その後、いかがですか 明け方の思わぬ冷え込みに風邪を引いてしまいました。あいに幻 0 ン・。第 / く風邪薬が切れていて " 早期治療。成らず。鼻をくすんくすんさ せながら行った薬局で桔梗の花を見ました。 青紫の蕾が角ばってふくらんでいるのを見て、昔、富山の薬売 りからもらった、あの、薬臭い、四角な紙風船を思い出しました。 連想というのは妙なものです。富山の薬売りが薬の補充と入れ替えをしているそばで、 老人があちこち身体のエ合が悪いとこばすのに対して、薬売りがなぐさめたり、 励ました りしていた風景も同時に思い出し、また、先日新聞で「病院の待合室は老人でいつばい」 という記事も思い出しました。身体の不調と不安、老いの繰言に近いそれを、医師は患者 の訴えとして面倒がらず聞いてくれるということも理由の一つとか。 老人たちは淋しいのです。老化が原因とわかっている不調を訴えられても、若い人には 老人の愚痴としか聞えないかも知れませんが、気弱になった老人は聞いてくれる相手がい るだけで気が楽になることもあるのです。富山の薬は頓服程度のものでしたが、薬売りの 相槌は、愚痴る老人にとって頓服程度の効き目があったに違いありません。私もトンプク それでは、また になってるつもりですが、効き目の方はどうも :
言って下さったと報告すると、母は、ほっとしたように笑顔を見せた。 母は家にいることになったが、看護する私が諸事慣れないことが多くて、母は病気と家 事の両方をこなさなければならなくなった。 病人を寝かせたままシーツを取り替える仕事。美味しいおかゆの作り方、味のつけ方な どはまだしも、一つことをやっていると、やりかけている他のことを忘れて、寝ている母 から「煮物の火を細めて、吹きこばれるよ」などと、勝手元の煮物の注意を受ける。慌て て立ち上り、母の枕元のお盆をけとばす。顔を腕で防ぎながら、「この上、怪我の心配は ごめんよーと笑って、私の足先が痛まなかったかと気にした。 また、母の足元で本を読んでいるうちに疲れが出て、眠ってしまった。母は毛布をずら して私に掛けてくれ、自分は背中を半分出したまま、私の目覚めるまで待っていてくれた。 母は少しも気が安まらなかったろう。 梅雨に入って、毎日雨が続き、うすら寒い日や蒸し暑い日があって、それでなくともよ くない病状は悪くなり、食欲もなく、衰え方も急になった。肺水腫の症状も強く出てきて、 背中をさすってと言うときが多くなっていた。 その日も、母の背中を、大きく上から下へ力を抜きながらさすっていると、母はまるで 217 看病
私は大声で笑いころげた。母には言わなかったが、切れると何度でも丁寧につくろう母 に閉ロして、つぎをしてくれた靴下を畳にごしごしこすりつけて、穴をあけたことがある。 つぎのところにまた新しい穴が出来た靴下に手を通して、もう一度つぎをしようかと思案 している母を、後ろめたい思いで見た覚えがあるからだ。父が癇癪をおこした気持もよく わかって、二重に可笑しかった。 そんなにこまめで、丹念だった母が、針仕事をするとひどく肩が凝ると言って、縫物を 途中でやめることが多くなった。六十歳の夏頃である。年のせいで根気がなくなったか、 老眼が進んだのではと思っていたのだが、それは乳癌の知らせた症状の一つだった。その とき私はそうと気付かず、会社から帰ると、肩たたきを日課にし、母も老いたなと、薄く 小さくなった肩を揉んだ。 そのうち、羽織の重さも肩凝りの因、何もしないのに肩が凝ると言い出した。母といっ しょに入浴したとき見付けた、乳の上の小豆粒ほどのぐりぐりが気になっていたこともあ って、癌研へ行くと、乳癌と言われ、それも腋から鎖骨の下まで散らばっていた。十一月 の末であった。ただちに手術。 母は腋から胸にかけて、上半身の半分を、取れるだけ取ったというように、大きく抉り 取られて病室へ戻ってきた。 67 足袋
