とあやしまれるのである。 の好きに 遊廓というこの特殊な世界では、客と遊女との関係は、かねを費って遊ぶという以外 には、何の裏面もあり得ないものぐらいにしか、次郎にはまだここの世間が解釈されて よゝっこ。 けれどお吉と水野とのそれからのロ吻から見て、水野はやはりお吉の客なることが彼 にもわかった。またふたりの関係は吉原大火後の、あの一銭蒸汽の一夜以来の長いもの だということもわかった。それで不審も晴れたが、 何かまだべつに解けないものが次郎 には残っている。それは次郎にはまだまったく未経験に属する男女間のあやしい縁とか 心理とかいうものだった。 十分間はすぐ経っていた。さっき次郎をここへ連れて来た妓夫太郎がふすまを開けて 顔を出した。 「おい。十分間はとうに過ぎてるぜ。水野さんもそこの若い者も、 しいかけんに帰りね え。もうタ方だ。まごまごしてると掃き出されるぜ」 「イヤ、すまん。失敬した。帰るよ帰るよ」 気の弱い水野椋太郎は妓夫太郎の声だけですぐ腰を浮かし、脅えきった眼で次郎をう ながして、「ジロ君、一緒に出ましよう」とすすめた。 次郎もしかたなしに立っと、お吉は枕の上から眼をあげた。その眼はいろいろな感情 つか
におびている一事は、すでに以前の色香もなく、まして胸の病気とかくれもなくお吉の やっかた 窶れ方にも知れて、客はもとより楼中すべての者からまったく瀕死の病猫ほどもかえり みられなくなっている彼女となってからでもーー・ひとり無け無しの算段をしてもこうし て折々会、 しにくるお客といっては、今では水野椋太郎ただ一人であった。心あるかつら ぎの朋輩のうちの或る女などは、その一事を眼に見て「もし椋さんがもう少し年が若く てお金があれば、わたしやどんなに敵を作ってもあの人をお客にとってしまうんだけど : 」と、うたたその実意には惚れてよいだけの値打があることを誇張でなく呟いたこ ともある。 お吉もそれには深く心からこたえて来た。決して間夫でもなければ好きとも思わない のを知りつつ、まだ客も多く我儘のできた頃は、常にいじいじした小銭遊びにさえ容易 でないらしい彼にたいして客以上の親切やら勘定を庇ってやったりして来た為に、こう いう社会では当然、もの好きなと、笑いばなしさえ、そうではないと、いちいち云い訳 するのもうるさく、聞き流しているお吉ではあったが、水野椋太郎は正直に、それを第 三者の妬みと思い、ふと冷やかされでもするときは、世摺れない五十面を真っ赤にして はにかんだ。 お吉が、うす暗い、汚い行燈部屋の隅で寝ついてからも、彼のそうした情熱はすこし も変化しなかった。いやむしろお客として三階の割部屋に通るときよりも、この日当り ねた じつい まぶ づら
西瓜の種と、夥しい蠅の中で刑事部屋のはなしは賑やかだった。その中に一青堂の主 人が扇をつかっていた。西瓜は彼の携えて来たおみやげらしく、刑事の一人は彼の知人 彼が八丁堀署のその知人の刑事を訪れた用向きは、水野椋太郎が一銭蒸汽のうちに遺 失して来た古鞄の問題であった。その鞄の内にある数枚の錦絵は、実はまだ水野から代 価を受けてない自分の物であり、しかもその中の春信、春潮などは時価数百円もする逸 品でもあるというのだった。 水野椋太郎は、大蔵省属からやっと近年判任になった善良な官吏で、勤続数十年をチ コチコと蓄財しては唯一の趣味とする浮世絵蒐集のほかに何の道楽あるをも聞かない小 心清廉な君子人だったとおもっていたところ、どうした風のふきまわしかつい先頃その 辺の河岸ッぶちで売笑婦に袂をひかれ、ふらふらと魔がさしたように怪しげな廃船の一 銭蒸汽のうちであやしい春を買ったのがあやまりで、そこに大事な鞄を忘れて来てしま った。それもいいが彼の小心は、すぐ後でそれと気づきながら、何か、その売笑婦に帰 りがけひどく罵られた事を気に病んで、どうしてもひとりでは再びあの怪船へ鞄を取り けんちゅう をあきらめさせて、お重は絹紬の洋傘を手に、妓夫の為吉とふたりで家を出て行った。 おびただ
