメータで 1 / 2 ( ) ( ) mrn 程度の測 ロ誦うすることであった。文学と 各種の材料試験のうち , 鋼などの 定が可能となり , さらにこれを顕微鏡 金属材料をはしめ多くの工業材料に しての物語は , かな文字の成立 ( / か と組み合わせれば 1 / 1 ( )()( ) mm 以下まで な ) によって出現するが , しかしそ 可能になる。また光の波長を用いる ついてもっともよく行なわれるのが の発生には明らかに古代のロ誦文芸 測定では 1 ( ) 万分の 1 mm を正確にはか 引張試験である。引張試験では太さ が母胎として投影しており , それは が一様な棒状の材料 ( たとえば軟鋼 っている。物差しの製造には国の , たとえばく竹取物語 > の超人間的な 修理には都道府県の許可がいり , 棒 ) の上端を固定して , 下端に荷重を 販 趣向と内容によってもうかがうこと 売をする者は登録を受けなくてはな かける。荷重の大小と伸び方との間 ができる。く竹取物語 > は「物語の らない。商取引に使うものには検定 にはその材料に応した特有の関係が が行なわれ , 誤差が公差以内にある いできはしめの祖 ( く源氏物語 > ) あるのでそれをグラフに描く。 」、つ といわれ , のちにく宇津保物語〉 ものには検定証印が付されている。 く落窪物語〉などの伝奇物語の伝 1959 年 1 月からは , 尺や鯨尺やイン チの物差しの製造や商取引上の使用 統を形成し , く源氏物語〉へ達する は禁止された。 / 度量衡〔小泉〕 平安時代物語文学の起点となった作 もののつよさ物の強さ機械 , 品である。これと並行して起こった 構造物 , その他各種の製品は , 鉄 , ものに歌物語の系列がある。これは 和歌の詞書ばや歌の由来を語った 鋼 , 石材 , セメント , 木材 , 紙 , 布 , コ・ム , プラスチックなどを材料とし く万葉集〉以来の伝統が , 叙事的形 式を得て物語に発展したもので , て , それらを使用目的に応してさま く伊勢物語〉はその代表作であり , ざまに組み合わせて作られている。 はかにく大和物語〉く平中物語〉 一般に各種の製品はただ 1 回だけの などがあげられる。一方く蜻蛉日 使用でなく , 多数回あるいは一定期 モノアラガイ 物の強さは各純の材料 試験で調べられる。た とえば石下図で示すよ うな引張試験で応力ー 伸び線図が求められる ・応力ー伸び線図 降伏点 引張強さ 極限強さ 破断 弾性限度 比例限度 伸び量 元の長さ 荷重 断面積 0 伸び = のさ伸び量 元長 面 荷 断 (kg/mm2) 応力 =

6. 国民百科事典7

ヤマダイス 3 2 0 どについて , かなり詳しい記述があ 石芋は , 慈覚大師開山と伝える古 河東節 , ー中節など江戸浄瑠璃う り , 日本側には当時文献がないため 与 = て・ , かっては比叡い山の別寺とし をとり入れて新しい箏唄 ( 作唄物 ) に , 貴重な史料となっている。それ て僧坊 3 ( ) ( ) 以上 , 14 ( ) ( ) 石の未印をも をはじめ , たちまち江戸の筆曲界を によると倭は山の多い島国で , 気候 1357 年建築の根本 ち勢力があった 支配した。く小督も〉く熊野睾 > く奏 は温暖 , 人々ははだしで衣服も貫頭 の上〉く長恨歌〉 ( 以上「四つ物」 ) , く桜 中堂をはしめ , 釈迦髣 . や堂 , 開山堂 , 衣のような簡単なものである。田は 狩 > く奈 ( 那 ) 須野〉く住吉 > など全 36 五大堂 , 色蕉の旬にちなんだ蝉塚な 少なく , 文身 ( 入れ墨 ) をした漁師が 曲を作る。 どがあリ , 紅葉期のハイキング , ク 魚貝をとる。身分には上下があり , やまだこうさく山甲耕筰 18 リ拾い , キノコ狩りに好適である。 重い罪を犯すと一族が滅は、される。 86 ~ 1965 作曲家 , 指揮者。東京生 〔米地〕 また倭は 30 余の小国に分かれている まれ。東京音楽学校卒業後ドイツに やまと大和Ⅲ国名。現在の奈 が , 前世紀の末の大乱の結果 , 邪馬 留学してベルリンで・、 / : び , 1914 手り帚 良県にあたり , 五畿内の一国。和・月ヨ 台国に / 卑弥呼という女王が立ち , 国するや , 東京フィルハーーモニ ともいう。占くは倭 , 大倭 , 大養徳 山田耕筰 小国を支配しながら隣の強力な男 弦楽団を創立 , 日本最初の定期公演 などと書いたが , 757 年以来大和と 王国と対立しているという。魏との を行なった。またこのころ石月 : 漠と 書くようになった。大化改新で一国 交渉は 3 世紀半ばごろに絶え , その となリ , 71 ( ) 年元明天阜の奈良遷都 ともに舞踊詩を提唱 , E. ジャック・ 後の邪馬台国の消息はわからなくな によリ都を平城京と命名し , 784 年 ダルクローズのリズム教育ち法ユー った。ところでこの邪馬台の位置に リズミックスを紹介 , みすからも まで 7 代 75 年間にわたリ政治 , 文化 ついては , く魏志 > の記事の解釈をめ く青い炎 > く明暗 > く野人創造〉 ( 以 II の中心地域となった。