の荒れもひどく、その手の荒れも春にならなければなおらなかった。 それほど母の化粧を嫌った父が、芸者さんのおしろいや香水については何も言わなかっ たし、むしろ好んでいたように思えるのは、リクツに合わない。 母に似ず私の肌は見栄えのしないクリーム色だが、化粧が好きでなく、洗うのが好きな い。がお決まりのコースだが、肌荒 ところだけは似た。大方は石けんでざぶざぶでおしま れのひどいときはちょっと気にして、年を取ってからも肌のきれいだった母の真似をする。 教わった自然食品ならぬ、自然洗剤で洗ってなおすことにしている。 しい加減にして過ごし、あまり美容などかまわずにいるのに他人のことを一一一一口うのは気が ひけるのだが、十代の少女の濃化粧だけは好きになれない。美しいかも知れないが肌が早 ひと く老化してしまうのではないかと他人ごとながら気になり、せつかくの若い美しい肌を塗 りつぶしてしまってもったいないと思うばかり。 そんな少女たちから時々相談を受けることがある。大抵はにきびの悩みである。それに 対して私はいつも決まってこう言う。 「今、使っている化粧品をやめること。甘いものやチョコレ 1 トを我慢すること。洗うこ と。日に何度でも洗うこと」 それでなおると言っても、テレビやラジオ、新聞雑誌、ポスタ 1 、どちらを向いても美
など、子どもらしからぬ酒の肴で美味しそうにご飯を食べ、お新香の漬け工合、塩の加減 まで、母が呆れるほど父に似た。 そば好きもその中に入る。父も私も、もりそばが好き。父の仕込みで、おそばの半分く らいをお汁につけると、つるつる、つあーっとあまり噛まずにすすり込む。そばはロの中 でいつまでも噛むなと教えた、滑らかな喉越しもそばの旨味だと。生意気にもチビは一丁 こほどのいい音を立てて粋に食べ、そば屋の小父さんやお客を驚かした。 冬の夜更け、ちょっとお腹がすいたから、おそばでも取ろうというとき、家の者たちは、 カレーうどんだの、天ぶらそばだのと注文するのに、私はいつも、もりに決まっていた。 みんながふうふう言いながら、いい匂いをさせて熱いおそばを食べ、身体が温まった、舌 を焼いたと賑やかなとき、姉が高い声を出して言ったことがある。 ん 「やだわ、順子ったら、震えながらおそばを食べてる」 寒かろうが鳥肌立てようが、もりそばが一番好きなのだから、余計なお世話というものん や ち である。こんなとき、父がいっしよなら別だが、留守ででもあれば、おまけがつく。 鹿 馬 「ほんとにこの子は変ってる」 親 雪がちらちら飛び、冷え込みの強い日、寝る前にひとっ風呂浴びてくる、という父にく っゅ
雨足が激しくなると、あちらにもこちらにも雨もりがしてきた。受けになりそうな器は、 バケツからどんぶりまで動員した。ばったん、ばったんとのんびり落ちるもの。どういう 加減か、ピンツと高い音を出すもの。ポトンと大きな音がしたら、ゆっくり間を置いて忘 れた頃、また、ポトン。目の前の樋は他とちがった音を出した。続けざま、せつかちにト トトトトトトト、しばらく休んで、トンと切りをつけるように鳴った。 私は、ついに吹き出した。ひっくり返って笑うところだが、四帖半のあちらこちら、大 小十箇ばかりも雨もりの受けが散らばっているから、それもならず膝をかかえて大笑いし た。雨もりがこんなに色々の音と調子を持っているなんて、あちらでもこちらでも個性豊 かに鳴っている。ピン、ばと、タンタンタン、ばったん、トトトトトトトト。 母は泣き笑いのような顔をしながら、器から飛び散る水に、雑巾や布切れを中に置いて まわった。すると音はしなくなり、一様にペちゃと、つまらない音に変って静かになった。 と言いかけ、あとは何も言わず、お茶を淹れた。二人で天井を見上 「順子は呑気で : げながら、雨もりが思わぬ場所へつつうと流れて行くとその下へ器を移動させた。そのあ とどうおさまったのか覚えていない あのとき、母は「順子は呑気で」のあと何を言おうとしたのだろう。 あんまり色々な音を出し、調子をつけて落ちてくるのが可笑しくて吹き出したのだけれ 148
