「もう行っちゃいやよ、兄さん : ・・ : 」 「どこへ」 「おっ母さんの病院へ」 と , っして亜 5 い ? 「自分のおっ母あのところへ行くのに、。 「あそこには刑事さんが来ていて、兄さんが行ったらすぐ捕まえられてよ。もしおっ母 さんの耳にはいったら、その心配だけでも、きっとおっ母さんは : はなぐし と、袂を顔に当てると、掴み細工の花櫛が、前髪からふるえて落ちた。 「冷たい手をしているなあ」 「行っちゃいやよ、兄さん」 と , っしてこん ・ : 冷たい手だなあ、菊ちゃん、おめえ子供のくせに、。 「じゃ、止すよ。 な冷やッこい手をしているんだい」 「どうしてだか、分らないわ」 と , っして、 「陽あたりへ出ると、消えちまいそうだな。おいらはこんなに丈夫なのに、・ おまえは弱いのだろう」 「女だからよ」 「女だって、そんなに細い女って、あるもんか。こんどおっ母あが病院を出たら訊いて ちゃん みよう。菊ちゃんとおれとは、きっと父親がちがうのかも知れねえぜ」 たもと
あや の版画をこっそり持って来た。そして、それをすべて自分の部屋 ( ーーーと彼のしてい る ) の古ペンキの壁へべタベタ貼った。貼るには、飯粒を以てした。 歌麿がある、英泉がある、春潮がある。悉くが、美人の図だった。それが版画である とか肉筆であるとかは、次郎の智識の外で、彼を魅したものは、色彩だった。それから おばろよ 妖しいまでに何事かを囁く朧夜のさくらの梢でするような官能的な絵の声であった。 といってもその官能的なということは、次郎の年の範囲と智の限界にとどまるもの 著 ) また で、不純な刺激をよび起すことはなかった。非常に危険なものが危険なものに何の邪げ かも もなく接触の機を持ったのであるが、そこに醸されているものは、ただ美への憧景だけ だった。少年はつくづくと溜息をし、 「アア、お吉さんみたいだ : : 」と、英泉の絵に想い、「これはお幹ちゃんのどこかに 似ている」と、歌麿の絵の、乳呑み児をあやしている柱絵の美人に思ってみたりするだ ・寸 , 、、こっこ。 それらの中にたった一枚、広重の風景画があった。東海道のどこかの絵だった。肉感 的な美人画と、自然を描いたそれと、少年の美を視る眼には、何の差別もなかった。ど っちを見ても感興は同じであった。 「ジロちゃん、おまえ、わたしが昼寝しているあいだに、あの鞄をひとり開けたろ。 ちゃんと顔に描いてあるわよ」
「昼間通ったときに、そこは見ておいたからだいじようぶよ。今は、使っていない破れ むなぎん 船よ。 もし持主が怒って来たって、わたしには、ちゃんと胸算があるんだからさ」 「いやだよお吉さんは。ああ、どうしようね。じようだんじゃあない : 「そんなに、溜め息するほど心配なら、云ってしまうけれど、ポンポン蒸汽の船長さん うちひと は、みんな楼の妓たちのお客さんよ。わたしのお客にもひとりあるんだから、やって来 たらなお都合がいいわけさ。さ、ジロちゃん、下へ降りて、あの板を蒸汽へ架けるから 手をお貸し。・ : ・ : 洒落ているじゃないの、おまえたち。 : ごらん、西洋館だよ」 第三章 その晩から、廃船の一銭蒸汽を家とする奇妙な生活が初まった。夜が明けると鼻っ先 に上げ汐時の河水がひたひた迫り、坐ったままで水を汲み、顔を洗う。お吉はもう鉛分 の多い白粉を溶いて、襟くびに厚く塗っているし、次郎とお澄は、この一変した環境に 船べりを駈けてはしゃぎぬいた。そして次郎が河へ向ってオシッコを放ったりすると、 白米を磨ぎかけていた次郎の母は、