平安時代以後 ぐって , 畿内の大和とみる説と九 1916 ) を発表 , 2 ( ) 年には日本楽劇協 も平安京のある京都を北都とよぶの 州の山門 : まとみる説とが古くから対 会を作り , くタンホイサー > ( 第 3 幕 ) に対し , 奈良はなお南都と称し , 興 立した。すなわち魏の使人が帯方郡 初演を行なうなど , オペラ運動にも 福寺領 , 東大寺領の荘園が多かった。 を出発してから対馬 , ー支新末盧まっ 力をつくした。自作オペラにはく菶お 鎌倉時代から室町時代にかけては幕 府の勢力はまったく及ばす , 興寺 伊者阯 , 奴ななどの倭の諸小国に至る ちたる天女 > ( 1912 ) , くあやめ > ( 19 31 ) , く黒船 > ( 1939 ) などの作品があ の支配力が強かったので , 守護はほ 方向 , 里程は明白で , それらの国々 は北九州の地名として今日も残って る。このほかく明治頌歌 > ( 1921 ) , 1577 年織田 とんど置かれなかった。 長唄交響曲く鶴亀誌 > ( 1934 ) など多 信長は筒井氏 , 松永氏をくだして大 いるが , 邪馬台についての方向 , 距 離をそのまま信用すると , 九り料南方 数の作品があるが , もっとも好まれ 和を平定し , 豊臣秀吉は 84 年弟秀長 の洋上にあることになるから , 方向 たのは童謡も含めた 5 2() 余の歌曲で , を , 95 年増田氏を封した。江戸時代 か距離かのいすれかを誤りとしなく なかでもくまちは、うけ > くからたちの 1871 年の廃 には十数藩が置かれた。 てはならない。論争は今日なお解決 花 > く赤とんば > ( 以上 1923 ) などの叙 藩置県で奈良県となり , 76 年堺県 , されていないが , 大和説をとれは、 3 情的作品がひろく愛唱された。 1956 81 年大阪府をへて , 87 年ふたたび奈 年文化勲章受賞。 世紀前半にはすでに日本が統一され 良県となり現在に至る。く町歩下組 〔・秋山〕 ていたことになり , 九州説をとれば 帳 > ( 1716 ~ 47 ) によれは、 , 田約 23532 やまたながまさ山田長政 ? ~ 和には別の国があったことになる 町 , 畑約 10677 町 , 総石高 , 慶長 3 年 1630 江戸時代初期の南方渡航者。 ので , 古代史上の大問題とされて 約 448946 石 , 元禄年間約 5 ( ) 0497 石 , 駿河るに生まれ仁左衛門と称し , 沼 〔青木〕 天保 3 年約 5 ( ) 1362 石。近世の特産物 津城主のかごかきをしていたという。 やまだいすず山田五十鈴 19 には御所ガ、キ , 杉 , 奈良ざらし , 綿 , 17 世紀初めシャムに渡って日本人町 〔谷口〕 映画女優。父は新派の女形 の頭領となり , シャム国王に親任さ ロ野の漆がある。 山田九州男で , 1927 年映画界にはい やまと大和〔市〕神奈川県中部 , れ最高の官爵を受けた。 1621 年国王 山田長政 り , く国士無双 > ( 1931 ) , く浪華悲 が日本に使節を派遣するにさいし幕 相模原台地上の市。相模鉄道 , 小 歌 > ( 1936 ) , く祇園の姉妹〉 ( 1936 ) でス 府にあっせん状を送っている。のち 田急電鉄江ノ島線が通しる。 1959 年 ターの地位を築く。長谷川一夫とく鶴 六崑 ( リゴール ) 大守に封ぜられたと 市制。人口 64991 ( 1965 ) 。電鉄会社 八鶴次郎〉 ( 19 ) で共演 , また , く婦 き , 侍臣のシャム人に毒殺された の住宅地造成 , 相模原の軍用施設の 系図〉 ( 1942 ) などに出演 , 戦後はく女 建造などによって田園住宅都市とな その遺子は日本人を率いて戦ったが 優 > ( 1947 ) , く女ひとり大地を行く〉 カンポジアに敗走し , 日本人町はシ り , とくに第二次大戦後は米軍基地 の厚木飛行場をひかえて都市化が進 ( 1953 ) , く唐人お吉 > ( 1954 ) など多く ャム軍に焼きうちされ , 一時袞退の うきめにあった んでいる。畑地か、広く , 戦後かんが の映画のほか , テレビ , 舞台でも活 〔福田〕 い用水路がひかれて , 麦 , サツマイ 躍している。 やまでら山寺山形県山形市の 〔登川〕 モ , スイカ , 果実などの安定した畑 北東部 , 国鉄仙山線山寺駅に近い立 やまだけんぎよう山田検校 17 作が行なわれている。 57 ~ 1817 山田流箏曲の開祖。本 〔尾留川〕 石こ , く寺周辺の地域。凝灰岩が やまとえ大和絵平安中期ころ 名は斗養ーは , 宝生流能楽師三田了 風化されて奇観を呈する宝珠山の山 大和絵の作品。左は , 腹に諸堂がある。芭蕉の句「閑さ 任の子といわれる。幼時に失明 , 山 に用いられた倭 : ま絵と同し意味で , く扇面法華経冊子 > , 右 や岩にしみ入る蝉の声」で知られる 日本の事物を題材とした絵。唐絵 田松黒 ( く箏曲大意抄 > の著者 ) に師事。 は , く源氏物語絵巻 ) に対する語。中国から伝来した絵 のうち , 「柏木」より またはその画法をまねた絵や中国の 事物を描いた絵を唐絵と称し , 古代 ク から平安時代にいたる間 , 唐代文化 の感化によって , この唐絵が盛んで 支云 あったが , 平安中期 ( 藤原時代 ) に中 国との公式の交通が絶えると , 文化 一般がしだいに日本化し , これに伴 って絵画の題材も日本的なものが好 , こに大和絵が まれるようになリ , 成立した。大和絵の技法はもともと 唐絵が基礎となっているが , 日本の おだやかな自然や風物を描くように 17 ~

