崎を取り巻いた。銀の優勝カップを取り落すまいとして、高く空に右手をあげている島 崎を目がけて、女、男、白色、黄色、あらゆる人種と階級のファンたちが、彼の握手を 争奪した。わけてもその中に、中年の婦人たちが甚だしく勇敢であった。 その中に、高瀬の家族たちも、押し揉まれていた。 島崎は、チラと、その人たちを群衆の中に見かけると、巧みに、ファンの群を逃げ て、短い時間に、理平や奈都子たちとことばを交わした。神学生の今村は、夫人に紹介 されて学生らしい初心さをつつみながら、島崎と握手を交わした。 「ね、いらっしゃいよ」 理平が知人に肩をたたかれて、後ろを向いている瞬間に、お槙は、ついと、島崎のそ ばへ寄ってささやいた。 「いらっしゃいな ! ね ! 」 「どちらへですか」 ほん - もく 「本牧へよ」 「ど , つも、ムフ夜は」 「それや、ひく手は多いでしようけれどさ、ひどいわ ! 何日かの、あれッ限りで 「おいおい」 っ めて
は、外国船の下級船員たちが、非常によろこぶもんですって」 「だから、わしが買うよ」 しいえ、売らないと言うんですよ。 ようござんすか君 ! 私は、これを売りつけ に来たんではありません」 「じゃ、何だって」 「夫人も、一言あっていいでしよう、君はこれを認めますか。騎手の島崎との醜行を」 「え ! 今言おうと思っていたんです」お槙は、乾いた唇をわなわなさせて えんざい いたずら 「それはみんなトリックです、私の、何かの写真を盗んで、悪戯をしたんです、冤罪で と、終りの一句を、理平に向けて、訴えるように叫んだ。 「む、む、そうじやろう。誰かの、悪戯にちがいない。おまえにとっては、まったくの えんざい 冤罪だろう。もし、そんなものを、承知しながら流布するならば、警察の力を借りて」 唄「君たち ! 」お光さんは、平等に、ふたりを睨んで、その秩序のない泣き言に句点を打 虫たした。 「そんな強がりや、見ッともない狎れ合いはおよしなさい。その代りに、夫人の冤罪と いう点だけは認めて上げましよう。場合によっては、この原板を無償で進呈してもいし ことよ。 だが私の大事な用向きはここなのだから、ここをよく聞いて欲しいの」 マダム
「ごじようだんでしよう、君 ! 嘘を言ッたって、だめよ」 それは、男とも聞えるし、女ともうけとれるアクセントだった。 「ーー居留守なんて、古手だわよ、第一、君、自身ですら、女中にいないと言わせてお きながらここにいるじゃないの。しかし、君だけじや相手にならないですから、ご主人 に会わせてください」 「だってほんとに今、主人は船のお客をつれて、箱根の方へ参って、不在なのです」 応接しているのは、明らかにお槙だった。けれど、来訪者の圧倒的な語調のまえに、 何となくおろおろしている風がわかる。 「誰だろう ? 」 と、理平は寝床の上に起き上がって、耳を澄ましていた。 「ホホホ」と、落着きすました笑い声だ。笑い声はやはり女だった。「ーー今朝、桟橋 からお帰りになってから、ここのご主人はまだ一歩も外へ出ていないはずよ。君 ! そ んな嘘ッばち、いくら並べても、認めなくってよ。はやく会わせたまえ」 「あなた。会わせる会わせないはともかく、いったい誰冫 こ断って、ここへ、はいって来 たんですか」 「女中君が、嘘をつくから、家宅侵入を敢えてしたのよ、君、訴えますか」 「 : ・・ : 呆れましたね、なんていう、あばずれでしよう」
