″骨つぎが大繁盛〃〃ウサギ跳び練習で骨折〃大きな見出しで新聞が、最近の子どもたち の骨の弱さ、脆さを報じていた。 子どもたちの骨折事故が急増している。と聞いても、俄かには信じられなかった。栄養は たつぶりと充分に、のびのび、すくすくと育ち、手足は長くまっすぐで、スタイルがいい。 あのしなやかな手足が、すぐ、ばきりと折れてしまうとは思えなかったのである。 カルシウム不足が一因とも言われているが、朝食に牛乳、昼の給食にも牛乳、食間のお 八つにも乳製品やらチ 1 ズ、水の代りに牛乳を飲むという子どもまでいるこの頃、それも、 何だかうなずけないことである。 「カルシウム不足ではなく、運動不足で骨を支える筋肉が弱いので、ショックが直接骨に 骨
日に仕舞う。早く飾り始めるのはよいが、仕舞うのが遅れると婚期が遅れるといわれ、よ くないこととされているからだ。 けれども、我が家では十日にお雛さまを仕舞うのが習いになっていた。仕舞うと言うと、 もう一日飾っておいて、もう一日と泣き出す私に閉ロして、日が延びた。少し大きくなっ て、自分の誕生日が三月九日とはっきりわかるようになると、今度は誕生日をお雛さまと いっしょにしたいとぐずって、とうとう十日に仕舞うのが習いとなったわけである。 女客などあって、あら、まだ ? などと言われると、母は少し弱った顔になって、順子 の誕生日が済まないものでと、わけのわからない言訳をしていた。 母は、年中の決まった行事、そのための支度やご馳走をきちんと調えて行なっていたが、 決まりの行事の他に母の年中の大きな行事は、子どもの誕生祝いであった。何人も子ども を産んだが、生まれた子どもを次々と亡くし、わずかに残った子どもの誕生日は、母にと って、一年無事に過ぎて、一年分成長した子の姿を見るよろこびであったし、次の一年ま た無事に丈夫で育ってゆくように祈る日でもあった。 誕生日の母は、ほんとうに嬉しそうにしていた。おめでとうを言ってくれるときの笑顔 は、並日段の倍も明るく、にこにこと、とろけるような笑顔が続いた。 いつだったか、雛まつりの日に、母のお雛さまはどのような雛人形だったか、小さい頃 124
驚いた顔はしたが、反対はしなかった。 なんでそんなに我慢するのだろうと思うほど、忍耐強く、何事も父や子どもたちが先で、 母は自分というものが無いような生活をしていた。 日常の食物で言えば、食道楽の父の気に入るように食卓にのせる品々には苦労していた。 父が亡くなって年月がたった頃、父の思い出として好物だった食物の話になった。母は愚 痴を言わない人だったが、たった一つだけ辛かったことがあったと話し出した。 活きたなまこを料理するように言い付けられたが、見ただけで身震いするほど気味が悪 薄黒くてぼつばっ疣があって、ぬるぬるしていて、と言いながら首を振った。 なまこの二杯酢が好物、このわた大好きの私は、母がそんな思いで作っていたとは知ら ず、父といっしょになって、なまこのこりこりした歯ざわりをたのしんでいたのを思い出 した。母は、順子も子どものくせになまこの二杯酢が好きだったけど、私は食べるのはも ちろん、見るのも嫌ななまこを握んで料理をするときは、辛くて泣いたと、泣き笑いのよ うな顔をした。 秋田という米どころで育って、折々の祝い事には、米粉を蒸して砂糖を練り込み、型に 入れ、さまざまな形にした餅菓子のようなものが出て、子どもの頃それがほんとうに美味 しかったと言っていた。和菓子とも言えないそのあまり甘くないお菓子が懐かしいらしく、 184
