「奈都子、きようは大隈伯のお顔を見せてやるぞ。前の総理大臣閣下、新聞でよりほか 見たことはあるまい、御前様のお顔は」 「なんのご用事で行らっしやるの」 奈都子は、やがて義父になる伯父と、生さない伯母の前に、 「そりや、商売じゃ」 「だって大隈さんは、石炭なんそ、買わないでしよう」 「大隈さんに、石炭は売りつけられんよ、運動してもらうんじゃ、海軍の方へ。こんど の遠洋航海の艦隊だけでも、たいへんなもんだよ。また、生糸の方でも、いろいろとい い便宜がある」 石炭と生糸の話になると、奈都子は、理平の顔が、石炭に見えたり、さなぎに見えた りして来た。開港場成功者は、みんなそうであったがこの伯父が昔、石炭かつぎをして いた頃の姿まで見えて来て、いやであった。 「伯母さん、きよう、どうなさるの」 「疲れているから、今、お断りしていたところなのよ。奈都子さんだって、大隈伯なん て、おじいちゃんの顔なそ、見たくないわね」 「え : : : でも : : : 何でしょ , つ」 一つずつ珈琲をおいた。 コーヒー
「それはやさしい人」 「横浜の」 「東京ですって、まだ若いのよ、そして、黒い眼鏡をかけて、。 とこかの、若旦那みたい な人」 「おや、この妓、なかなかだよ」 「そんななら頼もしいけれど。 らっしや、 「どれ、私も」 「まあいいじゃありませんか」 「おや、もう一時。ちょっと、朝のうちに、お薬師様へお詣りして、帰りに、西の橋の えきしゃ 易者がよくあたるというので、観て貰って来たりしたものですからね」 「ご病人でも、あるんですか」 ししえ、人様の頼まれごとだけれど、まるで見当がっかないのでね、探偵じゃあない 虫し、またそう他人に話しては困ると言うし、困ったことを背負わされてしまったのさ。 すいきよう : ひきうける私もすこし粋狂だけれど」 ん 「ホ、ホ、ホ。女将さんのような気性だと、見込まれるんですよ」 「女のとりもちぐらいならいいけれど、大隈さんも、ひどい目にあわせるわよ。いず み : さ、お客さんが待っているんだろう、はやく行って
0 ず、その顔いろを見ている高瀬理平にもわかった。 いかがでしよう、だいぶ席が濁りましたから、ひとつあちらの茶室で、姪の不手前な お薄茶を差しあげたいと存じますが」 七時に、神奈川県下の政党人たちの懇話会にのぞむがーーそれまでにはまだ少し時間 がある。 大隈伯は、チョッキの時計をのぞいて、 「よかろ , つ」 と、一一一一口った。 はなれ 離亭の茶席へ誘ったところで、理平は、伯のふところにはいって、商法にかかるつも りだった。 が、その胸算を切り出さないまえに、伯は奈都子のたてた薄茶をひとロのん で、 「高瀬、すこし、女将に話があるんじゃが、みんなあッちへやってくれんか。む、君も そして、千歳の女将だけを、そこに止めた。 「あら、みんなお人払いをして、何でございますの御前様」 「おむら、もそッと、前へよれ」 「こ , つでギ、います・か」 うすさ
「ごやっかいになったことがございます」 と、 いう風に柔順であった。 「よろしい」 と、常の方を終ってから、 「検事局の方へ上申すれば、亀田は、即日放免されましよう。何、まだ未決監ですか ほ、っそうかい ら、法曹界の人々に聞えても、問題化される心配はありません。こんな例はありがちな ことです。 それからトム公の方ですが」 と、チラと、彼をしり目にかけて、 「県庁の警務部へ行って協議した結果ですが、たとえ本人が、大隈伯のおたずねになっ ている千坂家の身よりの者であるにせよ否にせよ、情実でこのまま、放免することはい かんという意見なんです、で、一応は、本署から彼の脱走した戸部の懲治監へ送り返し てやることに決めました。どうそ、それのご諒承を」 と、宣一言的に、経過を告げて、すぐトム公の手くびをつかんだ。 「刑事主任、ついでに、連れ帰ってくれたまえ」 「ちょっとお待ちください」 「何をしているんだ君」 「彼はどこへ行きましたか」
