北京 - みる会図書館


検索対象: にんげんのおへそ
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1. にんげんのおへそ

くれたのは、長安街の老舗ホテル、「北京飯店」の一隅にある軽食堂だった。北 京飯店 : : : 一九六三年、私たち夫婦が初めて中国政府に招待されて北京へ行った ときに宿泊し、梅原画伯も長期滞在していた思い出深いホテルである。 テープルを囲んだのは、陳さん、運転手の王さん、私たち夫婦の四人だった。 北京語しか話せない王さんはちょこんとかしこまっているが、陳さんは旅行社、 へら派遣された通訳だけあってペラベラベラとよく喋る。やがて運ばれてきた水餃 お つぶや の 子にかぶりついた陳さんは「ウム、イケル : : : 」と呟いた。とたんに私の目が三 ん ん角になった。 「陳さん。あなたの日本語には、たびたびイケルとかダントッとかャパイとかへ ンな言葉が入るけど、そ、ついう言葉を日本の学校で習ってきたのですか ? 」 「いえ、学校では習いませんでした」 「では、お友だちから教えてもらったのですか ? 「そうではありません。北京で私がガイドをする日本の観光客の人たちから習い

2. にんげんのおへそ

118 そ へ お の ん 昨年 ( 平成八年 ) の秋、香港在住の老朋友、伍沾徳、玉珍夫妻に誘われて、北 京、西安、十日間の旅をした。 へいばよ、つ 旅の目的は、西安の兵馬俑見物だったが、日本から西安への直行便はなく、 京か上海から空路で二時間とか。「まずは北京に集合」ということで私たち夫婦 はナリタから北京へと飛んだ。 久し振りに降りたった北京首都国際空港はビックリするほど立派になっていて、 梅原龍三郎と周恩来 ラオポンヨウ

3. にんげんのおへそ

この絵が画かれたのは一九三九年。ルリ色の空の「北京秋天ーは一九四一一年、と、 画伯は五十歳前後に六回も北京に滞在してたくさんの作品を残している。 画伯が愛したのは北京の風景ばかりではなく、中国料理、骨董街、京劇、と、 なにもかもが気に入り、北京語の四声のレッスンをとったり、当時の京劇の名女 メイランファン 形「梅蘭芳」に惣れこんで、 メイグアンルン 恩「ボクもね、梅原龍と名前をかえて、京劇の俳優になろうか ? と考えたこと 郎もあるサ。半分以上は本気だったな」 原 というから、中国への傾倒はハンパではなかったらしい。その情熱のすべてが、 梅 カンバスの上にみなぎり、溢れ、「雲中天壇」という絢爛豪華、強烈な作品にな ったのだ、と私はおもう。 梅原画伯との初対面は、昭和二十年の敗戦から三年がたち、銀座の焼けあとに もチラホラとバラックながら店舗らしいものも建ちはじめ、人々の心もわずかな がら落ちつきをとり戻しはじめた、そんな時、ささやかな楽しみを求めて「絵で

4. にんげんのおへそ

国を少しでも知ってほしいーと、ただそれだけの理由で、上海、北京、南京、黄 山 : : : と、私たちを誘い出しては親切こまやかに案内をしてくれる。誘われれば 私たちは、ノコノコと出かけてゆくが、なんせ手振り身振りの旅行だから、大半 はチンプンカンプンのままサヨナラになり、そしてまたチンプンカンプンの再会 を楽しむ。 ・ : 今回もまた「兵馬俑は一見の価値あり、センソー ( 善一一 I) 、ヘデ 恩コ ( 秀子 ) にも是非みせたい。ボクが案内するから」という再三の誘いに、七十 三歳の私たち夫婦はようやく重たいオシリを上げたのだった。 原 北京到着のその夜は、天安門広場に向かって南に位置する、日本でいえば国会 梅 議事堂にあたる「人民大会堂」は「ウイグルの間ーで、四十名ほどの夕食会に出 席、伍さんは北京、上海航空の機内食を一手に司るチェアマンでもあるから、今 タは中国民航のエライさん方への御挨拶の宴であるらしい。ワインが抜かれ、マ オタイ酒が飛び交い、英語、北京語、広東語などのしっちやかめっちやかの中に、 盟デクの坊のような私たち夫婦がただ黙々と御馳走になっている図は、まさにマン

