よしわら吉原東京都台東区の かっての遊廓地。慶長年間 ( 15 96 ~ 1615 ) 以後 , 江戸幕府は取締リの便 のため , 従来市中数カ所に散在して いた遊女 - 屋を葺屋霍町 ( 現在の中央 区人形町付近 ) に集め , 吉原とよん だ。その後江戸市街の発展に伴い , さらに遠隔地に移す必要にせまられ , 1657 年の明暦の大火を機に現在の地 に移し , 葺屋町の吉原 ( 元吉原 ) に対 して新吉原とよんだ。新吉原は元ロ 原と同様の町割に作られ , おはぐろ どに囲まれたなかに , 大門冂で 外部と通しる仲 ( 中レ町を中心とし て東に伏見町 , 江戸町二丁目 , 堺町 , 角町 , 京町二丁目 , 西に江戸町一丁 目 , 揚屋町 , 京田」・一丁目か、通してい た。揚屋の衰滅した宝暦年間 ( 17 51 ~ 64 ) 以降 , 仲ノ町には引手茶屋が 軒を並べた。元吉原以来 , 明治まで 24 回の火災にあったが , 最盛期には 2 ( ) ( ) ( ) ~ 3 ( ) ( ) ( ) 人の遊女を置く江戸の 大歓楽街 , 社交地であった。その独 得な環境と生活形態 , そこから生ま れる特殊な情緒 , 意識が , 文学 , 芸 能にとり入れられ , 結果的に江戸文 化に大きな影響を与・えた。しかし江 戸時代末期には , 深川などの私娼 街が発展してその地位を失い , 明治 19 以後は単なる売春地帯となった 46 年の公娼廃止後はいわゆる「赤線 地帯」として存続したが , 58 年の査 春防卍法によっていっせい廃裳した 現在の吉原地区は旅館 , 娯楽街にな っている。 / 遊 〔駒月 : 〕 よしわらすずめ吉原雀舞踊曲 名。 1 ) 長唄 : のく吉原雀 > は本名題 < 教草吉原雀 > で , 1 世桜田治助作詞 , 富 l: 田ョバム 杵屋作ト郎作曲 , 1768 年初演。吉原の大門外が舞台で男と 女の鳥売りがにぎやかな廓える気分の 中で踊るもの。男の鳥売り実は八幡 太郎義家が女の鳥売り実は出羽国平 賀の鷹の精に救われるという珍妙 な筋だが現在では単なる鳥売りの 踊りとして流行している。 2 ) 清元の < 吉原雀 > はく筐花手向橘むけのそてのか かたみのはなた〉 という題名で , 長唄の曲を利用して いきに仕立てたもの。男女の鳥売リ が後半引抜きでいさみはだの男と安 女郎に変わる。 〔槌田〕 4 0 1 な小屋か構えられた。辻ばなしでは 貞享期 ( 1684 ~ ) ごろ江戸の中橋広 小路で人気をとった鹿野武左衛門 , 延 宝天和期 ( 1673 ~ 84 ) に京都の祇園ーん 真葛ガ原 , 四条河原 , 北野天満宮 , 百 万遍などでもてはやされた露の五郎 兵衛 . 貞享から元禄享保期 ( 1688 ~ 1736 ) にかけて大阪の生玉神社 , 道頓 堀え , 天王寺などで大評判をとった 米沢彦八 , 辻講釈では元禄期に江戸 の浅草見付でく太平記理尽抄〉を講 義した ( のちその場所が太平記講釈 場 , 太平記場とよばれた ) 名和清左衛 同しころ堺町で軍談を読釈した 門 , 赤松青竜軒 ( 清左衛門と兄弟ともい , 同一人物との説もある ) などが し、 記録に残っている例である。むろん 聴講は自由であり , 料金も投銭形式 であったが , 武左衛門は 1 人につき 6 文をとったと記録にみえるから , 定額徴収の場合もあったのであろう。 しかし , よしす張りやむしろ張りの 小屋では風雨にたえられす , 連日続 演もむすかしいので , しだいに水茶 屋 , 料理茶屋 , 芝居茶屋 , 音曲くけ いこ所 , 寺小屋 , 商家 , あき家など を借り , あるいは自宅を使って人を 寄せるようになっていく。講釈のほ うでは 1757 年 , 馬場文耕ははしめて 掛あんどんの看板を用いたり , 無料 入場を拒否する ( ただし料金はまだ 任意 ) 掲示をしたりして , 興行性を 明確にし , はは、同しころの森川馬谷 は芸名をあんどんに掲げ , 看板やビ ラの書体も決定したという。落語の はうでも , 1791 年に大阪から江戸へ 出て橘町の寵屋の 2 階を借りて 好評を得た岡本万作が , 98 年に再度 江戸へ出て , 神田豊島町藁店に頓 作軽ロばなしの看板を掲げて常設席 場を開き , これに対抗して三笑亭可 楽 ( 1 世 ) が下谷柳町稲荷神社内に 人を寄せ , さらにまったく時を同し くして大阪では桂文治 ( 1 世 ) が座 摩神社内に常打小屋を建てるという ふうに , 建築物としての寄席が定着 したばかりでなく , 料金も一定し , 絵入辻ビラなどの宣伝方法も進歩し ーに興行場としての寄席 たので も確立されるにいたった。また れによって , それまで昼間ははかの 業に従事しながら夜だけ芸を演して いたものが職業人として独立するこ とができたため , 人数もふえ , 昼も 開演するようになリ , はなしや講釈 のはかに俗曲 , 浄瑠璃 , 声色調 , も のまね , 写絵 ( 幻灯 ) , 曲芸 , 手妻 ( 手 品 ) などの「色物」芸も続出したので , 寄席は民衆の生活にもっとも密着し た慰安の場として大いに親しまれた 江戸では下町全域にむらなく普及し , 1815 年に 75 軒 , 文政期 ( 1818 ~ 30 ) の 末年に 125 軒を数えている。京阪で も京都の四条河原 , 四条道場 , 蛸を薬 師 , 北野天満宮 , 大阪の難波新地 , 生玉神社 , 法善寺 , 和光寺 , 天満宮 , 御霊神社 , 座摩神社 , 博労稲荷な どの諸所に栄えた ただし , 江戸で はなし場および寄席とよんだ落語席 のことを京阪では講釈場および席と 称した。また , 京阪では落語と講談 だけをかけたが , 江戸では上述のよ うに色物を落語の席にかけ , 講談だ けをかける席を別にしてこれを講釈 場または釈場とよんだ。江戸の寄席 は 2 階建が多く , 収容人員 200 ~ 400 の畳敷きの構造がふつうだった。京 阪でも規模は似ているが , 客席は上 間の間に畳床が細く数条配置される 構造になっていたものも少なくない ようである。 天保の改革のとき , 1841 年には寄 席も大弾圧のあらしにさらされた。 ことに女芸人や , 関連する席の主人 は罰をうけ , 76 軒あった寄席が 15 軒 に減らされるという状態に陥った しかし 44 年に禁を解かれると , たち まち 60 軒以上ともり返した。安政期 ( 1854 ~ 6 のには軍談席 220 , はなし 席 126 にのは、ったと記録したものも ある。 32 文程度だった木戸銭はこの ころには色物席が 48 文 , 講釈席が 36 文程度に上がっている。またこのこ ろには , 京阪でも講談専門席と落語 専門席の別ができ , 江戸と同しく前 者を釈場 , 後者を席とよぶようにな っていた。明治維新の動乱で江戸 ~ 東京の寄席は一時衰えたが , またす ぐ復旧する。 80 年ごろに 163 軒 , 84 年ごろに 87 軒 , 1901 年ごろに 79 軒 , 12 年ごろに 43 ~ 44 軒という数字か、諸 文献にみえるが , このころには地域 の膨張にしたがってかなり郊外にま で端席ができ , 義太夫節専門や浪 花節専門の席もできていたから , 格 づけや色分けによって算定の基準は まちまちであって , これをそのまま 実数の増減とみることはできない。 しかし , 1 区内に数軒 , 市中で合計 1()() 軒の盛況だったという実感的な 表現は受け入れてよかろう。大阪に は 1880 年に 15 軒 , 93 年に 14 軒 , 19 ( ) 3 年に 8 軒という数字もある。木戸銭 は 1 銭 2 厘 ~ 1 銭 5 厘程度から 3 銭 5 厘 ~ 4 銭と上がり , 明治末期には 8 銭から 1 ( ) 銭といったところだった 明治時代は名人上手がひしめいて 寄席 ( 補 ) テレビの普 及にともない観客層も 変化した。