と、あわただしく眼の前から駈け去ってゆく男女の横顔をながめて、 と、人蔭へからだを避けた。 それは石炭屋の高瀬理平と夫人のお槙だった。なおトムにとって、ふしぎでならない のは愚連隊の今村が高瀬の姪の奈都子と肩をならべて、やはり、あわただしく、高瀬夫 妻の後について駈けて行ったことだった。 埃の虹 「おや ? 」 トム公は眼を皿にして、仲間の一人である今村の姿を見送った。 どうして、札つきの愚連隊の闘士が、あんな、けばけばしい 、しかも俺たちの敵とし むつま ている高瀬の家族なんかと、睦じげに肩をならべて競馬場を歩いているのだろうか。 その側に添ってゆく夫人のお槙は、今観覧席で足をつかまれた時に気づいたとみえ かえ て、時折トムの方をふり顧りながら、 「いやな奴 ! あの、いっかのチビが、後から尾いて来ることよ」 と、姪の奈都子にささやいているらしかった。
刑事を呼ンでおくから ! 」 「おじ様、どうなすッたの」 奈都子は、電話口を離れて椅子へ戻った彼の顔いろに、彼以上の動悸をうけ取って訊 ねた。 「よに、愚連隊にちがいない」 「何だって言うんです」 お槙も、不気味そうに白けて言った。 「ーーーー今朝の新聞を見た奴じやろう、そのことについて、わしかおまえに会いに来ると 一一 = ロうから、呶鳴りつけてくれたんじゃ、警察でも、あの愚連隊のやつらを、何とかして くれんと困る」 そう言いかけて、彼はまた、ぎよっとしたように振り向いた。つづけさまに、電話 ばけもの は、生きた怪物みたいに震鈴していた。 「お槙、おまえ出ろ。あ : : : おまえじゃいかん、奈都子、女中になって、おまえが聞い ・ : そしてな、今の奴じゃったら、ご主人は只今もう東京の方へお出ましになり か士したと」 ん おちやや だが、今度かかって来たのは、港町の青楼からであった。やさしい女の声なので、奈 都子は、落着いて聞くことができた。 どうき たず
「知っていますよ、私に、隠したって駄目駄目。だからね、そんな者はみんなやめて よ、私が、三人分でも、四人分でも、カになってあげるから」 女の執拗さがそろそろ島崎を疲らしてきた。島崎はかなりよいほどに生返事をしてい えら るのであったけれど、彼女には、それが人気者の偉さに見えた。そして今夜失望してい る幾人かの女性もあるだろうと思いながら、自分の幸福感を刺戟した。やがて男のから あひる きようたい だを揺すぶってみた。島崎はまかせていた。家鴨の愉悦するような女の嬌態が、しきり とくすぐったく思えた。 「ね。ね」 お槙は、もう自分のものであるように、島崎に唇を命じた。眼をつむって待った。男 の近づけて来る顔を心臓で想像した。 彼のロ臭が温く頬にさわった。鼻骨が鼻骨にふれた。そして、全身の神経が麻酔しか けたところへ、ばッと、マグネシュウムのつよい閃光と爆音が、彼女を撲りつけたよう にかした。 しゅろ 彼女は、 " 弾かれたようにべンチから飛び上がった。とたんに、棕梠の葉が手をたたく ように揺れて、あたりの闇が、笑い声に騒いオ 夫人のお槙の顔へ、もういっぺんマグネを与えたら、どんな表情をしているだろうと しつよう せんこう なぐ ますい
