ばあやが生卵のアタマとお尻に木綿針で穴をあけてくれて、私はちゅうちゅうと 音を立てて中味を吸い出すのが楽しみだった。 「カアサン ! 」と、カアサンのそばに駆け寄ろうとすると、カアサンはダメダメ と引き戻した。結核は というように首を振り、ばあやの手がのびて私をぐいー 伝染病だから、私がべッドに近づくのをおそれたのだろうが、私はただ悲しくて ( べそをかき、ばあやはヒョイと私を抱きあげて病室を出た : お の ん 生卵のかかった御飯をベチャベチャと喰べている私を見ていた養母が言う。 「秀チャンのカアサンは、この私だよ。私があんたのホントのカアサンなんだよ、 わかってるネ ? 」 私はただ黙ってうなずく。うなずかない内はいつまでも「あんたのカアサンは この私 : という言葉が続くからである。 養母は日に何度も「あんたのカアサンはこの私なんだよーをくりかえした。そ
私は宗教を持たない。が、私は私だけの「神」を自分の心の中に持っている。 〈「神サマだけが御存知よ : : : 」という歌があったけれど、私の神は常時私により お の そって、私のすべてを静かな眼でじっと瞠めている。優しいけれど超オッカナイ ん 心神だから、私は気安く願をかけたり甘えたりせずにビクビクと遠慮がちにおっき あいを願っている。私にとっての神は、ひそかな心の支えではあるがお助け爺さ んではないから、困ったときに「助けてくれ工 ! 」と叫んだこともない。叫んで みたところで、「悲しいときは悲しめばよい。死ぬときは死ぬがよろしく候」と、 褝坊主のような返事がかえってくるだけだ、ということも、私にはわかっている。 が、ピンポン玉が消えて無くなったときだけは、おもわず、神を間近に感じて、 みつ
圏養母はもう「子役の秀子チャンのお母さん」ではなく、「スター高峰秀子のオ ンお母様」として、ときどき私の仕事さきに現れては芝居気たつぶりにノシ歩い て、チップをばらまいた。どっちが高峰秀子だかわからなくなった。 「高峰秀子の母親ともあろうものが : それが、当時の威勢を誇る母のロぐせだった。高峰秀子の母ともあろうもの、 へは、ミンクのショールをはおり、指にダイヤを光らせ、私が洋服を注文すれば自 お 分は着物を、私が靴を買えば、草履を、と、どこまでも私と競いあった。「この ん世に、金で買えないものはないサ」とうそぶいていた母にとって、ただひとつ自 分の意にならぬものは、自分の娘、つまり私だった。 養母の私を見る眼は、母が娘を見る眼ではなく、女対女の強烈な嫉妬の眼だっ た。母は、少女から女性に成長した私を徹底的に拘束した。どんな人でも、母と いう関所を通さなければ私に近づくことはできず、字も読めないのに私への私信 はすべて母の手で開封された。
と多い ひ 「お言葉ですが、私は、母が死んだときのことをよく覚えています。母は、座敷 の真ん中に置かれた座棺の中にいました。首のまわりに白絹がつめられていたの で、私には母が首だけになったようにみえて、悲しみよりさきにおそろしくて悲 鳴をあげました。その私を、あなたはすくいあげるようにして早々に上野行きの 汽車に乗ったのでしたね。 : でも、いまはこうして、二人は母娘として一緒に 暮しているのだからそれでいいではありませんか。実母だとか、養母だとかにこ だわらずに、ま、仲良くやりましよう。どうぞ、ヨロシク」 てなことを言ったかもしれない。 養母の「ひとこと多いは、もちろん故意や悪意から出た言葉ではない。子供 を持った経験のない養母は、幼い私が実母の死を覚えてはいないだろう、という 独り合点とせつかちからの「私がホントのカアサンだよ」だったのかもしれない。 が、私は実母の死を忘れてはいなかった。幼女の私に返答ができなかったその分 だけ、「人間不信」という鋭い釘になって、私の心に突き刺さったのだ。
材に興奮して半狂乱になり、果ては私と課長に「お前たちははじめからグルなんだ ・ : 母という活火山の大噴火 ろう ! 」と、つかみかからんばかりに猛り狂った。 で、私の一時預かり話はオジャンになって消え去った。 そもそも、私にはじめての養子縁組の話が持ちこまれたのは私が子役だった六 歳のときで、当時、松竹の演出家だった五所平之助夫妻からだった。そして次は ーワンだった東海林太郎夫 へ私が十歳のときで、当時、流行歌手として人気ナンバ お の 妻からの申しこみだった。養母はそれらの話を鼻のさきで聞き流して問題にもし ん んなかったが、 今回の相手は六人という多勢である。養母にとって、「娘を可愛が ってくれる親切な人たちーだった , ハ人は、以来、「いっ娘をカッさらっていくか わからない油断のならぬ奴らーとなり、母は私の周りに寄ってくる人々に鋭い警 : 私は、私に救いの手をさしのべてくれた 戒の眼を光らせるようになった。 人々の好意が心底嬉しく、ありがたかった。いますぐにでも、その胸の中に飛び こんでいきたい、 と思った。が、もし私が家を出れば、養母はなにを仕出かすか
