病人がどんな風にしてもらいたいと思っているか、どのように扱って欲しいか。こうす れば楽、こうすれば気持がいいということを、ばつりばつり話をしてくれていたが、末期 になると、手足に水気がくるという話も中にあったのだった。 それを、今、私に教えている。 この前に、私に、この梅雨は越せない。と嘆くでもなく静かに言ったときと同じで、心 の準備をしておくように、と、教えているのだ。 母に対して、執着の強い私に、諦めのやすらぎを与えようとして、家にいて、別れてく れたのだと、思った。 看病で疲れて痩せた私に、母は自分の経験を昔ばなしのように話してくれた。 「順子、神様も仏様もいらっしやるよ。別れ難い人との別れに、もうこれ以上出来ないと 思うほど看病の手をかけさせ、疲れさせ、諦めさせる。それはそれほどまで尽したという 満足が、残る人の心のやすらぎになるからだよ 母が、「家にいたい」と言ったのは、家で死にたい、 私に対しての思いやりだったと思っている。 ということと、また、それ以上に、 220
察が済むと、外で待つようにおっしやった。 廊下に出るとすぐ、私だけが呼ばれた。カルテの書き込み手を止めて、「お家の方は ? 」 とおっしやる。私だけですと答えるのに重ねて、「いや、家の、お父さんか誰か」 みな亡くなって、家の者というのは私一人なのだと説明すると、一瞬、鋭く目を光らせ、 「お母さんは、癌です」 身体中の血が引いて、寒気立った。 でも、とても小さいとおろおろ言いかける私に、手術は急を要すること。それも胸の方 へ癌が散らばっていなければの話で、もしレントゲンを撮ってみて、胸に散らばっていれ ば、手術は出来ない。ときつばりおっしやった。坐っている膝ががくがく震えた。 相談する人はいません。家族は私だけですという若い娘を前にして、先生はすぐにレン トゲン室を閉めないようにと電話をなさり、看護婦さんに母をレントゲン室へ連れてゆく よう指示なさった。 廊下で待っている母に、どう言いつくろうか、気付かせないように、明るくと思っても、 とっさのことにうろたえていた。日頃から血色の良くない顔は余計青白くなっているだろ いくらかでも赤味がつくように、掌で頬を強くこすってから、母の前へ出た。 私の様子を見て、母は、もう、何もかもわかった。先生は癌とおっしやっただろうと静 130
慮して洋菓子は食べなかった。姉が十七、八になり、銀座でシュークリームやショートケ ーキを買ってくるようになって、やっと好物の美味しい洋菓子を食べたが、姉が亡くなり、 戦争になると洋菓子も美味しいものがなくなったと話した。 それからは母の喜ぶ顔が見たくて、手に入れば必ず家に持ち帰った。 クリスマスのプレゼントに、立派な箱詰めのチョコレートをいただいた。母は、あれこ れと迷いながら一段目を食べ、二段目を食べた。残り少なくなったチョコレートを小皿に のせ、お八つに出した。甘味がロの中に残るのを嫌って、すぐお茶を飲む私に反して、ゆ つくり口の中で溶かして食べていた母は、最後の一粒を「順子おあがり , と私の方に押し た。私は「お母さんが」と向いの母へ押し戻した。小皿に一つのったチョコレートは、食 卓の上を、押しつ押されつ往復した。 チョコレートで私の知らない母の好物を知ったのだが、服の選び方でも思わぬ面を発見 した。 すっきりと上品なのが好みなのは知っていたが、普段の着物は地味であった。私が服を 注文するのに、新しい生地を身体に当て、スタイルブックのあれこれを並べて考えている ) と思うけどと、一つの服を指した。私もシックで斬新なデザ と、遠慮勝ちに、これがいし インのそれが気に入っていたので、少々驚いた。姉がフランスのスタイルブックを取り寄 186
ったようなわからないような、半分だけ納得、といったところである。 こんなことは何度も訊けないと思って、見合のときはどうだった ? と重ねて問うと、 「そんな、お父さんは知っていたらしいけれども、私はお嫁入りするまで顔も見なかっ た、と、とんでもないことと言うような顔をした。その顔を見たら、ちょっと、からかい たくなって、 「ふえーっ、顔も見ないで結婚したの ? でも、背が高くて、いい男でよかったわね」 と言うと、母はみるみる赤くなった。首すじから耳たぶまで血が上ってゆき、目元まで 赤くなった。肌が白いから耳たぶなど血が透けて見える。 と少しきつい声でたしなめたが、私がけらけら笑っている 親をからかうものではない。 ので仕方なく照れ笑いをしていた。 実のところ、私は驚いていた。母はまるで初々しい娘のように羞じらっている。この人 は六十一歳だ。生真面目で、色つばいところなどかけらもない。切ないほど優しくて、女 らしい。女らしいと言うより、母性そのものみたいな人だ。 私は、初対面の女の人を見るように、母の血の上った耳たぶを見ていた。 それから、なんだか、ひどく疲れたような感じで、安心した。 長い間、私は、母が可哀相と思っていた。父の我儘勝手で、苦労ばかりしていると思っ 206
