高峰 - みる会図書館


検索対象: にんげんのおへそ
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1. にんげんのおへそ

Ⅷことを考えない女優にロクな演技ができるはずもなく、仕事はいつも投げやりで 数をこなすのがやっとだった。 そんなある日のことだった。 「御注文のミンクのハーフコートが仕上がりました と、銀座の、毛皮店から電話が入って、私は早速毛皮店へ出かけていった。メ へスのミンクを使ったコ 1 トはしなやかで、艶やかで、美しかった。家に持ち帰っ お の て鏡の前でコートを羽織り、ポケットに手を入れた。 ん 私はポケットの底から小さく折り畳まれた紙片をつまみ出した。それは一枚の 便箋に書かれた手紙だった。 「私は毛皮のお針子です。 このハーフコートの注文主が私の大好きな高峰秀子さんだと聞いて、私はとて も嬉しくて一針一針に心をこめて縫いあげました。私が縫ったコートがあなたを

2. にんげんのおへそ

象牙の箸のみ。「あとのものは、お働きになってお買いになったらいいでしょ 、つ」とい、つのが挨拶の言葉だった。 「待てば海路の日和かな」というけれど、チャンスは到来した。敗戦後はじめて のべニス映画祭に、唯一の東洋の女優として私に招待状が舞いこんだのである。 ふりそでヒラヒラ、 ーテイチャラチャラなどは私の最も苦手とするところだ 多から、映画祭に出席する気は毛頭なかったけれど、海外逃亡にはまたとないチャ ンスである。昭和二十五年ごろの当時、海外旅行は外国人の身元引受人と招待状 とゞ、 カ必要だったから、私はとにかくその話に飛びついた。身元保証と生活費はパリ のフランス映画社の社長がひきうけてくれて、期間は七ヶ月間と決めた。 私は、なんでもいいから、私をとりまく一切のものから逃げだしたかった。ア プクのような人気も、ファンクラブもオフィスも、兄弟も、そして養母さえもい らなかった。七ヶ月の間には、そのほとんどが消滅するだろう。ついでに「高峰 秀子ーという女優の名前も消えてなくなっているかもしれない。が、それならそ

3. にんげんのおへそ

231 ) 」、つしゃ を侍らせ、豪奢な生活をしたいとは一度も思ったことがない。 「賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き : : : 」は見苦しい、という文章に百 ーセント同感で、自分の身丈に合ったこぢんまりとした住居でスッキリと寝起 きするのが理想だった。しかし、たまたま私が映画女優というやくざな職業に就 いたばかりに、私の生活は頑張れば頑張るほどスッキリどころかゲンナリするよ るうな方向に向かっていった。皮肉なものである。 人気女優にはまず「後援会」などというビラビラしたものが附着する。私の場 で ん合もまた例外ではなく、銀座のド真ン中に「高峰秀子事務所」が出来て、「 」という月刊誌が発行された。雑誌の表紙やグラビア撮影のためのおびただ しい衣裳がタンスからはみ出し、住居も引越しのたびに間数が増えた。 家が大きくなれば当然人手が必要で使用人も増える。一時はお手伝いが七人も いて、私はロクに名前も覚えられなかった。私の付き添い、養母の小間使い、和 裁係り、庭係り、台所係りが三人で、まこと「家の中に子孫の多き : : : 」で、わ はべ

4. にんげんのおへそ

ただ「高峰秀子」というスクリーンの虚像につきあっていただけで、本当の自分 との出会いを故意に避けてきたと思われる。実像と虚像は仲が悪く、実像は自分 を押し殺し、ゴマカしながら、なんとかつじつまを合わせ、虚像はギクシャクと ふてくされてジャーナリストの誤解を呼んだ。 私がようやく「自分らしいーものになったのは、二十年ほど前からだろうか 中 脚本家の書いた台詞を喋るのではなく、自分の言葉で書いた雑文集も次ぎ次ぎと 出 世に出た。借金もなく、平和な毎日である。そこへ「両手ダラリ」ときたからシ 分 吟ョックであった。ショックではない、老いは順序をふんで確実にやってきただけ である。今後も私の背中にオンプお化けのようにピッタリと貼りついて、私をイ ビり続けることだろう。老いは寸時も休まずにそのとがった爪の先で私の背中を つつく。作り慣れた料理の手順を間違える。腕時計を二個つけて外出する。「老 いる」ということはなんと「にしいことーでもある。動作その他がすべて緩漫に 网なるから時間がかかる。以前は三つ出来た用事が一つしか出来なくて「時間が足