ちとせおかみ 彼の顧みた所に、千歳の女将が、笑っていた。 「御前様、それはお皮肉ですか。何しろてまえどもなどでは、眺めといえば、波止場の マストかかんかん虫の人通りだけでございますからね」 「わはつははは、おまえの家を、けなしとるわけじゃないんであるよ。ここの眺望を賞 めたまでじゃ」 「お越しにあずかりました上に、お賞めをうけて、恐縮にござります」 と、理平が、わきの椅子から、しきりと頭を下げていたが、大隈伯には、眼にはいっ ていないようだった。 「女将」 「おまえ今、かんかん虫ということを言ったが、そのかんかん虫で思い出したことがあ る。なあ渡辺」 と、うしろの執事らしい男へ言った。 唄 ドック 。いっそや、船渠会社のまえをお通りになった晩でございましたな」 虫 ん 「そうそう、あれは小ッこいかんかん虫じゃった。何と思ったか、わしの馬車に飛びつ ん いて来たんである。あんなのが、横浜名物とすると、女などは、夜歩きはできんそ」 背「御前様、それは、波止場乞食ではございませんか。よく馬車へとびついて、お金をね うち
うその子は、本名を、富麿といいませんかしら」 「さ、それはどうですか。おい、トム。貴様の本名はトムではなくて、トミか、トミ麿 その巡査の顔を見ないで、トムはじっと千歳の女将のすがたをながめていた。女将 も、彼の鼻すじのとおった顔だちに、自分の直覚をまちがいのないものと信じた。 「署長様。おそれいりますが、ちょっと、お顔を拝借させてくださいませんか」 千歳の女将と、署長の保科とは、そこを少し離れて、闇の中へ顔を突っこむように屈 み合った。 トム公・ - ーー千坂富麿が大隈伯のたずねている千坂男爵のむすめの子にちがいないと囁 かれて、保科署長はびつくりしてしまった。 それを、背なかあわせに、耳をすまして聞いていた高瀬理平が、度を失うほど驚いた のは、なおのこと当然であった。 もや つか 靄の疲れ 伝統の濃いこの国の女、彼らの故国の酒 悪い雰囲気であるはすがない だんしやく
「おじ様、千歳の女将さんよ」 「そうか、大隈の御前様はまだおいでるらしいのか」 「え。ですけれど、きようはまた、水上警察旗相定祝賀会というのへご出席なんですっ て。晩には、グランドホテルで、大使館の方や知事さんなんかの晩餐会があるから、と ひま ても、きようはお目にかかる隙がないでしようって」 おかみ 「だから、そこを頼んであるんじゃないか、あの女将も役に立たん女じゃの」 とうりゅう いいえ、ですから、まだ三、四日は、ご逗留になるらしいから、よい折があったら、 お電話でお知らせするというんでしよう。おじさんみたいに、 半聞きで、すぐに人を価 しちゃ、失礼だわ」 「分った、分った、それならば、それでいい。折角、横浜へ来た大官を、利用せずに帰 しちゃっまらんからの」 すうはい 「どうしておじ様は、官員様ばかりそう崇拝なさるの」 くんしよう一 「崇拝はせんよ、勲章を佩げた鴨をつかまえんじゃ、大きな実業家にはなれやせん。知 むこ 己は、上に求むべきものさ。たとえば、将来おまえのお聟を探すにしても」 「わたし、勲章を下げた人、嫌いだわ」 「そうとも、お金持の方が、遥かにええ」 「金持なんか、なお嫌い」 か - も あたい