東京でも本 格的な寄席は上野本牧 亭 , 上野鈴本 , 人形町 末広 , 新宿末広だけだ が , 近年劇場ホールを 使っての東急文化寄席 , 東宝名人会 , 東横寄席 , 三越名人会など新しい 形のものが生まれ , 漫 才や歌謡曲をとりいれ たものが大阪や東京で も盛んである。なお寄 席では出演者の主任を 真打 ( しんうち ) といい 前座 ( ぜんざ ) , 二つ目 , 真打は一座の順位を表 わす名称である。講談 では前座 , 中座読 ( なか ざよみ ) , 後座読 ( 真打 ) という。中入り ( 体憩 ) 前には人気者が出演す るのが通例である。 寄席風景。若い落語家 の真打昇進披露をかわ た席なので , や花な ど , 高座は平日よりに ぎやかに飾られている。 東京人形町末広亭にて よせ寄席落語 , 講談 , 漫オ , 漫談 , ものまね , 俗曲 , 浄瑠璃う , 浪花節 , 手品 , 曲芸 , 寸劇などの 小規模な大衆芸能の上演場。西洋で の va r i e ty ha Ⅱに近い。古くは寄せ 場といい , 略して「寄せ」とよび , のちに「寄席」の字を当てるように なった。席ともいう この寄席で演ぜられる芸能を寄席 演芸というカ { , そのうち落語 , 講談 はもと辻ばなし , 辻講釈であリ , 路 傍 , 川原 , 神社や寺院の境内などの 露天で凵演されていたか・ , 聴衆の支 持が高まるにつれてその場所が固定 化し , よしす張りやむしろ張りの簡素
1 6 () 使 , 厚いしつくいで保護する。屋根は本 がわらを用いるが , それだけでは風 で飛ばされるので , しつくいで固め るのである。 〔中部地方〕日本の屋根といわれる 岐阜 , 長野両県の山岳地帯の民家は 地方性が豊かで , 日本の民家を代表 するような特色ある様式がみられる。 入口 岐阜の山奥から日本海に注ぐ庄川ぞ いの荘川疉う 「なかま」は畳敷きで家族の寝る , / 白川郷 , 五箇山地 場所。他は中門造リと同しである . なには有名な「合掌造リ」の民家が ある。合掌造りは大家族制度のもと 風を避けるためにくば地に建て , 北 西には植込みをするのが原則であっ に成立した建築様式であるといわれ た。家の造りは茅ぶの民家が多い ていたが , 最近の研究によると , 農 地のごく少ないこの地方の農民は , カ { , だいたい名主以上の住居には「せ 江戸時代中期に養蚕の技術が導入さ がい造り」という形式があった。せ がいとは軒下の柱から腕木を出して , れるまでは , もつばら狩猟や伐木に よって生活をしており , そのころの , こにも天井を張り , 外見をよくし 民家は板ぶきのこう配のゆるい屋根 たもので , 堂々とした感しをもって をもった建物で , 合掌造りではなか いる。これは京都の大きな町屋様式 ったという。ところが養蚕を生業と を移入して一般化したものといわれ , するようになると , 住居内に大きな この地域固有の様式ではないが , 大 空間を必要とし , 2 階 , 3 階を設け きな屋根の重厚な印象を強めている。 おもてひさし るようになった。そこには人間が住 徳川家康が江戸の都市建設を始めた 当時は , すべて「京造り」が基本で むわけでないから , 屋根裏で十分で 長野県大市常盤上一本木。清水チ あり , 同時に多雪地帯である関係か あったから , 京都風の町家がこの地 徳島県の一部を除いてかわらぶきの ら , 屋根こう配を急にして , 板ぶき 域にも建てられた。しかしあいつぐ 小ぎれいな家が多く , 技術的にみて よりも材料費の安い茅でふき , その 火災の対策のため , 江戸時代中ごろ も京阪地方と大差はない。草きの 結果合掌造りが成立したと考えられ には防火的な土蔵形式の「塗屋造り」 民家でも , 中央部の母屋だけを草ぶ ている。したがって大家族制は , 養 ( 左ト図中の見世わ蔵 ) カ { 普及した。 きにし , 四方の下屋はかわらぶき 蚕に労働力を提供する意味はあって うして屋造りの家屋に黒ぺいと見 にした「四方蓋もといわれる様式で も , 直接合掌造りの様式には関係は 越しの松を配した , いわゆる江戸風 ある。平野部に比べ , 徳島県三好郡の ない。合掌造りの造形はたくましい な造りが成する。 祖谷地方などの山村は , 寄せ練草ふ が , 同じ山岳地帯でも長野県の民家 〔北陸地方〕多雪地帯である北陸の きのごくふつうの民家で特色はみら は屋根の低い板ぶきで , 山なみのか 民家は積雪に備えて柱が太く , 軒の れない。しかし山を越えて太平洋に げに隠れる従順な造形である。とく 出が少なく , また採光のため建物の 面した高知地方に出ると , 石とかわ に木曽谷や松本 , 飯田地方には , 庄 せいの高いのが一般的である。また らとしつくいをふんだんに使った特 屋級の住居に「本棟造り」 ( 左上図 ) 防寒のために , 床を設けす土間に住 色ある建物が多い。台風地帯である と称される様式がある。それは玄関 んでいた。なせなら雪が積もると , ために , その対策上生まれた意匠で 正面に切妻破風をみせ , 棟に「すす 温度は雪の表面になるほど低く , 内 江戸の町屋。見世 E 蔵 ある。ます土台を固めることからは めのおどり」といわれる飾り板をつ 部ほど高くなる。家が雪に埋もれて が店舗の部分にあたり , しまり , 城郭にもおとらないりつば け , さらに白い妻壁の 2 階中央に出格 いるときは , 雪面の冷たい空気が下 塗屋造りである。いき な石がきを築き , 次に建物の壁は , な黒ぺい見越しの松の 子を配した印象的なデサインである。 へさがり , 室内の暖気は上へあがる。 奧に住居の部分が見え 下側に下見板をかならす張り , 上は 〔関東地方〕武蔵野給地方の民家は , ちょうど家が煙突の役を演しるわけ る。く近世風俗志〉より で , そのため下からのすきま風を極 住居 度に避けなければならない。そこで 板敷きはやめて , E 間に , もみがら , ぬか , むしろを厚く敷いて暮らした という。屋根は茅 , わら , ササぶきが ふつうであった。加賀 , 能登 , 越中 地方では , 屋根をささえる梁弩げた を # の字に組むので「わくのうち造 り」と称している。これに対し , 越 後には「中門造り」 ( 右上図 ) がある。 中門とは寝殿造りの中門のように 本屋から一部に突出した形式をいい , その突出した部分の室の用途により 厩中門 , 寝間中門 , へや中門など がある。 〔東北地方〕この地方の農家にはき まって馬屋がみられる。これは冷寒 地帯の農耕には牛より馬が適するた めであるが , 馬屋と本屋との関係で , 北陸でのべた中門造りのほかに , 「曲 屋造り」「直屋ぐ造り」がある。中 門造りは越後に近い山形 , 秋田 , 福 本楝造り」の間取り 「直屋造り」の間取り ざし ま や 上段のまなかのまとこのま ( きたいま ) おくの 上段ま なかま - わ、つか ものおき 配膳 ( せん ) 台 かって 卍 しもざしき お え ま やりのま や ひろま ー而ー禰 liil ゆどの けんかん 見世土蔵 平がわら棒しつくい ⅦⅧ / ぶン一彡多ーー′ 火の見 0 井戸 木戸 自身番所 番人小屋