「お生憎さまです」 と、お光さんは皮肉な商人のように、わざと少し頭を下げて、 「それは、お売りいたしませんわ、なぜかと一一 = ロえば、幾ら君の財力で買占めを試みて も、原板でない以上は、何百枚でも複製がききますからね。無駄じゃないこと」 と、また隠しの中から、一葉の写真を出し示しながら、 「たとえば、こ , つい , つ、トリック写真でも作ることができるんですから」 わいがや 次のそれはまた、正視できないほど悪辣な猥画屋のトリックに依って画面の拡大され たものだった。夫人のお槙の首は、見も知らない売笑婦の裸体の胴にすげ代えられてあ った。理平はもうそれを奪って、裂き捨てる勇気さえ失ってしまった。 すこぶ ぎんき その硬ばった理平の顔と、慚愧そのもののようなお槙の戦慄とは、トム公の眼に、頗 はず る愉快な対照であった。トムは、椅子の上に軽く足を弾ませながら、その間に、ハ ニカの低吟を唇に弄しはじめた。 「もっと、ごらんにいれましようか。まだ、奈都子さんのもありますが」 「ゆるしてくれ、もう、たくさんだ」 理平は、両手で、頭をかかえたまま、とうとう屈伏してしまった。 「金はいくらでもやるから、その原板を持って来てくれんか」 「売るならば、私は、輸出絵ハガキ屋のトリック師へ売りつけてやってよ。こういう絵 マダム ろう
「じゃ、貧乏人になりたいのか」 ドック 「働く人が好き。ね工、おばさん、船渠へ行ってみて、わたし初めて、金持の悲哀を知 ったわ、あの、汗みどろになった職工の顔や、ハンマーの音を聞いてさえ、物が美味し く食べられそうな気がしやしない ? 」 「ま、変っているのね、奈都子さんは。わたしは、気持がわるくって、しじゅう鼻を抑 えていたほどなのに」 「それみろ、あんな所へ連れて行くから、すぐべスト菌にたかられて来おる。それよ か、ばつばっ支度をしなさい」 「千歳は、お見合せになったんでしよう」 「わしにも、招待状が来ておるから、グランドホテルの方へ出席してみよう、大隈伯に 槙も、おまえも、うん も、そんな場所で顔を知って戴いてからの方が都合がええ、 と盛装せい、伯は派手好きじゃという話だから」 よそお まんちんろう 各の朝湯と化粧に、三時間ぐらい費やされた。首だけ粧ったところで、万珍楼の支 曲那料理をとって昼食がすむ。髪結が帰る。洋服の着付師のお定さんが来る。理平は、万 んもと 年青展覧会ほどある屋上庭園から降りて来て、ちょっと、店へ顔を出して、金庫の鍵を ん か鳴らしながら奥へ引っこむ。 午後四時ーーやっと女中が馬車会社へ電話をかけている。夫人お槙は、かつらのよう * お
しいわよ、どっちにしても、こん夜ひとばん 「むじゅんしているわね、この人。 は、きっと私につきあってくれるのだから。ね、そういう約束だったわね」 「それやいいですとも」 だま 「なんだかうわの空だわね、この人は。よその奥さんを騙すようには、私ま、 ことよ。、こ承 . 知でしょ , つが」 「ははは、騙せるあなたでもないでしよう。ま、そこのべンチへ腰掛けましよう、すこ くたび し草臥れました」 と、島崎はくすぐったい顔をしながら、べンチのまわりを見廻した。お槙は男の腕に 拱まれたまま、投げるようにからだを崩して、 「呆れたでしよう」と、仰向いて、ちょっと理性めいたことを言った。 「何がですか」 「だって、高瀬の夫人であるくせに、こんな強要をしてさ」 唄「今の上流の奥さんたちは、そんなことは、一つの娯楽ぐらいにしか考えていないで ん 「じゃ、私ばかりじゃないのね。 だけれど島崎さん、あんたいったい、幺 幾人ぐらい 女のバトロンがあるの」 「幾人 ? 冗談じゃありません。男のなら、ないこともないが」