7. 国民百科事典7

6 5 8 ゾ紙であるが , 杉原と同しころには / 鳥の子紙と称するガンピ紙が現わ れ , その優美な風格が上流社会に喜 ばれた。また戦国時代末期には富士 ツマタが発見され , 伊豆 山ろくに 地方で紙にすかれていたらしい。や がて江戸時代にはいり , 太平の世に 町人の文化が栄え , 印刷術が普及す るとともに紙の需要は急激に増加し ーこの時期には全国各地に多種多 様の紙を生産し , その用途もまた庶 民の生活にとけこんで多方面にわた った。なかでもっとも多量にすかれ , もっとも庶民的であったのが / 半紙 である。その産地は土佐をはヒめ全 ワシのいろいろ 国にわたり , 手重類は約 50 , わけても よび各種の原料を配合した白紙が用 周防 , 長門がに多量に産し , この た。ロシア , ドイツの皇帝も好んで 地方だけで種類も 10 種を越えてい ワシの紋章を用いた。双頭のワンの いられている。数量の面からいって も , 当時すでに相当規模の製紙業が る。また江戸時代末期には , しるしはすでにヒッタイト人の間に 行なわれていたことが想像される。 みられる。ワシを神鳥とする信仰も タ紙が駿河半紙としてその地位を 平安時代には , 諸工芸の進歩ととも 古くからみられ , ギリシア・ローマ時 確立し , やがて明治以後の改良半紙 に製紙業も発展し , 紙産地は全国 40 代の鳥占で重んしられたことがくイ の前身となる。なお江戸時代 , 諸国 余国に及んだが , とくに美濃に盛ん リアス〉にみえる。ゲルマン民族に の藩主が財政に資するため , 紙の専 おいても , 神託 , 前兆を告げる神鳥 であった。京都には官立の紙すき場 , 売制度を設け , また領内特産紙を幕 と考える信仰があった 紙屋院が設けられ , 官用の高級紙 府に献上してその紙質を誇り合うな 〔小池〕 わし和紙本来はコウゾ , どし , 領内の製紙業を保護 , 育成し ツ をすいたが , 各地から朝廷に上納さ たが , その反面きびしい統制によっ マタ , ガンピの靫皮繊維を主原料と れる製紙原料や資材 , 紙などの割当 し , 「ねり」「のり」などと称される て民間製紙業の自由な発展をおさえ 量が延喜式に記録されている。奈良 植物粘液を使用し , 日本伝来の方法 時代から続いた貴族階級の写経は , た例も少なくない。明治維新は製紙 ですかれた , 吸水性のよいしようぶ この時代には紺色に染めた紙に , 金 業にも重大な変革をもたらした。洋 な , 優雅なはだ合いの手すき紙をい 泥 , 銀泥で書くといった工芸的趣向 紙の機械 , 技術が輸入され , 印刷術 がこらされる一方 , 故人の手紙など う。しかし現在では木材パルプを原 はしめ関連諸産業の急速な近代化と 料とした手すき紙や , 機械すきの和 をすき返した紙 ( 宿紙 ) に写経してそ 国民生活の洋風化によって , 和紙の 紙もある。古い歴史をもつ和紙も , の冥ま福を祈ることが流行した。そ 需要は激減し , その生産はとみに衰 今では紙の実用面はほとんど洋紙 して平安時代末期 , 中央政府の威令 えた。とくにそれまで藩の保護のも ( / 紙 ) に占められ , またわれわれが 地におちるころには , 紙屋院はただ とに , 生産費を度外視してすかれた 日常手にする和紙 ( 奉書 , 半紙 , 障子 宿紙をすくだけという状態になり , 高級紙の中には , 商品として成り立 紙など ) も , 大半が木材パルプ製の機 地方の製紙業に圧倒されてしまった。 たす , まったく姿を消してしまった 械すきである。しかし和紙の優雅な またこの時代には , 穀紙や斐紙が ものも多い。 このような打撃から立 持味やすぐれた紙質は今なお尊重さ ンピ紙 ) の生産が多くなり , やがて麻 ち直るため , やがて木材パルプ混合 れており , 高級紙や工芸的な用途 , 紙は姿を消してコウゾ紙が主流を占 による生産原価の引下げや , 機械す その他の特殊の方面に , 自然の力と めることとなる。とくに東北地方に きによる量産化がはかられ , 和紙の 人間の勘を総合した昔ながらの手す 起こった檀紙んは , 「みちのくのまゆ 風格はしだいに低下していった。今 き和紙が利用されている。 みがみ」とよばれて上流社会に喜ば 日「泉貨紙」ということばから , か れ , 公の儀式や贈答の包紙として用 和紙の歴史 って合羽つにまで用いられていたし いられるようになった。檀紙は紙面 ようぶで耐水性のあるコウゾ紙の重 105 年ころ中国の河南地方で / 蔡 倫によってはじめられたといわれ 厚な風格を連想することは , ます困 にしわのある , 繭のはだに似た厚手 シキ 難であろう ( / 泉貨紙 ) 。