思いつめたような顔で母は祈っていた。ロの中で小さくお経を唱えながら、顔におくれ毛 かかかっているのも気付かぬ様子で、一心に祈っている。 お祈りが済むと、煙の上へ掌をかざし、その手で私の身体をなでさすった。頭をなで、 胸をさすり、肩から背中をなでおろしなでおろしした。その間もロの中で、小さくお経を 唱えていた。 「お願いしたからね、病気にならないように、丈夫に育つように、お願いしたからね」 そう言いながら、真剣に、なでさすり、なでおろしする手には、カがこもっていた。 母は可哀相に、子どもを何人も亡くしている。 母のことだから、どんなにか大事に育てていたであろうに、生まれた子は次々と死んだ。 名前をつける前に、また、誕生を過ぎて可愛い盛りに。七人産んで、末の三人がやっと残 っ一」 0 昔のことで、幼児の死亡率も高かったから、育て方がとりわけ悪かったためとも思われ ないのだが生まれた子を次々と亡くした母は、子どもの病気をひどく怖れて、神経質なく らい子どもの身体に気をつかった。 細心に注意深く育てたはずであるのに、私より十一歳上の姉は気管支が弱く、あまり丈 夫ではなかった。当時、肺結核は死と直接つながっていたから、母は、その病気を怖れ、
うっすり、ばうんやり、暗がりの中に浮かび出す、途切れ途切れの印象がある。 一度だけ行ったのか、何回も行ったのか、切れ切れの印象がつながって、一日のことと して浮かんでくるのかわからない。 幼い日、父に連れられて見た、両国国技館の相撲である。 父に抱かれて車に乗った。外は寒く、暗くて星が出ていた。が、それが早朝だったのか 夕暮だったのかわからない。 国技館に着くと、向って右手の両側に相撲茶屋が明るく賑々しく並んでいた。桟敷はが らがらで、土俵では子どもの行司がハッケョイと叫んでいた。ここのところはかなりはっき りしている。子どもが出ているので興味があったのだろう。力士の方はまるで覚えていない。 相撲見物 1 ) 2
細やかに、手間暇惜しまず、子どもの誕生日のご馳走をつくりながら、雛まつりの支度 をしながら、病身だった母親のことを想っていたのではなかったかと、思うのである。 毎年、きちんと誕生日を祝ってくれる母に、お母さんの誕生祝いをしたいと、そう言っ たとき、誕生祝いは子どもの成長を祝ってするのだから、大人になった親はいいのだと笑 っていたが、とても嬉しそうではあった。 そして、私の〃還暦〃の日には、みんな元気で、一家揃ってしたいものだと言った。 してもらいたい、 と、望んでいた″還暦〃の頃には、父も姉も亡くなっていて、みんな 丈夫で一家揃ってはいなかった。頼りない、みそっかすの末娘が残っていただけだった。 〃還暦〃の祝いの年に、母は、乳癌の手術をした。″ 還暦祝い〃は、祝い延ばしに延ばし たまま、亡くなってしまった。 母の誕生日は、四月三日。 旧の桃の節句である。 127 三月三日
この二つの古びて黄ばんだ写真のような情景は、確かな意味を私に伝えた。 母から聞き、連れから知らされた父の生き方、私の記憶の中ではいつもおばろに霞んで いた父の生き方が、このことを切り口として、見えた。それは、断面でしかないかも知れ ぬ。ほんのわずかな部分かも知れぬ。しかし、それは、私の父の生き方だ。 表での、立派な ? 父の姿を見たことがない。仕事を済ませて、家に帰ってきた父は、 子どもより子どもつばくなっていっしょに遊んだ。母に対して我儘いつばいに振舞った。 陽気でいたずら好きだった。 今はわかる。家に帰り着いた父が、どうしてあんなに、まるで箍の外れた桶みたいにな ったのか、深酒をしたのか、母に甘えて勝手をしたのか。 社会に出て、世間の風の当りエ合をいくぶん経験した今、父の重さがわかる。 196