と、お槙は、一昨日の晩から、別人のように彼に親切だった。こんな朝はやくに、彼 を迎えに来ることだって珍しいのであった。 はぜっり 「ーーー朝は、だいぶ寒くなったな。もう季節だとみえて、鯊釣の竿が見えだした」 「夜ふかしがつづいたせいでございましよう」 「それもある。 : あ。奈都子はどうしたね、医者に見せたかい」 「あれから、ずっと、寝ております。石川博士が毎日診察に来てくださいます」 「病名は」 「やはり神経性のものだろうと仰っしやるんですが」 「分らんのか。・ : ・ : 熱は」 ゅうべは、九度ぢかくまでありましたが」 「三十八度前後 : 「ふーむ」 「やつばり、年ごろですから」 唄「肺じゃあるまいの」 曲理平は、沈鬱になった。眼の下の皮が、疲労にたるんでいた。 北仲通りの本宅へ、馬車はやがて着いた。支配人はまだ事務所の電燈を鼻の先まで下 ん げて執務していた。瀬戸の大火鉢にゆうべからの忙しさを語る吸殻がむせッばい煙を漲 R らしていた。 おとと 0 さお みなぎ
216 と、お光さんは、平調に澄まし返って、「冤罪ということは、これほどに怖ろしいこ おと とでしよう。だのに、夫人は、君よりももっと正大な、一人の労働者を、冤罪に墜し放 して、素知らぬ顔をしていましたね。 そのことは、私が連れて来た男の口から言わ せましよう。ーーー黒眼鏡君、来て頂戴」 しようしゃ 彼女が、扉の外へちょっと顔を出すと、瀟洒な巾着ッ切の常は、おとなしい笑いをた たえながら、 「ごめん下さいまし」 と、羽織の裾をはねて、一つの椅子を占めた。 タ坂越えて つば もてあそ ーモニカを唾だらけにして、弄んでいた。その間 トム公は愉快でたまらなかった。ハ に、彼の希望していたことは、はきはきと、片づいて行った。 せっとう 船渠の構内で、お槙の指環を窃盗した真犯人が、亀田でなかったことは、黒眼鏡のロ から立証された。 それを掏った当人ーー、、黒眼鏡の常が、自分の口から述べることばだった。お光さんは また、その証拠として自分の手にある、ダイヤの指環を見せた。
と、女中へ咎めた。 「ハーモニカですか。あれは、おとといの晩千歳の女将さんと警察署のお方が預けてお いでになった、トムさんです」 「トム公か。困ったやつじゃの」 「ほんとに、とんでもない者を預かってしまいましたわね。警察へおいてくれればいし と、お槙もいっしょに、眉をひそめた。 「だが、女将の証言がほんとだとすると、あれが千坂男爵の身よりのものだというのだ : おいあのト僧に、トム から、そう分ってみると、署長も処置に困っとるんだろう。 公に、そう一言え、病人があるんじやから、そんなものは吹いては困るって」 べランダ ーモニカはやま 女中は旨をうけて、さっそく露台へ上がって行ったらしいけれど、 . な、かった ) 。 理平は一睡したいのであったが、それが気になって寝る気にもなれなかった。千歳へ 電話をかけさせてみると、女将はきのう東京へ行ってまだ帰って来ないとのことで、結 局、そこへも当りようがなく、隣室へ寝床を命じて、横になった。 読みかけていた新聞にも、すぐに眼がっかれて、二、三時間ほど彼はウトウトとして すると隣室で、聞き馴れない来訪者の声がひびいた。 ちとせおかみ
「なんだ、いッてえおれに聞きてえというのは」 「これよ」 ダイヤ お光さんは、金剛石の指環を示して、 「ご存じ ? 」 「知っている ! 」と、掏摸の常は、もう捨て鉢だった。 「船渠会社の構内で掏ったんでしようね、あの、仲通りの高瀬商会の夫人お槙さんのオ ペラバッグから」 「それがどうしたって言うんだ」 「有難う : それさえ分れば、ここに泛かび上がる人があるのよ。トム公、おまえこ の巾着ッ切さんに、よく事情を話したらいいよ。こういう人は、物分りがはやいのだか トム公は巾着ッ切の常に向って、亀田がその冤罪をうけて、監獄へはいっていること を話した。また、その亀田には五人のあわれな家族たちがあって、飢えに瀕しているこ とも話した。 トム公の話の半ばごろから、巾着ッ切の常は首を垂れてしまッて、社会の最大悪を犯 したように、ただただ恐れ入っていた。そして、こんな言葉をつけ加えた。 「実あ、あっしも、まさか船渠の中でそんな仕事をしようとは思わなかったのですが、 すり えんぎい ひん
