圏養母はもう「子役の秀子チャンのお母さん」ではなく、「スター高峰秀子のオ ンお母様」として、ときどき私の仕事さきに現れては芝居気たつぶりにノシ歩い て、チップをばらまいた。どっちが高峰秀子だかわからなくなった。 「高峰秀子の母親ともあろうものが : それが、当時の威勢を誇る母のロぐせだった。高峰秀子の母ともあろうもの、 へは、ミンクのショールをはおり、指にダイヤを光らせ、私が洋服を注文すれば自 お 分は着物を、私が靴を買えば、草履を、と、どこまでも私と競いあった。「この ん世に、金で買えないものはないサ」とうそぶいていた母にとって、ただひとつ自 分の意にならぬものは、自分の娘、つまり私だった。 養母の私を見る眼は、母が娘を見る眼ではなく、女対女の強烈な嫉妬の眼だっ た。母は、少女から女性に成長した私を徹底的に拘束した。どんな人でも、母と いう関所を通さなければ私に近づくことはできず、字も読めないのに私への私信 はすべて母の手で開封された。
0 にんげんのおへそ高峰秀子目新潮文庫 高峰秀子 にんげんのおへ」 高峰秀子 Takamine Hideko ( 1924 ー 2010 ) 9 7 8 4 1 0 1 5 6 9 8 5 9 撮影所の魑魅魍魎たちが持つ「おへ そ」とは何か ? そして、四十代か ら考え始めた「人生の店じまい」の 心得とは ? 肉親との永年の苦闘の 果てに手に入れた夫・松山善三との 穏やかな暮らしを守る中で、女優に して名文筆家の高峰秀子が自らの歩 んだ道を振り返りつつ示した矜持と 鋭い人間観察眼。人生を味わい尽く す達人による、ユーモアとペーソス あふれる珠玉の工ッセイ集。 新潮文庫 高峰秀子の本 わたしの渡世日記 ( 上・下 ) にんげんのおへそ 3 旧 IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII 1 9 2 0 1 9 5 0 0 4 6 0 9 1924 ( 大正 13 ) 年北海道生れ。 5 歳で 子役としてデビュー。以降、「二十四 の瞳」「浮雲」「名もなく貧しく美し く」など 400 本を超える映画に出演 した昭和を代表する女優。随筆家と しても知られ、『にんげんのおへそ』 『人情話松太郎』『台所のオーケス トラ』など多くの著書がある。夫・ 松山善三との共著に『旅は道づれア ロハ・ハワイ』など。 2010 ( 平成 22 ) 年 12 月 28 日死去。 定価 : 本体 460 円 ( 税別 ) I S B N 9 7 8 ー 4 ー 1 0 ー 1 3 6 9 8 5 ー 9 C 0 1 9 5 \ 4 6 0 E カバ 1 写真◎講談社写真部 新潮文庫 カバー印刷錦明印刷デザイン新潮社装幀室
はなく、ク母親クになっていたからだ。 老いてゆく高峰を目の当たりに見て、もうこれ以上、重い荷を背負わせるのは 酷だと思ったのだ。だが立場上、編集長に「もう勘弁してやってください」とは 言えない。高峰に「書けーと言わないことだけが、せめてもの私のク老母クへの 刊労わりだった。 秀 連載開始から実に六年と三か月。三代の編集長のもとで、高峰は「オール讀 母 物ーに二十八編の随筆を書き、ク高峰秀子の最後の連載クは事実上、完結した。 亡 よく頑張ったと思、つ。 連載された随筆は、他誌に書いた作品も収めてとはいえ、『にんげん蚤の市』 の あ『にんげんのおへそ』『にんげん住所録』という、三冊の随筆集となって世に出た。 そして、高峰秀子は完全に筆を折った。 七十八歳だった。 熱意からだったとはいえ、私は酷なことをした。 241 のみ
しかし、こうして本書を改めて読んでみると、高峰には酷だったが、書いても らって良かったと、思、つ。 彼女のそれまでの、六十代までに書いた随筆とは明らかに違う、日々息づく、 あふ 高峰秀子の肉声が、それも老いというあまりに切実で臨場感溢れる声が、こうし て再び人々の耳に届くことは、貴重だと思うからだ。 〈そして何より、これら高峰秀子が七十代で著した随筆には、一切の余分なもの お の を取り払った、彼女のク髄クとも言える心情が如実に表れていて、胸を打つから ん 最後のシメが実に上手い人だった。 本書、「ひとこと多いーの章。鍋料理を前にした老夫婦の食卓から始まり、物 かたず 語は、固唾を飲むような高峰の半生から養母との確執にまで至り、読んでいて、 「一体これをどう始末するのだ ? ー「話がどんどん逸れていくじゃないかーと思っ た時、ピタリと冒頭の小鍋シーンに戻る。 242
