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先頃、ある料亭でタ食をご馳走になった。呼んで下さった co 氏は喜寿に近い、昔風に言 えば通人、とにかく粋人で名高い方である。私のほかに有名な料亭のおかみさんたち。な んで私が混っちゃったのか、雑魚のととまじり場違いもゝ しいところで、通人の遊びか、お かみさんたちのいたずらか、こなれの悪い、独り者を肴にしようと思ったに違いない。 人様の思惑も何のその、目の前の山海の珍味、美味、美味とお酒を合の手に入れて、板 前の腕の冴えを楽しんだ。 けれども、楽あれば苦ありで、楽しみは長くは続かなかった。余興である。 おかみさんたちは、日頃の芸を披露していた。重々しく能がかりで舞い出し、途中でが らりと変身して道化たり、渋い喉を聞かせたり、その粋で洒落ていること。面白がって喜 んでいる私に食べてばかりいないで何かやれと言う。大食も芸のうちでは通らず、さて、 酒の席で歌う歌は知らず、弱りに弱って苦しまぎれ、唯一、たった一つ知っている、あの の人々を包む。 父が生きていたら、二人でお酒を飲み飲み男の父の一一一一口う″いい女〃、女の私の言う〃 い女〃談義を、くだを巻きながら、やりたいものである。けれども、きっと父は言うだろ しい女〃は談義したってわかるものじゃあない、不粋なやつだ。

え〃の話をすると、座敷中が大笑いになった。 私もいっしょに笑っていたが、笑いはどこかでひっかかった。彼女も、若い頃、そんな 風なことを言われて泣いたのではないかと思ったのである。 笑いの波が揺れている中に、三味線が、ツツンと鳴り出した。彼女が一調子あげた張っ た声で、都々逸を歌い出した。 色が黒うて惚れ手がなけりや 山の鴉は後家ばかり 座敷で色黒と言われると歌っていたのだろうが、いつもより張った声の粋ななぐさめ方 を聞きながら、私は八百屋の小父さんを思い出していた。お嫁にゆくとき牛蒡の白和えに なってしまうと、嘆いて泣いた私の泪を拭いて、腰を振り振り、南洋じゃあ美人んーーと 歌ってくれた姿。持たせてくれた、まくわうり。 周りが呆れるほど笑った。彼女と目を合わせ、痛みを分け合って笑った。周りの笑いがえ 白 止んだのちも、二人の笑いは続いた。 の 蒡 幼といえども女は女。女の怨みは : 牛 言ってはいけないことがある。口に出してはいけないことがある。親といえども。

ったようなわからないような、半分だけ納得、といったところである。 こんなことは何度も訊けないと思って、見合のときはどうだった ? と重ねて問うと、 「そんな、お父さんは知っていたらしいけれども、私はお嫁入りするまで顔も見なかっ た、と、とんでもないことと言うような顔をした。その顔を見たら、ちょっと、からかい たくなって、 「ふえーっ、顔も見ないで結婚したの ? でも、背が高くて、いい男でよかったわね」 と言うと、母はみるみる赤くなった。首すじから耳たぶまで血が上ってゆき、目元まで 赤くなった。肌が白いから耳たぶなど血が透けて見える。 と少しきつい声でたしなめたが、私がけらけら笑っている 親をからかうものではない。 ので仕方なく照れ笑いをしていた。 実のところ、私は驚いていた。母はまるで初々しい娘のように羞じらっている。この人 は六十一歳だ。生真面目で、色つばいところなどかけらもない。切ないほど優しくて、女 らしい。女らしいと言うより、母性そのものみたいな人だ。 私は、初対面の女の人を見るように、母の血の上った耳たぶを見ていた。 それから、なんだか、ひどく疲れたような感じで、安心した。 長い間、私は、母が可哀相と思っていた。父の我儘勝手で、苦労ばかりしていると思っ 206

