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検索対象: 子守唄の余韻
167件見つかりました。

1. 子守唄の余韻

言ったのも、今日、よその家の前まで掃除してはいけないと言ったのも、同じことなのだ と一 = ロう。 隣との境をきっちり分けて掃除するのはいかにも心が狭く、自分のことしか考えないや り方だし、隣の家の前まで掃除するのは余計なことだ。何日も家をあけて、留守がわかっ ているのでなければ、よその家の前まで掃いたりするものでない。良いことをしたつもり の私は、ますます脹れた。 母は続けた。 つまり、自分の家の前を隣の人が掃除をしたら、掃除をしてないからされたと思えば、 掃除が行き届かないからかと、嫌味にとられることもあるし、お節介なことにもなる。ま た、してくれたと思えば、ささいなことなのに相手はお礼を言わなければならない。 お互いに仲良く気持よく暮すのには、ほどほどのところでと。私の少し一途な性質を心 配したのかも知れない母は、これは掃除だけではないと言いついだ。 よその人に、何かしてあげたいと思ったら、相手がわざわざお礼を言わなければならな いようなやり方でするものではない。相手の気持の負担にならないように、さりげなく、 するものだ。だから、掃除でいえば、よその家の前まで掃くことは「わざわざお礼を言わ なければならない」やり方で、昨日の、二、三歩分隣の敷地をばかして掃くのが、その手

2. 子守唄の余韻

戦争が始まり、空襲が激しくなって、おとめさんの消息が絶えた。我が家も戦災で焼け た。父も亡くなり住居も転々とした。 戦後、やっと小さな家を買って落ち着いた頃、私がおとめ姉ちゃんはどうしているだろ うと言ったとき「あの子のことは、もう諦めている。おとめは身動きが鈍いから逃げ切れ ないで死んだかも知れない」と、母は寂しそうにそう一言うと話を打ち切った。 おとめさんの消息がわかったのは、母が亡くなる二週間位前だった。 諦めているとロでは言っていても、母がおとめさんのことを気にしているのはわかって いる。心残りのないようにと、知人が手分けで探してくれたのである。 おとめさんは元気でいた。 知人に連れられ、おどおどと母の枕元へ坐ると、「お母ちゃん、と頼りない声で言って、 ぐすりと泣いた。ゆっくり泪が流れている。 もう四十に近い年齢のはずだが、二十年前と変らず、小柄な身体は固太りで健康そうだり 残 った。狭い額に皺が目立ったが色黒でちんまりした目鼻立ちは相変らず子どもつばかった。 一応小ざっぱりとしていたが、どことなく貧しげで幸せそうには見えない。 今までどうしていたかと訊いたところで、筋道立てて話が出来る人ではない。母もよく

3. 子守唄の余韻

察が済むと、外で待つようにおっしやった。 廊下に出るとすぐ、私だけが呼ばれた。カルテの書き込み手を止めて、「お家の方は ? 」 とおっしやる。私だけですと答えるのに重ねて、「いや、家の、お父さんか誰か」 みな亡くなって、家の者というのは私一人なのだと説明すると、一瞬、鋭く目を光らせ、 「お母さんは、癌です」 身体中の血が引いて、寒気立った。 でも、とても小さいとおろおろ言いかける私に、手術は急を要すること。それも胸の方 へ癌が散らばっていなければの話で、もしレントゲンを撮ってみて、胸に散らばっていれ ば、手術は出来ない。ときつばりおっしやった。坐っている膝ががくがく震えた。 相談する人はいません。家族は私だけですという若い娘を前にして、先生はすぐにレン トゲン室を閉めないようにと電話をなさり、看護婦さんに母をレントゲン室へ連れてゆく よう指示なさった。 廊下で待っている母に、どう言いつくろうか、気付かせないように、明るくと思っても、 とっさのことにうろたえていた。日頃から血色の良くない顔は余計青白くなっているだろ いくらかでも赤味がつくように、掌で頬を強くこすってから、母の前へ出た。 私の様子を見て、母は、もう、何もかもわかった。先生は癌とおっしやっただろうと静 130

4. 子守唄の余韻

先頃、ある料亭でタ食をご馳走になった。呼んで下さった co 氏は喜寿に近い、昔風に言 えば通人、とにかく粋人で名高い方である。私のほかに有名な料亭のおかみさんたち。な んで私が混っちゃったのか、雑魚のととまじり場違いもゝ しいところで、通人の遊びか、お かみさんたちのいたずらか、こなれの悪い、独り者を肴にしようと思ったに違いない。 人様の思惑も何のその、目の前の山海の珍味、美味、美味とお酒を合の手に入れて、板 前の腕の冴えを楽しんだ。 けれども、楽あれば苦ありで、楽しみは長くは続かなかった。余興である。 おかみさんたちは、日頃の芸を披露していた。重々しく能がかりで舞い出し、途中でが らりと変身して道化たり、渋い喉を聞かせたり、その粋で洒落ていること。面白がって喜 んでいる私に食べてばかりいないで何かやれと言う。大食も芸のうちでは通らず、さて、 酒の席で歌う歌は知らず、弱りに弱って苦しまぎれ、唯一、たった一つ知っている、あの の人々を包む。 父が生きていたら、二人でお酒を飲み飲み男の父の一一一一口う″いい女〃、女の私の言う〃 い女〃談義を、くだを巻きながら、やりたいものである。けれども、きっと父は言うだろ しい女〃は談義したってわかるものじゃあない、不粋なやつだ。

