料水の入った木箱をひょいとかついで店内に運び入れている。若者たちの足はい ・ : あの ずれも汚れたスニーカーでガードされ、力強く大地を踏みしめている。 。今度、 少年も、いっかは車椅子の上で「青年」に成長していくのだろうか ? : いっかまた、あの母子に会うことがあったら、私はなにか余計なことを言ってし まいそうで、こわい気がした。 + 「車椅子に乗っている理由」を聞いてみても、それがいったい何の意味を持っ言 時葉だというのか、「おかあさんの代りには誰が車椅子を押してくださるの ? 」と 十 前たずねてみたところで余計なお世話だし、少年の年齢を知ったとしても、私にな にかしてあげられる筈もない。 他人への干渉はいらぬことなのだ。私は、もう、あの母子には会わないほうが いいのだ、とおもった。そうだ、そのほうかしし 車椅子があの道を通るのはいつも十時半ごろだった。それならば、私が十時す ぎに魚屋へ行くのをやめれば いい、やめれば、あの母子に会うこともないだろう。
しかし、こうして本書を改めて読んでみると、高峰には酷だったが、書いても らって良かったと、思、つ。 彼女のそれまでの、六十代までに書いた随筆とは明らかに違う、日々息づく、 あふ 高峰秀子の肉声が、それも老いというあまりに切実で臨場感溢れる声が、こうし て再び人々の耳に届くことは、貴重だと思うからだ。 〈そして何より、これら高峰秀子が七十代で著した随筆には、一切の余分なもの お の を取り払った、彼女のク髄クとも言える心情が如実に表れていて、胸を打つから ん 最後のシメが実に上手い人だった。 本書、「ひとこと多いーの章。鍋料理を前にした老夫婦の食卓から始まり、物 かたず 語は、固唾を飲むような高峰の半生から養母との確執にまで至り、読んでいて、 「一体これをどう始末するのだ ? ー「話がどんどん逸れていくじゃないかーと思っ た時、ピタリと冒頭の小鍋シーンに戻る。 242
皿は日に何回もシャワーを浴び、「おしゃれをしないとジジムサイーと、とってお きのイタリー製のシャツを着たのはいいけれど、うしろから見たらポケットが ついているではないか。「今日はまた変ったシャツですねえーと言ったらさすが にギョッとして、そそくさと着なおしていたけれど。それから、ひょいと台所へ 入ったと思ったら、私が煮物用にと作っておいたコプとカツオプシのだし汁を麦 ( 茶と間違えて飲んじゃったし、眼薬と間違えて薄荷入りのうがい薬を眼に注して お の 飛び上がったし、そうそう、外出どきには片時も離さない大事大事のセカンドバ ん ッグを中国料理店の椅子の上に置き忘れてきたときはさすがにショゲかえり、デ ートに走ってコーチのショルダーバッグを買いこんで、肩からはすかいに掛け た姿は、どうしたって白髪老眼鏡にはそぐわない幼稚園スタイルだったわねえ。 ま、この私だってマウイ島の火山のてつべんにハンドバッグを置き忘れてスタ コラ帰ってきちゃったこともありますから、あまりひとのことは言えないけど。 結婚以来四十年も一緒に暮していると、夫婦はなんとなく似てくるものらしい
饒舌になり、あげくは折角手に入れたお宝の飾り皿やワイングラスなどを、気前 よくボン ! とくれるのがオジサンの唯一の道楽だった。 ある日、オジサンが呉服ならぬ四角い木箱を抱えてやって来た。箱から現れた のは豪華なバカラの大鉢だった。 「オジサン、こんな立派なものをくれちや商売あがったりだョ」 そ へ と、びつくりする私に、オジサンはニコリともせずにこう言った。 お の 「それとこれは別のことでさア。モノはねえ、ところを得てこそ生きるというも ん んんでしょ ? コイツがお宅へ来たいって顔をしたから持ってきただけ。ま、置い てやっておくんなさいよ」 つむぎ ヒスイのかんざしと紬の着物が似合った奥さんに先立たれたオジサンは、みる みる内にひとまわりほども小さくなって、アッサリとこの世から消えてしまった。 オジサンのような江戸ッ子には、もう出会うこともないだろ、つ : : と思ってい る内に早いもので十余年がすぎた。オジサンと別れてから私はだんだんと和服を
平成七年の十月号が連載第一回目となった。 本人は一年もやれば勘弁してもらえると思っていたらしい。だが最初の編集長 が異動して、次の編集長も、またその次の編集長も、勘弁しなかった。 こも 「もう書けません。私は家に籠りつきりで人にも会わなきや何の出来事もないか ら、書くテーマがないんです」 秀 連載を一年続けたあと、高峰は言ったが、了解してもらえなかった。 母 もちろん私も「せめてあと一年は」とお願いした。 亡 二代目の編集長など、遂に、「いつでも、何枚でも結構ですからーと、その温 厚だが真綿で絞めるような粘り強さで、書かせた。 の あク作家たらしクで聞こえた名編集長だった。 「いつでも何枚でもいいなんて : : : そんなこと言ってもらえるなんて、有難いね えーと、感じ入ったように高峰は私に言ったことがある。 死ぬまでに一度でいいからそんなこと言われてみたい、その時、私は内心で思 239