5. にんげんのおへそ

伍さんさしまわしの出迎えのべンツは、空港から一直線にのびる、私の大好きだ った見事な並木道を眼下に新装のハイウェイをつつ走り、以前は小一時間もかか った道程をわずか二十分ほどで市街地へ入った。 えが 北京の秋、といえば、梅原龍三郎画伯画くところの名作「北京秋天」の、研ぎ だされたような青空の色がイメージに浮かぶが、今日はあいにくと「北京曇天」 恩である。北京の街は右も左もビルラッシュ、建設現場に立ちのほる土ばこりと騒 : : うすばんやりとにじむ太陽の光を遮って 郎音、おびただしい車の数と排気ガス : 糸 , イカしった。トラック、 原いるのは「ぶ厚いスモッグの傘なのだ」と、ようやく物日寸ゞ、 ハス、乗用車、小魚の大群のような自転車の間を縫うようにして、私たちのべン ツは集合場所である開店ホャホヤ、五つ星のホテル「中国大飯店」の玄関前にた どりついた。 ホテルのフロントで、香港から到着したばかりの伍夫人にパッタリと出会い、 伍夫人は「コニチワ」、私は「ネイホウ」、と、ヘンな挨拶を交わす。 119

6. にんげんのおへそ

肖像画のモデルも務めたが、あるとき私は、絵筆を動かしている画伯にこう聞い 「先生は男の人をほとんど画かないけど、どうしてなの ? 画きたい人がいない 「ボクが画きたい男は、世界中にたった一人いるよ。周恩来だ」 恩そう断言した梅原画伯も周恩来も、もうこの世の人ではない。 原「祈年殿」の、ルリ色の屋根瓦を仰ぎみている私の目の中に、懐しい梅原画伯と、 端正で凜々しい周恩来の面影がふっと浮かんで、消えた。 チャォズ おひるどきとなり、私は通訳の陳さんに、「北京の人が行くおいしい餃子の店 へ連れていってください」と頼んだ。 陳さんは北京生まれの三十歳。日本の学校で二年間、日本語の勉強をしてつい 先頃北京へ戻ったばかりの、六歳の男の子の父親だという。陳さんが案内をして 125

7. にんげんのおへそ

そ へ 二、三日、そんなパ ーティが続いたある日、「明日は夜の宴会まではフリー。 お の どこへでもお好きなところへどうぞ」と、伍さんは、運転手つきのべンツに、 ん んていねいに日本語の通訳まで添えて私たちを解放 ( ? ) してくれた。そう言われ ても北京は今度で六回目、とくに見物したいところもなく、私の好きな天壇公園 へと向か、つ。 天の神がまつられている、という天壇は、現在、周囲六キロに及ぶという途方 もなく広大で整然とした公園になっていて、とくに美しい、三重の円型屋根を持 つ「祈年殿」は、梅原画伯作品の「雲中天壇」でも多くの人々に知られている。 122 ガである。

8. にんげんのおへそ

にんげんのおへそ 128 古都「西安」は、ますます人気の高い兵馬俑ラッシュで街中が沸きかえってい 秦の始皇帝陵から一・五キロほどはなれた西揚村の「兵馬俑博物館」の入口近 市をなす、の言葉の通り、バラック風の軽食堂や饅頭屋、柿や焼き 芋を商う店、毛皮店、土産物店などがびっしりと軒を並べ、売り子や呼びこみの た。が、考えてみれば、北京くんだりまで来て、とんだお説教をグダグダと並べ ているこの私はいったいなんだ ? それこそ大きなお世話、余計なおせつかいと い、つものじゃないかしら ? ・ ・ : 私の語気に、陳さんは箸を置いて目を丸くしてい る。私はとっぜん自己嫌悪におちいって、餃子が胸につかえた。

9. にんげんのおへそ

いま、私の机の上に『梅原龍三郎没後十年』という立派な本がある。もちろ ん、カラーベージには「雲中天壇」や「北京秋天」、そして私の肖像画もある。 私がモデルを務めた作品は十点にのばるが、どの絵も、衣裳は明るく派手だが、 その表情はどこか暗くきびしく、眉間にはかすかないらだちのような影さえみえ て、いわゆる華やかな女優の肖像画とはほど遠い。画伯の肖像画は、その姿、形 恩をカンバスに画き写す、というより、モデルの内面にあるなにものかをカンバス の上に表現する、という手法だった。画伯はいったい、周恩来の胸中から何をひ 原き出したかったのだろうか ? こればかりは梅原画伯以外の人間には知るよしも この本には、細かく記された年譜 ( こ、当時の画伯のスナップ写真が添えられて しる。パリ留学時代の青年から壮年に : : : とくに , ハ十歳前後の画伯の顔は、みる からにたくましく、そして、みとれるように立派である。 壮年から老年に入った当時、画伯はときおり、気心の知れた友人知己を自宅に

10. にんげんのおへそ

にんげんのおへそ 182 私は北海道の函館で生まれた。 大正十年の函館の大火事に続いて、生母の死など、もろもろの家庭の事情の末 に、首からゴム製の乳首をプラ下げた幼女の私は養母に手を引かれて上京した。 生母の顔もウロおばえ、函館の印象もほとんどないままに、東京は自然に私の 「故郷」になった。 東京での最初の住所は「鶯谷」だった。五歳で映画界に入ってからは、「蒲田」 きのうの「人間」きようの「人」