「まいど、どうも。この御近所の方ですか ? 」 「いえ、麻布の永坂町からです」 「それは、わざわざ : 永坂には女優の高峰秀子さんが住んでいられますよ 「私、その高峰です。高峰秀子さんのなれの果てです」 分 時 ご主人が包丁を持ったまま棒立ちになり、おかみさんの目が点になって、三人 十 前は同時に笑いだした。 私が魚屋へゆく時間は、 ) しつも午前十時をちょっとすぎたころである。 ご主人が赤坂近辺の料亭に予約された魚を配達したあと、店に戻って、仕入れ てきた魚を店頭に並べるのが十時前、その魚も午前中にはほとんどが売りきれて しまうから、自分で魚を物色したければどうしても十時すぎには店に到着しなけ ればならない 153 ねー
ひ 映画「母」は空前の大ヒットとなり、早速に養母のもとに次回作の脚本が届い て、私は子役として正式に松竹映画に入社した。月給は、当時の大学卒の初任給 とほほ同じだったというから子役にしては破格の金額だったらしい。狂喜した養 母は、秀子という私の名前の上に「高峰」という芸名を乗せた。養母はもともと 芸能界にあこがれていて、若いころには「高峰ーという芸名で下座 ( 寄席や劇場 などの御簾の中で舞台の伴奏をつける ) の三味線を弾いていたらしい。その「高 峰ーを、娘の私につけることで、自分の果せなかったスターへの夢を追いたかっ たのかも知れない。こうして、五歳の「高峰秀子ーが誕生したわけである。 当の私は、といえば、なにがなにやらチンプンカンプン、とにかく身辺にわか
わたしの渡世日印 ~ 昭和を代表する大女優には、華やかな銀幕世 ( 上・下 ) 界の裏で肉親との壮絶な葛藤があった。文筆 日本エッセイスト・クラブ賞受賞家・高峰秀子の代表作ともいうべき半生記。 撮影所の魑魅魍魎たちが持つ「おへそ」とは 高峰秀子著にんげんのおへそ何か ? 人生を味わい尽くす達人が鋭い人間 観察眼で日常を切り取った珠玉のエッセイ集。 新 私の書くものはいつも、道を歩いて行く間に 出来上って行く 。本伊勢街道、宇治、比 白洲正子著一迫 最 叡山に古代人の魂を訪ねた珠玉の紀行文。 庫 二〇〇八年二月、僕は、二十四年間囚われて 文蓮池薫著半島へ、ふたたび いた北朝鮮と地続きの韓国に初めて降り立っ 新潮ドキュメント賞受賞た。ソウルで著者の胸に去来した想いとは。 朝 新 天皇には時代が凝縮されているーー " 代替り の場面から、個としての天皇、一家族として 保阪正康著崩御と即位 ー天皇の家族史ー の天皇家を捉え直したノンフィクション大作。 変見自在 はからずもアメリカ大統領が我が国を守って 高山正之著ジョージ・ブッシュが くれたかと思えば、守るべき立場の朝日新聞 日本を救ったや裁判官が国を売る。大人気コラム第三弾。 高峰秀子著
新潮文庫 にんげんのおへそ 高峰秀子著 。 3- 新潮社版 9377
にんげんのおへそ 238 私が高峰に出逢った頃、既に彼女は書くことをやめていた。少なくともやめよ 、つとしていた。 しかしどうしても随筆を書いて欲しかった。 それを、私が当時働いていた出版社で本にしたかった。だから自分が籍を置く よみもの 雑誌でもないのに、三年越しに口説いて月刊誌「オール讀物ーで連載することを 承知してもらった。 あの頃のこと 5 亡き母・高峰秀子に捧ぐ 斎藤明美
ったのを覚えている。 つまり高峰は見事にクたらされク、また少し、また少しだけ、と、途切れ途切 れに連載は続いた。 だがそれにもいよいよ限界が来て、三代目の編集長に至っては、愚直なほどひ たすら「書いてくださいーの一本槍で、それこそラミネート・チュープに残り少 へなくなった歯磨き粉を懸命に搾り取るようにして、原稿を貰っていた。 お の それは見ていて、涙ぐましかった。 ん ん もちろん連載の仕掛け人である私も、何とか連載を続けて欲しいと、夕食時に 高峰が何か面白い話をすると、「あ、かあちゃん、それ書けば、、 ししのに」、松山 ( 善 lll) でさえ、「秀さん、それ、書けるじゃないかーと援護射撃した。が、その たびに高峰にジロリと睨まれるのがオチだった。 だが途中から、私の高峰への「書けー攻勢は、明らかに矛先が鈍っていった。 連載を始めて三年、四年と経つうち、高峰秀子は私にとって、もはや執筆者で 240