しかし明治 る製紙術は , 高麗の僧曇徴によって , の紙で , 原料はもとマユミ 610 年 ( 推古天皇 18 年 ) に日本にもた ギの類の皮といわれたが明らかでな 初期に生み出された局紙は , 和紙の らされた。蔡倫の紙は , 樹皮 , アサ く , 中世以降はもつばらコウゾを用 真価を世界に認識させたすばらしい いている。一方 , 奈良近辺には「や 製品であった ( / 模造紙 ) 。現在 , 手 くす , は、ろ布などを原料としたとい すき和紙の生産は , おもに農山村の うが , 奈良時代から平安時代にかけ わやわ」とよばれるひしように薄い て , 和紙のおもなものは麻布を原料 副業として存続しているが , 福井 , コウゾ紙をすく技術も発達した。鎌 とする麻紙こであった。麻紙には白 倉 , 室町時代にかけて , 檀紙ほど格 高知 , 岐阜その他の諸県にみられる 式ばらす , しかもそれに似て質のよ 麻紙のほかに , 美しく染色したもの ように , 古来の伝統を生かしな・がら , い厚手の紙である / 杉原紙が , さら も作られ , 正倉院には当時の色麻紙 新しい時代の要求にこたえようとす にやや遅れて杉原に似た / 奉書紙が , る組織的な努力も払われている。 が今日にいたるまでよく保存されて 簡略を喜ぶ武家階級に好んで使用さ 手すき和紙の製法 いる。しかしこのころすでに , コウ れはしめた。奉書はやがて需要の増 ゾ , ガンピその他種々の原料が使わ 手すき和紙の製法は , その原理に 大とともに全国各地ですかれるよう おいて洋紙の製法となんら異なると れていたらしい。 770 年称徳天皇の になるが , 初め越前に起こり , ただ自然の作用を最大 発願によって興福寺 , 薬師寺 , 東大 ころはない。 にもっとも多くもっとも良質のもの 寺 , 法隆寺などの十大寺に分置され 限に生かし , 人工をできるだけ少な た百万塔に収められた陀羅尼譬経は を産出した。またこの時代には , 美 く , しかも微妙な勘にたよって行な 濃地方に厚紙の森下 , やわやわと同 世に百万塔陀羅尼と称され , 世界最 われるところが多い。その精妙な技 古の印刷物として現存するが , その 質の典具帖黔豸・などの良質紙がすき 巧によって , 芸術品とよぶにふさわ 用紙には麻紙 , 穀紙 ( コウゾ紙 ) , お しい製品をもすきうる半面 , その生 出されている。これらはすべてコウ オオワシ オジロワシ

8. 国民百科事典7

レーノレモントフ レンカ・の基準寸法と種類 標高 750 ~ 12g m の高原はサトウキ ビがっくられ , それ以上の高地では 欧州人が野菜を栽培する。輸出は砂 糖を主とし , ラム酒 , バニラなどで ある。良港にとばしいが , 築港ボア ン・デ・ガレからは内陸へ鉄道が通 し , 道路も発達している。 16 世紀に ポルトガル人が発見し , 17 世紀にオ ランダ , 1810 ~ 15 年に英国に占領さ れたことがあるが , 1643 年以来フラ ンス領である。最初発見者の名を取 ってマスカレナ島といわれ , プルポ ン島 , ナポレオン島などといわれた が , 1793 年レュニオン島と確定した 〔西野〕 レーヨン rayon セノレロースを 化学的方法で溶解し , これを繊維状 に凝固して得られるセルロース系の / 再生繊維。レーヨンの製法にはビ スコース法と銅アンモニア法がある が , 量的には前者が圧倒的に多く , ふつう・レーヨンといえ ( よ / ビスコー スレーヨンをさす。銅アンモニア法 によるレーヨンは一般に / べンベル グとよばれている。レーヨンには , ふつう人絹とよばれるレーヨンフィ ラメント糸と , / ステープルファイ ノヾー ( スフ ) とよばれるレーヨンステ ープルの 2 種類がある。レーヨンス テープルを紡績して得た糸をスパン レーヨンという。ビスコース法によ るレーヨンの製造は 1892 年に英国の クロス , べノヾンらによって発明され , 1900 年代初めに英国のコートルズ社 で生産が開始された。 14 年ころにス テープルファイバーの製造がドイツ で始められ , 34 年ころには強力レー ョン糸が製造されるようになった 日本では , 1915 年東エ業株式会社 ( の ちの帝国人絹 ) が , 米沢でレーヨン 糸を製造したのが最初で , 26 年ころ には今日のレーヨン会社の大部分が 創立された。日本は立地条件や工業 水準がビスコースレーヨン工業に適 していたので , 生産は急激に伸び , 34 年には世界第 1 の生産量に達した。 第二次大戦中は一時生産が減ったが , 54 年米国に次いて一世界第 2 位にまで 伸び , とくにレーヨンステープルは 世界第 1 位となった。 フィラメント糸はすべりがよく , さらっとしたはだざわりがあるため に夏服地や下着類 , 裏地にも多く用 いられる。最近は細番手ものの増加 00 、 , 1 5 6 4 によって , 高級織物が生産され , 染 色堅ろう度の増加 , 樹脂加工による 防しゅう性や風合いの向上も顕著で , 絹や毛 , 綿との交織に使Ⅲされるも のも増加している。