ろ 18 すると誰か、指のあたまで、次郎の頬を後ろから突いた。次郎はふり向いて、その若 い美しい乗客の面が明らかに紅くなったほど素頓狂な声で云った。 とこへ行くんだい、お幹ちゃんは」 : お幹ちゃんだ。。 「あっ、お幹ちゃんだ。 うち ・ジロちゃんは」 「わたし、鍛冶橋で降りるの。お家へ帰るんだから。 「佐渡へ行くんだ」 「え。佐渡へ」 学校で地理で習ったのと、歌や伝説で聞いた お幹はほんとに驚いたような顔をした。・ ほか、知識もないほどな遠さを感じたからだった。 「行けるのジロちゃん」 「あ。おっ母さんが一緒だもの」 お幹は車内の隅に立っているそれらしい女を見ぬように見たが、次郎に話しかけなが らお島へはふと見栄がうごいて会釈もしてやれなかった。次郎はふところから大事に折 あるじ り畳んで持っている英泉の絵を出して、いっか、お幹の父の一青堂の主にこれをもらっ たよろこびを頻りに語り出すのだったが、 何気ないうちはとにかく、乗客の視線とおも わくを感じ出すともう次郎とも自然に話せなくなって、 「その絵をそんなに細かに畳んでふところに入れて持ったりしちゃあ駄目よ : むろまち 声に注意を与えただけで、車掌台の方へ行ってしまい、次の室町で降りてしまった。 みえ
: じゃあほんとに、。 シロちゃんとこに、その鞄、おいてあるの」 「あるぜ、おいら見たもの」 「あるなら持って来てよ、後生だから」 「だれに頼まれたのさ、お幹ちゃんは」 「うちのお店へ来るお客さまなのよ。その人がこの間から青くなって困っているの。あ んまり可哀そうになったから取りに来て上げたの。ね、返してやって頂戴、たのむか 「どうして自分で取りに来ないのさ、その人が」 「とても、とても、ひとりで来るのは怖いんですとさ。どういうわけか知らないけれ ど、うちのお父さんへ、泣き顔して頼むんでしよう。お父さんも腹をかかえて笑ってた わ。変った人だって」 「意気地なしだなあ。なぜなんだろう」 「ジロちゃんにはわからないのよ。そんなことどうでも、 「だって、おばさんに訊かなけれやあ : : : 」 「おばさんてだれ ? あんたのお母さんとちがうの」 おいらん 「ちがうさ、もっときれいなひとだぜ。花魁さんだもの」 しいから、ちょっと持って来て
次郎は窓から首を出して、降りてゆくお幹ちゃんの姿が見えなくなるまで見送った。 お幹ちゃんは彼の為のように歩道の端に立ってこっちの電車を見ていてくれた。次郎の おばろ 瞼には、日本橋祭りの晩の朧な花傘と、お幹ちゃんのあの晩の白い横顔がおもい出され ていた。 急に、何ともいえぬ淋しさにとらわれ、次郎は佐渡へ行くのがいやになり出した。た とえそこに父がいて父に会えるとしても、それ以上に、お幹ちゃんのいるこの東京と別 れるのがかなしくなって来たのである。いや妹や母をこの電車の中にのこしても、今す く飛び降りてしまいたいような衝動すら少年の心を衝いてやまなかった。 上野で降りたときは足が重かった。お島は駅の構内に立ってうろうろした。三円たら すの所持金は彼女に非常な大金の感じを抱かせていたが、それだけの旅費で佐渡まで行 けるものかどうかも、どこで切符を買い、どこまでの汽車賃を払えばいいのかも見当が つかないのである。が、人にたすねて、切符売場の一つの窓口へ寄って行ったとおもう と、やがてそそくさと、顔色もまっさおになって、お島は、待たせておいた次郎とお澄 どのそばへ小走りにもどって来た。 綯「ジロ。おまえわたしのガマロを持ってないかし」 色 「知らないさ。電車賃を出すとき、おっ母さんが、持っていたじゃないか」 「じゃあ、やつばり、わたしかね。 : 無いんだよ、ガマロが」
