少年 - みる会図書館


検索対象: かんかん虫は唄う
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1. かんかん虫は唄う

それから三十分もすると、次郎が帰って来た。次郎はきのうのように佃島の民さんの 所へ行って佃煮を仕入れ、それを売って今朝も米や煮豆屋の漬物などを買って来た。商 売の自信とおもしろさを知った少年は、起抜けから今頃までにはっきりと結果の出る自 己の働きが、愉快でこそあれ少しの卑屈でもなく辛いとおもうふうでもなかった。 が、ふとお吉の姿が見えないのに気づくと、次郎は何かさびしそうにした。やがて母 親が遅い朝飯の支度にかかるそばで、 「どこへ行ったの。きのうのおいらんさんは ? 」 と、遂にたずねた。 「そんなこと云うんじゃないよ。おいらんなんて」 「だって吉原から焼け出されて来たんだろ。新富座の楽屋にもいたぜ。方々で歩いてい るのも見た。きようは何処へ行っても吉原の火事のはなしばっかりしてるぜ」 「だけれどね、あのひとは、うちの親類なんだから、おいらんさんなんて呼んじゃあ、 近所へも見ッともないだろ」 「我家にはもう近所はないぜ。我家ッきりだぜ。取り払いになっても、小田原町に残っ ているのは」

2. かんかん虫は唄う

240 宝全書だのと、どこにもある雑本ばかり目につくが、およそこうした和本屋には、仔細 に漁ると、そこの主人の個性なり趣味性なり、とにかく何か一部門、すじの通っている 特色があるものだった。 この一青堂にもそれはあって、雑然と、塵埃をたたえているかのようでも、見る者が 見れば、特に美術書の多いのに気がつくはずだし、なかなか稀本な和漢の画譜類やら、 泰西名画集の離れとか、一枚刷の江漢銅版画などにしても、どこの古本屋にも有るとい うものではない。 「ね君、近所のかね、さっきから、そこにいる子供は。どうも根気のいい子だが」 てい 箱の北斎を風呂敷に巻き、自分の物として膝において、さてすっかり安心した態の水 ゆとり 野椋太郎は、その余裕を以て、先刻から店頭で、もうかれこれ三十分以上も立ったり とお しやがんだりしていた十歳ばかりの少年を見ていぶかしそうに訊いた。 「いいや、近所のではなさそうです」 実は、一青堂も気になっていたのである。古本屋と不良少年は付きものだった。だ が、鳶のような悪さをする年頃とも見えないし、そんな鋭さも感じられないので放って いたのであった。それをいい事にして少年は、だんだん軒下の商品台からだんだん内の 方まで手を伸ばし、そこらにある錦絵や、絵本類を飽くことなく一枚一枚見ているのだ あさ

3. かんかん虫は唄う

「やあ、おめえたちは、まだいたのか」 トムの知っているのがその中に四人いた。 一番のツばの徴兵検査ぐらいに見える少年 は洟をたらしていた。 「トム、また捕まったのか。こんどはおめえ八丈島へ行くんだぜ」 「アア行くよ、八丈島へ行ってみてえや」 「あそこへ行くと、一生帰れねえんだぜ」 「嘘」い」 トムは彼らよりは高い知識で、少年感化院の性質を説明しかけた。 「こらツ、しゃべっちゃいかん」 監視人のスリツ。ハの音はたえず廊下を往復していた。彼らの心境とは最も遠い音であ 「チィッ、くそ。 ・ : おびんずるめ」 はまぐり・ あしおと と、七枚の赤い舌は、蛤のようにチュッと啼いて、感化事業家の跫音を軽蔑した。 消燈天国 しの 薄暮になると戸部の西洋牢時代を偲ばせる遺物の鐘が、黒い塀の中で六時を鳴った。