ワガシ 6 4 1 米粉をこねてゆで , 薄くのばし細く 切って着色 , 油に合わせて干したも の。春日神社の祭事の供物にした例 がある。 2 ) 桃子とう梅枝に似る。 3 ) 碣餬うどん粉をこね中国の碣 ( サ ソリ ) 形に作って油いりしたもの。 4 ) 桂心これも小麦粉の油揚げを 干したもので , 唐菓子中もっとも一 般的である。 5 ) 黏臍現在のだん ごに似た油揚げで球形 , 上部にへこ みがある。 6 ) 蹕小麦粉製の平 たく薄いあん入りもち。 7 ) 饂子ご もち米の蒸もちで芋の子形。 8 ) 団 喜もと歓喜天の供物から起こっ た名称らしく , 現在のだんごの始祖 と考えられる。以上のほか「ぶと」 「京菓子」と称された。儀式典札に用 られた。しかし国産の黒糖の使用に 「まがり」「かくなわ」「むぎかた」「ふ いられる有職菓子は , 食べるより は制限がなかったから駄だ菓子はます すく」「こんとん」「へいたん」「か も鑑賞用の飾り菓子になり , 古典に ます普及した。明治時代になると ならって「舞鶴」「おは、ろ夜」「松風」 んぎたん」など菓餅気、とよばれるも 砂糖の輸入が豊富になり , 国内製糖 「嵐山」などの名称とデザインを生 のを唐菓子の類に加えるが , これ 工業も起こったため , 製菓活動が活 んだ。また飾り菓子 , 台座菓子 , 勅 らは本来の唐菓子の変形とみられ 発になり , 一方 , 階級制の撤廃によ 題菓子などといって菓子の盛合せ , る。以上が平安時代末期までの菓子 って , 庶民といえども金銭しだいで 菓子器などに工芸的な技巧がこらさ いかなる上菓子でも口にすることが であるが , 甘味は主としてアマズラ れた。現在でも菓子の名称に花鳥風 できるようになった。また明治以来 汁 , カキの果皮などから得たものが 月を表わす品の多いのは , この時代 の国民生活の向上は , 間食の余裕を 用いられ , 輸入品の砂糖は薬用に供 多くの人々に与えた。洋菓子の輸入 されるだけであった。チャの木が中 にはしまっている。飾り菓子のなか で , もっとも手のこんだものに「有 と製造も活発になったが , 和菓子も 国から移入され , 鎌倉時代になると これと並行して製造量を増し , 生菓 平細工」菓子と一雲平細工」菓子が 喫茶の風が盛行するとともに点心と よばれる菓子が発達した。点心とは 子以外 , 干菓子 , 駄菓子 , せんべい ある。有平はポルトガル語のアルフ 本来中国では食間に食べる小間食の ェロアから出た語で安土桃山時代に 類は , 製造業 , 問屋業 , 小売業の分 意で , さまざまな「ぐ」を入れた汁 伝来し , 砂糖に水を加え , 煮つめて 業を促進させた。 であり , その種類は 48 あったといわ 固めたあめ菓子である。これに種々 〔種類〕 1 ) もち菓子もち , および れ , 羊の羹もその一つであったが の色彩を施し , また高温の房内で種 もちの加工品の総称。もちには , 正 日本ではのちに汁が取り去られ , ぐ 種の細工を施し , 果実 , 花などを写 月ののしもち , 祝儀に用いる鳥の子 の質も変化して蒸菓子が起こった。 実的に現わす技巧的発達をみせた。 もち , 3 月の節供のひしもち , 割竹 ことに 1341 年宋の林浄因が日本に帰 雲平は砂糖に上みしん粉 ( もち米を の中に詰めてなまこ形にしたなまこ 化し塩瀬姓を名のって , まんしゅう 蒸して干し , ひいて粉にしたもの ) もち , 豆入りの豆もち , とび職が建 ( 饅頭 ) を製し , 安土桃山時代をむ 前の屋根組みの上からま・く小判もち を合わせ , ヤマノイモまたは水を湿 かえて茶道の興隆とともに和菓子と などいろいろある。もち菓子として りけに用いて堅くこね , 薄くのばし しての独特の成長をみるようになっ は大福 , 桜餅 , 椿餅 , 草餅 , 柏餅 , て型で打ち抜いた片々を組み立てて た。蒸ようかんが練りようかんに発 蕨餅 , だんごなどがある。 2 ) 蒸菓 花鳥などにかたどる細工菓子で , 以 子蒸して作る品目の総称。まん 展したのもそのころである。室町時 上の 2 種は宮中や諸大名への献上菓 代末から安上桃山時代にかけて西欧 子に使われたが , 現在も 3 月の節供 , しゅう , / ようかん , 鹿児島名産のか 諸国との交通がひらけてから欧風菓 るかん , / ういろう ( 外郎 ) などがこ 祝儀などに用いられている。 子の製法が伝わった。これらをひと 京菓子は江戸時代を通して京都を れにあたる。 3 ) 干菓子いりだね ( 熬 まとめにして南蛮菓子というが , と 本拠とし , 優秀な菓子職人は京都で 種 ) と焼きだねの 2 種に分類される。 きには鎖国後に長崎からはいった菓 修業をしたが , 江戸に文化の栄えた いりだねとは穀物を粉にし , それを 子も含まれる場合が多い。「カステ 元禄期から , 徐々に江戸に進出する いって加工した製品。おこし類はす イラ」「有平殳糖「ポーロ」・「カノレメ べてこれに属するが , 一般に十菓子 店が現われ , 職人も江戸へと流れた。 ル」「ビスカウト」「タルト」などが といえば高級打物菓子 , / らくがん 江戸風の文化が育成されていくと , それで , それらはなお現在も日本化 ( 落雁 ) , / 塩釜などをさす場合が それにつれて単なる京菓子の模イ放を して製造がつづけられている。精糖 , 脱していったのは江戸諸文化 , 風俗 多い。打物菓子は木型にたねをつめ , 鶏卵の使用は輸入菓子の影響とみて 表面を平らにこすり , 型の上端をた の諸相と一致している。ことに庶民 よく , 現在博多の名菓になっている たいて抜き出し乾燥したものである。 の好みの反映は江戸においてとくに 「鶏卵そうめん」もその一つであり , 顕著で , 「桜餅」「柏餅」「鹿かの 木型の彫りに技巧がこらされ , 名人 京都の「そばばうろ」 , 佐賀の「丸芳 子」「大福」「金鍔」「草餅」 , 各 芸もあり , 老舗にはそれを使用して 露ろ」 , 松山の「タルトーなど , そ 種の「まんしゅう」「だんご」などが 手のこんだ製品を誇った。現今でも れぞれ南蛮菓子の遺風を伝えている。 3 月の節供に用いられる干菓子に多 現われた。これらの菓子を一般に 安土桃山時代の豪華な趣味と , 茶 「並生菓子」または「朝なま」とよぶ。 くみられる。有平細工菓子 , 雲平細 の湯の完成 , さらに江戸時代の平和 工菓子もこれに属する。 4 ) 生菓子 朝なまとは朝製造してタ方までに売 な社会生活は和菓子の発達をさらに あんを主体とし , 菓子の形をととの るという意味で , 宵越しの品は売ら 促進させた。「京菓子」「上菓子」と えてから , さらに火を入れない菓子 ないという江戸っ子気質から出た名 よばれる菓子はこの時代に京都に発 称であろう。 1775 年江戸幕府は輸入 の総称で , その種類はきわめてひろ 達した菓子をさし , 京都で上菓子と 砂糖の乱用を防ぐため , 菓子司の数 く , また厳密な区分もない。歴史の いわれた高級菓子が , 江戸および諸 項で並生菓子 , 朝なまと総称したも を制限したので , 上菓子の原料に必 藩にながれ , 武家用に用いられて , のがこれに当たるが , 高級品では 要な精糖の配給を得られる店はかぎ 和菓子っくり。左はら くがん ( 16 弁宝珠菊 ) で , 上下 2 枚の木型から成 型されたらくがんを抜 き出したところ。右は 練り切り ( 鋏菊 ) で , は さみで上皮を花弁状に つくり , 緑の葉と黄の 花心の材料をのせる
左は静岡県下田のなまこ壁。なまこ壁は元来は防火のために武家屋敷の 建物に使われたものであるが , 江戸時代中期以後 , 民家にも使われるよ うになった。 この下田の土蔵のように外壁全体をなまこ壁でおおってい る例は珍しい。右は神主屋敷 ( 猪熊家・香川県 ) の長屋門。 1 9 世紀。本瓦 葺 ( かわらふき ) なまこ壁の長屋門は , この地方の役家 ( やくいえ ) 層の格 式を示す象徴であった。下は吉島家住宅 ( 高山市 ) の内部。明治時代の再 建であるが , 江戸時代の典型的な形式をよく伝えている。客を接待し座 敷へ通す場所で , 部材 , 建具の表面が光り輝いているのは , 黄土を塗った 上に , 春慶塗の漉 ( こ ) しかすを塗り , それに時代色がついたためである 民家 2