レーヨンステー プルは羊毛のような巻縮スフの発達 によって , 柔らかく弾性に富み , 保 温力も高いものが得られるようにな った。太い繊維は毛布やしゅうたん に使用され , もめん , 羊毛さらに各 種合成繊維との混紡に用いられる。 強力レーヨン糸はタイヤコードやべ ルトに用いられる。 〔中尾〕 John William Strutt, Lord Rayleigh 1842 ~ 1919 英国 の物理学者。ェセックスの貴族の家 に生まれる。 1865 年ケンプリッジ大 学を卒業後自邸内で実験 , 研究を行 ない , 79 年母校教授 , 87 年王立研究 所教授 , 1905 年ロイヤル・ソサイエ ティ会長 , 08 年母校総長を歴任した。 彼の業績は , 光のレーリー散乱 , 光 学器械の分解能 , 音響学やレーリー 波などの波動の研究 , 電磁気学 , さ らに応用物理学にまで及ぶが , なか でも 1894 年ラムゼーとともに精密測 定の技術でアルゴンを発見 ( 発表は 95 年 ) したのは有名で , 1904 年ノー ベル物理学賞を受賞した 〔後藤〕 レール / 線路 レー′レモントフ Mikhail Yurie ・ vich Lermontov 1814 ~ 41 ロシ アの詩人 , 作家。モスクワの貴族に 生まれ , ペテルプルグの騎兵学校を 出て近衛将校となった。プーシキン とバイロンの影響を強く受け , 1837 年プーシキンが決闘に倒れると宮廷 社会を風刺した詩く詩人の死 > を発表 , 一躍世に現われたが , この作が災い してカフカズに追放された。その地 で伝説に取材した長編叙事詩く悪魔 > ( 1829 ~ 41 ) の執筆を続け , さらにく商 人力ラーシニコフの歌〉 ( 1838 ) を書 きあげたが発表は許されす , ジュコ フスキー ( 1783 ~ 1852 ) の奔走でイニ シャルだけの署名で活字にするとい うありさまだった。戦功によりいっ たん追放を解かれたが , 1840 年ふた たびカフカズへ流され , 代表的長編 小説く現代の英雄〉を完成した。 作中の少女のモデル問題から決闘を いどまれ , プーシキン同様 , 悲劇的 な最期をとげた。その作風は厭世 観と激しいロマンチシズムにいろど られ , ドイツのシュッルム・ウント・ ドラングの世代と対比される。〔泉〕 れんが連歌平安時代に主とし て行なわれた短連歌と , 鎌倉時代か ら江戸時代の初期にかけて流行した 長連歌を総称していう。短連歌は和 歌の上句 ( 5 , 7 , 5 ) と下句 ( 7 , 7 ) の 2 旬間の唱和による機知的な詩である のに対して , 長連歌は何人かで 5 , 7 , 5 と 7 , 7 の句を交互にくりかえし付 けて , 一定数に至る音楽的連想詩と もいうべきものである。後世では連 歌といえば , この長連歌を意味する ようになった。この連歌は百韻 , す なわち百句連続する形式を基準とす るが , そのほか歌仙 ( 36 句連続 ) , 世吉れ ( 44 句 ) , 五十韻 , 千旬 , 万句 などがある。数人でよむのを原則と するが , ひとりまたは 2 , 3 人でよむ 場合もあり , それぞれ独吟 , 両日争 三吟などという。連歌の種類として は , 各句の頭におく文字によって , いろは連歌 , 名号連歌などがあり よみこむ詞や内容で名所 , 畳字 , 牛 名 , 俳諧連歌などとよはれるもの がある。短連歌の起原を記紀の歌謡 の中に求める説もあるが , 短歌の上 句と下句の唱和という点では , く万 葉集 > 巻 8 の尼と大伴家持の唱和 が文献の上ではもっとも古い。平安 時代中期から末期にかけて短連歌が 盛んに行なわれ , 勅選集にもとり上 げられているが , 平安時代末期には 鎖連歌の発生をみ , 鎌倉時代初期の 後鳥羽院を中心とする新古今歌人た ちによって , 百韻を定型とする長連 歌にまで発展した。鎌倉時代中期か ら末期にかけて , 一般庶民の間にも 連歌が流行し , 花下のの連歌会が 開催された。南北朝時代に二条良基 が出るに及んで , 救済気、 , 順覚など この地下連歌の作風を基礎にして 連歌の完成をはかり , 連歌の公的な 規則として , 応安の新式を制定した。 良基の没後 , 芸術的な連歌は一時袞 えたが , 永享期 ( 1429 ~ 41 ) に高山宗 砌が出 , 次いで心敬や専順が出る に及んで , 連歌はふたたび芸術性を 取りもどし , 宗祇や兼載に至って幽 玄な美しさを象徴的に表現する詩と して完成した。宗祗の編集したく新 撰菟玖波驎集〉 ( 1495 ) は , 連歌集 としてはもっとも密度の高い作品を 集めたものである。その後室町時代 末期から近世初期にかけて , 宗長 , 肖柏 , 宗碩 , 宗牧 , 宗養 , 昌休 , 紹 巴結 , 昌叱ヒなどの連歌師が輩出 し , 連歌は広範な享受層を獲得した。 しかししだいに句風において固定化 の一路をたどり , 連歌から派生した / 俳諧が流行するにつれて行なわれ なくなった。しかし俳諧が形式を整 える過程においては , 連歌から多く のものを学び取った。 〔木藤〕 2 1 cm 6 ようかん 七五 半ようかん 空亂 レンが せり持 ルンガ れんが煉瓦普通レンが ( 赤レ ンガ ) のことをさすことが多いが , 工業技術のうえでは耐火レンガがも っとも董要である。 〔種類〕種類には普通レンガのほか , 舗道レンが , テラコッタ ( 外装レン ガ ) , 耐火レンガ , 非焼成レンガ、など がある。 1 ) 普通レンガ日本では明 治の初め以来、レンガ建築の材料と して使用されてきたが , 関東大震災 以後はしだいに鉄コンクリ 変わり , 建築材料としての用途はし たいに減り , 装飾材 , へい , 間仕切 りなどの簡単な構造材料として使用

