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検索対象: 子守唄の余韻
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1. 子守唄の余韻

頭を下げて済ませた。 けれども、私が覚えている限り、母が思いつめたような顔で、一心に祈る様子は、いっ も変らなかった。 結核が不治の病と怖れられたことが昔語りとなった頃、母は乳癌になり、手術をした。 転位が進んでいて、手術が出来ただけでも幸運、そう思わなければならないような状態 だった。だから再発は死とつながった。昔、結核が直接死とつながったように : たまき 手術は名医の聞え高い梶谷鐶先生、術後の手当も充分にしたとしても、再発しないと いう保証はない。 私は無力だった。 病気に対して、何も、出来なかった。 日頃、信仰心を持たずにいたことも忘れて、母の病気の平癒を祈った。無信心の私がお 願いをすることを心から詫びながら、母の身のこととして受けて下さいと祈った。 あげくには、私の命を半分にして母に与えて下さいとまで願った。本気であった。 しノ、りカ 肺に転位した末期には、肺水腫となった。背中を大きく静かになでおろすと、 胸苦しさがまぎれるのか、背中をなでていると、うとうと眠ってくれた。亡くなる一週間

2. 子守唄の余韻

呼び出しが済むと土俵下の溜りの所へ坐った。どうしよう、止めようか。何度かためらっ たが、溜りへ降りてゆき、思い切ってその呼び出しさんの背に声をかけた。 「恐れ入りますが、お教えいただきたいことがあるのですがー なんですと不審な顔で振り返った。止めればよかったと一瞬思ったが、話した。花道わ きのべンチで聞いて下さった。お顔は見知っていたが、お名前がわからなくて失礼しまし たと言うと、呼び出し三郎と言いますと笑った。本名は荒俣三郎と教えて下さった。父の 呼び出しの節のことなど話すと、私は昭和三十年頃から呼び出しになって、節は誰に教わ るということはなく、自分で勉強した。小鉄という有名な呼び出しがいたが、私は多賀之 丞が好きだった。呼び出しにも素人受けする者と玄人好みの者があって、小節もそれぞれ 自分で工夫すること、などなど話して下さった。 父の節は、自分で作り出したのだろうか、伝えられてきたものを覚え、練習したのだろ うか。父に似た呼び出しの節に誘われて想った。父といっしょに、相撲が観たいな。 ゎ 7 相撲見物

3. 子守唄の余韻

まるで、小言幸兵衛。 この、ばか 燗のエ合を覚えさせるのに、手を取って教えた。徳利の底に指をあてがい、 っときた温度を覚えて忘れるな。徳利の胴をさわって熱くなっていても、燗はついてない。 徳利の底で計らなければ駄目だと言う。 ここまでで終れば、普通なのだが、そこが父で、このあとが悪い。 「順なあ、酒を注がれたら、どうするか教えておこう。よく、オットットットと盃の手を あげるが、あれは間違いだ。お前、 酒を注がれたらな、オットットットと手をさげるんだ 私はとても良い子で、その通り覚えた。たまたまお客があり、父は幾分改まってお酌を していた。挨拶に出た私は、堅苦しく頭をさげ盃を受けているその人に言ったものだ。 「小父ちゃん、オットットッて、手をさげるものなのよ」 その場のことは覚えていないが、 , 後年、父が、あのときは参ったと言っていたから、よ 業 修 ほどこたえたらしい 付き合い酒の多かった父は、よく酔って帰った。帰ったぞと一声かけて、玄関先へ寝て入 しまった父を、座敷へ運ぶのは大仕事だった。 ぐにやぐにやの軟体動物みたいになった父の腰の下へ、座布団を敷き込み、両手を引っ

4. 子守唄の余韻

そう言われれば反対する理由は何もない。その通りだからである。 けれども子どもは覚えている。自分のために母が刻んで刻んでくれたことを。手間ひま かけて煮てくれた、そのことを、覚えている。 大人になった人々が " おふくろの味。を恋うのは、昔風のお惣菜の味なのだろうか、懐 かしい味付けだけなのだろうか。 それをつくってくれた、母の手の想い出ではないだろうか。 月刻む

5. 子守唄の余韻

〃子守唄を聞きながら眠った〃という記憶がない。 いや、母はいつも、あの細い、しめりのある柔らかい声で、小さく歌いながら寝かせつ けてくれたはずなのに、それが思い出せないのである。 子守唄を聞き あまりに幼すぎたせいか、幼児の頃のことを、割合に覚えている私が、″ ながら眠った〃ことを思い出せないのが、何とも口惜しい気がしてならない。母に抱かれ て、背中を軽くたたいてくれた手も、布団の上から、優しくひびいてきた少し重い、母の 手も、覚えているのに、子守唄が聞えてこないのである。 母が歌っているのを聞いたことがない。 子守唄