ヤマイノソ 3 1 6 源頼光とその四天王を中心にした顔 見世狂言の舞踊劇として流行し , 現 在でも常盤津え煢こ 2 曲 , 富本 , 清元 , 長唄に 1 曲すっ残っている。その うちく新山姥〉と通称される常磐津 く薪荷懿ぎ雪間の市川〉は , 各流のェ ッセンスをとった山姥物の集大成と もいうべき名曲で , 1848 年 8 世市川 やまかかし本羽ヨ , 四国 , 九州の 団十郎が初演。踊りの眼目は山のふ 水田や川岸にふつうなヘビで , 体長 せいが四季おりおりに移り変わるさ 70cm , まれに 1 m を越える。体色は まを山姥が怪童丸に語りきかせる オリープかっ色で , 黒班が全身に く山めぐり〉のあたり。能のく山姥〉 体長 50 ⅷ内外。背に長い針のような 赤班が前半部に散在するが , 体色や は世阿弥作と推定され , 山姥山め とげを密生する。尾は短いが , 班紋の変異は多い。くびの正中線に ぐりの曲舞を得意として世に知ら にもとげがあり , これには先に穴が 沿って隆起があって , その皮下に円 れる遊女が , 山中で山姥に会う話。 ある。それで尾を振って音を出し , 形の毒腺が数対並び , これを強く押 近松はく嫗山姥〉のヒントをこの曲 敵に警告する。夜行性で , 昼間は岩 すと黄色の液が射出され , 目やロに から得ている。地唄のく山姥 > も直 穴か自分の穴に潜むが , ときには群 はいると強く刺激する。この場合に 接この曲による。 〔槌田〕 れをなしていることもある。夜出て , やまおかてっしゅう山岡鉄舟 はただちに洗浄して医師の手当を受 植物質 ( おもに木の根 , 菜類 , イネ科 けたほうがよい。上あごの後方の 1 1836 ~ 88 江戸時代末期の幕臣 , 明 植物など ) を食べる。外敵に会うと , 本の歯はとくに大きく , 種類の特徴 治天皇の侍従。子爵。通称鉄太郎。 になっている。 / ( 別刷 ) は虫類 しりを敵のはうに向け , 体のとげを 千葉周作の門にはいって無刀流をあ たてるので , 猛獣でも避けるという。 みだし , 剣をもって知られた。 1868 〔松井〕 ャマアラシのすむ地方の原住民は , 年戊辰戦争のさい駿府 1 ん ( 静岡 ) ま やまがそこう山鹿素行 1622 ~ この動物の通る道に円すい形の大き で使者にたち , 西郷隆盛と会見し , 85 江戸時代の儒者 , 兵学者。名は い金網製のわなを設け , この中に幾 江戸開城と徳川慶喜助命を取り決め 高興のち高祐 , 甚五左衛門と称す。 匹かがはいりこみ , とげがしやまに た。明治維新後地方官を歴任したの 会津に生まれ , 江戸で朱子学を林羅 なってあともどりできなくなったと ち侍従となり , 明治天皇の君主教育 山 , 兵学を北条氏長に学び , 神道も ころを捕え , 食用にする。 1 腹 2 ~ に力を尽くした。褝 , 書にもひいで 修めた。 31 歳のとき赤穂藩主浅野長 4 子を産む。子はとげも柔らかい。 た。勝海舟 , 高橋泥舟と並んで三舟 直に招かれ , 9 年間仕えたが , のち 寿命は 10 年くらい。なおインド産の 江戸に出て , 諸侯諸士の入門者が多 と称せられた。 〔鹿野〕 ものには短いたてか、みがある。 かった。儒学を中心とした武士道理 やまおとこ山男山中に住むと 論を , また儒学も日本的体系をもつ 〔黒田礼〕 信ぜられる妖怪めいた異人。山大 やまいのそうし病草紙鎌倉初 人やまお山史 , 山爺やま山童な べきことを鼓吹したが , く聖教要録 > しじい おひと , 期の絵巻物。詞絵各 15 段よりなる ( 1665 ) で朱子学の抽象性を批判し古 どともいう。江戸時代の随筆類には 1 巻であったが , 現在はそのうち 9 学を主張し , 幕府にきらわれて , 赤 しばしば出てくるが , 今でも九州 , 段が関戸家蔵で , 残りは諸家に分蔵 赤石 , 北上などの山地にはその伝承 穂藩に幽閉され , その間にく謫居童 されている。内容は「眼病の男」「息 問 > く武家事紀〉く中朝事実〉を著わ がある。顔かたち , 形態に関しては の臭い女」「鼻先の黒い男」「二形 いろいろな説があるが , おおむね身 1675 年許されて江戸に帰り , した。 の男」など , 人間の醜い面をリアル 儒学 , 兵学を講じた。 〔山本〕 のたけ 1 丈 5 尺くらい , 裸身で , 木 に写した一種の風俗画であるが , やまがた山形〔県〕東北地方の の葉で身をまとい , すわればひざの 方には六道や三世因果思想を背景と 日本海側にある県。面積 9325.15 : 高さが 3 尺くらいにもなったなどと 人口 1263103 ( 1965 ) 。県庁所在地は山 して病相を描いたもので , / < 地獄 いう話が多い。そういう山男に山中 形市。 草紙 > や / く餓鬼草紙 > とともに六 で出会ったとか , あるいは山男が山 〔沿革〕古くは越計国の一部であっ 道絵とみる説もある。詞は寂蓮く 小屋や里の人家へたすねてきたので たが , 712 年出羽国となり , 庄内に設 絵は土佐光長と伝えるが明らかでは 酒食を供したというような話もある。 けられた出羽柵を中心に移民によ ない。 / 鎌倉時代 ( 図 ) ところが一方では , 山男は 7 ~ 8 歳 〔春川〕 る開拓が進んだ。平安時代には荘園 やまうば山姥山中に住むと信 くらいの子どもだという伝承もあり , が発達し , 天台宗の寺院も多く建造 1 目 , 1 脚だという伝えもある。山 ぜられる妖怪めいた老女。背が高 されたが , 鎌倉時代以後は武藤氏 , 男に関する伝承には , 山の神に関す く , ロは耳まで裂け , 髪はくるぶし 大江氏 , 室町時代には最上氏が勢力 る伝承と一致した面が少なくなく , のあたりまであるなどという。そう をふるい , 江戸時代には米沢の上杉 いう老女が山小屋に出てきたとか , この伝承に古い山の神信仰の投影を 藩 , 新庄の戸沢藩 , 庄内の酒井藩な 魚をとって食ったとかいう伝説 , 昔 みることができよう。 〔石塚〕 どの諸藩が分立した。 1868 年出羽は 話も多い。山姥が産をしたという話 やまが山鹿〔市〕熊本県北部 , 羽前 , 羽後に分かれ , 羽前は山形 , も多く , 四国には山姥がっくという 菊池川中流の低地とその北の山地を 酒田 , 置賜 3 県となり , その後数 俗信もある。山姥の話は山の神に仕 占める市。 1954 年市制。人口 3267 ( ) 次の改廃をへて , 1876 年現在の範囲 える巫女の信仰の変化らしく , 金太 ( 1965 ) 。野菜 , ナシ , カキ , クリ , となった。 郎山姥の話にその比較的古い形がし たけのこなどの産が多く , 製材 , 食 〔石塚〕 品工業を行ない , 竹材 , 山鹿かさを のばれる。 やまうば山姥歌舞伎舞踊曲。 特産する。 1157 年の発見と伝える古 近松門左衛門作の人形浄瑠璃う い温泉 ( 単純泉 , 25 ~ 43 ℃ ) があり , く嫗計山姥 > に題材を得ている。武 市営浴場がある。 8 月 16 日の灯ろう 士だった夫の遺志をつぐ遊女八重 祭で有名な山鹿神宮や , 日輪寺 , 鍋 桐新 , のちの山姥は一子怪童丸を足 田横穴群 , 弁慶ガ穴古墳などがある。 柄山中で育て上げ , 坂田公時 ( 金時 ) 市域中部を国道 3 号線が走り , 熊本 として頼光に仕えさせるという筋で 〔上井〕 などからバスが通しる。 能く山姥〉の後ジテの出 ヤマカカ・シ
. ー谷らい、新当 く新版十ニ相〉 小林清親 く絵師草紙〉 く神楽 ( かぐら ) 舞〉英一蝶 く鬼の三味線 > ( 大津絵 ) 江戸末期には , 大阪の松屋耳 鳥斎の鳥羽絵風の作品く画本 古鳥図賀比 ( えほんふるちょ うつがい ) 〉 , 江戸の河鍋暁斎 のく暁斎酔画〉などがめだっ。 幕末から明治へかけては英国 の漫画家ワーグマンが横浜で くジャノくン・ / ヾンチ〉をだし , 新旧混交時代をおもしろく描 いた。く新版三十ニ相〉の小林 清親はその弟子のひとり。や がて明治 3 0 年代にはいると北 沢楽天がでてく東京六ック > での活躍となるが , つづく大 正期の漫画は岡本一平の新聞 紙上でのニュース的でしかも 文学的なマスコミ漫画となる く 1 ・月の りもー ( ハ卩ド・つーマー - 》っャー↓おぬク、ト ーれ【 , れの ー、・ゝ ) ミらいーら尹 く荷宝蔵壁のむだ書〉歌川国芳 く画本古鳥図賀比〉 松屋耳鳥斎 劵ま ( ひー 9 りら つれ ~ もいク つれーあと臥フ 物 , のくを ( 年は ルね 0 。を 爰の夭国 メう 2 、も にー三 く角カ甚句 > ワーグマン く有島武郎心中〉岡本一平 漫画 5
