と多い と ひ 101 どの電話にも、いわゆるお悔やみの言葉はなく、母の死を喜ぶ ( ? ) 明るい声 の電話ばかりだった。私にとって、真実オニのようたった養母も、他人にこ、つま で言われてみると、なんとなく哀れになってくるから人間とは妙なものである。 死んでよかった、と人々に言われる母の一生とはいったいなんだったのだろ う ? 金銭以外はなにものも信じなかった母。貰い子の娘がたまたま「金の成る 木に成長したばかりに 、金に魂を奪われ、金に翻弄されて自滅してしまった母。 四歳だった私に、ひとこと多いウソを言ったばっかりに、娘の首を、そして自分 の首まで締めてしまった母を、いまはただ、哀れな人だった、とおもうのみであ る。 しかし、母自身はどうだったのか ? 終始我慾を貫き通して一生をおえた母は、 案外ケロリとして、「楽しかったサ、と言うかもしれない。人間模様は、さまざ まである。 ほんろう
私の到着後、五分ほどして、それでも約束の時間より十分ほど早く、幸田さん が姿を見せた。ラジオ局の人の紹介もそこそこに、幸田さんはススッと私に近づ からし いてきた。ドンピシャリ、辛子色に焦げ茶の格子柄の八丈だった。 「高峰さん、はじめまして、幸田文でございますー 私もあわてて頭を下げたものの、緊張のあまり挨拶の言葉も出ない。幸田さん へ从士十 , こ 0 お の 「今日は朝からつむじ風でしよう ? 風は人の心をザワつかせるので朝から気分 ん んが落ちつきませんでねえ : なんとなく出がけまでバタバタしていて、矢庭に 、ンドバッグをひつつかんで出ようとしたら、娘に叱られましたの。今日は高峰 さんと対談でしょ ? 初対面だというのにそんなバサけた気持ちで飛び出してい っていいの ? って。私、シュン ! としてしまいました。若いころは父に叱ら れ、年をとったら娘に叱られ、私って、いつまでたっても不器用なんですねえ 150
圏養母はもう「子役の秀子チャンのお母さん」ではなく、「スター高峰秀子のオ ンお母様」として、ときどき私の仕事さきに現れては芝居気たつぶりにノシ歩い て、チップをばらまいた。どっちが高峰秀子だかわからなくなった。 「高峰秀子の母親ともあろうものが : それが、当時の威勢を誇る母のロぐせだった。高峰秀子の母ともあろうもの、 へは、ミンクのショールをはおり、指にダイヤを光らせ、私が洋服を注文すれば自 お 分は着物を、私が靴を買えば、草履を、と、どこまでも私と競いあった。「この ん世に、金で買えないものはないサ」とうそぶいていた母にとって、ただひとつ自 分の意にならぬものは、自分の娘、つまり私だった。 養母の私を見る眼は、母が娘を見る眼ではなく、女対女の強烈な嫉妬の眼だっ た。母は、少女から女性に成長した私を徹底的に拘束した。どんな人でも、母と いう関所を通さなければ私に近づくことはできず、字も読めないのに私への私信 はすべて母の手で開封された。
材に興奮して半狂乱になり、果ては私と課長に「お前たちははじめからグルなんだ ・ : 母という活火山の大噴火 ろう ! 」と、つかみかからんばかりに猛り狂った。 で、私の一時預かり話はオジャンになって消え去った。 そもそも、私にはじめての養子縁組の話が持ちこまれたのは私が子役だった六 歳のときで、当時、松竹の演出家だった五所平之助夫妻からだった。そして次は ーワンだった東海林太郎夫 へ私が十歳のときで、当時、流行歌手として人気ナンバ お の 妻からの申しこみだった。養母はそれらの話を鼻のさきで聞き流して問題にもし ん んなかったが、 今回の相手は六人という多勢である。養母にとって、「娘を可愛が ってくれる親切な人たちーだった , ハ人は、以来、「いっ娘をカッさらっていくか わからない油断のならぬ奴らーとなり、母は私の周りに寄ってくる人々に鋭い警 : 私は、私に救いの手をさしのべてくれた 戒の眼を光らせるようになった。 人々の好意が心底嬉しく、ありがたかった。いますぐにでも、その胸の中に飛び こんでいきたい、 と思った。が、もし私が家を出れば、養母はなにを仕出かすか
89 作 ら ) せ た の だ 、私 ろ つ が れ が 母 の 、教 人 優 ン の 庭 な の だ - つ た 建 っ て い て ゲ ッ と な る ほ ど 軽 薄 で 供 つ ほ い しゝ れ 母 が 植 木 屋 さ ん を 呼 ん で ま ん な か に お よ そ 私 の 趣 味 で は な い ピ ン ク ク ) 。