9. 国民百科事典7

マキエ 2 5 想 ( いわゆるマキアベリズム ) で , そ の同刀に関する記載に「鞘上末金 の現実主義的権力政治観 ( 国家理性 鏤る作」とあるようにさやの表に動 の認識 ) もしくは客観的歴史観のゆ 物と唐草が末金鏤の手法で施され えに近代政治学ないし歴史学の先駆 ている。末金鏤は現在の研出蒔絵と 者ともされる。 同し手法だが , かなり荒い金の鑢粉 〔森田〕 まきあみ巻網遊泳する魚群を が用いられている。奈良時代におけ るこの手の蒔絵は正倉院中に同大刀 見つけ , これをねらって , 漁網を敏 速に海中に展開して魚群を取り巻く しかなく , またこの大刀自身が日本 製か唐製かはっきりせす , したがっ ものを一般に巻網とよぶ。網は長さ マキ 数百 m , 深さは長さの約の帯状で , て蒔絵の発生地についてはいまのと 機動性にすぐれた漁船で巨大な網を る。雌雄異株で , 雄花は穂状になる ろ明らかにしがたい だか、これ 以後蒔絵は日本独自の発展をみせた が , 雌花は葉腋に 1 個つく。雌花は すみやかに展開し , 魚群を囲むとた だちに網をしめあげる。その代表的 熟すると種子になるが , 果托がふく ことは確かである。く竹取物語 > 中の な / 巾着ミ網は小はイワシ類から , らんで暗赤色に色づき , 果実のよう 「うるはしき屋をつくり給ひて漆を 大は活発なカツオ , マグロ類まで漁 にみえる。建築材 , 器具材 , げた材 , ぬり蒔絵し」が蒔絵ということばの 炭材などに用いる。 獲している。 〔草下〕 あらわれた最初の文献とみられるが , 〔佐竹〕 まき薪まきには 1 ) 堅まきク まきえ蒔絵漆器の加飾法の一 この平安時代における製作年代の明 つ。漆で文様を描き , それがかわか 確な遺品としてく仁和寺宝相華気 ヌギ , ナラ , カシなどの材 , 2 ) 雑ま ぬうちに金銀粉 , 色粉などをまき 蒔絵冊子〉 ( 919 ) があげられる。 き上記以外の一般広葉樹材 , 3 ) 松 つけたもの。まいて絵をつくるとこ この冊子箱ではその意匠に多分に唐 まき針葉樹材の総称 , 4 ) 製材くす ろから蒔絵と名づけられた。工程の ( ばたまきともいう ) などの種類があ 様式のなごりが認められるが , 11 , うえから研出疑蒔絵 , 平蒔絵 , 高蒔 12 世紀のころになると他の芸術の場 る。発熱量は平均して乾材グラム当 絵に分けられる。研出蒔絵は金銀粉 合と同様に蒔絵の意匠も純和風にな り 4500caI で , 一般に針葉樹材のほ をまきつけてのち乾燥をまって透ー り , その代表的な作品として金剛峰 うが大きく , 50 ( ) () ca I 近くある。広葉 漆 , または黒漆を塗り , 十分かわか 寺蔵く沢千鳥蒔絵小唐櫃 , 文 樹材の中では , 堅まきは硬質で比重 してから木炭でといで文様をあらわ 化財保護委員会蔵く片輪車蒔絵螺 大きく発熱量も大きい。まきは乾噪 鈿宅ん手〉などがあげられる。平安 したもの。これでは金銀粉による文 して用いるのがよく , 生材で水分が 様の表面が周囲の地の部分と同一平 時代における蒔絵の技法は金と銀あ 4 ( ) ~ 55 % , 気乾材で 10 ~ 15 % 含まれ るいは金と青金 ( 銀分のましった金 ) 面にあることになる。なお , 粉を散 ているので , 平均発熱量はそれぞれ 布するには大小の筒や毛棒 ( 馬毛製 の鑢粉を使った研出蒔絵で , 蒔絵に 約 25 ( ) ( ) cal , 350()—40()()cal に低下す の払筆 ) を用いる。平蒔絵は漆がき / 螺鈿 ( 漆地に貝をはめこんで文様 ーる。引火点は平均 240 ~ 25 ( ) ℃。まき に粉をまきつけ , 乾燥後 , ショウノウ をつくる装飾法 ) がしばしば併用さ は石炭に比べ発熱量は少ないが , 灰 などで薄めた漆をその部分のみにつ れた。鎌倉時代の蒔絵は平安時代の 分含量が少なく , 燃焼後の処理が簡 け , といしの粉て、表面をみがいて尢 それの延長とみられるが , 意匠 , 技 単で , 灰をカリ肥料として用いられ 法のうえに時代の特色を示している。 る利点がある。 沢を出す。高蒔絵は漆で肉を盛り上 〔南〕 まき巻〔町〕新潟県西蒲原郡 , げた上に平蒔絵を施したもの。肉を すなわち , 器物の形の上に張りのあ る調子があらわれ , 図様のうえに写 盛るには木炭の粉をまいてその上に 越後平野中部の町。人口 27445 ( 1965 ) 。 