/ ぎゅうひ ( 求肥 ) を皮にしたもの , また京菓子に多い。とくに「練り切 り」は色彩 , 形態ともに装飾的な生 菓子の高級品の代表とする。並あん を心にして , 上皮にヤマノイモ , み しん粉などを加えた白あんをかけ , 種々の草花 , 果実などの形に作る。 へら , はさみなどを用具にして , 手 工芸的な高度の職人的技術を要求す る。 5 ) 半生菓子干菓子と生菓子と の中間 , 生菓子のあん , もち , ぎゅ うひなどの柔らかみを保ちながら , 一方 , 日もちよく , 両者の長所を生 かすもので , 高級菓子より駄菓子に いたるまで種類は多い。高級品には 松露 , 村雨 , 石衣当も , 寒氷り , 金玉糖 : よなどがある。 / もなか ( 最 中 ) はもと , 表皮だけを用いたので , 干菓子にあげられたが , あんを合わ せるようになってから半生菓子に加 えられた。 6 ) 焼物菓子生ものに火 を加えることによって仕上げる菓子 の総称。平なべ焼き , てんび焼きな ど種々あり , まれには直火焼きの ものもある。平なべ焼きには磯焼 , / 金鍔 , 空也う草紙 , ケンピ , 源氏 巻 , 紅梅焼 , 残月 , どら焼 , 丸芳露 などがある。てんびに入れて焼く菓 子の代表は / カステラで , これにも 長崎風と江戸風の 2 種があり , 江戸 風はいわゆる「かまカステラ」で , 長崎風に対し , 弱火で焼き , 仕上り が軽く , 淡泊なのをよいとする。ク リまんしゅう , / 桃山などもこれに はいる。 7 ) あめ菓子水あめを配合 した菓子。麦芽あめと糖みつとをま ぜ合わせるなど , 原料により種々あ り , また他の種類に分類される菓子 もある。有平 , 梅干しあめ , 翁あ め , 朝鮮あめ , 豆板などが有名であ る。 8 ) せんべい ( 煎餅 ) 元来が焼物 菓子の一種であるが , 独立した部類 をなす。うるち米 , もち米 , 小麦粉 を主原料とし , それに砂糖 , 鶏卵 , 水あめ , みそなどを副原料にしてた ねを作り , せんべい型に入れ , あるい は金網にのせて焼き上げたもの。各 地方に普及し , 土地の名所旧跡にち なんだ品が多い。磯部せんべいは群 馬県磯部の鉱泉水を水の代わりに用 いたものである。草カ日まうせんべいは 米粉を原料とし , 火床にのせた金網 の上で焼き , 生しよう油で味付けし た関東独特の品である。南部せんべ いは小麦粉を原料にし , 食塩で調味 , ゴマをふりかけた南部方面の特産品 である ( / せんべい ) 。 9 ) 掛物菓子 砂糖がけをした菓子の総称。九重ここ のえ , 五色豆 , 月の雫に , 政岡豆 , 三島 豆などがある。 10 ) 果実 , 野菜菓子 果実 , 野菜の類を加工した菓子は , 他の項に属するものもあるが , 生地 をよく保ったものをあげると , / 甘 納豆 , ザポンづけ ( プンタンづけ ) , ・初夢 ( ナス ) , フキ砂糖づけ , 野菜せ んべいなどがある。「ゆべし」も , ワガシ 6 4 2 もとの形は , ュズの果実の肉だけを くり抜き , 内部にもち米を詰めて蒸 したものであった。 11 ) 駄菓子駄菓 子の名は主として関東で用いられ , 関西では「雑菓子」とよぶ。江戸時 「一文菓子」とも 代にはしまり , よび , 江戸では神田島内 , 大阪では 松屋町に製造所が集まっていた。豆 ねし ; 鉄砲玉 , みしん棒など , 黒砂 糖 , 粗糖 , 粗粉が原料として用いら れた。 / ( 別刷 ) 和菓子 〔各地の名物和菓子〕日本各地には 古来伝えられたいわゆる名物菓子が 多くある。そのおもなものをあげる と次のようである。 〔北海道〕北海道には明治以前からの名菓 ミルク , バターを用いたあめ , せ はなく , んべいの類が多い。雪太郎 ( 札幌市 ) アズ キのこしあんを卵白 , 寒天で固めた皮で包 こぶ み , 表面にビート糖をまぶしたもの。 巻 ( 小樽市 ) 刻みコンプをみそ仕立てにし たゆべし。まわりにコンプを巻く。旭 ( あ さひ ) 豆 ( 旭川市 ) 十勝産の大豆に糖衣を かけた掛物菓子。ーっ鍋 ( なべ ) ( 帯広市 ) なべの形のたねにぎゅうひ入りのあんを入 れた一種のもなか。〔東北〕薄皮饅頭 ( 郡 山市 ) アズキのこしあんを薄皮で包んだ小 麦色のまんじゅう。晒 ( さらし ) よし飴 ( 宮 城県大河原町 ) たんざく形のさらしあめ。 九重 ( 仙台市 ) もち米の粒にユズの香の砂 糖をかけた小粒の掛物菓子。ひき茶 , ブド ウなどの香もあるがユズが本来。南部せん ぺい ( 盛岡市 ) 円形のかた焼きせんべい。 ゴマがかけてある。諸越 ( 秋田市 ) アズキ 粉に砂糖を加え型で押し固めたらくがん。 蕗 ( ふき ) 砂糖漬 ( 秋田市 ) 秋田名産の大フ キの茎の砂糖づけ。のし梅 ( 山形市 ) 梅肉 を裏ごしにかけ , 寒天 , 砂糖を加えて固め , たんざく形に切ったもの。〔東京都〕東京 は全国の菓子が集まる都市で , 固有の菓子 を選ぶのはむすかしい。くすもち ( 亀戸 ) クズ粉を原料にしたもちに糖みつときな粉 をかけた江戸っ子好みの菓子。言問 ( ことと い ) 団子 ( 向島 ) 米粉のだんごでアズキあ ん , 白あん , うぐいすあんの 3 色。雷おこ し ( 浅草 ) もち米に黒豆を加え , 水あめで 固めたおこし。梅ばしと甘納糖 ( 日本橋 ) 栄太楼創製の菓子。梅干しの形をしたあめ とアズキを砂糖で加工した豆菓子。もなか では喜作 ( 上野 ) , 空也 ( 銀座 ) , 秋色 ( 三田 ) など。松崎せんべい ( 銀座 ) は型の多種類 なことで知られ , 練りようかんでは虎屋 , 駿河屋 , 塩瀬などがある。〔関東〕草加せ んべい ( 草加市 ) 。五家宝 ( 熊谷市 ) おこし のまわりに水あめで練ったきな粉を巻いた 円筒形の菓子。麦落雁 ( 館林市 ) 大麦粉を 固めた六角形のらくがん。磯部せんべい ( 安 中市磯部町 ) 。古印せんべい ( 足利市 ) 足 利学校の蔵書印にかたどった小麦粉のせん ぺい。吉原殿中 ( 水戸市 ) もちあられの白 ふかしを水あめで固め , きな粉で巻いて棒 状にしたもの。水戸の梅 ( 水戸市 ) 梅の名 所にちなみ , 梅干しになぞらえたあんを梅 づけのンソの葉で包んだ半生菓子。〔東海 道〕喜楽せんべい ( 横浜市 ) 神戸の瓦 ( かわ ら ) せんべいと並ぶ。安倍川餅 ( 静岡市 ) 現在普通名詞化している「あべかわ」の発 祥地 , 同市西郊を流れる安倍川付近で江戸 時代から売られた。五万石 ( 岡崎市 ) 帆か 二人静 け舟の形をした小形のせんべい ( 名古屋市 ) 和三盆糖で作った紅白の十 菓子。外郎 ( 名古屋市 ) 本州西部に分布し , 京都 , 大垣 , 金沢などの諸都市にも古くか らあったが , 名古屋と山口が有名。柿羊羹 ( 大垣市 ) カキのジャムを寒天で練り , っ割りにしたモウソウチクの竹筒に流し固 めたゼリー状のようかん。〔中部〕塩羊羹 ( 長野県下諏訪町 ) 塩けのきいたようかん。 くるみ羊羹 ( 松本市 ) 。玉だれあんす ( 長野 市 ) 。栗羊羹 ( 長野県小布施町 ) 名物の小布 施グリを原料にする。そば落雁 ( 長野県小布 施町 ) 信州ソバ粉で固めたらくがん。栃 の実せんべい ( 岐阜県下呂町 ) トチの実の粉 をさらし , 小麦粉に混せて焼いたせんべい。 印譜落雁 ( 高山市 ) 落款を配した麦らくが ん。北陸」越の雪 ( 長岡市 ) もちの を寒ざらしにして , 和三盆糖を加えて固め た , 角形の小十菓子。柚香里 ( ゆかり ) ( 新潟 市 ) もちだねにユズと糖みつを加え固め た小粒の菓子。あられ ( 新潟市と近郊 ) 越 後米のもち米粉を固めて焼き , タレか塩で 味付けしたもの。「柿の種」も同種。笹 ( さ さ ) 飴 ( 高田市 ) ササの葉を二つ折りにし た間にはさんだあめ。