盟も画こうじゃないのーと、素人ばかりが集まって発足したのが「チャーチル会」 だった。 生徒は、藤山愛一郎をはじめとして、作家の石川達三、田村泰次郎。作詞の 浦洸。新派劇団の伊志井寛。オペラ歌手の長門美保、佐藤美子。俳優の森雅之、 宇野重吉、高橋とよ、柴田早苗、それに私高峰秀子などと、およそバランバラン へなメンバーだった。先生は、はじめ石川滋彦画伯一人のはずだったのが面白半八 お の に集まった宮田重雄、益田義信、伊原宇三郎、猪熊弦一郎、佐藤敬、硲伊之助、 ん 高野三三男、久保守、と、どんどんどんどん増えるばかり、先生のほうが生徒 ( 数より多い、というへンな会だった。 どうせお遊びの会だから、最高顧問にはドカン ! と一発、梅原龍三郎御大九 かつぎ出せ、ということになり、宮田、益田の両人に連れられて梅原邸を訪ね のが、梅原画伯との出会いだった。以後、昭和六十一年、画伯が九十七歳で亡ノ なるまで、有形無形、言葉につくせぬほどの恩恵をいただき、その間、たびたバ はざま
べられるようになったのは、生前親しくしていただいた二大グルメ、梅原龍三郎 画伯と谷崎潤一郎先生のおかげである。 鯛のおっくり、ばたん鰤、と、日本料理びいきの谷崎先生は、「中国料理って おっしゃ のは、ど、つもゴミ溜めみたいですなアと仰言り、キャビア、フォアグラには目 がなく、フカのヒレの煮込みをこよなく愛した梅原画伯は、「日本料理は、ひた すら風を喰っているようなものだな」と仰言って、頑として御自分の嗜好を押し う通されたが、 両先生の間をピンポン玉のように往復して御馳走になっていた私た ちは、超一流のゴミ溜めも風も充分に堪能させていただいてシアワセだった。 前にも書いたよ、つに、私にはスキ、キライかないから何でもありかたくいただ く、が、実をいえば、その何でものどこかに少々注文がつく。魚なら砂ずりと呼 ばれるおなかの部分。牛なら絶対に舌か尻尾。とりなら皮かキモ。豚なら豚足。 羊なら骨つきシャンク。と、あまりお上品とはいえない好みで、せつかくの梅原、 1 谷崎、両先生の優雅にして高度な食味教育の、かげも形も残っていない。夫は、
215 と、梅原先生がからかうと、艶子夫人は、 「だって、結婚するときオジイが言ったのよ、ボクは個性の強い男だから、キミ は白紙のまま力しし ゞ ) ゝ。余計なことはいっさいしてくれるな、って : ・。だから私 は何もしないことに決めたのよ : と、ロをとがらせた。 中 先生と艶子夫人はほとんど見合結婚である。仲が良く、どこへ行っても先生の 出 分 そばには必ず艶子夫人が大きな人形のように「なんにもしない、で控えていた。 鈐「なんにもしない」ということはまた、よほど強固な意志なくしてできることで はない。私の観察したところでは、艷子夫人は先生を上まわる強い精神力を持っ た女性だった、とおも、つ。 その艶子夫人が、昭和五十二年の春、風邪から脱水症状をおこし、フッと消え るように亡くなって以来、梅原先生の日常生活はひどく不安定になり、まず食事 時間がめちやめちゃに乱れた。以前から、「ボクはもともとひるメシはいらない
招いて「タ食会」を開いた。ゲストは政界、財界、ジャーナリスト、画商、作家、 棋士、関取、歌舞伎役者、と、その交友は幅広く、中国料理のコックやすし屋の 親分が腕をふるったタ食のあとは、将棋や囲碁を楽しむ人、お喋りに興じる人、 と、梅原サロンはいつも明るく楽しかった。 あれは : : : 画伯が七十歳をすぎたころだったろうか、夜も十時をすぎておひら 〈きとなり、最後に残ったのは作家の川口松太郎と、長年、画伯の画集を手がけて お んいた石原求龍堂の主人の石原さん、そして私の三人だった。ふっと姿を消した梅 ん原画伯は、一枚の半紙を持って現れると、その紙をテープルの上に置き、私たち のぞ 三人は立ちあがってその紙を覗きこんだ。 「葬式無用 弔問供物 固持すること 梅原龍三郎 134
肖像画のモデルも務めたが、あるとき私は、絵筆を動かしている画伯にこう聞い 「先生は男の人をほとんど画かないけど、どうしてなの ? 画きたい人がいない 「ボクが画きたい男は、世界中にたった一人いるよ。周恩来だ」 恩そう断言した梅原画伯も周恩来も、もうこの世の人ではない。 原「祈年殿」の、ルリ色の屋根瓦を仰ぎみている私の目の中に、懐しい梅原画伯と、 端正で凜々しい周恩来の面影がふっと浮かんで、消えた。 チャォズ おひるどきとなり、私は通訳の陳さんに、「北京の人が行くおいしい餃子の店 へ連れていってください」と頼んだ。 陳さんは北京生まれの三十歳。日本の学校で二年間、日本語の勉強をしてつい 先頃北京へ戻ったばかりの、六歳の男の子の父親だという。陳さんが案内をして 125