蔓」て バ フ を か ら ま た 白 い ア チ カゞ あ る 日 は 珍 し く 母 の 部 の コ タ ツ に 入 - つ お 茶 を の ん で しゝ た 庭 の 芝 生 の ひと 皿 ま で と 開 き な お る 他 に ァ は な 力、 つ と多い い も の を た っ ぶ り と 見 物 さ せ て も ら っ て る も つ っ な ・つ た ら 毋 を 喰 ら わ 養 母 力、 ら 人 間 の 卑 し さ 醜 さ 狡 猾 さ 4 曼 さ 浅 は 力、 さ な ど あ ら ゆ る 汚 は な い と 考 ん な お し た 面 師 な ど と い っ 生 や さ し い も の で は な い が 私 は て 羨 ま し く な、 い と も な い け れ ど 徹 的 に イ中 の 亜 い 母 女良 も ま た 捨 て た も の で 半 イ ン に な ・つ て た 世 間 に は 仲 の 良 い 母 女良 が た く さ ん い る そ ん な 母 娘 を み ん を す る ん だ と っ も い た け れ ど 私 は ま ん と い つ 段 階 を と つ に 越 ん て 私 た ち 母 娘 を 知 る 親 し ) 人 た ち の 中 に は コ ち や ん は な ぜ そ ま で が ま
谷崎松子さんも梅原艷子さんも、美しい方だった。生涯和服の女性だった。そ 中 いや、入れなかった、のかも知れないと私は思 して、台所へは入らなかった : 出 っている。 分 ・目 齡周知の如く、もと大阪船場、根津家の御寮ンはんだった松子さんを、若き日の 谷崎先生は半ば強奪に近い情熱で獲得し、真綿でくるむようにして雲の上に置い た。松子夫人の食事の給仕は先生自らがして、自身は下にさがって食事をする。 松子夫人の期待に反して夫婦らしい睦み合いなどには程遠い、不可思議な日常で あった、という 「秀子さんには想像がっかないかもしれないけど、私は娘のころダンスの好きな 213
ひ 映画「母」は空前の大ヒットとなり、早速に養母のもとに次回作の脚本が届い て、私は子役として正式に松竹映画に入社した。月給は、当時の大学卒の初任給 とほほ同じだったというから子役にしては破格の金額だったらしい。狂喜した養 母は、秀子という私の名前の上に「高峰」という芸名を乗せた。養母はもともと 芸能界にあこがれていて、若いころには「高峰ーという芸名で下座 ( 寄席や劇場 などの御簾の中で舞台の伴奏をつける ) の三味線を弾いていたらしい。その「高 峰ーを、娘の私につけることで、自分の果せなかったスターへの夢を追いたかっ たのかも知れない。こうして、五歳の「高峰秀子ーが誕生したわけである。 当の私は、といえば、なにがなにやらチンプンカンプン、とにかく身辺にわか
と多い ひ がんで、月日の経つのをひたすら待った。どこで住所を調べたものか、母からひ らがなの航空便が届いた。文面はたた「かねをおくってくたさい」とあった。私 はいたずら心をだして、フラン紙幣を一枚送ってみようかとおもったが、そんな ジョークのわかる母ではない。大切な母親を捨てて外国へ行ってしまった親不孝 な娘、と、あちこちに触れまわるのかオチだろう。私は、日 矢らぬ顔の半兵衛をき めこむことにした。 帰国したのは十二月も半ばだった。羽田空港に出迎えてくれたのは、花束を抱 えた東宝や松竹の重役さんやプロデューサー、そして私の友人たちと大勢のカメ ラマンやジャーナリスト : ・ : もちろん、最前列には目一杯に着飾った養母がいた。 「母さん、ただいま」 と笑いかけた私に、母は大声で叫んだ。 「どうだ、親の有難みがわかったろう ! 」
と多い ひ 「お言葉ですが、私は、母が死んだときのことをよく覚えています。母は、座敷 の真ん中に置かれた座棺の中にいました。首のまわりに白絹がつめられていたの で、私には母が首だけになったようにみえて、悲しみよりさきにおそろしくて悲 鳴をあげました。その私を、あなたはすくいあげるようにして早々に上野行きの 汽車に乗ったのでしたね。 : でも、いまはこうして、二人は母娘として一緒に 暮しているのだからそれでいいではありませんか。実母だとか、養母だとかにこ だわらずに、ま、仲良くやりましよう。どうぞ、ヨロシク」 てなことを言ったかもしれない。 養母の「ひとこと多いは、もちろん故意や悪意から出た言葉ではない。子供 を持った経験のない養母は、幼い私が実母の死を覚えてはいないだろう、という 独り合点とせつかちからの「私がホントのカアサンだよ」だったのかもしれない。 が、私は実母の死を忘れてはいなかった。幼女の私に返答ができなかったその分 だけ、「人間不信」という鋭い釘になって、私の心に突き刺さったのだ。
ある朝のこと、「仕事で出かけてくるからネ」と、べッドでべそをかいている 母に心を残しながら庭下駄をつつかけて外へ出た私は、何気なく振りかえって、 ギョッとして立ち停まった。いまのいままでべッドにへばりついていたはずの母 が、とっぜんケロリとした顔でべッドを下り、スタスタと洗面所に向かって歩き だしたのである。 中 「騙された ! 」 出 唖然として棒立ちになっていた私の胸もとに、嘔吐のような憎悪が盛りあがっ 分 ・目 てきた。私の母は、世間の常識からは程遠い人であった。何十年にも亘る母娘の 確執は単行本の上下にも書ききれないほどだが、あのときほど、心底母を憎んだ ことはなかった。 母は常日頃もなかなか芝居気のある人だったが、それにしてもあのポケぶりは 完璧だった。私は過去に六十余りの女優演技賞を受賞したけれど、母の演技力に は到底及ばない。