え〃がどこか心の奥深いところで、幼い日に傷ついたまま残っていたのだろう。 つい、先頃、友の経営している料理屋で会合があった。大きな店で、女中さんが大勢い る。女中さんといっても、元芸者さんだった人が多く、それぞれに芸達者で着物姿が美し おかみさんのお友だちだというので、あちらこちらの座敷が引けると、みんなが集まっ てきて、いつもの通りの賑やかな楽しい座敷になった。 中に、歌も踊りも三味線も三拍子揃って上手な年増の女中さんがいて、その人の歌や踊 りは楽しみの一つだったが、それにも増して即興の都々逸の粋なこと、頭の回転のいいこ とは素晴しいものだった。 彼女とは、どこかうまが合って、おしゃべりも楽しかったから、隣に並んでもらうこと が多かった。お酒が入って、顔がほてり、申し訳に塗ってあるおしろいが剥げたのではな いかと、こっそり卓の下でコンパクトを開けてのぞいていると、彼女がわきから、 「色が白くていらっしやるからおしろいなんかいらないでしよう。私なんか芯から黒くて 若い頃から嫌な思いや苦労をしてましたからほんとに順子さんがうらやましい 驚いて、いつものように打ち消して、改めて彼女の顔を見た。本人の一一一口う通り、浅黒い 顔で、色白ではなかったが、それはそれで、仇つばく粋であった。 彼女は私が決して色黒ではないと繰り返し言ってくれるので、小さい頃の″牛蒡の白和 106
らであるが、あの骨と骨の間から滲み出てくる、濃い味。魚の味とはまた違った、こっく りとした旨味を知らない大人たちも増えている。 鮎の季節に、料理屋で清々しい笹などあしらって、姿のいい鮎が出てくると、店の女の 人が器用に、鮎の姿をくずさずに骨を抜いてくれる。それを蓼酢で食べる。これは鮎の季 節、料理屋でのサービスでもあり、ショーめいた感じでもある。 頭に続く骨を、そのまますばっと抜くと、みんな感心して口々に褒め、座が賑わうのも いつものことである。 骨を抜いてくれるという手を止めて、鮎を丸ごと、ぶつ、ぶっと噛み切って骨ごと食べ たです る。蓼酢も、鮎の味だけの少々頼りない味より、骨の間から出る旨味と合わさって、より 美味しい。よっほど大きく育って骨が固くなったものは駄目だが、そうでないかぎり、そ うして食べる。 女中さんたちは、大抵、妙な顔をする。この田舎者と思っているに違いない 次に運ばれてきた鮎は、私の分はよく焼けていて、こっそり板前さんの言付けがあった。 「本当に鮎の好きな方で嬉しかった。鮎はそうして召しあがっていただくのが一番なので す。普通、鮎の色をそこなわないように焼くのですが、お客様のはよく火を通しました」 鮎に限らず、骨ごと食べられる魚は、骨ごと食べることにしている。
記憶はそこで途切れて、次は裸電球がずらりとぶらさがって眩しい花道を、お相撲さんが 派手派手しい化粧まわしをして入場してきた。ぐるりと輪になると、みんないっしょに化 粧まわしをちょいと上げる。その所作をしつかりと見た。家に帰ってしばらくの間、風呂 敷や座布団を腰にしばりつけ、化粧まわしのつもりでちょいと上げる土俵入りの真似をし ていたから、印象的だったのだろう。 次は、周り一面、大人の背中の壁、私はその中に埋没して、土俵はほとんど見えない。 同じ桟敷には綺麗な着物を着てお化粧をしたおねえさんが二人いて「お嬢ちゃん、玉錦を 応援してエ」と疳高い声で一一一一口う。立って土俵を見ても、どちらがタマニシキかわからない が、周りの声につられて、精一杯、声を張りあげて応援した。取り組みが終っても応援し ていたらしい。「ありがとう、もういいのよ」と言われて、なんとなく間違ったような気 恥しい感じがしたのも覚えている。 あまり大声で叫んだので喉が渇いて、手元の湯呑みに入っているお茶を飲もうとすると、 父が慌てて、それはおちやけ、おちやけ、と言い、綺麗なおねえさんが別の湯呑みにお茶見 を注いでくれた。父もおねえさんたちも、よく笑い、愉しそうだった。 相 桟敷の周囲は、三寸角か五寸角ぐらいの黒塗りの枠がまわしてあり、他の桟敷と区切ら 3 れている。その枠の上を、たつつけをはいた男衆が、たったったっと軽々渡って歩き、各
配を感じ、べランダから外を見て、ああ、やつばり雨か、と気付くのである。 母と暮した四帖半は、水琴窟の水滴が響く優雅な暮しとは程遠いが、雨もりがしたたり 落ち、五色の音を奏で、大福帳の散らし書きを腰に貼りめぐらした四帖半を、風雅だった と思えるのは、母の言う、呑気な : 、極楽トンボの幸せか。 母を想うと、雨もりの音さえ懐かしい。 わ 1 水琴窟