月世界 ( 富山市 ) 卵 白を主原料にした軽くかわいた拍子木形の 菓子。薄氷 ( 小矢部市石動 ) もなかだねを 心に和三盆糖を両面にって , ごく薄く仕 上げた不整な四角形。長生殿 ( 金沢市 ) 唐 墨の形になぞらえた長方形 , 紅白のらくが ん。柴 ( しはつ舟 ( 金沢市 ) 小麦粉のせんべ いの両面にショウガ糖を塗った木の葉形の 菓子。羽二重餅 ( 福井市 ) 羽二重の産地に ちなんだぎゅうひもち。〔近畿〕そば一まう ろとそば餅 ( 京都市 ) ソバを原料にしたポ ーロと , 同しくソバを原料にした皮にあん を包んだもち。虎屋羊羹 ( 京都市 ) 宮中の 御用をつとめた老舗の本練りようかん。八 橋 ( 京都市 ) 米粉が原料でニッケイを入れ たたんざく形の軽い焼物菓子。そりは八橋 検校 ( けんぎよう ) の箏に見たてたとも橋の 形ともいう。五色豆 ( 京都市 ) 大豆の 1 粒 すつに , 白 , 赤 , 青 , 黄 , 紫の糖衣をかけ た掛物菓子。豆板 ( 京都市 ) 大豆 , アズキ などを糖みつで固めたあめ。粟 ( あわ ) おこ し ( 大阪市 ) 粟や米のおこしだねを黄ざら め , あめなどで固め , ゴマを加える。瓦せん ぺい ( 神戸市 ) かわらの形を模した鶏卵入 りせんべい , 瓦せんべいの元祖。関の戸 ( 三 重県鈴鹿郡関町 ) アズキのこしあんを白ぎ ゆうひで包んだもの。〔山陰・山陽〕山川 ( 松江市 ) 長方形の紅白らくがん。若草 ( 松 江市 ) 青きな粉をかけたぎゅうひもち。舌 鼓 ( 山口市 ) 白あんを白ぎゅうひで包んだ 菓子。外郎 ( 山口市 ) 。吉備団子 ( 岡山市 ) もち米粉で作っただんご。亀の甲 ( かめの こ ) せんべい ( 下関市 ) カメの甲の形をし たそりのあるせんべい。〔四国〕タルト ( 松 山市 ) ュズを香料にしたカステラ巻の菓子。 木守 ( きまもり ) ( 高松市 ) アズキあんをも なかだねにはさんだ円形の菓子。ケンピ ( 高 知県南国市 ) 小麦粉を薄くのばし , 小さく 棒状に切った焼物菓子。かつおぶし ( 高知 市 ) カツオ節形のあめ。割って食べる小さ い金づちがそえてある。〔九州〕二〇加 ( に わか ) せんべい ( 福岡市 ) 博多にわかに使 う仮面にかたどった鶏卵入りのせんべい。 鶏卵そうめん ( 福岡市 ) 卵黄を糖みつの中 に細く流し出して煮つめた菓子。鶴 ( つる ) の子 ( 福岡市 ) 卵黄を心にし , 卵白と寒天 とで外皮を整えた卵形の菓子。丸芳露と逸
ホンイセイ 5 います」「けっこうなお盆でおめでと 棚を餓鬼棚 , 無縁棚とよぶところも うございます」などのあいさつがか ある。精霊を迎えにいく先は墓地で わされる。仏教色に染められない以 あるが , ところによっては遠い山の 前は , いわゆる盆が正月と並ぶ魂祭 かなたから祖霊がくるとの信仰から , の行事であった古意をうかがうにた 盆の道草刈りを山のほうまで行なう る例といえよう。 例があり , 秋田地方のように , 火を 盆の準備の始まる時期は , 土地に 振って「しいさま , ばあさま , この より一定でない。岩手県では 7 月 1 あかりでおでやれ」とよぶところも 日を「盆入り」とよぶが , ところに ある。江戸では 12 日の早朝に草市が より 6 月 28 日を「盆路作り」といっ 立ち , この日精霊棚を飾り , 13 日の て , 墓や墓道の草刈り , 清掃などを 夕方までに寺参りをし , 迎え火をた 行なう上地もある。これを 7 月 1 日 き , 盆灯ろうを下げ , 精霊を迎え , に行なう地方はさらに多く , また 7 盆中は精進 , 僧の棚経があり , 15 日 月 5 日を「盆煤掃擎」と称するとこ タに送り火をたき , 16 日早朝にお迎 ろもあるのは , 正月を前にして節季 え屋と称する者に , 盆棚の飾りや供 茶道 , 造庭などに精通していた。書 盆はそうしからはし まる。雑草がおい茂り , にすす払いをする風習に対応するも・ は寛永三筆のひとりとして独自の光 物を託してやるのがふつうのしかた コケのむした墓地もこ のである。さらに 7 月 7 日を「池替 であった。土地により若干の作法の 悦流を創始し , 絵画 , 彫刻もよくし の日ばかりは身したく 盆以」とよんでいるところもある。 相違はあるが , 新仏のある家は手厚 たと伝えられるか、 , これには確証あ をととのえる。盆花を この日の行事は七夕と混同されが く , 灯ろうなどを立てる期間が長い。 る遺品はない。蒔絵では鉛 , スズ , 供える青竹の色も新し ちであるが , この日を「七日盆」「盆 迎え火 , 送り火は正月の左義長翳ぅ 青員を使い , く舟橋蒔絵硯〉はそ い ( 長野県伊那地方 ) 七日日 . ま」などとよび , 「墓払い」 / どんどと同し性質の火祭の作法で , の代表的なもの。陶器では茶わんに 「塔ざらい」などと称して墓のそう これによって悪霊を追い払うのであ く不二 > く雨雲 > などの名器がある。 しをする風習もみられる。もともと るとみられる。これを京都の大文字 光悦の芸術は茶道を背景とした高度 七夕には盆の行事の開始日としての のような形で行なうところもあれば , な趣味生活から生まれたもので , 近 意味があったものらしく , 正月 15 日 灯ろう焼きとして行なうところもあ 世美術工芸に一つの方向を示した功 を正式の正月とした時代に , 七日正 る。また精霊の送り迎えに , 「盆船」 績は少なくない。 / ( 別刷 ) 書 / ( 別 刷 ) 陶磁器 月を祝ったのと同し関係を , 盆と七 「送り船」などと称して船や船の模 〔千沢〕 タとの間にも認めることができる。 ほんいせいど本位制度価値の 型を用いるところがあり , 精霊送り さらに 7 日に「花枝折」などと称し 尺度および価格の度量基準を定める が水上に美しい夜景をかもし出し , て , 盆花を野山へとりにいく風習の 制度。たとえば , 貨幣法 ( 明 3 ( ) 法 16 ) それか、上地の名物行事となっている 土地がある。本来は盆花とりもこの 第 2 条の , 純金の量目 750 mg をもっ 例も少なくない。 たいていは 15 日の 日などにするのか・正式であったかと 夕方 , または 16 日の朝または午後に て価格の単位としこれを円と称すと いうのは金本位制度を定めたもので 思われるが , 実際には遅らす傾向が 送る。 盆の行事としては , ・ / 盆踊り , 盆 ある。単一の金属を本位とする単本 強く , 11 日に盆花迎えをするところ が少なくない。京都では IO 日に東山 位制度 , 複数の金属をともに本位と 綱引などが著名である。また一般に する複本位制度 , 両者の中間的な姿 区松原通の珍皇寺に参って精霊迎え は , これに先だって / 中元の贈答行 の鐘をつき , 槇の小枝を買い求め 事がある。正月の前に歳暮を贈答す としての跛行も本位制度などがある。 てこれに精霊様をのせて家に帰り , 古くは多くの国で銀が本位貨幣であ るのと同し意味である。なお盆の期 12 日夕まで井戸に浸しておいて , は 間 , すなわち精霊を祭る期間の長短 ったが , その後 , 金も本位貨幣とし しめて魂棚阯に飾る。江戸の草市も は上地により一様でなく , て鋳造され , 両者の交換比率 ( 比価 ) 7 月 14 , このように日取りが を法定する金銀複本位制度となった。 12 日に立った 15 両日を盆とするところがある一方 , 遅れたのは , 花をいかしておくっこ しかし銀の産出がふえ , その価値が 13 ~ 16 日を盆の期間とし , さらに 17 う上と , いまーっは七夕との重複を たえす下落するようになると比価の 日も休むところもある。また 7 月 7 法定は困難となり , 世界各国の通貨 打ち切る意志に基づくものであろう。 日を「七日盆」とよぶ事実に対し , 制度は漸次金 ( 単 ) 本位制度に移って 盆花と称するものは上地により一様 20 日を「二十日盆」といい 8 月 1 いった。