4. かんかん虫は唄う

て店の中へ連れて来て、 うち 「水野さん、やつばり迷子でしたよ、家へ帰れないって、泣いているんだ。帰れないか ら仕方なしに、絵を見ていたんでしよう。罪はねえや」 「尋常二年生か三年生かだろう。親の名前や番地ぐらいは知っていなけれやならんが」 「よく分っていますよ。築地小田原町二丁目八番地の : : : お父っさんは何と云ったつけ 一青堂が訊き直すと、少年は、 ひさまつよしぞう 「久松芳造」 悪びれずに答えた。 「じゃあ、おまえは」 「久松次郎」 「ひさまっ。 : どう書くんだい ? 」 少年は指へ唾をふくませて、そこの框へ正直に、久松とやっと書いた。そしてさも不 安らしい眼をおろおろさせたが、。 とこか人ずれのしたふうもあるし、身なりはどうして ひとえもの も、この辺の子とはおもえなかった。飛白も見えなくなった単物に寝巻のようなばろを 重ね、下のはやや長く一枚は膝ぐらいしかない。そして殊に、坊主刈といえないほど髪 も伸び放題にしているのが妙に陽なた臭いし、色は黒く、そのくせ痩せ細っている脛を かまち かすり く * )

5. かんかん虫は唄う

あや の版画をこっそり持って来た。そして、それをすべて自分の部屋 ( ーーーと彼のしてい る ) の古ペンキの壁へべタベタ貼った。貼るには、飯粒を以てした。 歌麿がある、英泉がある、春潮がある。悉くが、美人の図だった。それが版画である とか肉筆であるとかは、次郎の智識の外で、彼を魅したものは、色彩だった。それから おばろよ 妖しいまでに何事かを囁く朧夜のさくらの梢でするような官能的な絵の声であった。 といってもその官能的なということは、次郎の年の範囲と智の限界にとどまるもの 著 ) また で、不純な刺激をよび起すことはなかった。非常に危険なものが危険なものに何の邪げ かも もなく接触の機を持ったのであるが、そこに醸されているものは、ただ美への憧景だけ だった。少年はつくづくと溜息をし、 「アア、お吉さんみたいだ : : 」と、英泉の絵に想い、「これはお幹ちゃんのどこかに 似ている」と、歌麿の絵の、乳呑み児をあやしている柱絵の美人に思ってみたりするだ ・寸 , 、、こっこ。 それらの中にたった一枚、広重の風景画があった。東海道のどこかの絵だった。肉感 的な美人画と、自然を描いたそれと、少年の美を視る眼には、何の差別もなかった。ど っちを見ても感興は同じであった。 「ジロちゃん、おまえ、わたしが昼寝しているあいだに、あの鞄をひとり開けたろ。 ちゃんと顔に描いてあるわよ」

6. かんかん虫は唄う

「絵好きの子だな。よほど絵が好きなんでしよう」 「よっら - ーしい」 っこ、。ゝ絵好きなもんで、よく店さきにたかりますが、こん 「子どもってえものま、 しつまで見ている子はめずらしい」 なに我れを忘れたように、 まほえ むしろ微笑んでゆるしている一青堂の顔を見ながら、水野椋太郎もふとわが家をおも い出したらしく呟いた 「うちの子達も同じだ。僕のうちの子どもらもね」 こう云っているとき少年はふと、自分に向けられている大人達の正視をかなりつよい ショック 衝動でうけたらしい。針金の紙挟みで上から吊ってある一束ねの清親や永濯や英泉など こわごわ の版画物に手を伸ばして、恐々とめくっては見ていたその手を急に離したので、為に ばさっと絵の束が土間へ落ちた。 叱られた声でも聞いたように、少年は軒先へ飛び出していた。だが、駈け去ったので たたず こっち はなく、依然、往来の方へ向いて、今度は背中を此方へ見せて佇んでいた。 「どうかしてるよ」水野が云った。「ーー君、近所の子でなければ、あの子は変じゃな いか。泣いてるらしい、往来を見て」 「そうですね」 一青堂は、草履をつツかけて、子どもの側へ行った。何か訊ねていたらしいが、やが おとな

7. かんかん虫は唄う

ている、いわゆる少年懲治監なのである。 不良児たちの間では、ここへ三度来ると、八丈島の感化院へ送られて一生涯帰れない トム公はこんどで三度目だった。そして ということが信じられ、恐れられていた。 高い塀の下に咲いているコスモスまでが故郷の花のごとくなっかしい。 「トムが来た」 「プリンスが来た」 懲治監の不良児たちはおそろしく敏感でまた早耳だった。その無電的な囁きはたちま ち伝わって一丈もある黒塀の囲いの中を明るくした。各個の監禁室にいる不良児たち は、バンザイのかわりに、指笛をふいて、監視に叱りつけられた。 「何を騒ぐ、おまえたちは」 監視人には、まさか入監者のトム公を歓迎するそれが彼等の礼式だったとは知らなか った。ただいつものように、 「また晩飯を減らされたいのか ! 麻つなぎをやらせるぞ ! 」 おど と、ただ脅かすべく、各室を事務的に呶鳴りあるいた。 トムは、十四番の監室へよ、つこ。 。しオここには十三歳以上十六歳未満の少年漂泊者や小 悪漢ばかりが六人いた。トムがはいって七人になった。ひとり一畳すつにすると、ちょ うど畳が二枚余る真四角な箱のごとき部屋だった。

