しいわよ、どっちにしても、こん夜ひとばん 「むじゅんしているわね、この人。 は、きっと私につきあってくれるのだから。ね、そういう約束だったわね」 「それやいいですとも」 だま 「なんだかうわの空だわね、この人は。よその奥さんを騙すようには、私ま、 ことよ。、こ承 . 知でしょ , つが」 「ははは、騙せるあなたでもないでしよう。ま、そこのべンチへ腰掛けましよう、すこ くたび し草臥れました」 と、島崎はくすぐったい顔をしながら、べンチのまわりを見廻した。お槙は男の腕に 拱まれたまま、投げるようにからだを崩して、 「呆れたでしよう」と、仰向いて、ちょっと理性めいたことを言った。 「何がですか」 「だって、高瀬の夫人であるくせに、こんな強要をしてさ」 唄「今の上流の奥さんたちは、そんなことは、一つの娯楽ぐらいにしか考えていないで ん 「じゃ、私ばかりじゃないのね。 だけれど島崎さん、あんたいったい、幺 幾人ぐらい 女のバトロンがあるの」 「幾人 ? 冗談じゃありません。男のなら、ないこともないが」
しゅん じ、ポロ靴、ゴム足袋、木靴、洋装、和装、裸装、あらゆる労働的色彩が睡眠不足な蠢 どう 動をしている。女は女でかたまり、男は男でかたまっている。鉄の門には、まだ朝霧が むらがおびただ 、、。結核性な匂いをもっ青白い瓦斯燈が、ほそい眼をして、いつもそこに簇る夥 しい求食者の群を見下ろしている。 「きようは百二十人、百二十人」 あみあげぐっは 前のめし屋のランプの影から、やがて二、三人編上靴を穿いたのが出て来て、こうい う時は仕事のある福音だった。 しかし、三分の一は、ハネをくって帰った。落伍者はたいがい労働にたえそうもない 病人や老人だった。ほかへ行っても、ハジかれる率の多い者にきまっていた。 トム公には、あぶれて帰る人たちの執着がわかった。大人になったら、おれはかんか ん虫の指揮者になりたい、病人や老人はあぶれさせないようにしてやる、と彼はポケッ トの中で握り拳を固くした。 「親方」 「なんだ、トム」 「この人をたのむよ」 「ほ、お髯さんか。立派なもんだな」 「官員さんだもの」
理平もお槙も、その後、亀田がほんとの窃盗者でないことは、うすうす感じていたの であったが、 そういう階級の人間に、何らの同情も介意もしない富豪通有の冷淡さが、 しいかげんに放念していたのである。しかし、今はお光さんに、きび 彼らにもあって、 しい鞭をピシピシと打たれて、その真実のまえに、慚隗のあたまを下げすにはいられな 、刀ノ 「いや、相すまん。さっそく、亀田という人を、貰い下げよう。何とも、すまん事じゃ ・いしよう 「当然その人には、賠償する義務がありますわね」 「あります。その人の身の立つように考慮しましよう」 「よろしい、誓ったことよ。 ではすぐ伊勢佐木署の保科署長を呼んで貰いましよう か。黒眼鏡は自首するそうです。つまり、冤罪をうけてはいっている亀田さんと入れ代 りになるんですから」 唄「さっそく、電話をかけましよう」と、理平は唯々として、お光さんの命に伏した。 署長、刑事主任、ほか二、三人、すぐに自転車をとばしてきた。黒眼鏡はるるとし ドック ちんじゅっ て、船渠以外の犯罪の事実までを陳述した。それは、すこしも暗惨な気分のない、明る 、舌をするようだった。 「仕立屋の身内か。じゃいちど、手にかけたことがあるな」 ぎんき