その最初は 1816 年の英国で 日を「八朔盆」と称する例もある。 でないが , キキョウ , オミナェシ , あり , 19 世紀後半から 20 世紀初頭に 、ギ , ュリ , ホォズキ , 名称のうえばかりでなく , 盆灯ろう ソハキ、な かけて他の主要国もこれにならった。 どがみられ , そのうちの 1 ~ 2 種ま を 7 月中かかげとおすことは江戸時 たは数種類を用いるところもある。 代三都を通してみられた風習であり , 跛行本位制度というのは , 銀貨につ 江戸では精霊棚を青杉の葉で飾リ , 吉原の名物玉菊灯ろうも 6 月晦日 いては自由鋳造を認めないもので , これを籬と称した。大阪では別に 金銀複本位制度から金本位制度への に始まり , 7 月中かかげとおす例で 精霊棚を設けす , 仏壇に飾りつけを 過渡期の制度である。 1930 年代以降 あった。正月が行事の連続による長 し経木と称するものをおいた。精霊 世界各国は金本位制度を放棄して今 い祭りの期間であったように , 盆も 日に至っているが , 国際収支しりの 棚は盆棚 , 魂棚ともいい , 魂祭の祭 もとは長い祭りであったとみること 決済には依然として金が重要な役割 壇の意味であり , 正月の恵方毳ぅ棚と ができる。 〔鈴木〕 本阿弥咒悦く書画巻 > まったく同し意味のものである。近 ほんあみこうえつ本阿弥光悦 を演している。 〔吉田〕 俵屋宗達 ( 絵 ) と合作 畿地方では新盆の家にかぎり , 荒 1558 ~ 1637 近世初期の美術家。本 棚と称するものを縁側や軒下に設 阿弥家は刀剣の鑑定 , 研摩を職とす る家で , 足利将軍家 , 豊臣家 , 徳 けるふうがある。関東でも神奈川県 下では , 屋内の精霊棚のほかに , 家 川将軍家に仕えた。光悦は 7 代光心 の入口などに川砂を盛り上げたリっ の養でのち別家した光二を父とし , 光心の娘妙秀を母として京都に生ま ばな壇をつくる風習がある。 これを 「辻」とよび , 数戸共同で作る例も 1615 年・徳川家康から洛北鷹ガ れた 蜂に f•. 地を賜わり , ・族を率いてこ あるのは , 無縁仏の供養のためであ ろう。寺院で施餓鬼供養を行なう こに芸術の理想郷く光悦村 > を建言 光悦は家業のはか , 書 , 製陶 , 蒔絵 , のとまったく同し意味で , この種の
6 5 3 ワサイ の姓ばを賜わった。 769 年 / 道鏡が 的に多く , 7 ( ) ~ 80 % は中国人であっ 弟媛のふたりの縫工女をよんだ記 字佐八幡の神託と称し皇位につこう 録がある。その後 , 服装は唐風を加 た。そしておもに商業の中心地であ とする事件が起こったが , 清麻呂は る華南方面で行動し , 強奪物も銭貨 , えてしだいに華美なものとなった 裁縫の技術もそれとともに発達した それが偽託であることを奏上したた 商品などが多くなった。これは対明 め , 道鏡の激怒をかって , 名を別部 貿易が船数と貿易回数を著しく制限 が , あくまでも中国式のものであっ た。次の平安時代になると , 唐風の 穢にが麻呂と改められ , 大隅芋に配 したため , これにあすかり得ない者 衣服は日本の風土 , 気候 , 国民性に 流された。翌年称徳天皇が没し道 たちが倭寇として強行貿易や密貿易 適するように変化が加えられ独自の 鏡が失脚すると召還され , 姓を和気 をはしめ強奪行為を働いたためであ 形が作られるにいたった。しかし , る。それとともに明朝では海禁をき 朝臣んと賜わった。のち光仁 , 桓武 現代の和裁の基礎のできたのは室町 びしくしたため大陸沿岸の住民はこ 両天皇に仕え , 長岡遷都の事業がゆ 時代で , その完成をみたのは江戸時 れに反抗するものも多く , またこれ きなやんださいには , 平安遷都を奏 代初期といえよう。もともと下着と により生業を脅かされたものは徒党 し , その実現に力があった。また故 されていた小袖が表着となり , 今 を組んで倭寇と行動をともにする者 事に明るく , く民部例〉 20 巻 , く和氏 日の / きものとなったのであるが , もいた結果である。文禄期 ( 1592 ~ 譜〉を編さんした。 〔奥野〕 そで , えり , おくみ , すそなど部分 わこう倭寇 13 ~ 16 世紀に朝鮮 96 ) ごろまで倭寇の活動は続いたが , 明朝の海禁政策の修正や海防の整備 的に表着にふさわしく改められてい 半島や中国大陸を荒略した海賊をさ 。たとえば , 鎌倉 , 室町時代に と豊臣秀吉の全国統一で海賊取締り して中国人や朝鮮人がよんだ名称。 った 「ばはん ( 八幡 , 奪販 , 破帆 ) 船」な が徹底したので , さしもの倭寇もよ は , すそふきなどまったくなかった のに対し , 江戸時代にはすそふきを どともよばれる。倭寇は時代の推移 うやく終結をみた。なお , 倭寇対策 作り , 厚く綿などを入れて足の容易 と周囲の情勢によって変化がみられ のため明人の日本研究が盛んとなリ , に出ることを防いだ。そではそでた く日本考略〉く日本一鑑〉などが明国 るが , 応仁の乱の前後ではかなり相 け全体をそでつけとし , ほとんど筒 で編集刊行されている。 違する。倭寇のもっとも早い例は 12 〔福田〕 そでに近いものであったが , 江戸時 23 年朝鮮の金州を襲ったものといわ わさい和裁和服を作るための れるが , 猛威をふるうようになった 代になってたもとが丸くついた。室 裁縫のことで , 近年 / 洋裁に対して 町時代には身八つロもふりもなかっ のは 14 世紀からである。このころは この語を用いるようになった。洋裁 朝鮮半島を主とし , 華北沿岸へも侵 たが , これも江戸時代になってでき カ { 盛んになる前は , 裁縫といえば和 入し , 米 , 豆 , 奴婢まなどを強奪した。 た。また江戸時代には女子は載縫を 服裁縫のことと理解されており , さ これは日本の対馬 , 壱岐をはしめ九 らに以前は単に「お針」とか「針仕 かならす修得せねばならす , 私塾も 開かれて盛んになった。仕立て方に 州 , 瀬戸内海沿岸の低生産力地帯の 事」とか「縫いもの」などともいっ は種々の流儀が生まれたが , 部分的 住民が主となり , ときには海賊化し た。日本の裁縫の発達をみると , 古 な技術の違いはあっても根本的には 代の日本の衣服がどんなものであっ た武士団が参加して侵入したもので たかはっきりしないが , 腰衣 , 袈裟 変わりなく , 現在にまでいたってい ある。その激しさは倭寇のいくとこ る。ただ現在では第二次大戦前のよ 衣などのように , はとんど裁縫を ろ「人民一空す」と恐れられ , 高麗 うに和裁が家庭内で行なわれること 要しないもので , 布地をからだに巻 王朝の滅亡が倭寇により早められた が少なくなっており , 晴れ着や式服 きつける程度のものであったと思わ といわれるほどである。李朝になる などはほとんど裁縫を職業とする専 れる。 3 世紀ころには貫頭衣といっ と水軍の整備に力をつくし , 日本に 門家によって縫われる場合が多い。 倭寇禁圧の使者を送る一方 , 倭寇懐 て , 肩幅よりも広い布を腰たけ , ま とくに洋裁のミシンの利用度の大き 柔手段をもとったので一時その活動 たは身たけの倍ぐらいの長さに切り , はやんだ。中国では元末 ~ 明初に遼 ことは和裁にも影響し , 毛織物 , それを中央で折り , 折り目の中央に し、 化学繊維 , その他洋服地のきものに 頭の通るだけの穴を作り , その穴に 東半島一帯を侵されたが , 明の太祖 はミシンを使用して仕立てるように は九州の征西府にその禁圧を依頼し 頭を抜いて , 布を胸と背中にたらし なった。したがって裁縫技術も従来 たが成功しなかった。しかし 1401 年 , たものを着用した。このころの衣服 の運針による手縫いの方法とミシン はその成り立ちが簡単なので , 裁縫 足利。義満は倭 . 