8. かんかん虫は唄う

次郎はふしぎな物を見るようにそれを見ていた。町中の女にはない大きな髪かたちの 物がたちどころに慈姑の取っ手みたいになってしまい、それと共に女の顔までが急に小 さく見え出したので、奇妙な念に打たれたのであった。しかし、そのひとが母のお島と しゃべ かくり のべっ幕なしに喋舌っているのを聞いているうちに、この女性が、一般社会からは隔離 くるわ されている、かの廓という中にいるおいらんであることが少年の常識でもすぐ覚れてき おいらん それと又、日頃、ことばの上だけで知っている花魁が、わが家へ訪ねて来たというこ とは、好奇な少年にとって、驚異すべき事がらのようであった。彼女の夜々の勤めに褪 せた緋ちりめんの長じゅばんも、そら鳴きの音も忘れた古い伊達巻も、何か、衣裳した 舞台のひとを眼のまえに見る心地がし、それらの見馴れぬものから醗する匂いまですべ きゅうかく て高貴なもののように彼の嗅覚をときめかせたのだった。 屋根板もトタン囲いも持って行ってしまいそうな砂まじりの強風が、その頃もまだ吹 き熄んでいなかった。お島とむかい合ったとたんから、何年ぶりかの積もるおもいを前 たそが 後もなく一ペんに喋舌りたてていたお吉は、、 しつのまにか迫っていた黄昏れの暗さに気 はんしようや 「やっと半鐘も熄んだようねえ。火事は消えたのかしら」と、お島の下駄を突っかけ こわ て、いちど外へ出たが、「おお恐い 」と、すぐ屋内にもどって来た。そして坐りく はっ 寺 ) と

9. かんかん虫は唄う

しお風と錆びの匂い 吉川英治の、ほんとに数少ない現代小説の一つが、 " かんかん虫 , の少年を主人公にしたものだ とい , っことは、嬉しい かんかん虫とは、造船所のドックで巨船の腹にとりついて、かんかんかんと錆び落としをするエ 員のことだという。 ・作品紀行 かんかん虫は唄うの旅 はたやまひろし 畑山博 ( 作家 )

10. かんかん虫は唄う

創業周年記念出版吉川英治歴史時代文庫全巻補巻 5 空回配本平成元年 ( 一九八九 ) 四月 新・平家物語司六波羅御幸の巻 ( 「づき ) 三国十曰序姚園の巻群星の巻 新・・平 ~ 豕物明叫・石船の巻みちのくの巻 三国志群星の巻 ( つづき ) 草簽の巻 平の将門 三国志司草の巻 ( つづき ) 臣道の巻 第三回配本平成元年 ( 一九八九 ) 六月 みちのくの巻 ( つづき ) 三国志眄孔明の巻赤壁の巻 訂新・平家物語国 火乃国の巻御産の巻 赤壁の巻 ( つづき ) 望蜀の巻 〕三国志国 粐・平家物玉御産の巻 ( 「づき ) ちげくさの巻九重の巻 3 りんねの巻 ( つづき ) 、新・平家物語曰 5 新・平家物語囮 断橋の巻かまくら殿の巻 九重の巻 ( つづき ) ~ 新・平家物語 ほげんの巻六波羅御幸の巻 斤 . 欠↑云曰 7 本ノ」′ 1 付 / 自筆年譜 忘れ残りの記 斤 . ↑云 7 本ノ」濡ー ニ回配本平成元年 ( 一九八九 ) 五月 第四回配本平成元年 ( 一九八九 ) 七月 望蜀の巻 ( つづき ) 図南の巻 三国志因 「一平 ~ 豕物五明一べかまくら殿の巻 ( 「づき ) くりからの巻 三国志七図南の巻 ( つづき ) 出師の巻 簡新・平家物語 g 一門都落ちの巻 一二国亠囚〔五丈原の巻篇外余録 斤 . 欠↑云司 7 立本 / 偏′ 1 , ( 、