: じゃあほんとに、。 シロちゃんとこに、その鞄、おいてあるの」 「あるぜ、おいら見たもの」 「あるなら持って来てよ、後生だから」 「だれに頼まれたのさ、お幹ちゃんは」 「うちのお店へ来るお客さまなのよ。その人がこの間から青くなって困っているの。あ んまり可哀そうになったから取りに来て上げたの。ね、返してやって頂戴、たのむか 「どうして自分で取りに来ないのさ、その人が」 「とても、とても、ひとりで来るのは怖いんですとさ。どういうわけか知らないけれ ど、うちのお父さんへ、泣き顔して頼むんでしよう。お父さんも腹をかかえて笑ってた わ。変った人だって」 「意気地なしだなあ。なぜなんだろう」 「ジロちゃんにはわからないのよ。そんなことどうでも、 「だって、おばさんに訊かなけれやあ : : : 」 「おばさんてだれ ? あんたのお母さんとちがうの」 おいらん 「ちがうさ、もっときれいなひとだぜ。花魁さんだもの」 しいから、ちょっと持って来て
ぎようたい 経済のあらゆる面も凝滞しがちなので、この種の催しといえば、商店街や花柳界はまッ れいき ) い 先に働きかけるし、零細な小市民経済のうちにあるすべての個人から市電当局までが、 およそこういう盛大な消費にはみな反対をもたなかったという事情もある。 まつりばやし 何しても、日本橋を中心として、東京中は人と提灯と祭囃子のるつばだった。開橋式 かみしも には、大臣、市長の祝辞やら古式な裃を着た土地の長寿な老夫婦から孫夫婦が渡り初 めというのをして、その後で紅白の綱が解かれると、花電車と人がなだれ打って、文明 の橋の真新しさを云いながら、子供みたいに歓呼しつつ東西へ踏み渡った。 つい七、八年前までは、明け暮れ鉄道馬車の毛ぶかい馬の放尿と馬糞を店頭にながめ ていた銀座通りも、 いまは電車のベルが芽柳に春風を残して遠ざかってゆくのにさえ も、時勢の新鮮を感じるのであった。 変ったもんだなあ、まるで外国へ行ったよう せんじゅ わらじ だ、と嘆じながらここを歩く人を見れば、あながち千住から草鞋ばきで開通式を見に来 た者とのみは限らない。つい本所深川あたりに住む家族づれでも、銀座へ出て見たのは 何年ぶりだとか、今日が初めてだとかいう者はいくらもあったのである。 三十分も一時間も、路傍に立ちづめで動こうともしない人垣の目的は、今に花電車が ここを通るというだけの為だった。芸者の手古舞が通ることになっている道筋や橋の袂 のごときは後から首も突っこめないほど動かぬ群集に占められていた。騎馬巡査はこの 日、帽子の革紐をあごにかけ、警察にはどこの署にも、二人か三人の迷子が泣いてい
「なにも別々に武蔵をやることはないでしようが。一緒につくってはいかが」 と二人を結びつけてしまったのだ。それから五年、二人は冬のニューヨークで、常夏のカ リブ海の別荘島で、そして新緑の軽井沢で、吉川武蔵について話し合いを重ねてきた。 「剣は無力、吉川武蔵はそのことにかなり早くから気づいていた」 これが二人の一致した考え方である。一緒に何度もよく読んで、そうとしか考えられなく なってしまったのだ。吉川武蔵の愛読者の中には、 「ばかも休み休み言え」 と笑う方もあるだろうが、しかし「剣は無力、論理的に考えれば考えるほどそうなる」と いう読み方もあるのだ。戯曲は九分通りでき上っている。それにクリーガー氏の音楽が入っ ( 作家 ) てくれば、その主題はじつにくつきりと浮び上がってくるだろう。