「彼って」 「黒眼鏡です、今の、巾着ッ切です」 「 : : : 便所じゃありませんか。中折帽がおいてある」 と、理平がつぶやくのを、トム公は、横を向いて笑った。そして、お光さんに、眼く ばせした。 「いるんでしよう、見て来ますわ」 と、お光さんも、部屋の外を覗き廻った。そして、ちらっと、広東服の裾の端を見せ ダイヤ もちろん金剛石の指環も、トリック写真 たまま、彼女もそれつきり帰らなかった。 も、その隠しにつッこんだまま。 大隈伯の代理という人と、千坂家の家令という老人とが、紋付袴で、千歳の女将に伴 唄われて、横浜駅から大江橋のすぐまえにある千歳楼へはいったのは、同じ日だった。 虫女将は興奮していた。 一昨日の晩から何か非常な奇蹟にぶつかったような驚きもあっ たし、最高な善事のために自分を疲らしているという満足もあった。 帰るとすぐに、しきりと、あっちこっちへ、電話をかけていた。高瀬家の番号も、警 まぶた こんばる 察署の番号もよび出された。 やがて程経て、金春の春太郎姐さんが、すこし、瞼に ねえ ちとせおかみ
理平は、不快そうに、新聞をクシャクシャに持って、もう一度読み直しながら、 オし力なぜあ 「それはええが、お槙は、わしがやった腕環を盗まれ損ねたというじゃよ、ゝ。 んな高価なものを持って歩く ? すぐ、犯人が捕まったからよいけれど、もし宝石をバ ラバラにしてこかされたら、それ限りじゃないか。金庫へでもしまッとけ。ばゝ 「よく、ばかの出る朝ですこと」 「毛唐の客は、うるさいの、嫌いのと言って何だ、あんな西洋乞食のヴァイオリン弾き の尻などを追い廻して」 ちょうどよく、その時、電話のベルが鳴ってくれた。 ちとせおかみ 「あ : : : 千歳の女将からだろう、大隈伯がお目ざめになったら、知らせてくれるように 頼んでおいたから」 理平は、あわてて受話器を耳にあてた。 「 : : : おウ、わしは高瀬、左様、主人の理平じゃがね : : : え : : : えっ : ・何 ? ・ : 何 だア ? ・何じゃッて ? 耳を疑るように、何度も訊き返していたかと思うと、彼は、電話機が相手の顔に見え どな て来たように、呶鳥ッこ。 「ーーわしは、お前みたいな者は知らん。それでも来ると言っても、面会はせんそ。 何、奥さんに ? 奥は旅行中じゃ。 愚連隊じやろう貴様は : : : 来るなら来い つか
あと 泣いた痕を見せながら、豆菊の手をひいて、連れて来た。 豆菊は、いつもの座敷着とは、すこし袂のみじかい銘仙の着物を着せられて、髪ま で、お下げ髪に改められていた。賢い彼女の眼も、すこし、きよとんとしていた。 「このお方が、おきく様という、お末のお嬢様でござりますか」 と、両手をついて言う千坂家の老家令に、彼女はやはりきよとんとして、抱え主の春 太郎のそばへばかり寄っていた。 やがて、しめやかに、襖を閉てきって、大隈伯の代理の人と、女将とが、何か細々と 言いきかせるうちに、豆菊はしゆくしゆくと泣き出した。 その心もちが分ったので、女将はまたせかせかと警察へ電話をかけた。話がついたと 言って、急に馬車をいいつけて、豆菊も加えて、四人づれで伊勢佐木署へ出頭した。 県庁との打合せに、さんざ手間がかかったらしいが、トム公はそこにいること二時間 ばかりで、一同へ下げ渡された。馬車はまた一人の客を容れて、そこから山の手へ向っ て鞭を打った。 「分っている ? 赤十字病院だよ」 「分っています」 「いそいでおくれネ」 女将は、こんなうれしい日はないと言って、涙をふいた。まったく、うれしそうだっ めいせん こま′」ま