と多い ひ 新聞もとらなかった。けれど、私は平チャラだった。 私は小さいころからへンにしらけた子供だったけれど、このころからだんだん に養母との会話を避けるようになっていた。私が一言でも自分の意見を言えば、 、目も変らず「親に向かって 「なまいき一言、つな ! 」とヒステリックにつつかかり本 , なにを一一一一口う」「私しや、あんたの母親なんだからねーと母親風をふかせる養母に、 さからってみたところで無駄だった。私はいっしか、「母娘として一緒に暮して はいても、この人と同じ道を歩いてはいけないーとおもうようになっていた。い ま、当時の母の気持ちを考えてみれば、異常にカンの働く母は、喜怒哀楽を全く 出さず、自分の中に閉じこもっている私に、得体のしれない不安を感じていっそ うイラついていたのかもしれない。私は母の嫌がる事柄にはいっさいさわらなか った。家で本が読めないなら、家以外の場所で読めばいい。私は撮影の合間をみ ては、撮影所の宣伝部に入り浸るようになった。宣伝部には、新聞、雑誌、新刊 本、文庫本、となんでもあって、活字の宝庫、私にとっては宝の山だった。撮影
どだったろうか、五、六人のおじさんたちが、ズラリと並んだ女の子ひとりひと りに話しかけながら行ったり来たりし、女の子たちは、べそをかく子、はにかん で固くなる子、行列から逃げだす子・ : とっぜん、私の養父は背中から私をおろすと、ものも言わずに行列の最後にポ ン ! と私を立たせた。キョトンとして突っ立っている私の前に、おじさんたち ~ が立ち止まった。そして : : : こういうことを運命とでもい、つのだろうか、映画 「母」の主役は、なんと私に決定したのだった。五、六十人もいる子供の中で、 最低にショボたれた洋服を着て、最低にショポくれた御面相の私が、だった。い 亠つよ、つ学にし はやり まおもえばそのショポくれた私の顔が、当時流行の母もの映画、お涙頂戴映画 にピッタリだったのかもしれない
所は私の職場だったが、 そういう意味では唯一、かけがえのない逃避場所でもあ った。どんなときでも、私を大きく受け入れてくれた、あの撮影所がなかったら 私はどうなっていたか ? とおもうと心底、ゾッとする。 文化学院に入学して小一年も経ったある日、担任の川崎なっ先生から呼び出 1 の電話を受けて、養母と私は学校へ急いだ。 へ「文化学院がいくら自由な学校でも、一ヶ月に二、三度しか通学のできない生徒 お の を二年に進級させることは出来ません。学校をやめるか、映画の仕事をやめるか ん んよく考えて、どちらかにしてください。先生は困っています」 先生も困るかもしれないが、私も困った。私が映画の仕事をやめれば、その日 から私たち母娘はもちろん、早くも私の出演料を目当てににじり寄ってきている 三、四人の親族までが路頭し、 こ迷うことになる。よく考える余地もへったくれもあ りはしない。 「ハイ。学校をやめますー
にんげんのおへそ 聞て現在活躍中である。 「ひとこと多い」といえば、この私にも、忘れられないひとことの言葉がある。 忘れられない、というよりも、ちょっと大げさにいえば、そのひとことで私の 人生がヒン曲がってしまったのだから、忘れようにも忘れられないひとことだっ 私は大正十三年に、北海道は函館で生まれた。男子ばかり四人の中に、私だけ がポツンと女の子だった。私が四歳になったとき、長く結核を患っていた母親が 死亡。父親は五人の子供たちを親類縁者に養子としてバラまき、私は父の妹、つ まり叔母にあたる「志げの養女となって、志げの住む東京は鶯谷の家に連れて
皮よ 、カ / イ ( いまの言葉を、車椅子の少年はどんな気持ちで聞いただろう ? カラリとした笑顔でいたすらつほく母親を見上げた。首にクルリと黄色いマフラ ーが巻かれ、たつぶりとしたタータンチェックの膝かけがあたたかそうだった。 きずな 「大丈夫なのだ。この母子の間は蟻一匹入りこむ隙間もないほど親密な紲で結ば れているのだから。他人の余計な気づかいなどは要らぬこと、あまり神経質にな + るのはよそう」 時彼は母親に向けた笑顔のまま私を見ると、膝かけの下からソロリと左手を出し 十 前て私にさしのべた。三年前に握手をしたことをおばえていたのだろうか ? ・ 車椅子に寄った私の左手が彼の手をとらえた瞬間、椅子から背を起こそうとし たらしい / イ 皮の手が逆に私の手を強く引きよせ、私は重心を失って前にのめった。 し子、いい子、をす 私の両腕が自然に彼の背中にまわり、私は無意識の内に、い、 るように彼の背中を撫でた : 肩幅は私とほとんど同じくらいに広くなり、背骨は少年のかばそさを越えて、 161 0