昭和一一十七、八年ごろから、テレビ、その他のレジャー産業の出現で、映画界 はしだいに不調になり、作品本数も急激に少なくなりました。 藤ゃんは、「日本映画照明協会」の設立のために現場をはなれ、テレビや舞台 には目もくれぬ長さんは映画ひとすじ、気息えんえんの撮影所に残って頑張りま した。 へそれから、五年、十年、十五年が経ち、日本の映画界は、エロ、グロ、ポルノ お の の坂を転げ落ちて、もはや再起もあやうい状態になったとき、東宝は久し振りに ん ん高度で良心的な前後篇の大作を製作しました。社運を賭けての超大作でした。 映画館で、前篇を見た藤ゃんは、その足で東宝の製作部にスッ飛びました。 「前篇の照明は感心しません。後篇の照明が出来るのは石井長四郎さんの他には おりません。後篇は、石井長四郎にしなさい」 日本映画照明協会長の鶴の一声でした。後篇の照明は長さんに決定して、映画 は立派に完成しました。 8
お そ へ 映画撮影所は、一言でいってヘンなところなのです。 どこが、どうへンなのか ? と聞かれても、五十余年も映画界で働いてきた私 でさえ、即答はおろか、説明も表現もおばっかない、 つまり、ただ「ヘンーとし か言いようのないところなのです。別に、スリ、カッパライのたぐいが横行して いるのでも、刃傷沙汰が続出しているわけでもありません。 撮影所内をウロついている、映画人といわれる人々、映画製作にたずさわるス おへそ
車で東京へ行く弟をどこまでも追いかけて見送りをする長いカットがあった。 宙を飛ぶような馬の四肢がくつきりと空にぬけるように、山の稜線を駆ける、 というのがこのカットの条件だ。 裸馬によじのばることさえおほっかない私には、このカットはしよせん無理、 近在ではピカ一の馬の乗り手といわれる女性が、私の衣裳を着てスタンドインを へっとめてくれることになった。が、馬は走らない。何度テストをくりかえしても、 お の 馬は、道もなく切り立った山の稜線を巧みによけて、山の向こう側かこっち側し ん んか走ってくれず、ピカ一は遂にギブアップ、馬も疲れ果てて、その日の撮影は中 止になった。 次の日に、私のスタンドインとして現れたのは、年のころは六十歳前後、小柄 でシワクチャのおじいさんだった。もと、競馬の名ジョッキーだったというけれ ど、お下げ髪のカッラに手ぬぐいの鉢巻き、白地に赤いチェックのシャツに紺の モモヒキ、という「いねーの衣裳を着た格好は、どうみても安手の西部劇映画に 112
馬 117 映画「馬」の冒頭には、東條英機陸軍大臣の言葉がそえられている。 「飼養者の心からなる慈しみに依ってのみ、優良馬ーー将来益々必要なる我が活 兵器ーーが造られるのであるー と。軍馬育成奨励の国民映画としての「馬」は興行的にも大ヒットをした。が、 「活きた兵器」である「馬」のラストシーンに、あの長い長い二カットを使った 演出家、山本嘉次郎にとって、東條大臣のステ 1 トメントはいささか空虚でうそ 寒い心地がしたのではないだろうか ? おもえば、映画「馬」には、ひっそりと静かな戦争反対という下敷きがかくさ れていた、と、いま気づくのは私だけだろうか ? し、
114 感動と感想だった。 こうして撮り集められた断片的なカットが、編集されて一本の映画になるまで には、観客にはわからない紆余曲折、珍談奇談があるけれど、「馬」の場合、劇 中では終始一頭にみえる馬が、実は十数頭もの異なる馬だと気づいた観客は、お そらくいなかっただろう。「馬」は、私の少女時代の代表作などといわれている ~ けれど、「馬」の撮影期間中、私は馬と仲よしになるヒマなどなく、あけてもく お の れても初対面の馬とのつきあいで、ただバタバタしていた、という思い出しか残 ん っていない。映画とは、ことほど左様に、もっとも本当らしいウソ、インチキの 固まりなのだ。 こんな楽屋裏を公開してしまっては、折角のイメージが狂っちまう、かもしれ ないけれど、でも、それが「映画作りーというものなのだからしかたない。
どだったろうか、五、六人のおじさんたちが、ズラリと並んだ女の子ひとりひと りに話しかけながら行ったり来たりし、女の子たちは、べそをかく子、はにかん で固くなる子、行列から逃げだす子・ : とっぜん、私の養父は背中から私をおろすと、ものも言わずに行列の最後にポ ン ! と私を立たせた。キョトンとして突っ立っている私の前に、おじさんたち ~ が立ち止まった。そして : : : こういうことを運命とでもい、つのだろうか、映画 「母」の主役は、なんと私に決定したのだった。五、六十人もいる子供の中で、 最低にショボたれた洋服を着て、最低にショポくれた御面相の私が、だった。い 亠つよ、つ学にし はやり まおもえばそのショポくれた私の顔が、当時流行の母もの映画、お涙頂戴映画 にピッタリだったのかもしれない