貧弱なる大島まがいの着物に、羽織の紐さえほっれたのをつけ、破れ袴をはいていた。 これが七年前の吉原の大火後、あのさくら橋河岸の一銭蒸汽で、ふと、お吉の鼠啼き に船底へ誘われて、あやしい一夜の春を買って、しかもその折の間違い事からあわてて 逃げたあわれなる大蔵省判任官の水野椋太郎だということは、ここにいる男女のほかお そらく誰も知る者はあるまい 事は、滑稽に似ていたが、水野にとっては、あの一夜の経験こそ、実に終生につ 彼ま、あの夜のしくじりの始末 ながる深い宿縁を彼の運命にもたらしたものだった。 , 。 を、一青堂の思案でやっと解決してもらったほど、女にたいしても世間にも極端なる意 気地なしではあったが、以後、時経っても、お吉の肌の香はなんとしても忘れ得なかっ た。お吉がかつらぎという名に回ってここの張見世に姿を見せていることを知ってから ちょう の彼は、間もなく、勤続二十余年の大蔵省から免職の辞令をうけた事実に徴しても、 かに亡者のごとき執着ぶりであったかが分るであろう。俗にいう二十歳や三十の放蕩は やみもするが、四十五十の放埒はやまないと云われる通りな標本が即ち水野椋太郎のそ どの後の行跡であった。 匂 ↓ま くら吉原に通って来ても、彼はお吉以外を ただ通例の晩年道楽と彼とのちがいは、い 色 かえりみたことがない点にある。もっともそんな箒をして遊ぶには何よりも終始彼の財 あまた それにしても数多なここのお客中でもなお彼らしい異彩を特 嚢が貧弱すぎてはいたが、 かえ はたち ふたり
けれどお吉は自分の行為を、お島の法むほどわるい事とは考えていなかった。むしろ 今の方便などは、義のため情のためで、自分にかえりみても、ひとに知られても、恥の ないこととしていた。だから自然、子どもらの前でも、彼女のはなしはあけすけになり がちだった。 ごらんよおばさん。ゅうべのやっさ、ジロちゃんが河 しい気味ッたらありやしな、 へ堕ッこちたのを見捨てて、あわ喰って逃げて行ったかわりに、大事な古鞄を置き忘れ オしか。きッと、取りに来るだろうが、そのときは、うんと取ッちめてや て行ったじゃよ、 らなけれやならない」 さゆ 喰べたあとの飯茶わんの白湯を、箸を鳴らして掻きまわし、糸切歯から三本目までの 物々しい金歯を見せて沢庵をポリポリ噛みながらお吉は痛快そうに云ってその古鞄を開 けていた。 「やりきれないね、あれでも大蔵省とかの官吏なんだよ」 官庁用箋の綴物だの、名刺だの、何も入っていない風呂敷だの、ペラベラめくって、 当人の名刺らしい「水野椋太郎」としてある一枚だけを、自分の伊達巻のあいだへしま いこんだ。 が、次郎は横から見ていて、 「ア。この絵」 ひる
「おまえ絵が好きだから、何とか、その方で勉強さしたら、ペンキ屋の看板描きぐらい にはなれるだろうにと思うんだけれど : : : ここは辛抱してね、おっ母さんの力になって おくれね。そしてまた、こんど困ったことがあったら、わたしの所へ相談し こ来てね。 いかえ。ジロちゃんの為ならわたしいくらでも借金して上げるよ、ほんとにさ。 : き、よな じゃあ、おばさんも気をつよく持ってね。ジロちゃんの大きくなる迄さ。 お吉は、やっと起ち、そこらへ縋りながら、船べりへ出た。 三台の俥が陸に待っていた。 それが彼方へ小さくなって行くあとから一青堂も何か深刻な面持ちをしながら例の、 水野椋太郎の鞄を手に、ひとりで帰って行った。 用事たけか残った。 刑事は、まだ涙のかわかないお島と次郎にむかい、立退きを命じていた。こんな所に 住むのは規則上ゆるされないし、浮浪罪に問われるから、今夜のうちにも立ち退かなけ れば留置場へ連れてゆくというのである。 その晩ーーー お島は眠たがるお澄の手をひき、負えるだけのがらくたを、自分も負い、次郎にも負 わせ、あてのない夜の世界へむかって、一銭蒸汽のなっかしい家を出て行った。 おか すが
「絵好きの子だな。よほど絵が好きなんでしよう」 「よっら - ーしい」 っこ、。ゝ絵好きなもんで、よく店さきにたかりますが、こん 「子どもってえものま、 しつまで見ている子はめずらしい」 なに我れを忘れたように、 まほえ むしろ微笑んでゆるしている一青堂の顔を見ながら、水野椋太郎もふとわが家をおも い出したらしく呟いた 「うちの子達も同じだ。僕のうちの子どもらもね」 こう云っているとき少年はふと、自分に向けられている大人達の正視をかなりつよい ショック 衝動でうけたらしい。針金の紙挟みで上から吊ってある一束ねの清親や永濯や英泉など こわごわ の版画物に手を伸ばして、恐々とめくっては見ていたその手を急に離したので、為に ばさっと絵の束が土間へ落ちた。 叱られた声でも聞いたように、少年は軒先へ飛び出していた。だが、駈け去ったので たたず こっち はなく、依然、往来の方へ向いて、今度は背中を此方へ見せて佇んでいた。 「どうかしてるよ」水野が云った。「ーー君、近所の子でなければ、あの子は変じゃな いか。泣いてるらしい、往来を見て」 「そうですね」 一青堂は、草履をつツかけて、子どもの側へ行った。何か訊ねていたらしいが、やが おとな