5. 子守唄の余韻

舗装道路でないので、土を掘らないよう、上のごみだけ掃き取って、きれいに箒目を立 て、仕上げに打ち水をする。ということなのだが、はじめはなかなかうまくいかなかった。 ごみより多く掃き取った土が、ちりとりにごっそり山盛りになったし、水を平均に散らす 技術もまだまだで、どばっと一箇所に撒いたり、足にかけたり。 根気よく母は直してくれた。 よし、これなら母に見てもらってもいし 。自信ある出来栄えに母を呼んだ。母は、上手 に出来たと一応褒めてくれた上で、手直しをした。塀の終り、両隣の境の部分を隣の敷地 内二、・三歩分をさっと掃いて、ばかし、打ち水もばかして打った。隣との境を、線を引い たようにきっちり分けてはいけない。ちょっと手をのばして、掃き納めるものだと教えた。 次の日。良いことをするようなつもりで、両隣の塀から門の前まできれいに掃いて水を 撒いた。三軒分掃除をしたわけである。鼻高々で母を呼んだ。 笑顔で門の外へ出てきた母は、顔を固くした。そして、なんで隣の門の前まで掃除した かと声を強める。 母の不機嫌が理解できず、褒めてくれないのがむしろ不満だった。脹れつ面の私に母は 静かに話し出した。 昨日、隣との境を、ここから先はよその家と、はっきり区切って掃除してはいけないと 61 粋な

6. 子守唄の余韻

言い返した。学校へあがったら、ちゃんとやる。 よそゆき 母は本気で怒った。びたと口を閉じ、着ていた普段着を他所行の着物に着替え、白足袋 も新しい足袋の封を切って履き替えた。着ていた普段着や帯、足袋をきちつきちっとたた み、それを風呂敷に包むと、玄関へ行き、鍵をかけた。そして風呂敷包みをかかえると、 立ったまま静かに、ゆっくりと説明するように話した。 「私は毎日毎日、一日中、順子が散らかしたものの後片付けや面倒を見て、もう疲れて、 つくづくこんな暮しが嫌になった。こんなことならよその家の女中になった方が、どんな に楽か知れない。私はこれから女中奉公に出るから、お父さんが帰ったらそう言いなさい。 お父さんには奉公先から手紙を出す」 そう言うやいなや、勝手口へ歩き出した。もうしませんからごめんなさい。順子が悪か ったからごめんなさい。行かないでちょうだい。声を限り、泣きわめいてあやまった。 母は冷たい目で私を見ると、一一 = ロ、「もうその言葉は聞き飽きた」 縋り付き、前へまわってしがみついた私を母は払い除けた。転がった私を見向きもせず に勝手口で下駄を履き出した。 大恐慌どころではない。半狂乱になって私は裸足で外へ飛び出した。歩き出した母の前 で止めようとしても駄目だと瞬間に判断。裏の家の戸を叩き、返事がないと駆けて隣家の

7. 子守唄の余韻

小料理屋の品書きに、″煮込み〃と書いてあるのを見付けた。 店の人に、その煮込みと書いてあるのは、モッと大根とこんにやくをお味噌で煮たのか と訊くと、まさしく、その通りだと言う。 それを一つと注文した。 しゃれた小鉢に盛られて″煮込みは運ばれてきた。目の前のその″煮込み〃は、どう これが煮込みか も違う感じがする。なんだか違う。私の思っていた″煮込み〃ではない。 と確かめた。 「はい、そうでございます いぶかしげな様子で返事をするのを聞きながら、一口、味わってみる。 煮込み

8. 子守唄の余韻

さまざまな形で、母の手を、想い出す。 甘やかしてくれた手も、甘えさせてくれた手も、優しかった手も、厳しかった手も、全 部、母、そのものとなって想い出す。 中に、〃切ない手〃がある。 今、成長してのち、″切ない〃 と、そう思う手で、そのとき、そうと気付かずに受けて ″手〃である。 どこの寺だったのだろう、幼い頃で覚えていない。 大きな火鉢のようなものから、盛んに線香の煙が立ち上っていた。その前で手を合わせ、 手 せつ のぼ 89 手

9. 子守唄の余韻

数が少なくなった。 帰れば、あれもこれもとしゃべり出す私が、気重く坐ると、そんな私に対して母は、会 社で何かあったのかなどと訊くことはない。何も言わず、飲み頃にいれた美味しいお茶を、 そっと前に置いてくれる。 ゆっくりと、適温のお茶が喉を下ってゆくのといっしょに、胸につかえた嫌なことも、 少しずつ下っていった。 幼い頃、しつかり抱きしめてくれた強さに劣らず、そっと、静かに置いてくれた仕草と、 飲み頃の美味しいお茶で、母のいたわりの気持の強さが、確実に伝わってきた。 母と私の間に、″対話〃は、必要ではなかったのかも知れない。 202

10. 子守唄の余韻

キイチのぬりえ : : : お手玉やおはじきと同じように懐かしい女の子のおもちやである。 糸に印刷された可愛い女の子に″おっかい〃 とか〃とおりゃんせ〃とか題がつけて ある。同じ図柄でも、それに色を塗り模様を描き、それぞれ自分の好みの服や着物にする と、まったく違ったものになる面白さ、また、塗る前にどんな色にしようかと、クレョン をあれこれ選んだり迷ったりするのも楽しいもので、ばかし、塗りつぶし、稚ないながら 技巧をこらして仕上げた。 私は〃おひめさま。が特に好きだった。長い振袖を着て、ピラピラかんざしを重たげに 髪に挿したおひめさまは、うっとりするくらい素敵だった。 " おひめさま。は自分で塗る ぬりえ