象牙の箸のみ。「あとのものは、お働きになってお買いになったらいいでしょ 、つ」とい、つのが挨拶の言葉だった。 「待てば海路の日和かな」というけれど、チャンスは到来した。敗戦後はじめて のべニス映画祭に、唯一の東洋の女優として私に招待状が舞いこんだのである。 ふりそでヒラヒラ、 ーテイチャラチャラなどは私の最も苦手とするところだ 多から、映画祭に出席する気は毛頭なかったけれど、海外逃亡にはまたとないチャ ンスである。昭和二十五年ごろの当時、海外旅行は外国人の身元引受人と招待状 とゞ、 カ必要だったから、私はとにかくその話に飛びついた。身元保証と生活費はパリ のフランス映画社の社長がひきうけてくれて、期間は七ヶ月間と決めた。 私は、なんでもいいから、私をとりまく一切のものから逃げだしたかった。ア プクのような人気も、ファンクラブもオフィスも、兄弟も、そして養母さえもい らなかった。七ヶ月の間には、そのほとんどが消滅するだろう。ついでに「高峰 秀子ーという女優の名前も消えてなくなっているかもしれない。が、それならそ
と多い 私はそう返事をして教室を出た。授業中なのだろう、人っ子ひとりいないガラ ンとした校庭は、ヘンにしらじらとしてまぶしかった。 成城の家に帰る電車の中で、母は呑気に窓外を眺めていたが、文化学院をクビ になった私はさすがにメゲていた。が、 一方では私の中でなにかがパチン ! と ふっ切れたような気もしないではなかった。私は子供のころから甘えるのがキラ イだったし、甘えたことがない、 と自分ではおもっていた。が、実はとんでもな い甘ったれだったのだ、ということにハタと気づいて愕然としたのだった。一年 と前、東宝映画と契約をしたとき、東宝側はたしかに私を「女学校に入学させま ひ すーとは言った。が、 女学校に通学させる、とは言わなかった。 考えてみれば至極当然、映画産業は慈善事業ではない。せつかく大金を積んで イ社からひったくってきた俳優をノンビリと女学校に通わせていては商売が成り 立たないだろう。私は映画会社という商店の一個の商品なのであって、人間では 、 0 町学 / し ということを、そのとき、肝にめいじておもい知ったのだった。
と多い ひ して、この私と一一一口うとき、自分の低い鼻の頭を人さし指でグイと押すのだった。 そのたびに私はおもった。 「この人はなにを言ってるのだろう。私のカアサンでもないくせに・ 養母のひとこと多い言葉は、四歳の私の心に、「人間不信」という苗を一本、 また一本と植え続け、その苗は私の成長と共に伸びて枝葉をひろげていった。 東京の生活が一年ほど過き 。、卵ごはんもようやく卒業し、私の北海道なまりも とれたころ、またふらりとやってきた養父は、どうした気まぐれからか私をおん ぶして、当時は蒲田にあった松竹映画の撮影所を見学に出かけた。 撮影所ではその日、たまたま、鶴見祐輔原作の「母ーという映画の主役になる 五歳の女の子のオーディションが行われていて、池のほとりに、お父さんやお母 さんにつきそわれた五歳の女の子たちが五、六十人も集まっていた。 どの子も髪にはリボン、振袖姿、と、目一杯に飾りたてられていて、美しい花 園でもみるようだった。いま思えば、映画監督やプロデューサー、カメラマンな
馬 111 知っているから、坂道を右か左の斜面ぞいに走りおりる。 人間だって同じことで、急坂を全速力で走りおりれば頭からでんぐりがえる。 馬にだけ「一直線に駆けおりろ」と強要するなどは、ないものねだりもいいと こで、無智、アホウというものである。 アメリカ映画の西部劇などを見ていると、カッコいいガンマンやインディアン が、そそり立っ断崖絶壁をものともせす、自由自在に馬をあやつってドンパチや っている場面があるけれど、出演している馬たちはサーカスの曲芸馬のような特 訓を受けた馬だから、人間でいえばスタントマンのようなもので、日本国には残 念ながらあの手の馬は一頭も存在しない。 スタントマンといえば、映画「馬」の一場面に、裸馬に乗った「いね」が、