やたら泣いた。 あくる日は一日中、腫れた目や顔をタオルで冷やして過ごす破目となった。 淋しさも寂しさ、悲しさも哀しさ、寂寥という言葉が実感として感じられるこの頃、思 えば父が私にそう教えたのも、今の私の年ころだったのではないかと思っている。 母が怖れた、女が酒を飲む、ことなど、もう今では当り前となって、ビャホールで女同 士が賑やかに、乾盃 ! などと大ジョッキを振りあげても、誰も驚かない。甘いカクテル はおろか、ウイスキーの水割、オンザロックがロに合う人の多いこの頃、家庭の主婦に、 アルコ 1 ル中毒が増加しているという記事をみる。 主婦のアルコール中毒については、社会的な枠がなくなったことや、ウイスキーのよう なアルコール度数の強い酒を飲むようになったことなど、いろいろ言われている。 それもあろう、それもあろうが、アルコ 1 ル中毒になった女は、とても淋しかったか、 戒 悲しかったときに飲んだ酒が〃もと〃になったような気がしてならない。 嬉しいときや、楽しいときの酒は、発散して残らない。わたくしごとで言えば、逝って授 しまった人たちが身近に懐かしく感じられるような、心たいらかなときはまだしも、おい親 てゆかれたと恨むような折もある。独り言にもその恨みを言いたいような、あの悲しいと きの酒は、ずんずん沈み込んでいって、終りがない。それが酒のせいだとは、そのときわ

誕生日を祝ってもらったか、お母さんがご馳走をつくってくれたか、と、興味をもって訊 いたことがあった。 母は、ほっんと、「田舎だし、お母さんが病気だったからーと言っただけだった。 聞いてはいけないことを、聞いてしまったように思った。 母が可哀相でたまらなくなった。泣き顔になっていたかも知れない。 母は、田舎と都会ではずいぶん暮し方も違うのだし、男ばかりの家だったから、みんな 気が付かなかったのだと、言訳のように言った。それは、私に対してのなぐさめであった。 以来、母の子どもの頃のことを何か触れてはならないような気がして控えた。 。しいがもし悲しいことであったら嫌だ、の気持が働いたか それは、聞いて、楽しけれよ ) らである。けれどもそれは私が思っているだけのことで、母は時折″田舎のこと〃を話し てくれた。 母方の祖父は厳しい人で、女親が病身であったからなお、母に女としての習いごとや躾 を厳しくした。例えば、裁縫などでも一流の人を選んだ。母方の祖父が思う一流の人とは、三 町で一番腕がいいといわれる男の仕立職人でそこへ母は毎日通った。初めは袖ばっかり縫 わされたそうな。単衣から袷、木綿から絹物へ、紋付の袖まで縫えるようになると、身頃 へと進む。

たった今、男子用のトイレの中の出来事だと、わめくように一一 = ロう。 ビル全体を管理する会社の掃除の人らしい。小柄で丸々と肥った中年のその人は、ほん のわずかの間、トイレの中を掃除している間、のことだったと繰り返す。 そばで何人かが、げらげらと笑った。 「便所掃除が慌ててるぜー 「時計ひとつぐらいで、がたがた言って」 げらげら笑いの数がそこを中心に増えた。 「仕事でいるんですよ、だから大きな男物を使ってるんです。見かけませんでしたか」 女の人はまともに聞いていない相手に、真剣に訊ねている。彼女が真剣に言えば一一一一口うほ ど、にやにや笑いの輪が拡がっていった。 私はとても嫌だった。嫌な人たちだと思っていた。あの女の人にとっては失くなった時 計は大事な仕事の道具だろう。ビルの中の数多くのトイレを掃除してまわるために、忙し ここの社員のような高給ではないだろうから、 く時計を見ながら働いているに違いない。 その男物の時計は彼女にとっては高価な買物だったろうに。 げらげら笑い、見世物でも見るようににやにや笑いをしている人たちが、ひどく下卑て 見えた。スマートで上品な身だしなみであるから余計に下品に見えた。

