「あら、私だったら、そんな怒らないわ。お父さんのそばへ、べったり寄って、脇腹つつ ゝののふりをしてあげるからって言って、もう二、三反余計に買わせ ついて、″若 ) て、お母さんの分のお土産もせしめちゃうわ」 まあ、この子はと、母は驚いたような呆れたような、何ともいえない表情で私の顔を見 た。このような不謹慎な話に対して、すぐにぶっと吹き出さない。 この辺が、母と姉、父と私の、上品下品、生真面目不謹慎の分かれ目。 「でも、順子じゃお父さんとよく似ているから、間違えられることない これだから母は困る。いつだってまともだ。おふざけの遊びが通じない。 それから一息ついて、感心したような口振りで、 「順子なら、やるだろうね」 似ていなくとも、母だ。よくわかっている。 214
止め。いかにも小学一年生が喜びそうな派手な赤で、カペカペ光っていた。その上、蓋の 上に絵が描いてある。小鳥が二、三羽、枝に止まってチイチイバッパと歌っている。音符 がその大きく開けた黄色いくちばしから、飛んで出てるという、何ともはやの : 生意気にも、渋好みの女学生だった私は慌てた。どう考えても、この趣味の悪い、粗雑 な出来の筆箱を、父が選んで買ってきたとは思われない。何もなくなってしまった娘にと、 焼け残った店を探し歩いて買ってきてくれたに違いない。 どぎまぎして、父にお礼を言った。 父は、無表情に、「む。とうなずくと、黙って二階へ上っていってしまった。 母に、真赤なチイチイバッパの筆箱を見せた。母は手の上の筆箱を見つめながら、「お 父さんがね、ほんとに、お父さんがね」と、途切れ、途切れに、つぶやいた。 その年の暮、父は亡くなった。 81 筆箱
察が済むと、外で待つようにおっしやった。 廊下に出るとすぐ、私だけが呼ばれた。カルテの書き込み手を止めて、「お家の方は ? 」 とおっしやる。私だけですと答えるのに重ねて、「いや、家の、お父さんか誰か」 みな亡くなって、家の者というのは私一人なのだと説明すると、一瞬、鋭く目を光らせ、 「お母さんは、癌です」 身体中の血が引いて、寒気立った。 でも、とても小さいとおろおろ言いかける私に、手術は急を要すること。それも胸の方 へ癌が散らばっていなければの話で、もしレントゲンを撮ってみて、胸に散らばっていれ ば、手術は出来ない。ときつばりおっしやった。坐っている膝ががくがく震えた。 相談する人はいません。家族は私だけですという若い娘を前にして、先生はすぐにレン トゲン室を閉めないようにと電話をなさり、看護婦さんに母をレントゲン室へ連れてゆく よう指示なさった。 廊下で待っている母に、どう言いつくろうか、気付かせないように、明るくと思っても、 とっさのことにうろたえていた。日頃から血色の良くない顔は余計青白くなっているだろ いくらかでも赤味がつくように、掌で頬を強くこすってから、母の前へ出た。 私の様子を見て、母は、もう、何もかもわかった。先生は癌とおっしやっただろうと静 130
っていた。ここは救急病院に指定されていて、二十四時間体制。先生はお父さんの院長先 生のもとに三人兄弟の先生がいらして、上の先生、中の先生、下の先生と患者は呼びなら刀 わしていた。どの先生も親切で細やかで、癌研へ行くたびに感じる、事務的で心の中が寒 くなるような思いをしないで済むので、母も私もこの加藤病院が好きだったし、信頼もし ていた。 と言ったときすぐに、加藤病院へ相談に伺った。院長先生はじめ皆 母が「家にいたいー さんが、そうさせてあげなさいとすすめて下さった。いつでも、どんなときでも、すぐに 遠慮なんか一 行ってあげる。毎日往診をするし、看護婦も向けるから心配しないでいい。 切せずに、と、繰り返し言って下さる。 ほんとうにありがたかった。 母のことばかりでなく、心配と看病で、ガリガリに痩せてしまった私を、食事に連れ出 して下さったり、病人にでなく私に見舞いを届けて下さったり、四人の先生方にはそれま でもたくさんお世話になっていた。若くて、世慣れず、家事さえ充分にこなせない私にと って、それがどんなにありがたく、力強く頼りになったことか。 くれぐれも心配しないで、お母さんに返事をしてあげなさいとカづけられて、家に帰り、 加藤病院の先生方が、入院するほどではないでしよう、うちでみんなで診てあげるからと