暖かく包んでくれることを思うと、私はしあわせです」 は何度も何度もその手紙を読みかえした。毛皮工場の裸電球の下で、固い皮 を一針一針とじつけている一人の女性の姿が目に見えるようだった。 「コート一枚の陰にも、こうした人たちの労力がこめられている。そして、こう した人たちが私の映画を見てくれている。虚名であろうとなんだろうと、私は女 優という職業に徹してもっともっと努力をしよう。 ・ : 明日から頑張るぞ ! 」 出胸の中に、 小さなローソクの火がポッと点ったような気がした。手紙は小さく の 折り畳んでもとのようにポケットの底に沈めた。このコ 1 トを着るたびに手紙を 風 読みかえして、私を励ましてほしかったからである。 手紙には、差出人の住所も名前も書かれていなかった。なんとかして一言でも お礼が一言えたら : : : と考えたが、その方法はない。毛皮店の主人に問い 合わせて みても、かえって当人に迷惑がかかりそうな気がして、それも控えたままで何十 年とい、つ月日が過ぎた。 145
211 「新潮菊」の四月号 ( 平成五年 ) に、曾野綾子さんが、「三坪の畑に青菜やソラ マメ、葱などの野菜を作っているーと書いていられるのを読んで、私はニンマリ とに入った。一芸に秀でる人はなんとやら : ••A 」い、つ【刀ホ ) ~ 睨」圭日 , 、 ) い、つハ ードな作業の合間に庭へ出て、こまめに畑の雑草などを抜いている曾野さんの姿 は、御主人の三浦朱門さんでなくても惚れ惚れとするほどいい女にみえるにちが 中 いない。このごろ、断固として「結婚なんかしない と言い切る女性が増えてい 出 るのも、家事、とくに台所仕事なんかメンドクサイからだそうで、経験もしてい 黔ないのによくわかるものだと私はビックリするのだが、 そういう人は本当に結婚 しないほうが賢明だと思う。第一、夫は台所仕事よりもっと「メンドクサイー存 在だし、そ、ついう女性はやがては夫を「ぬれ落葉ーだの「粗大ゴミ」だのと呼ぶ 無神経なオバハンになってゆくにちがいない。 昔の子供は、お母さんが味噌汁の具を刻むトントントンという軽やかな包丁の 音で目をさましたものである。茶の間に味噌汁の匂いが漂い、チャプ台の前に坐
「、つむ、うまくいっている」 と、一一一 = ロ呟いてスタスタと立ち去った、とい、つ。 自分の仕事の結果を人知れず確かめに来た七十九歳の植金さん。 「ああ、江戸ッ子はまだ生きていた ! 」 人 私はこの話を聞いて心底感動した。 の 昔の東京にはこ、ついう職人さんが大勢いた。そういう人間の集まりが東京を作 っていたのだ、と思う。 人 今年の夏はまさに猛暑だった。 の とい、つけれど、そうでもない、 の東京には緑が少ない、 と私は思っている。とく に最近は予算の関係か係のお人の美意識のせいか知らないが、やみくもに花や木 が植えられて押し合いへし合いの大混雑である。来る日も来る日も一滴の雨も降 らぬ酷暑の中で、大木の街路樹だけは辛うじて頑張っていたけれど、ひょわな若 木たちは灼熱の太陽に灼かれて大火傷を負い、枝ごと枯れてゆく様子が哀れだっ 189
214 おきゃんなモダンガールだったのですよ。そうなのよ。でもいまは谷崎の好みに 合わさなければ、とそればっかり考えているでしよう ? ときおり、それらしい 演技をしている自分にハッとすることもあるけれど : 松子夫人は独り言のようにそう言って、谷崎好みのやわらかい友禅の肩をちょ っとすくめてひっそりと笑ったことがあった。 そ へ 昭和二十五年、「細雪」の映画化で私が末娘の妙子役を演じたのがきっかけで、 お 以来、伊豆山の谷崎邸に何度か泊ったことがあったが、五人の女中さんを使って 台所仕事をとりしきっていたのは三女の重子さん ( 細雪の雪子のモデルといわれ ている ) で、私は松子夫人が台所に入るのを一度も見たことがなかった。エプロ ンがけのかいがいしい松子夫人は、たぶん谷崎先生の好むところではなかったの べにろ、つ 梅原艷子夫人は、生涯台所へ入らないばかりかマッチもすれない奥様だった。 「オバアの奴はあんまりだ、マッチもすれない奴とは思わなかったサ
診ると、悪いものではないと思いますよ」 「はア ?. 「第一、乳ガンならふつうはもっと上のほう : の、こんなところには : : : 痛みはないでしよ、つ ? 「ありません」 ~ Z 先生はペンをとって、机の上の白い紙にくと線をかいた。 の 「これ、お乳の横顔です。乳首に向かってたくさんの乳腺が走っています。太さ ん んが一ミリもない細い管なので、その腺のどこかになにか : : : 水とか脂肪とかがっ まって、こういうしこりになる場合もある : : : 私どもは乳腺症とよんでいます が」 「乳腺症 : : : 」 「乳ガンとは関係のないものです。どうしてもとお望みならレントゲン検査もし ますが、私はその必要はないとおもいますね。 : いっからこんな状態になりま : ここいらに出来るものです。下