「お重さん、今日は」 「おや、為さんじゃないか。おあがり」 る活動幻画あれど、そは一人ずつ函中の装置を窺うにすぎず。リミエル氏研究の一大 幻画は、万象活動飛躍して公衆の目前に映射するの仕掛なり。すでに欧洲各国の皇帝 女皇陛下の天覧に供し、公族貴顕よりあまねく万人に歓迎せられ、絶大の讃嘆名誉を 博したり。このたび氏は仏国技士シェレール氏をして本邦に渡来せしめ、 リミエル会 社出張の下に、日本シネマドグラフ館を以て、当公園第六区三号地に於て興行しつつ あり。その演ずべき活動画は、英国女皇近衛兵、西洋撃剣仕合、ポルトガル人の薪 割、猫の舞踏、自転車競走、ロンドン博覧会、獅子の餌飼い、露帝戴冠式の実況等八 種なり。入場券大人金拾銭、小人金五銭、他に、桟敷ふとん、下足代共、金三銭五厘 を要す。陸続万来あらんことを。 「 : ・・ : おや。帰って来たよ」 「おじさんかい」 「なあんだ、ちがう人さ」 這入って来た客をよそに、妓は鬼灯をふきならしていた。 おんなほおずき
「うん、きっと帰って来る」 彼らはトム公のことばに嘘のないことを信じた。硝子戸を外すことを手伝ったり、ま た時々、扉に耳をつけてみる注意を怠らなかった。 騎手 びよう 「じゃ、後はまた、これで鋲を締めておいてくんな」 と、トムは窓の外へ出て、捻釘廻しを彼らに預けた。 「あしたになったら、どこから逃げたんだろうと思って、驚くだろうな監視が」 「じゃ、あばよ」 「土産をたのむよ」 ガラス かわ 硝子を外した窓の一劃から、交りばんこに手をのばして握り合った。 トムは走って、闇の突き当りへ立った。しかし一丈あまりも高い塀だったので、足が かりがなければ越えられないのが分った。 彼の脱け出した穴から、六名の不良児たちはばんばんと外へ跳び降りた。そして塀の 根にあつまると、一人が手をついて台になる、また一人がその上に重なる、また一人が ガラス はず
亀田さんのことさ。おいらが、馴れない人を、むりに仕事に連れて行って、その日 に、あいつらのために、窃盗の冤罪をきてしまった、亀田さんのことだけが、すまない んだ ! 悲しイんだ」 みんなトムの顔をじっと見つめた。すごい眉間をしている者があった。もうありあり と胸で怒っている顔があった。 「ーーその人には、五人の家族がある。イロハ長屋で、満足に食える家はないけれど、 うち 亀田さんの家は、いちばんひどい。まだ、残飯の味を知らない官員さんのおちぶれで、 おまけに、子供も病気、おかみさんも、働けない体だから : : : 」 「わかった」 神学校の制服が言った。 「要するに、トムの責任感を果してやりさえすればいいんだろう」 「ウム」 しゅうわい 「同時に、横浜愚連隊は、醜穢なる石炭成金高瀬理平の家族に、精神的、或いは物質的 に、社会的制裁を思い知らしてやることを、ここで、宣一言しようじゃよ、 虫 ん 「異議なし」 ん か「賛成」 「手段は」 せっとうむじっ
「なんだ、いッてえおれに聞きてえというのは」 「これよ」 ダイヤ お光さんは、金剛石の指環を示して、 「ご存じ ? 」 「知っている ! 」と、掏摸の常は、もう捨て鉢だった。 「船渠会社の構内で掏ったんでしようね、あの、仲通りの高瀬商会の夫人お槙さんのオ ペラバッグから」 「それがどうしたって言うんだ」 「有難う : それさえ分れば、ここに泛かび上がる人があるのよ。トム公、おまえこ の巾着ッ切さんに、よく事情を話したらいいよ。こういう人は、物分りがはやいのだか トム公は巾着ッ切の常に向って、亀田がその冤罪をうけて、監獄へはいっていること を話した。また、その亀田には五人のあわれな家族たちがあって、飢えに瀕しているこ とも話した。 トム公の話の半ばごろから、巾着ッ切の常は首を垂れてしまッて、社会の最大悪を犯 したように、ただただ恐れ入っていた。そして、こんな言葉をつけ加えた。 「実あ、あっしも、まさか船渠の中でそんな仕事をしようとは思わなかったのですが、 すり えんぎい ひん