6. 子守唄の余韻

米山甚句を歌った。 耳が覚えている通り、父の歌い方の通り。 歌い終ると、座は、妙にしんとして一拍おいてから拍手がきた。氏がうーむと唸って いつどこで仕 聞いこ私は、ほかんとした。おかみさんたちは、見かけによらないねえ、 込んだのだと口々に一一一一口う。仰せの通りの野暮天で、見かけによるもよらないもないけれど、 習った場所は父のあぐらの中。頭の上で鳴る節を耳が覚えたのだから、本式も何もこの歌 い方しか出来ないのだと答えると、氏、もう一度、「うーん、金がかかっている」 宴席の賑やかな歌い方でなく、しんみり差し向いの爪弾きの歌だとおっしやる。 父は、どこでそれを仕上げたのだろう。四十余年も後になって、父の遊蕩がバレた。さ ては、膝枕かなんかでと、今頃がたびししても間に合わない。ご本人は、とうの昔に、あ ちらへ行ってしまわれている。あちらで、にやにや笑っている顔が見えるようだ。 父という人は教育的でないと、つくづく 「この歌には、金がかかってるなあ」 乃米山甚句

7. 子守唄の余韻

また笑い一一一一口うのである。「俺は親馬鹿だ」。そして、カの入らない気の抜けた小声でつぶや いた。「親馬鹿ちゃんりん、そば屋の風鈴 : : : か」 親はわかる。馬鹿も使うと叱られる悪い言葉だから、よく知っているが、その二つがひ とつになるとわからない。おそば屋さんも風鈴も見知っている。だが、これらが続くと、 「言語明瞭・意味不明」 それは何だ、なんのことと、しつこく訊ねる私に、昔からそう一一一一口うのだと打ち切った。 覚えたばかりの呪文を得意になって「おやばかちゃんりんそばやのふうりん」と調子を つけて続けると、「こりゃあ、ほんとに親馬鹿だ」と苦笑した。 そのときは格別のことがなかったのと、節をつけて「おやばかちゃんりんそばやのふ うりん」と歌うように繰り返すと、なんとも調子がいいので鼻歌のようにふんふんと遊び ながらやっていた。呪文を覚えたときから、ずいぶん日が経った頃のことである。父がうつん むいて新聞を読んでいる後ろを、人形ぶらさげての通りすがりに、少しばかり癖になったん 例の「おやばかちゃんりんふんふんふん」をやった。意味なんぞない、人形の子守唄がわち 馬 りのふんふんふんである。 親 「なにツ」 父はふりむきざま強い声で言った。目が三角になり、本気で怒っている顔である。

8. 子守唄の余韻

一口食べると、あったはずの穴は消えた。半欠けになった穴もある。注意して、二ロ目 を食べたが残っていた穴も消えてしまった。途方に暮れて食べかけの蓮根を見ていると、 姉が吹き出した。兄もゲラゲラ笑い出した。姉も兄も仕掛けを知っていて、成り行きを楽 しんでいたのだ。 食後、父はからかった埋め合わせか、蓮の花や蓮の糸の話、それから、 いささか抹香臭 ) 話まで取り混ぜてしてくれたが、その真面目な話の方はすっかり忘れてしまって、蓮根 の穴のことだけをはっきり覚えている。 これに限らず、私は父から聞いた話をあまり覚えていない。真面目に話し合う年頃まで から 父が生きていてくれなかったからでもあるが、幼い頃のことでも、情けないことに、 かわれたり、かつがれたりした記憶の方がより強く残っている。 年月が経って、私は会社勤めをするようになったとき、母と話をしていてたまたま給料 の差ということと関連して、父に話が及んだ。母は大体無ロな人で、エピソードのようなの ことでも、言葉少なに、ばつりと話すので、そのときの状況などはこちらがあれこれ考え 合わせて聞くことになる。 「昔、お父さんが人を使って仕事をしていたとき、日本の人も、朝鮮の人も、同じ手間賃

9. 子守唄の余韻

さまざまな形で、母の手を、想い出す。 甘やかしてくれた手も、甘えさせてくれた手も、優しかった手も、厳しかった手も、全 部、母、そのものとなって想い出す。 中に、〃切ない手〃がある。 今、成長してのち、″切ない〃 と、そう思う手で、そのとき、そうと気付かずに受けて ″手〃である。 どこの寺だったのだろう、幼い頃で覚えていない。 大きな火鉢のようなものから、盛んに線香の煙が立ち上っていた。その前で手を合わせ、 手 せつ のぼ 89 手

10. 子守唄の余韻

父が亡くなって、十年近く経った頃、ある日、母がふいと方言で何か言った。 それは、あまりに自然で、さらりとしていたので、方言とは気付かず、聞き取りにくか ったために、もう一度と訊き返した。 母は、繰り返す途中で気が付き、言い直した。言い直したことで、私は、それが方言だ ったと気が付いた。 物の名前だったか、言いまわしだったか、 はっきりそのことを覚えていないが、語尾のれ っ 「し」と「す」が、混ったような東北なまりの言葉だった。 母は自分のことなのに驚いている様子だったが、聞いた私の方は、もっと驚いた。 穏やかで、おっとりとした母の話し方を、美しいと思って聞いて育ち、なまりを感じた ほっれ毛