東の鎧潟まお、 , 西の角田山にはさま 漆を塗る方法 , あるいは漆ととの粉 実的な要素が濃くなった となどが を混ぜた錆漆で高低をつける錆上 それで , その結果前代の叙情性に代 れた市街は西川に沿い , 国鉄越後線 とよぶ方法などがある。また高蒔絵 わる力強さが目につく。技法も金 , が通し付近産米の集放地になってい に研出法を併用して山の傾斜などを 銀の 2 色から金 1 色となり , この時 る。占くから薬品の行商などで出か 代の後期には図様の写実化の線にそ あらわす肉合誌研出と名づける技法 せぎをするものが多い。角田山を含 って平蒔絵から・高蒔絵へと蒔絵に肉 がある。文様以外の部分に粉まきを む海岸部は佐渡弥彦国定公園に属し , これには金 したものを地蒔といい をもつようになってきた。三島神社 砂 - 丘の五カ浜 , 角田浜はすぐれた海 粉を密にまきつめてとぎ出した沃懸 のく梅蒔絵手箱 > はその好例。室町 水浴場である。 〔千葉〕 地 , 金の鑢粉をまき , 漆を塗っ 時代には蒔絵の図様や形のうえに宋 マキア・べリ Niccolö Machia- てとぎ出した平塵 , 鑢粉から変化 元画や明の器物の影響がみられるよ v e Ⅱ i 146 9 ~ 15 27 イタリアの政 したへんべいな平目舅ら粉や梨 f 地粉 うになり , 技術も発達してことに高 治家 , 思想家。フィレンツェ近郊の を平塵と同しようにまいた平目地 , 蒔絵は精妙になった。この室町中期 小貴族の出。 14 9 8 年フィレンツェ共 梨地などがある。蒔絵の最古の遺品 のいわゆる東山時代に幸阿弥道長 和政府の書記官となり , 外交使節と としては正倉院にく金銀鈿荘唐大 ( 141 ( ) ~ 78 ) と五十嵐 : 信斎が足利 して活躍したが , 1512 年メジチ家の 刀〉があり , これは東大寺献物帳中 義政のおかかえ蒔絵師となってから 復辟で共和政府がたおれて下野 , 翌年反メジチの陰謀に参加した疑い で一時投獄された。出獄後フィレン ツェ近郊に隠棲 , 古典の研究や著 述にふけり , イタリアの復興を願う 熱望をこめてく君主論〉く口一マ史 論 > ( ともに 1532 ) , く戦術論 > ( 152 ( ) ) などを書き , メジチ家の当主ジュリ オ ( のち法王クレメンス 7 世 ) に認め られ , メジチ政府に登用されてルッ 力に使節となり , さらにくフィレン ツェ史 > の執筆を依頼されたが , 中 道 ( 8 巻まで ) で病死。そのはか文芸 作品なども残したが , 彼を著名にし たのはく君主論〉に盛られた政治思 マキア′、リ ・ ~ カレンコ 蒔絵の作品例。左は , く春日山蒔絵硯 ( すす り ) 〉で 1 5 世紀のも の。右は , く南蛮人蒔 絵硯箱 > で 17 世紀の作

10. 国民百科事典7

ロケット 5 8 9 明の日の吉凶に関する占いが起原と 権を握り , 執権に次ぐ威勢をもって , いわれ , 日本には 14 世紀ごろ伝わっ 六波羅殿とよばれた。その下には鎌 た。その当時の形は大安 , 留連 , 速 倉幕府のように評定衆や引付衆など 喜 , 赤ロ , 将吉 , 空亡であったが , も置かれ , 組織が整ったが , 1333 年 , その後名称と順序を変え , 現在の形 元弘の乱に鎌倉幕府が滅んだときに に落ち着いたのは 1830 ~ 40 年ごろで 南北の両六波羅も足利尊氏宅らの ある。ひしように根強い迷信として 連合軍によらて滅ばされた。 / 鎌倉 民間にひろまり , 結婚には大安を選 時代 〔上田〕 んで仏滅を避け , 葬礼には友引をき ろくはらせいけん 六波羅政権 らう風習が全国的にいきわたっている。 平安時代末の平氏政権をいう。平氏 〔佐藤〕 一門は京都東部の六波羅を中心に集 ろくろ轆轤回転運動を利用し まって政権を握ったのでこの名があ る。この政権は平清盛が 1167 年に太 名に残っている。木工用のろくろは て円形の品物を作る機械。木工 , 金 政大臣に任ぜられてから , 平氏が京 最初は手回しであったが , 次いで手 属 , セルロイドなどのひき物を作る びきが発達し , 鎌倉時代以降から軸 都を追われて西国にのがれた 1183 年 木工用のろくろ , 陶磁器成形用のろ ごろまで , わすか 20 年足らすのもの くろなどがある。初めは手動 , やが をひもでひつはって回転させるよう になった。なお , 巻ろくろとよばれ で , まったく清盛個人と終始したと てひもを用いて足踏みなどで回転を るものは , 重いものに結んだ綱を軸 この政権は , 武士であ 与え , さらに動力による回転が行な いってよい に巻きつけ , われるようになった。木工用のろく ハンドルでこの軸を回 る平氏一門の保持したものであった すもので , 典型的な輪軸の応用であ が , その実質は , 後の源氏の鎌倉政 ろはろくろがんなともいわれる。 る。土木事業や社寺の建築などに用 権とは違い , まったく公家的なもの れは横形の一種の旋盤で , 回転軸に であった。清盛が太政大臣に任せら いられた 〔田村〕 ひもまたは皮帯を巻きつけ , 1 人が これを前後させて軸を回転させる。 