夕飯のとき、お吉は笑いながら、箸で次郎の顔を指した。次郎はまッ赤になって茶碗 を持ち忘れた。が、お吉は、 「いいんだよ、みんな上げるよジロちゃんに。今夜あいつが取りに来たら、澳をかんで しまったと云ってやるからいい」 と、なだめるように急いで云った。次郎の顔が今にも泣き出しそうに見えたからであ 力、水野椋太郎なる鞄の持主は、その夜も次の夜もあらわれなかった。やがて梅雨近 くなり、雨の夜がつづいた。雨の夜はお吉も化粧をせず、お島も外へ出ずに済んだ。し ひあが かし小費いはすぐ干上り、お膳のおかずは急にさびれ、お吉の好きな煮豆もっかなくな 「くき、くき、しちま , つね、寄席にでも ( 何こ , つよ」 雨に濡れて、町の銭湯から帰って来ると、お吉は次郎だけを連れて、八丁堀の三角亭 じめじめ へ行くと云って出かけた。仲町と道明横丁との三角露地にあるのでその名のある湿々と してうす汚い色もの席だった。 行きがけ、何を質草に入れたのか、彼女は次郎を質屋の外に待たせ、気軽に入ってす ぐ戻って来た。あしたはあしたの風次第というのが彼女の無方針の方針らしく、少しで ーー↓ヾゝ る。 こづか
から刎ネ橋が架かるようになっているがふだんはそれがみな引かれてある。次郎と共に 大門を出て来た水野はふと足をとめて、 めギ、る うち : 」と、目笊だの 「ここがいま出て来た楼の裏だよ。彼女が寝ている部屋はあの辺だ : 大根の切干しなどが見える勝手口らしい所から二つ目の戸が半分閉まっている窓を指し た。しかし彼のひとみは次郎にそのことを教えるという意志よりもなおまだお吉の幻影 と病人に対する或るもの足りなさの未練とをつよくもやしているようだった。 「君はいま猿之助横丁にいるとかいったね」 歩き出すと、水野も自分で自分の気をまぎらすようにそう訊ね出した。 。どうせ通り道みたいなもんですから」 「ええ。なんでしたら、お寄りください 「寄っても、 しいかね」と、ちょっと気がねをみせてーーー急におもい出したかの如く、 「君はいまでも絵は好きかね。いやもうほかに慾が出て来たろうし、商売も魚屋じや絵 なんそ気にもとめないだろうな。子どもの時分はたいがいな者がみな絵好きなもんだ」 語尾はひとりごとのように云った。 次郎もそこでおもい出した。水野椋太郎が以前からたいへんな浮世絵蒐集マニヤだっ たことを。 で、急に彼とのはなしに興味を覚え、絵は相変らす好きで好きで堪らな いことだの、ここ数年来は小費いをためては好きな版画や肉筆ものを買い溜めているこ となどをると、 あれ
薄ら覚えもあったがその記憶を的確によび起すにはなお時間を要したし、また水野は次 どっちも嗅覚的に相 郎をお吉の客のひとりかと疑い、次郎も水野を変な人物とおもい 手の表情をさぐりあっているふうであった。 次郎が解いて見せる見舞の品々をながめて、お吉は枕をぬらしながら低い声で云っ : 忘れないよ、ジロちゃん」 「いつも、すまないねえ。こんなにしてくれて。 水野がそこにいなかったら次郎ももらい泣きしていたろう。あの勝気なお吉が、そし てあの艶な羽織すがたも変りはて、夜具の襟のうちでは蝦細工のように痩せ細った手を 合せているのを見ただけでも 「ーーーよしてくれお吉さん。忘れないとロぐせに云っているのは、うちのおふくろの方 だ。お吉さんに助けてもらったことを忘れるんじゃないよって、何べんおれも聞かされ たことか。あのさくら橋河岸の一銭蒸汽住まいの頃の事をさ」 おもい出したかお吉もさみしく笑った。次郎も笑ってみせた。 ・ : あの時の少 が、突然、胸を反らして次郎を見直していたのは水野椋太郎だった。 年が眼のまえに在るこの若い者だったのか。そうおもい合せて歳月の流れと現実に廡然 おもも たる面持ちを示したのだった。 「失礼だが」と、たまりかねたように彼はふたりの沁んみりしたはなしの間へ割って入