和「今朝も、電話で言ったじゃねえか、よく覚えとけよ、おいら、かんかん虫のトムって んだ」 「あっ、今朝のはーーーおまえか」 「おれだよ。紳士だろう、ちゃんと、電話で、お目にかかることを、断っておいたんだ から」 、馭者つ、馬車を止めい」 「おじさん」 トム公の海軍洋刀の先は、真っ蒼になって顫いている奈都子の顔のそばまで届いてい 「騒ぐと、お嬢さんの顔を、ここの、幌みたいに破ッて逃げちまうぜ」 ひきよう 。かけあい 「卑怯なことをしつこなしさ。おら、ただ懸合に来ただけなんだよ、何も、人殺しに来 たんじゃないよ」 馭者は、聾のように、自己の使命だけを守って、税関前の大通りを曲がり、前よりも はやく快走をつづけている。 理平は、子供だとは思いながら、幌の破れから突き出 している顔だけを見ているので気味が悪かった。 「お槙、おまえは、このかんかん虫のトムというのを知っているのか」 ぎよしゃ さお ほろ おのの
珈琲茶碗をおいて、 「おい、こら、お前たちゃ、きのう船渠会社へ何しに行ったんじゃ。 る、新聞に」 と、新聞をたたいた。 むち ゅうかぜ タ風の鞭 「あらっ」 お槙と奈都子は、下品に笑い出した。 「ま、新聞に ? じゃ、隠していてもムダだったわね、こう暴露しちまッては」 「ろくな所へ行きおらん、あんな、かんかん虫どもの集まッとる所へ行ったら、ベスト きん 菌にとッつかれる。自体、何しに行ッたんじゃ」 「外国船の号に」 曲「号には、わしの店では、石炭を売っておらんが」 ん 「ハムスンさんへ、お礼に伺ったんですわ」 ん か「ハムスン ? あのグランドホテルで、何かやった下手ッくそな、音楽家の」 「え。贈り物をいただきましたからーー奈都子さんも、あたしも」 へた 新聞に出と
トム公は、花櫛をひろって、妹に渡してやりながら立った。 「レ」 , ) にい” 0 」 マダム サロン 「夫人といっしょに、客間から出て行ったわ。きっと庭の四阿亭の方へ行ったんでしょ 「じゃ、後でネ」 豆菊の涙ッばい眼をそこにおいて、トム公はあわてて前の温室の蔭へ帰って来た。 「じゃ来る ! きっと来るんだ」 彼の報告に、そこらの闇はまた、人影をかくして、何げない夜の景色を森とととのえ ていた。 カメラ まじめ 「真面目ね、真面目ね、いやよ、島崎さんは」 そういう夫人お槙は酔っていた。相手の酔いの程度が不足なほど酔っていた。庭へ出 あさ 彼女と島崎と て、騎手の島崎と、腕を組んで、しどけなく夜露を漁って来るのだった。 , の対照は、ちょうど脛の長いアフリカ種の馬のそばに驢馬が寄り添ったようであるけれ ど、彼女は、十分な満足を感じ得ている。 すね あすまや しん
かんかん虫は唄う ど 理平は振り向いて言った。 「今な、そこで十番館のダグラスさんと会ったから、一緒に馬車へ乗って、先へ行くか 「あなたは、どちらへですか」 「どちらへって、今夜は、本牧の方へ、船のお客を呼ぶ晩じゃよ、 「じゃ、そこへ、島崎さんをお連れして行ってもいいでしようね」 「 , つん : だが、来るかね」 「嫌だと言っても、連れてゆきますわ」 「よかろ , つ」 夫人のお槙は、そういう間にも、ともすると見失いそうになる島崎の顔を、眼から離 さないで、会話が終るとすぐに、彼のそばへ戻って来た。 そして、彼の耳へ背のびをして、 しいこと。事務所の門の方へ、馬車を廻して置いてよ」 と、言いながら、手袋をぬいで、島崎の指先をつよく握りしめた。そして、もういち しいこと。分って、ーーー薔薇色の馬車よ、薔薇色の」 と、念を押した。黄金色の埃の虹を立たして、根岸の競馬場に陽が沈みかけた。はる