を支払っていた。だから、どんなに急な無理な仕事のときでも、お父さんの仕事というと 人が集まったから、人手で困ったということはなかった」 だって、そんな、仕事が同じなら手間賃が同じなんて当り前でしよと言うと、 「あの頃、朝鮮の人たちの賃金は日本の人たちよりずっと安かったから . と言って話は終る。 それから、また、ばつんと話が始まる。 「関東大震災のとき、使っていた朝鮮の人たちが家へ逃げてきてね。殺されるって言って 震えていて可哀相だった。外の様子が落ち着くまで家に隠れていたけど、朝鮮の人が井戸 に毒を投げ込んだとか、集団で乱暴しにくるとか、デマが飛んで。大地震のあとでみんな も気が立っていたのだろうが、誰かれと区別しないで、ひどいことをしたそうだよ 日頃、朝鮮の人を馬鹿にしたり、わけへだてしたりしているから、混乱のこのときに、 仕返しされるのではないかと思ったことが、デマの原因となったのだと思うと、めずらし く母は自分の意見を述べた。 母から聞いた父の話を、マカロニを食べている連れに話した。昭和史の研究をしている 連れは、あの時代、お父さんがそれを実行したということは、大変なことで尊敬する。立 派な方だと繰り返し真剣な面持ちで言った。 194
薄い小型の箱である。中にアンプルが十本並んでいる。一本も使ってないのだから、買っ たときのままというわけだ。 これは何 ? と訊くと、痛み止めでモルヒネのようなものだと言う。薬なら薬の入れて ある茶簟笥の引出しになんで入れないのだろう。それにこんな古くなった薬を特別なもの のように、針箱の底に収っておくなんてどういうことかと思った。小さい家で、何がどこ にあるか隅々まで互いに知っている。だが、母が、自分だけ使う針箱の、その底に収って あるのが気になった。 お父さんが病気のとき、買ったのだけれど、使わないうちに亡くなってしまったので : 父は四十八歳の頃、胃癌で慈恵医大病院へ入院し手術した。それから四、五年後、終戦 の年の秋頃からエ合が悪くなり、また芝の慈恵病院へ入院した。五十二歳だった。戦争で 失った家や財産は、平和になればまた取り戻せると思っていたろう。戦争は終った。占領箱 下とはいっても、前々からの仕事はまた始められるだろうと活気づいていた矢先の再発での 母 ある。さぞ無念だったろうと思う。 お父さんが亡くなったのは何時 ? と問われて、昭和二十年十二月二十九日と答えると
姉が、自分で選んだ柄と、呉服屋がすすめる柄と二つを肩にかけ、決めかねて父を見や ると、両方とも包んでもらえと父は鷹揚にうなずいた。 喜んだ呉服屋は、父に下品なおべんちゃらをたたいた。 「お若い奥様で、おたのしみなことで」 ″話みは急転直下、こうなる。 「節子が、怒って、青くなって帰ってきてね、もうお父さんとは、一生涯、買物に行かな と一言うんだよ。よくよく聞いてみると、呉服屋がそう言ったとき、お父さんがにやに や笑ったままで、打ち消さなかったって」 私は、きゅうきゅう笑った。父らしいと思った。姉らしいと思った。 世の父親なら、慌てて打ち消すか、慌てないまでも、「いや、娘だ」ぐらいのことは言 うだろうに。母の話の中には、父が帰ってきてからどう言ったかは入っていない。力、不 には父の気持がわかる。父はたのしんで遊んでいたのだ。節子がどう見たって奥さんに見 うぶ えるわけはない。そうか、呉服屋は、そう思ったのか。すると、この初心な娘を俺がたらし こもうと、機嫌をとっているという図か。よく見れば、年齢も相当離れているし、芸者あ そびに飽きて素人かなんて、こいつけしからんことを考えているのだろう。 また、父は、生真面目で潔癖な姉が心中怒っているのだってよくわかっている。だが、 212