ないだろう。 冷蔵庫といえば、私が敬愛する、亡き谷川徹三先生の「冷蔵庫の一件」を思い 出す。夏の間、軽井沢の別荘に居を移して、浅間山やバラの作品に取り組んでい らした梅原龍三郎画伯のお宅で、私はしばしば谷川先生にお目にかかり、夕食の お相伴もさせていただいた。 〈夕暮れ。食事時間の一時間ほど前に、梅原邸に到着したタクシーから谷川先生 お のはスラリとした長身を現し、夕食後もまた三十分ほどの雑談を楽しまれて、八時 ′ \ っか・け 前には必ず沓掛の山荘へと戻ってゆかれる。その習慣はハンコで押したようにい ある夜のこと、十時をすぎても谷川先生にお帰りの気配 つも同じであった。が、 がみられない。沓掛までは車で一時間余り、私は夜更けの山道を登ってゆくタク ゝ、にも谷川先生に時間をお知らせした。と、谷川 シーが心配になって、おせつ力し 先生の眼元に浮かんでいた微笑がふッと消えて、意外な言葉がポロリとこばれた。 「御迷惑とは思いますが、もう少しの間ここへ置いてくださいませんか。家内が
が落ちつかない。かといって、どこへ移すという才覚もなく、誰にでも相談に乗 ってもらえることでもない。考えぬいた揚句、京都、鹿ヶ谷の法然院の橋本峰雄 住持の智恵を借りよう、と、私たちは京都へとんだ。よりより相談の結果、当時、 朝日新聞の書評欄に名を連ねていた橋本住持のロききで、新聞社内の「秘密文書 保管部」に保管してもらい、もしもの時はすべての新聞紙上に発表される、とい 恩う条件つきで、遺言事件 ( ? ) は落着した。 っせいに梅原画伯の遺言を大きく発 一九八六年、一月十七日の各紙朝刊は、い 原表し、私たち夫婦のおっとめは、終った。 わが家へ戻ってきた画伯の遺書を眺めて、人間の死とはいったいなんだろう ? と、私は考える。生を選ぶことのできない人間にとって、唯一、自由であるべき 死とはいったい何だろう ? : 梅原画伯と周恩来は、その強い意志と遺言によ って、自らの「死ーへの姿勢をはっきりとした形に示して逝った。 見事な「男の死であった」。凡人の私にはそれ以上の言葉が浮かばない 137
いま、私の机の上に『梅原龍三郎没後十年』という立派な本がある。もちろ ん、カラーベージには「雲中天壇」や「北京秋天」、そして私の肖像画もある。 私がモデルを務めた作品は十点にのばるが、どの絵も、衣裳は明るく派手だが、 その表情はどこか暗くきびしく、眉間にはかすかないらだちのような影さえみえ て、いわゆる華やかな女優の肖像画とはほど遠い。画伯の肖像画は、その姿、形 恩をカンバスに画き写す、というより、モデルの内面にあるなにものかをカンバス の上に表現する、という手法だった。画伯はいったい、周恩来の胸中から何をひ 原き出したかったのだろうか ? こればかりは梅原画伯以外の人間には知るよしも この本には、細かく記された年譜 ( こ、当時の画伯のスナップ写真が添えられて しる。パリ留学時代の青年から壮年に : : : とくに , ハ十歳前後の画伯の顔は、みる からにたくましく、そして、みとれるように立派である。 壮年から老年に入った当時、画伯はときおり、気心の知れた友人知己を自宅に
この絵が画かれたのは一九三九年。ルリ色の空の「北京秋天ーは一九四一一年、と、 画伯は五十歳前後に六回も北京に滞在してたくさんの作品を残している。 画伯が愛したのは北京の風景ばかりではなく、中国料理、骨董街、京劇、と、 なにもかもが気に入り、北京語の四声のレッスンをとったり、当時の京劇の名女 メイランファン 形「梅蘭芳」に惣れこんで、 メイグアンルン 恩「ボクもね、梅原龍と名前をかえて、京劇の俳優になろうか ? と考えたこと 郎もあるサ。半分以上は本気だったな」 原 というから、中国への傾倒はハンパではなかったらしい。その情熱のすべてが、 梅 カンバスの上にみなぎり、溢れ、「雲中天壇」という絢爛豪華、強烈な作品にな ったのだ、と私はおもう。 梅原画伯との初対面は、昭和二十年の敗戦から三年がたち、銀座の焼けあとに もチラホラとバラックながら店舗らしいものも建ちはじめ、人々の心もわずかな がら落ちつきをとり戻しはじめた、そんな時、ささやかな楽しみを求めて「絵で
四十三年目のウェディングドレス オッパイ讃歌 おへそ ひとこと多い能 丐よ 梅原龍三郎と周恩来 風の出会い 午前十時三十分 118