素知らぬ顔で聞き流している父に、少々弱った風が見えたように思ったのは、思い過ご しだったろうか。私に聞えないように素早く言った一言葉だったが、絶えず、父の連れてく る″人みで苦労していた母が、思わずつぶやいた言葉だったのだろう。 父が使っている人たちの中にも、そういう〃人〃が多くいたらしい。ある日突然、乳飲 児を抱いた若いお嫁さんとお爺さんの一組が同居して、家中が赤児の泣き声で悩まされた こともある。お爺さんの息子が急死して、行く先がなくなってのことらしい らしい。と言うのは、父も母も、家の者たちに、その〃人〃たちがどういう事清で家に いるかなど、決して言わなかったし、その人たちが他人の一 = ロう″居候〃だと子どもたちに 気づかせるようなことも、決してしなかった。その人たちに気を遣って、子どもたちに一言 葉を丁寧にと注意した。 父が連れてくる〃人〃たちの世話、日常の衣食住、それは全部母の〃仕事〃だった。働 きロは父のところで間に合うとしても、住む家の準備、夜具から鍋釜、病気ならその薬の 世話まで、一切が母の仕事だった。 素知らぬ顔で聞き流している父に、少々弱った風が見えるのはそんな事情があってのこ とだった。 99 雛形
ように言い付けた。言われるままに布団をあげて足先を見ていると、浮腫がきているだろ うと一一一一粤つ。 私は、はっとした。もともと華奢な人で足も細いし小さかったが、このところ痩せが目 立って一層細く筋張っていた。それがなんとなく筋張ったのが消えて、青白いままにふつ くらとしている。 母が自分で見ることが出来ないのをいいことにして、私は嘘をついた。 「別になんともなっていない。でも、少しかさかさしているから、ぬるま湯で洗ってクリ ームをつけましようか」 母は、ただ、「そう」と言っただけだった。疑っているように語尾をあげるのでもなく、 かといって、はっきりうなずいた声音でもなかった。日頃から、何事にもきつい物言いを する人でないから、このときも、あからさまな言い方をしなかったけれども、手に水気が きたから、足先にもきているに違いないと、経験でわかっていて、私に、もう死が近いと、 そっと知らせたのである。 病 祖父、祖母、姉、父、それから何人もの子どもたち。数えるとなんと母はたくさんの家 看 族を看取ったのだろう。急病で死んだ子ども、長い間病んだ家族、母はどの病人にも心こ 9 めて看病をし、送った。だから、末期症状がどのようにあらわれるかを、よく知っている。 むくみ
ひびいて折れてしまうのである」「骨細になって、ひょわになっている。体ばかり大きく なって中身がともなわない。受験戦争によって運動不足になりがちである」など、現場の 先生の声もある。 また、インスタント食品やハム、ソ 1 セ 1 ジ、ジュースなどの食品添加物として大量に 使用されているリン酸塩が、カルシウムを破壊しているという。 「国立栄養研究所の話では、カルシウムとリン酸塩の摂取比は同等か、多くてもカルシウ ムの二倍までが望ましいとされているのに、ほとんどの食品でリン酸塩の含有量がカルシ ウム量をかなり上回り、平均でカルシウムの五・二倍も含まれていることがわかった」と、 北関東三県の消費生活センタ 1 が共同で試買テストをした結果である。続いて、子どもた ちに適量比率を保っためにカルシウムをもっと摂取させる必要があると警告している。 「骨ごとなんて、とんでもない、喉へ骨が刺さったら大変。第一、うちの子は切身しか食 べません」と、この頃のお母さんは言うらしい 切身しか食べません。そう、切身しか食べない人たちには、骨の美味しさはわからない だろうなと、真面目に「現代の子どものカルシウム不足について」のさまざまなニュース や論議を読みながら、つい妙な方へ考えが流れてゆくのは、こちらの「脳ミソの不足」か 41 骨