理平もお槙も、その後、亀田がほんとの窃盗者でないことは、うすうす感じていたの であったが、 そういう階級の人間に、何らの同情も介意もしない富豪通有の冷淡さが、 しいかげんに放念していたのである。しかし、今はお光さんに、きび 彼らにもあって、 しい鞭をピシピシと打たれて、その真実のまえに、慚隗のあたまを下げすにはいられな 、刀ノ 「いや、相すまん。さっそく、亀田という人を、貰い下げよう。何とも、すまん事じゃ ・いしよう 「当然その人には、賠償する義務がありますわね」 「あります。その人の身の立つように考慮しましよう」 「よろしい、誓ったことよ。 ではすぐ伊勢佐木署の保科署長を呼んで貰いましよう か。黒眼鏡は自首するそうです。つまり、冤罪をうけてはいっている亀田さんと入れ代 りになるんですから」 唄「さっそく、電話をかけましよう」と、理平は唯々として、お光さんの命に伏した。 署長、刑事主任、ほか二、三人、すぐに自転車をとばしてきた。黒眼鏡はるるとし ドック ちんじゅっ て、船渠以外の犯罪の事実までを陳述した。それは、すこしも暗惨な気分のない、明る 、舌をするようだった。 「仕立屋の身内か。じゃいちど、手にかけたことがあるな」 ぎんき
8 一方が、海であるだけに、トム公は逃げ場を失ってしまった。風呂番の男のたくまし い腕が、ます彼の襟がみをつかんで、外人だの、ガイドだの、召使だの、ほとんど彼の すがたをつつんでしまうほどの人群が、そこに度胸をすえて坐ってしまったトム公をか こんで、がやがやと騒い 「この少年、ドロボウ ? 」 一外人の質問に、通弁は言った。 しいえ、かんかん虫」 「かんかん虫 ? あ、かんかん虫 ? きよう 外人は、分ったような分らないような顔をして興がった。主人の理平も来た。千歳の げいしゃ 女将も来た。芸妓たちものそきに来た 「電話をかけておいたろうな、警察の方へ」 すぐ知らせておきましたから、もう程なく来るでしよう」 「さ、お客様たちは、。 とうそあちらへ。 : いや何でもありません、コソ泥です。かん ゆすり かん虫のトムという小僧で、まいど、強請をしたり何かして、よくないやつなんで。 : こらつ、今夜こそ、警察へわたしてやるぞ」 おどおど トム公は、黙って理平の顔を睨んだ。その高瀬の肩に、甘えかかって、何か、恟々と ささやいているお槙へ、何か言ってやろうかと思ったが、ここではやめた。
が、ご主人、つまみ出されるといけないから、その前に、かんたんに私の訪問し た好意だけを分ってください」 お光さんはポケットを探って、まだ感光液のねばりそうな生々しい一葉の写真を出し て、理平のまえに突き出した。理平は、手もふれようとはしなかったが、ちらと見る と、顔いろをうごかして、思わず眼を奪られてしまった。 「どうですか、この写真は。 : : : 夫人、あなたもここへ来て見ないこと。大へんよく撮 れましたよ」 まき お槙は青白い戦慄を奥歯にかんでいた。写真の画面には、大きな自分の顔と、騎手の みだ 彼女は、この間の 島崎の顔が、唇を寄せ合って、見るからに淫らな陶酔を語っていた。 , 晩、その秘密な場面を盗まれたせつなに浴びたマグネシュウムの閃光を、今また、驚愕 の後頭部によみがえらせて、眼がぐらぐらとして来た。 「ご主人、君は、買いますか、買いませんか、この写真を」 えくば 唄お光さんの笑靨は、だんだん冷たく誇らしくなった。 虫 まるで、滅心したかのように、、、 とすぐろい憤怒と、苦悶に、ぶるぶるとそれを睨んで ん んした理平は、いきなり彼女の手の物を引ッ奪くッて、 「買おう ! いノ、らだ」 と、一一一一口下・にビリビリと引キ、裂いてしまった。 せんりつ せんこう