5. にんげんのおへそ

馬 よ 四 ねーがいるし、「いね」がいるところにはず馬がいる、とい、つ寸法になる。 「いね」に扮するのは、この私、つまり高峰秀子という一人の少女俳優だけれど、 し力ない。 というのは、撮影ロケ地が変 馬のほ、つはいつも同じ馬とい、つわけにはゝゝ るたびに、製作スタッフはバスや汽車で、撮影機材はトラックを連ねて移動する が、その都度、馬主つきの馬までバスや汽車に積みこんで連れ歩くのは到底不可 能。馬は現地で調達するよりしかたがない。したがって、一足さきに次のロケ地 へ飛んだロケーションマネージャーがかけすりまわって、なるべく主役の馬に似 た馬をひつばってくる。 「いね」の愛馬はアングロノルマンの内国産 ( フランス、ノルマンディ地方が原産。 日本には明治以来、もっとも多く輸入された品種で、日本で改良されて、農耕、軍馬 として活躍した ) 栗毛で、左うしろ脚の蹄の上の部分だけが白い、という設定だ とい、つわけにはまいらない。 から、馬ならどれでもいい、 ロケ地で調達される馬は、全身が栗毛の馬、四肢のさきや鼻すじが白い馬、た

6. にんげんのおへそ

と多い とゞ ひ 車に乗り、家は新築のパ 1 丿リで、女中は数人。いつの間にかファンクラブが結 成され、銀座にオフィスが開かれて、「」という機関誌が発行された。 私は相変らず、映画、ラジオ、ステージと仕事に追いたてられながらも、ハデハ デにエスカレートしてゆく高峰秀子という虚像をシラーツとした眼で瞠めていた。 他人の眼には一見華やかで「いい御身分ネ」というところかもしれないが、不は 一時も早くアプクのようなおみこしから飛び降りてどこかへ逃げていきたかった。 どこか、といってもどこなのかは自分でもわからないけれど、とにかく、なにか カ理、つ : : : とい、つことだけはわかっていた。 当時の私は一個の金銭製造機以外のなにものでもなかった。養母は私の収入を 湯水のように使った。八畳と十畳、二間続きの自室にデンとおさまり、檜づくり の朝風呂に入って相も変らぬ麻雀三味。親族のだれかれに札ビラをチラつかせて は恩を売り、自分の傘下にかき寄せて、先方が頭を下げれば母の頭はそれだけ上 翫かった。

7. にんげんのおへそ

盟も画こうじゃないのーと、素人ばかりが集まって発足したのが「チャーチル会」 だった。 生徒は、藤山愛一郎をはじめとして、作家の石川達三、田村泰次郎。作詞の 浦洸。新派劇団の伊志井寛。オペラ歌手の長門美保、佐藤美子。俳優の森雅之、 宇野重吉、高橋とよ、柴田早苗、それに私高峰秀子などと、およそバランバラン へなメンバーだった。先生は、はじめ石川滋彦画伯一人のはずだったのが面白半八 お の に集まった宮田重雄、益田義信、伊原宇三郎、猪熊弦一郎、佐藤敬、硲伊之助、 ん 高野三三男、久保守、と、どんどんどんどん増えるばかり、先生のほうが生徒 ( 数より多い、というへンな会だった。 どうせお遊びの会だから、最高顧問にはドカン ! と一発、梅原龍三郎御大九 かつぎ出せ、ということになり、宮田、益田の両人に連れられて梅原邸を訪ね のが、梅原画伯との出会いだった。以後、昭和六十一年、画伯が九十七歳で亡ノ なるまで、有形無形、言葉につくせぬほどの恩恵をいただき、その間、たびたバ はざま