ロケット rocket 燃焼室内で燃 れ , その子弟がいすれも大臣 , 納言 すると軸の一端に取り付けられた加 料を燃焼させて得た高温高速のガス などの公卿に列し , また摂関家と姻 工物が旋転し , 他の 1 人がこれに刃 戚関係を結び , 娘を天皇の後宮に を後方に噴出させることにより推カ 物を押しあてて削る。この木工用ろ 入れ , また経済的にも荘園や知行国 をうる装置 , およびその装置によっ を基盤とするなどは , いすれもその くろは金工にも利用される。製陶用 て飛ぶミサイルを総称してロケット といっている。ジェット発動機との 性格を示している。ただ , 宋との貿 のろくろのうち手ろくろは , 土をの 相違は , 燃焼に必要な酸素 ( 酸化剤 ) 易に熱心だったことや , 武力をもつ せる円板 , その中心の下方にのびる 空胴の固定軸 , この軸の中にある , を , それ自身の中にたくわえている ために , 院や朝臣などの間の反対勢 地面に固定された心棒からなる。円 力に対して高圧的で , 福原遷都や朝 ことで , したがって空気のまったく 臣の免官を強行した点などが異色で ないところでも使用でき , またきわ 板上の周辺に近く四つの穴があり , めて大きな推力を得られることが特 あるが , その武力も全国的なもので この穴に棒をさしこんで回転させる。 徴であるが , 反面きわめて燃料消費 なく , 京では僧兵の武力を圧服する けりろくろは , 固定軸の一端にさら ことも不可能な程度で , 結局はあら 量が大きい欠点をもつ。現在までの に大きなはすみ車用の円板があり , ロケットはすべて化学的な推進剤を ゆる反対勢力のはう起によって滅亡 工人は足ではすみ車をけり回しなが 〔土田〕 使用する化学ロケットであるが , 将 ら , 両手で円板上の土を加工し , 器 ろくまく肋膜 / 胸膜 来は核ロケット , 電気推進ロケット の成形を行なう。ろくろを用いて成 なども出現しようとしている。 ろくめいかんじたい鹿鳴館時代 形されたと思われる土器は , エジプ 〔歴史〕ロケットの起原は 1232 年侵 1880 年代の欧化主義の時代。 1879 年 トその他の古代文明の遺跡から見い 外務卿に就任した井上馨は , 条約 入したモンゴル軍との戦いに初めて だされるが , その使用は欧州 , アジ 用いられたと伝えられる中国金軍の 改正を促進するため , 日本の欧化ぶ アに限られ , アメリカ大陸のマヤ , 火箭すなわち火薬によって推進す りを外国使臣にひろく認識させよう インカ文明ではろくろ台は使用され る矢であるとされている。現在でも とした。鹿鳴館は , そのためのショ なかったらしい。今も未開民族のは 「シ・ナ・ク ) ケ ( Chinese arrow 」とし、う ーウインドーとして , 83 年東京内幸 とんどは , 土器を作るのにろくろを 町の地に開館したレンガ造 2 階建の 語はロケットと同義に使われること 用いていない。日本でろくろが現わ 建築である。英国人コンドルの設計 れるのは 5 世紀後半で , 古墳時代の がある。 41 年には火箭はモンゴル軍 鹿鳴館は , ニコライ堂 に成り , 工費 18 万円を要した。以来 須恵器はろくろによって成形され によって欧州にもたらされ , また 13 などを造った英人コン 世紀後半から , 火薬やロケット技術 数年間鹿鳴館は , こでくりひろげ ている。その製作技術は , 南中国か ドルの設計で , レンガ がアラビアをへて欧州に伝わり , 15 られたはなやかな社交によって , 欧 造 2 階建の建築。 1881 ら南鮮を経由して伝わったものであ 年起工 , 83 年完成した 化主義の象徴となった。そのはか洋 ろうと推測されている。当時のろく 世紀にはいると世界的にひろく知ら 建坪は 410 坪 ( 1455m つ 装 , 洋食 , 洋館や風俗改良も流行し ろの実物は残っていないが , 須恵器 たが , 国民の生活的な要求に根ざす の内面についている渦巻状の指あと ものでなかったため , 87 年井上が条 によって , ろくろを使ったことがわ 約改正に失敗し , 反動として国粋主 かる。陶磁器用手ろくろは中国 , 日 本で , またけりろくろは西洋 , 中国 , 義が起こると , あわただしく消え去 った。鹿鳴館は 1890 年から華族会館 朝鮮および日本の一部で用いられて いる。木工用のろくろは , 日本では となり , 1940 年に取りこわされた。 奈良時代の正倉院文書にろくろ工の 〔鹿野〕 ろくやおん鹿野苑 / サルナート 記事があり , 延喜式ではろくろ工は ろくよう六曜六星ともいい 木工寮に属していた。その後 / 木地 暦日の迷信。先勝黔ぅ , 友引 , 先 屋とよばれる工人集団が , ろくろ 負 , 仏滅 , 大安从 , 赤ロの 6 がんなを用いて盆やわんを作った。 種が , 旧暦の 1 月 1 日を先勝 , 2 月 彼らは良材を求めて山中をさまよっ 1 日を友引 , 3 月 1 日を先負と順に たが , 彼らがのちに定着した場所は , 起点として循環する。中国の諸葛孔 轆轤 , 鹿路会く 六路 , 木地などの地 製陶用のけりろくろ。 真清水蔵六く古陶録〉