ただ今自分と出会い中 私は毎朝、起きぬけにまず台所へ直行、夫のおめざのヨーグルトを用意し、次 いでサイフォンにコーヒーを仕掛け、ミルクとコーヒーカップを温める。この手 や、変らないはずだった。 順は十年一日、変らない。い 何をどうしていいのかサッパリわ ところがある朝、台所へ行ったは行ったが、 からない。手は脳の出張所というけれど、脳からの指令がないから両手はダラリ と下がったままである。私は呆然とつっ立ったまま呟いた。 ただ今自分と出会い中
りないよゥーとため息をつくこともしばしばである。 いつだったか、司馬遼太郎先生に、「もう、生きてるのアキちゃった」と言っ たら、「そうかナア、世の中そんなにアキることもない。例えば一人の人間をじ いっと見ていたって結構面白いもの」というお返事がかえってきた。司馬先生の 言葉は本当だった。私は現在、七十歳を越えて、日一日と老いてゆく自分に出会 〈っている最中である。ポケ進行中の自分をじっと見ているのは結構面白い。次は の どんなポカをやらかすだろうと、スリルもあってワクワクする。 ん ん 「ただ今自分と出会い中ーというこの文章を雑誌に発表して以来、女優がポケる のがそんなに珍しいのだろうか、「もっとくわしく書け」の、「ポケ日記を発表し
四十三年目のウェディングドレス オッパイ讃歌 おへそ ひとこと多い能 丐よ 梅原龍三郎と周恩来 風の出会い 午前十時三十分 118
初出一覧 四十三年目のウェディングドレス「オール讀物」平成九年四月号 オッパイ讃歌「オール讀物ー平成八年十一月号 おへそ「オール讀物」平成九年五月号 ひとこと多い「オール讀物」平成八年八月号 馬よ「オール讀物」平成九年七月号 梅原龍三郎と周恩来「オール讀物」平成九年三月号 風の出会い「ミセス」平成五年一二月号 午前十時三十分「オール讀物」平成十年二月号 、うまい「オール讀物平成十年一月号 きのうの「人間ーきようの「人ー「朝日新聞」平成四年十月十九日 アコャ貝の涙「ミセスー平成五年四月号 ただ今自分と出会い中「新潮菊」平成五年六月号 死んでたまるか「新潮菊」昭和 , ハ十三年六月号
ゥー、、つまい きのうの「人間」きようの「人ー アコャ貝の涙 ただ今自分と出会い中 死んでたまるか ピエロのおへそーー文庫版のためのあとがき あの頃のこと 5 亡き母・高峰秀子に捧ぐ斎藤明美 225 197 182
138 にんげんのおへそ 春風 日に日に体力の衰えを感じる。 そりやそうだろう、七十年も生きちゃったのだもの、屋台骨にはガタがきて、 身体中のパーツはサビついている。朝、目がさめたときにはもうくたびれている、 というていたらくである それでも、萎えた心身をひっ立てるようにして六本木まで出かける。ひとつは 風の出会い
風の出会い 141 「御夫婦かしら ? それとも恋人同士かな ? どっちにしても爽やかな人たち こんな二人だったら、さぞしあわせな素敵な家庭を築いてゆくだろう と、思う間に、飯倉の交差点についた。信号は青である。男性は交差点をスタ スタと渡ってゆき、女性は交差点の手前の道を右に折れて歩を早めた。 「なあんだ、つまんないの」 私はなんとなくガッカリしたが、もう一度二人の後ろ姿へ「ありがとーと呟い た。風は嘘のように止んでいた。 家に帰って、ズラリと並べた花瓶に花を入れていたら珍しく鼻歌が出た。 「人間って、いいな」 春の突風が運んでくれた嬉しい午後だった。
ただ「高峰秀子」というスクリーンの虚像につきあっていただけで、本当の自分 との出会いを故意に避けてきたと思われる。実像と虚像は仲が悪く、実像は自分 を押し殺し、ゴマカしながら、なんとかつじつまを合わせ、虚像はギクシャクと ふてくされてジャーナリストの誤解を呼んだ。 私がようやく「自分らしいーものになったのは、二十年ほど前からだろうか 中 脚本家の書いた台詞を喋るのではなく、自分の言葉で書いた雑文集も次ぎ次ぎと 出 世に出た。借金もなく、平和な毎日である。そこへ「両手ダラリ」ときたからシ 分 吟ョックであった。ショックではない、老いは順序をふんで確実にやってきただけ である。今後も私の背中にオンプお化けのようにピッタリと貼りついて、私をイ ビり続けることだろう。老いは寸時も休まずにそのとがった爪の先で私の背中を つつく。作り慣れた料理の手順を間違える。腕時計を二個つけて外出する。「老 いる」ということはなんと「にしいことーでもある。動作その他がすべて緩漫に 网なるから時間がかかる。以前は三つ出来た用事が一つしか出来なくて「時間が足
盟も画こうじゃないのーと、素人ばかりが集まって発足したのが「チャーチル会」 だった。 生徒は、藤山愛一郎をはじめとして、作家の石川達三、田村泰次郎。作詞の 浦洸。新派劇団の伊志井寛。オペラ歌手の長門美保、佐藤美子。俳優の森雅之、 宇野重吉、高橋とよ、柴田早苗、それに私高峰秀子などと、およそバランバラン へなメンバーだった。先生は、はじめ石川滋彦画伯一人のはずだったのが面白半八 お の に集まった宮田重雄、益田義信、伊原宇三郎、猪熊弦一郎、佐藤敬、硲伊之助、 ん 高野三三男、久保守、と、どんどんどんどん増えるばかり、先生のほうが生徒 ( 数より多い、というへンな会だった。 どうせお遊びの会だから、最高顧問にはドカン ! と一発、梅原龍三郎御大九 かつぎ出せ、ということになり、宮田、益田の両人に連れられて梅原邸を訪ね のが、梅原画伯との出会いだった。以後、昭和六十一年、画伯が九十七歳で亡ノ なるまで、有形無形、言葉につくせぬほどの恩恵をいただき、その間、たびたバ はざま
「じゃ、失礼します」 「どうぞ、お元気でー 二人はお互いに軽く頭をさげ、私は小走りに魚屋へと向かった。 それから二年ほども経っただろうか、私はまた、午前十時すぎに、魚屋の手前 + の、同じ場所であの和服の女性に出会った。ほっそりとやせぎすの彼女は色無地 へヒーカーのハンドルに 時の袷に短い道ゆき ( コート ) を羽織り、両手はやはり、 : 十 前そえられていた。いや、ベビーカーは以前のそれとは違って、小児用の車椅子と でもいうのか、大きな車輪のついた金属製のものだった。 「またお目にかかれたなんて : : : なんて偶然でしよう、嬉しいことねえ」 彼女は、その言葉の半分を、車椅子の男の子に語りかけた。男の子は、何も一言 みつ わずに大きく見開いた眼でまじまじと私を瞠めていた。みられているこちらが恥 かしくなるような澄んだ美しい眼だった。