こ、支度しねえ」 「支度なんかありやしないよ」 「だって、上わッ張に、帯ぐらいは」 「そんな物、いつまであるかい。おたがい、焼け出され同士のくせに、おもいやりがな いね、ほんとに」 「へえ、そのかっこうで、人力車にお召し遊ばすのか。まアいいや、さ行きやしよう」 : おばさん」お吉はふとうしろを 「うるさいね、あんまり急くと、頭痛がするわよ。 向いて、うるみ声になった鼻をかみ、まだ熱も三十八度からありそうな上気した眼もと をじっとすえて、 「ジロちゃんを、ちょっとここへ呼んで頂戴 : : : 」と、云った。 泣いている母のそばに次郎もならんで一緒に泣いた。 泣くんじゃないよ。そう云 ってお吉は次郎の頭を撫で、 「ネ、次郎ちゃん。小さい時の苦労はくすりだとさ。お父っさんを恨むんじゃないよ。 どおまえが、このおっ母さんにやさしくしているのを見ると、わたしゃあいつまでもお前 綯たちのそばにいて、せめてジロちゃんに勉強だけでもさせてやりたいけれど : : : 駄目な 色 んだよわたしの身はね。わかるかい」
かえ トム公は振り顧って、ぎよっとしたように外の闇を見つめた。からたちのいばらを透 おびあげ ひが ゅうぜん かして華やかな友禅ちりめんと緋鹿の子の帯揚が見えた。白い、タ顔の花みたいな顔 とげ 。ゝ、悲しそうな眼をして、棘のある垣の隙間からのそいていた。 「あ、お菊ちゃんだね」 トム公は言った。 こんばるおしやく お菊ちゃんとは、金春の雛妓の豆菊の本名だった。あの、小さな淋しい雛妓が、こん な晩こんな所へ、どうして来たのか、ばつねんと袂をかかえて立っているのだった。 「馬鹿だなあ」 トム公は、兄さん顔をして、 「何だッて、女のくせに、こんな所へ来たんだい。馬鹿だなアお菊ちゃんは、早く帰れ ん い「だって : : : 昨日病院へ面会に来たら、誰にも会わせることはできないと言って、帰さ れたんですもの」 「誰と来たの ? 」 ひ す
270 もとより彼女もここへ入る前に、異様な物音を先に耳にし、市吏員や土工頭などの姿 おやこ を見、次郎母子のひた泣きに抱き合っている前にも坐ったことなので、ゆうべお島から 聞いていた家の問題だなとは、すぐわかっていたけれど、およそ男という男たちのあら くるわ ゆる愚かしさを飽くほど廓で知って来た彼女には、じゃんこ顔もお髯さんも取立てて改 まるほどなものではなく、険しい雰囲気にたいしては、時に相手の意表外に出て、巧み き」と かわ にそれを躱すという機智なども、あの廓で揉まれて出来た修養のひとつで、意識せずに もすらりとやってのけられる彼女でもあった。 「どうしたのさ、ジロちゃんもおばさんも。 : おや、お客さまかえ ? 」 はんぎん いま気がついたような顔して、急にまた買物類の中から、山本園の半斤袋を取り出し て、お島のほうへ押しつけながら、 あが 「おばさん、上り茶を買って来たから、お客様たちへあがりでも入れて上げたらどう。 : さ、ジロちゃんには、どれ上げようね。お澄ちゃんにはこれがいいだろ。お客さん つま 方も、お摘みあそばせな」 きようぎ と、経木の上の餅菓子を分けて、自分もひとっ取って喰べ初めた。 四 「なんだい君は」市吏員が云った。
鮖だから、間違いがないとはいえないよ。お三輪に心配をさせないでね」 それは慈母のことばであったに違いないが、次郎には何だか嫌味に聞こえ、廓のやり て婆の真似みたいにおもわれてふと不快になった。 四 「水野さん、そんな無理はよしておくれよ。あんたにこの上の苦労をかけるのはいやだ し、何千円ていうお金が職もないあんたに工面できるわけもないじゃありませんか」 「いいさ、出来るか出来ないか、奔走しているんだから、まあわしに任しておけよ。 : このままじゃお前の死ぬのを待つばかりだ。おまえ、ほんとに死んじまうぜ」 「ええ、どうせ一度は死ぬんですもの。ーー死んだら、土手の浄閑寺の投げ込み墓と、 ちゃんと心もきめていますよ。せめて、死んだら、たまにお線香でも上げてください」 「ばかつ。そんな位なら何も心配はしやせん」 「ほっといてよ。もう生きてるのがうるさくなっちゃった」 病人は枕の向きをかえて不意に後ろを向いてしまった。金波楼のかつらぎである。あ のお吉 ばつねんと、枕元に置かれているのは、もう五十をだいぶ越えている男だった。金と いやみ