言い返した。学校へあがったら、ちゃんとやる。 よそゆき 母は本気で怒った。びたと口を閉じ、着ていた普段着を他所行の着物に着替え、白足袋 も新しい足袋の封を切って履き替えた。着ていた普段着や帯、足袋をきちつきちっとたた み、それを風呂敷に包むと、玄関へ行き、鍵をかけた。そして風呂敷包みをかかえると、 立ったまま静かに、ゆっくりと説明するように話した。 「私は毎日毎日、一日中、順子が散らかしたものの後片付けや面倒を見て、もう疲れて、 つくづくこんな暮しが嫌になった。こんなことならよその家の女中になった方が、どんな に楽か知れない。私はこれから女中奉公に出るから、お父さんが帰ったらそう言いなさい。 お父さんには奉公先から手紙を出す」 そう言うやいなや、勝手口へ歩き出した。もうしませんからごめんなさい。順子が悪か ったからごめんなさい。行かないでちょうだい。声を限り、泣きわめいてあやまった。 母は冷たい目で私を見ると、一一 = ロ、「もうその言葉は聞き飽きた」 縋り付き、前へまわってしがみついた私を母は払い除けた。転がった私を見向きもせず に勝手口で下駄を履き出した。 大恐慌どころではない。半狂乱になって私は裸足で外へ飛び出した。歩き出した母の前 で止めようとしても駄目だと瞬間に判断。裏の家の戸を叩き、返事がないと駆けて隣家の
になり、母の愛情にすつばり包まれて、とりとめのない甘えに揺られて、やすらぐ。 今頃、親のありがたさが、愛の大きさや深さが、しみじみと感じられるのである。 以前、新聞の赤ちゃん相談に、こんなことが載っていた。 若いお母さんの問で、うちの子どもは、もう二歳近くなるのに、おしゃべりをしない。 食物を欲しがるときや、拒絶のときは、単語をぶつけるような話し方をするが、あれこれ のおはなしをしない。 どこか欠陥があるのではないでしようか。と一一一一口うのである。 それに対する医師の答に、このような質問がまだほかに何通かあり、少なくないことと、 一般的にとても増えていることをまず述べて、最近の若いお母さんたちが、赤ちゃんにあ まり話しかけないことも、原因の一つになっていると。 相談にくる若いお母さんに、あなたは赤ちゃんにいろいろ話しかけますかと訊くと、 「いいえ先生、だって赤ちゃんは話をしたって何もわからないじゃありませんか」 人語を解さないのであるから、話しかけても無駄であるという、まことにもっともな、 というかこれが合理的というのであろうか。 医師は続けて一一一一口う。赤ちゃんは確かにまだ人語を解してはいないが、お母さんの話しか ける声や、声の調子で話す力を育てているのです。とあった。 11 子守唄
母が私のために五目ずしをつくってくれた頃は、インスタント食品などなかったし、袋 ごとちょっと温めれば、すぐ食卓に出せるレトルト食品もない。刻んで煮ないことには何 も始まらない。 母にかぎったことでなく、どこのお母さんも、とんとん、とんとん刻んで、ことこと、 ことこと煮物をした。だからどこの子も、朝はお母さんの物を刻む音で目を覚まし、夕方、 料理の匂いや湯気が、遊び疲れてペこペこになったお腹に効き目をあらわし、呼ばれなく とも家へ足が向いた。 母が亡くなって、朝の大根を刻む音も、夕方の湯気の中で微笑むおかえりも失った。 朝の音はともかく、夕方、母のいない家へ帰るのは、本当に辛かった。道筋の家々の明 りがうらやましく、中から笑い声など聞えてくれば、泪が溢れた。失ったものの大きさは、 日が経つにつれて、深く抉れていった。 知人や友人が、そんな私をよく食事に呼んでくれ、家庭料理をご馳走してくれた。家に よって料理はさまざま違っていたが、中に、かならずお母さんから教わったという料理が 出てきた。知人や友の私に対する思いやりである。別に変てつもない煮物だったり、揚物 だったり、凝った漬物だったりしたが、どの料理も、下ごしらえの手順から、味付けまで 教わった通りにつくらないと美味しくないと一言う。 えぐ 49 刻む