言い返した。学校へあがったら、ちゃんとやる。 よそゆき 母は本気で怒った。びたと口を閉じ、着ていた普段着を他所行の着物に着替え、白足袋 も新しい足袋の封を切って履き替えた。着ていた普段着や帯、足袋をきちつきちっとたた み、それを風呂敷に包むと、玄関へ行き、鍵をかけた。そして風呂敷包みをかかえると、 立ったまま静かに、ゆっくりと説明するように話した。 「私は毎日毎日、一日中、順子が散らかしたものの後片付けや面倒を見て、もう疲れて、 つくづくこんな暮しが嫌になった。こんなことならよその家の女中になった方が、どんな に楽か知れない。私はこれから女中奉公に出るから、お父さんが帰ったらそう言いなさい。 お父さんには奉公先から手紙を出す」 そう言うやいなや、勝手口へ歩き出した。もうしませんからごめんなさい。順子が悪か ったからごめんなさい。行かないでちょうだい。声を限り、泣きわめいてあやまった。 母は冷たい目で私を見ると、一一 = ロ、「もうその言葉は聞き飽きた」 縋り付き、前へまわってしがみついた私を母は払い除けた。転がった私を見向きもせず に勝手口で下駄を履き出した。 大恐慌どころではない。半狂乱になって私は裸足で外へ飛び出した。歩き出した母の前 で止めようとしても駄目だと瞬間に判断。裏の家の戸を叩き、返事がないと駆けて隣家の
この話になると、そのたびに泪ぐむ私に、母は弱ったような、困ったような、恥しそう な、微妙な顔でほほえみながら、いつでも「ごめんよ」と小声で詫びた。それは二十歳を 過ぎ、母と暮した最後の年の二十五歳になっても同じだった。 あれはもう五歳も終りか、小学校へあがったらという話もちらほら出ていた頃のことで ある。母が、私に嘘をついた。騙したのである。もちろん両親や姉兄たちが私に嘘をつい たり騙したりしなかったわけではない。特に父や姉や兄は、からかうのが目的で嘘もっき 騙しもした。たわいのないことで、父などは特に面白がってやった。 食事中、蓮根を食べている私に、真面目な顔で、穴は残して食べろと言う。素直にはい と返事をし、この穴と見当をつけて、ばくと噛んだら穴は消えた。ハテと首をかしげ、今 114
「順はふくろうみたいだ。夜中になると、目が大きくなる」 と、笑って抱いてくれた。その後のことは覚えていない。後に母が一言うには、ほんの一、 二杯お酒を飲むこともあれば、そのまま寝てしまうこともある。どちらにしても、お酒の 支度をして待っていないと機嫌が悪い。そのことを私は、父の我儘勝手と思い、母が可哀 相だと思っていた。そして私は母のようには絶対ならないと、心に決めていた。 だが、母の血の上った耳たぶを見ているうちに、遠い足音を聞きつけて、さっと立ち上 り、髪のほっれを気にして、手でなでつけながら玄関へ急いだ母の姿が、なんとなく、な まめかしく想い出されてきた。 あのとき、私は、四、五歳。父と一つ年上の母は、四十二、三歳。 夜更けてもなかなか眠らず、ふくろうみたいに大きな目を開けていた私は、父と母の邪 と、田 ( いオし 魔をしていたのかも知れない。 208
頭を下げて済ませた。 けれども、私が覚えている限り、母が思いつめたような顔で、一心に祈る様子は、いっ も変らなかった。 結核が不治の病と怖れられたことが昔語りとなった頃、母は乳癌になり、手術をした。 転位が進んでいて、手術が出来ただけでも幸運、そう思わなければならないような状態 だった。だから再発は死とつながった。昔、結核が直接死とつながったように : たまき 手術は名医の聞え高い梶谷鐶先生、術後の手当も充分にしたとしても、再発しないと いう保証はない。 私は無力だった。 病気に対して、何も、出来なかった。 日頃、信仰心を持たずにいたことも忘れて、母の病気の平癒を祈った。無信心の私がお 願いをすることを心から詫びながら、母の身のこととして受けて下さいと祈った。 あげくには、私の命を半分にして母に与えて下さいとまで願った。本気であった。 しノ、りカ 肺に転位した末期には、肺水腫となった。背中を大きく静かになでおろすと、 胸苦しさがまぎれるのか、背中をなでていると、うとうと眠ってくれた。亡くなる一週間
いつも私が、一方的にしゃべるばかりだった。 〃対話〃と言えるような形ではなかった。 相手は母で、話題は外での出来事の報告から、それに対しての意見や感想。また、もっ と身辺のこまごましたことのあれこれ。勤めから帰って、食事をしながら、お茶を飲みな がら、毎日、ほんとうによく話をした。 だが、その話題に関して、母がどんな意見や感想、受け答えをしたかということになる と、言葉としては、ほとんど無にひとしいほど少ないのである。 母はいつも穏やかな顔付きで、私のおしゃべりを聞いてくれた。話したいことが多くて、 ついつい早口になり、声も高くなる私に、もっと静かに、もっとゆっくりと、話の合間合 態話 197 態話
「もう、ほんとうに、よく似ていて」 半ば諦め、半ば呆れたように言う母は、いつも少しばかり口元が笑っていた。 父に似ている、と、言うのである。 母が忘れてしまっていた、生前の父の癖を私の仕草で思い出し、はっとする、と言う。 それがどんな仕草か、私には言わなかったが楽しい嬉しい記憶ではないらしい。母という 人は、自分の心の中をあれこれと話す人ではなかった。特に、嫌だと思ったことや辛かっ たことはロにしない人だったから、私も深くは訊かなかった。 似ているということの中でも、食物の好み、それも″ほんのちょっとしたこと〃、例え ば漬物の漬け工合の文句など、まるで父が生きて、そこに居るようだと、溜息をついた。 雛形