寇が日明貿易推進の を使用したり , その他 , 洋裁的技術 障害となると考え , 明の要請をいれ もごく簡単なものであったと思われ を多くとリ入れたりして , 両者を巧 る。その後 , 衣 , 褌 ( 男 ) , 裳も ( 女 ) てその取締リを九州探題に命し , 倭 みに使い分けて仕立てられるように 4 寇の強奪してきた中国人を返遠させ の上下 2 部からなる衣服になり , なり , 新しい和裁の技術が求められ , た。そして日明貿易が開始されるに ~ 5 世紀ころには百済からふたりの したがって一時倭寇の姿は消えた 研究されている。 / 和服 / 服装 縫工女を迎え入れた記録があり , 〔特色〕和裁は並幅 ( 約 36cm ) 1 反 ( 約 しかし応仁の乱後 , 室町幕府の衰亡 のころからようやく裁縫の技術が向 とともにふたたび倭寇は活発となっ 11 m ) というきまった大きさの布地 , 上しはしめたといえよう。 5 世紀に ーこの期の倭寇は真倭と称せられ いわゆる着尺地で 1 枚のきものを仕 は中国から上下 2 部からなる衣服が 立てるため , 寸法も洋我のように各 る日本人よりは中国人のはう , が圧倒 どしどし渡来し , 呉からさらに兄媛まめ , 倭寇の侵入と , それに 対する防戦のありさま を描いたもの。明代の 作。く倭寇図鑑〉から
6 6 3 よび大きさにより違うが , 船体の主 / 電子音楽などもあらわれて , そこ 要部はたな ( 棚。外板のこと ) としき にも和声的な要素が含まれるにし ( 敷。船底部分を縱貫する幅狭く厚 ても , 音楽はまったく新しい様相を 呈しはしめている。日本音楽では雅 い板 ) であるが , しきは西洋型船のキ 楽に笙の和声が存在するだけで , ール ( 竜骨 ) ほどの縦強力をになって はいす , 外板を主要カ材とした板船構 純枠な邦楽では同時に異なる音が現 造である。またろっ骨 ( 設けないも われる場合にも , それが真の和声を のもある ) および梁により横強力を なすものとは考えられない。 〔渡〕 ・与えている。たなは E だな , 中だなの ワセリン vaseline 石油ゼリ 2 部からなり , しきとともに正八角 櫓。こぎ手は船側に向 ノヾラフィンゼリーともいい , 石油を い。なお日本型船の一種に伝馬船 ( 単 かって立ち , 櫓腕の末 形の半分の船体横断面を形成してい 蒸留したときの残りかす ( 青 ~ 黒色 ) に伝馬ともいわれる ) というものが 端部を両手で握って前 る。外板の縦縁は縫くぎという鉄く をサラシ粉で漂白し , さらに硫酸で あるが , 構造上からは前記の日本型 後に押し引きして推進 ぎで固着されるが , これは西洋型船 精製した白色軟こう状の物質。主成 船をいっそう簡単にし , 船の幅を広 する。櫓脚の水中の角 がねしくぎで強い接合力を得ていた 分は高沸点のメタン系炭化水素で無 くしただけの違いである。 度を変えることにより 〔櫓ろ〕和船の推進には , 櫓という のに劣る。また , 外板の縱縁は西洋 味 , 無臭 , 融点 38 ~ 54 ℃ , 比重 ( ). 82 ~ かヒのやくめもできる ( ). 87 。軟こうの基剤 , 機械類の減摩 型船のような直線ではない。甲板は 独特な推進器具が用いられる。船尾 剤 , くっ墨などの原料とする。精製 に固着された櫓べそを櫓の入れ子に 船首尾のごく小部分のはかは備えす , 度の低いものは , ベトロラタムとい はめ , 櫓柄を櫓綱で船の床につな その他の部分では単に板を横に並べ ぎ , 櫓腕を前方へ押したり , 手前へ い , その色相によりグリーン , レッ て床としているにすぎない。帆装も スノーホワイトなど 進歩してなくマスト ( 檣 ) は 1 本の取 引いたりする。櫓の作用は , 櫓べそ りはすし式で四角の横帆がそのま に区別し , さび止剤やロープグリー を支点として櫓脚が水中で動くと スなどに用いる。人工ワセリンは物 ん中に展しられ , 13 世紀ごろの帆船 き , 傾けて動かすので , 飛行機の翼 理的によく似た性質を示すが地ロウ の域を出なかった ( / 帆船 ) 。日本型 の形の断面をした櫓脚に揚力を生す ( 石ロウともいう。石油鉱床などに産 船は同し構造船に属する西洋型船に る。この揚力は櫓を下に押しつける する塊状 , ロウ状のパラフィン ) を流 比べて種々の点で劣っているので , 前にも押すので , 船を前 とともに しだいに使われることが少なくなり , 方に押し進めることになる。櫓は , 動パラフィンに溶かしたものであり 今では湖川や港湾で , 小型の貨物船 成分も異なる。 またかしの作用もする。 〔千原〕 〔上野〕 や漁船 , または渡船として , もしく わた〔綿 , 棉〕繊維作物のうち , わせん和船外国船に対して日 は伝馬船が救命用端艇 ( 船に載せら 本船を和船とよぶことがあるが もっとも重要なアオイ科の草本また れる ) として使われているにすぎな 般には船体の構造上から西洋型船に は木本。また , それから製せられる 対して日本型船 ( 大和掣船ともい 和船の代表的なものは , 江戸時代につくられた千石船で われる ) のことを和船という。日本 1 3 艫 ( とも ) の間 , 14 雇梁 , 門轆轤 ( ろくろ ) 梁 , 戸建 ある。米を千石 ( 約 18 万 l) 積むことができるのでこの名 ( とだて ) , け蹴 ( け ) 上梁 , 1 8 外艫 , 四床梁 , 20 かし , 幻 に古くから伝わった独特の構造の木 があり , 江戸府の鎖国政策のため , 主として沿岸航路 小弥帆柱 , 22 小弥帆 , 23 いかり , 24 弥帆柱 , 25 弥帆 , 26 造船である。日本でも船の歴史は原 用の貨物船として使用されていた。その船体各部の名称 甲板 , 27 たな板 , 28 積荷 , 29 大帆 , 30 大帆キお。右上に船 始時代の丸太のくり船からはしまり は , 1 頬板 ( はおいた ) , 2 内舳 ( うちみよし ) , 3 外舳 , 体横断面を示すが , その各部名称は , ①ろく ( 肋 ) 材 , ② 大和時代の初めまでくり船を基本構 5 二の間梁 ( ばり ) , 6 表の間 , 7 三の間梁 , 4 小間板 , 加しき , ③側航 , ④中航 , ⑤耳航 , ⑥矧付 ( はぎつけ ) , 造とする準構造船の形を形成するよ 9 赤門梁 , 10 航 ( かわら ) , い腰当梁 , 1 2 切梁 , ⑦にたな , ⑧中だな , ⑨守 ( もり ) , ⑩船梁 , ⑩下船梁 8 胴の間 , うになっていたが ( / 舟 ) , その後遣 唐使の派遣 , 源平の水戦 , 元の来襲 , 遣明船から御朱印船 , 豊臣秀吉の征 緯などは日本型髜 } の建造とそれによ る航海を促した。初め平底のに近 い形であったか、倭寇のころにはジ ャンクをまねて船底を 2 重張りのと がった形とするようになり , 朝鮮や 中国の技術の影響を受けしだいに発 達し , 16 世紀後半の桃山 , 江戸時代 の御朱印船は数百トンの大県船で遠 く南洋から西洋にまで至った。 17 世 紀初めには欧州の帆船の影響下に西 洋県船も一部で建造されたが , 江戸 幕府の鎖国政策は大型船の建造を禁 止したのでその芽も摘み取られ , 航海 造船の技術は急に衰退し , その後沿 岸航路の貨物船として , その独特の 構造タイプが存続することになった 当時千石船といわれたものはその代 表的な船で , 大和掣船といわれる。 明治維新以後江戸時代に進歩のなか った日本掣船は , その当時日本に伝 えられて日進月歩の勢いで発達した 西洋掣船に比べ , その堅固 , 耐航カ , 速力の点で競争にはならなかったの で , 1887 年以後は五百石 ( 50 総トン ) 以上の日本型船の建造が禁しられた 〔構造〕和船の構造は , その用途お ワタ 櫓柄 櫓腕 入れ子 櫓綱 櫓脚 ①② 3 6 石 船 千 7 9 5 4 4 27 26 28 8 4 20 9 7