ろろ 0 おかしな魚屋さんだこと : ・ : とあのとき笑われたのが、却ってその後の縁となっ て、次郎はいっかここの家族にもかあいがられて、よいおとくいの一軒になった。魚久 の店までの間には、幾軒も魚屋はあったが、夕方など、雪声の晩酌だの、来客の肴だの といって、よく註文しに来てもくれた。その使いには、、 しつも女学校三年生の織江があ つらえ物を云いに来た。次郎は大きな楽しみとして、さしみや酢の物をとどけに行っ 冬の日の夕方である。大急ぎでというので、次郎は使いに来た織江と一しょに、註文 の刺身を岡村へ届けに行っこ。 オこういう機会のあるたびに、途々織江とはなしのできる のが次郎にとっては浅草の灯も眼にはいらないほどなたのしさであり天国の散歩だっ た。織江も近頃は次郎とかたることに親しみを示していたし、その夕方もつい急ぎとは おもいながら、あの人混みのあいだを、ふたりは話し話し歩いて来た。 「遅いことねえ、どうしたの織江ちゃん、もうお客さまは帰ってしまったじゃないか」 勝手口にそれを届けると、織江ちゃんは奥で母に叱られていた。次郎は自分の罪のよ うにおもい、済みません、あいにく店がタ方のお客で混んでいたもんですからーーーと外 から詫びると、こんどは織江の父の雪声らしい声で、 こ′一と 「叱一一 = 口をいうな」と、 いうのが聞えた。 次郎はその間にすごすご帰ろうとすると、横の窓口から、
「おい、魚久の小僧さん、ちょっと、上がらないか。そっちの縁がわの方からでもい と、云うのであった。 次郎はまごっいた。すると織江が出て来て、何かお父さんがあなたに訊きたいことが あるというからーーーと引っ張るようにすすめるのだった。織江の母も一緒に云うのであ る。 次郎は、何かこわい気がした。ひそかに恋している乙女の父親はなべて怖ろしいもの に思えるその気もちと同じなものであった。 が、案外、雪声はやさしい人で、町の彫金家に特有な猫背と無性ひげの持主だった。 いま次郎のとどけたばかりのものを膳にならべ、これからおきまりの晩酌にかかると ころだったが、 せつかくの客が帰った淋しさに、次郎に何か漫然と日ごろ抱いていた興 味をはなしかけてみたまでのものらしく、 「おまえ、魚屋の小僧のくせに、よく絵のはなしなどを、織江にするっていうじゃない ど、。絵が好きなのか。絵かきにでもなりたいのか」 匂 などとにやにや笑いながらたずねた。 色 「絵かきなんかになりたいなんて云やしません : : : 」 次郎は、頭を掻いた。
ろ 40 へ買出しに行くことも年期奉公の時とすこしも変らなかった。彼の機智と如才なさは河 岸でも愛されたが、ただ時折そこで出会う魚常とはいつも気まずい思いをした。彼が頭 を下げても、常は鼻であしらい、白い眼で見て過ぎた。 いまにみろ、次郎は思った。次郎にとって常の態度はむしろ艱苦の道を勇気づけるも のだった。また彼には彼しか知らない楽しみもあった。その買出しの帰り道では、し だに田原町の停留場で折々女学生姿の織江と出会った。 「どうしてこの頃御用聞きに来ないの」 或る朝、織江に訊かれ、次郎が店を出たわけを話すと、彼女はそんな仁義には無頓着 にこ , つ一ムった。 「だってうちのお父さんは、次郎さんが来るからお魚を喰べたくないときでもつい買上 げてあげてるのよ。お店を出てひとりで商売を初めたんなら前よりももっとせっせと来 ればいし 、じゃないの」 「でもお宅は、魚久の大事なおとくいの一軒になってるんですからね」 次郎は、とくい先として岡村の家へ行かれなくなったことよりも、そこで織江を見る 機会が絶えたことを実は心から淋しんでいたのである。六区を離れた遠い地域に店を持 っ気にもなれなかったわけも多分にこの事が原因していた。 「、不、いらっしゃいよ。かまわないからーーー、ー」
ろろ 2 その姿がおかしいのか岡村夫婦は笑ってながめている。雪声の妻は、織江から聞いて いたらしい事をそばからこう云い足した。 しいえ、この子は、がらにもない浮世絵が好きなんですとさ。きっと、絵本か石版刷 りのことでも云ってるんでしようが : すると、母のことばを不平そうに、織江がまたそのそばから訂正した。 「ちがうわ、お母あさん。ジロちゃんは、なかなか、美術のことを知っているのよ」 「ふ。挈 : っ力し」 と雪声は、次郎の顔をしげしげ見ながら、ではいい ものを一つ見せてやるか 自分で立って、所蔵の物のうちから、広重の " 江戸みやげ〃を出して彼に示した。 四 「どうだね」 次郎は、われを忘れてそれに見入ってしまった。 「好きかね、広重は」 「すきです。美人画もようございますが、広重の風景画も」 「美人画では、たれが好きだね」 「清長、春信 : : なんか」 と、
「なまいきだな、ははは : : : 。歌麿などは」 「歌麿もようございますね」 「どこで、そんな作品を、見ているのかい」 「黒門町にも、神田にも、浮世絵ばかりの店がありますからね。時々立って」 「そうか。めずらしいな、おまえみたいな商売屋の小僧で。ーーー展覧会にも行ってみた ことがあるかね」 「展覧会には、行ったことはありません。ーー・・店の休みは盆と正月だけですから」 「そうだろう : と、雪声は杯をふくみながら、唐突に云い出した。 「どうだ。魚屋になるより、彫刻家にならないか。美術家になれ、美術家によ。おまえ には、きっと素質があるかもしれん」 すると、彼の妻は、あわてて良人のことばを打消した。 「だめですよ。この子はこれでも、魚久の金箱だって云われてるんですもの。魚久のか みさんが、承知するもんじゃありません」 「なるほ "A 」」 雪声はあっさりあきらめた顔して笑った。 そしてなおべつな浮世絵を幾いろとなく織江に出させ、次郎に示してはその批評を聞 かねばこ
電車が来たので、織江はそれへ乗りかけたが、また振向いて、人混みの間からこう云 : わたし、もうじきに女学校 「いまに、次郎さんとここで会うこともなくなってよ。 は卒業なのよ」 霜の道は多感である。少年じみた恋もいつのまにか本能を伴う青春のそれに育って来 ている。生活のきびしい耐えのうちに哀愁めいた苦悩が彼の曳く車の歯にも鳴ってい だが猿之助横丁の小店に帰ると、そんな感傷はすぐけしとんで、笊を持って彼の仕入 れの帰りを待っていてくれる近所の人へ次郎は歯切れのいいお世辞と親切と勉強をわす とき れなかった。また、夕方などの客が混む一刻には、ここの娘のお三輪も次郎の店へ出て したす 商いを手伝った。お三輪には、髪結いの母の仕事を半分助ける下梳きという忙しい仕事 もあったのだが、わずかな隙にも好んで次郎の店の手助けをした。 たすき その赤い襷がけの可憐な姿と、次郎の張りきっている働きぶりを見くらべて、客はよ ど く「お似合いの若夫婦だネ」とか「ジロちゃん、奢んなよ」とか「お三輪ちゃんも、梳 え き手さんをやっているより、そうしている方がうれしそうだナ」などと二人をからかっ 色 た。事実、お三輪も次郎も、人々から祝福されている自分たちが、見当ちがいな所に居 第るものとは思っていなかった。殊にお三輪はそのたびに顔を紅くして、母親にも意志が こら おご ぎる