にして、右手をあげて襟足のあたりへ手をやった、二の腕の内側、青白いまでの白さ と、薬指の先に染って取れぬ口紅の名残りの赤さが、なまめかしかった。 〃女のひとみに変ってしまったような母がそこにいこ。 いつも、まつわりついている母でなくなって、まぶしいような、喉の奥がつまった ような感じで、その母をみていた。 それは、ほんの幼い頃、母を通じて知った″おとなの女〃へのあこがれの芽生えで もあった。 母の唯一のおしゃれは〃洗うこと〃で、お湯に入ると、石けんのほかに、洗い粉や黒砂 糖を使っていた。柚子もそうだった。柔らかいガーゼに包んで柚子のぬめりで顔を洗い 首から身体までくるくる洗っていた。そんなとき私もいっしょに洗ってもらった。湯上り に、滑々、つるつるした肌が光って、石けんの匂いと柚子の香りがふんわり混ってしたも のだった。 湯 水仕事のあとに、母が棚の瓶から手製の柚子のローションを手につけるのは、寒い冬の子 間の見なれた風景だった。現在のように水仕事の前に塗っておけば水をはじくという便利 なクリームはなかったし、野菜は泥つきのものが多く、洗濯も外流しの手洗いとなれば手 ひと

父は終戦の年に亡くなった。 その年、家も焼けた。 戦後の混乱はひどく、廃墟になった東京には食料も物資も何もなく、闇屋と呼ばれる人 たちから粗悪な質でも食物や品物が買えれば幸運のようなもので、混りもののない木綿製 品など新しい品物を手に入れたいと望むのは夢みたいなことだった。お転婆な私の靴下な どは一日はいただけで穴があき、破れをつくろうのは日常のことだった。 ある日、学校の帰り、ごった返す駅のホームで、荷物を背負うた中年の女の人に呼びと められた。 「あのう、失礼ですが、もしゃ藤田さんのおじようちゃんでは ? 」 まったく見も知らぬ人に、そう言われて驚いたが、そうだと答えると、 「あんまり似てらっしやるんで、思わず声をかけてしまって」 その女の人が言うには、私に会ったことも見たこともない。また、父に末娘の私がいる ことも知らなかったが、あまりに父に似ているので、父娘ではないかと、つい声をかけて しまったのだと言う。 父は亡くなったと話すと、ごぶさたをしてしまったからと一瞬声を途切らせ、お母さん はお元気かと言いながら、荷物の中から黒い木綿の靴下三足と軍手を三足つかみ出し、剥 100

その後、いかがですか 今年は梅雨がそのままぐずぐずと続き、夏らしく晴れた日も数 えるほどで秋になってしまいました。 冷夏と長雨にたたられて、べランダの花々はせつかく蕾を持っ たのに咲かなかったり、咲いてもいじけた小さな花だったり。 なでしこ 何年もいっしょに暮していた撫子も、とうとう根腐れで枯れて しまいました。一株が年毎に増え、冬になるまで濃い臙脂色の花が咲き続け、目を楽しま せてくれていたのに残念でした。撫子を一株分けて下さったのは近所の老人ですが、いた だいたとき、植え替えて枯れはしないかと心配する私に、「いやあ、撫子は、そら、大和 撫子というくらいですから大丈夫。今時のふにやふにやした男より、強い、強い」と、撫 子にかこつけて、ひとしきり近頃の若い者は女みたいでなっとらんと気焔をあげました。 そうでした。女を大和撫子と呼び讃えた時代がありました。 ますらお そのとき、男は益荒男で戦場へ征きました。そして : 死にました。私は心の中で叫 たおやお んでいました。男が手弱男だっていいじゃないか。平和だからそうしていられる。戦争で 理屈も何もありません。目茶苦茶です。私は、 勇ましく人を殺しム日つよりよっぱどいい。 それでは、また どうも、戦争のこととなるとヒステリックになるようです。 232