頭を下げて済ませた。 けれども、私が覚えている限り、母が思いつめたような顔で、一心に祈る様子は、いっ も変らなかった。 結核が不治の病と怖れられたことが昔語りとなった頃、母は乳癌になり、手術をした。 転位が進んでいて、手術が出来ただけでも幸運、そう思わなければならないような状態 だった。だから再発は死とつながった。昔、結核が直接死とつながったように : たまき 手術は名医の聞え高い梶谷鐶先生、術後の手当も充分にしたとしても、再発しないと いう保証はない。 私は無力だった。 病気に対して、何も、出来なかった。 日頃、信仰心を持たずにいたことも忘れて、母の病気の平癒を祈った。無信心の私がお 願いをすることを心から詫びながら、母の身のこととして受けて下さいと祈った。 あげくには、私の命を半分にして母に与えて下さいとまで願った。本気であった。 しノ、りカ 肺に転位した末期には、肺水腫となった。背中を大きく静かになでおろすと、 胸苦しさがまぎれるのか、背中をなでていると、うとうと眠ってくれた。亡くなる一週間
呼び出しが済むと土俵下の溜りの所へ坐った。どうしよう、止めようか。何度かためらっ たが、溜りへ降りてゆき、思い切ってその呼び出しさんの背に声をかけた。 「恐れ入りますが、お教えいただきたいことがあるのですがー なんですと不審な顔で振り返った。止めればよかったと一瞬思ったが、話した。花道わ きのべンチで聞いて下さった。お顔は見知っていたが、お名前がわからなくて失礼しまし たと言うと、呼び出し三郎と言いますと笑った。本名は荒俣三郎と教えて下さった。父の 呼び出しの節のことなど話すと、私は昭和三十年頃から呼び出しになって、節は誰に教わ るということはなく、自分で勉強した。小鉄という有名な呼び出しがいたが、私は多賀之 丞が好きだった。呼び出しにも素人受けする者と玄人好みの者があって、小節もそれぞれ 自分で工夫すること、などなど話して下さった。 父の節は、自分で作り出したのだろうか、伝えられてきたものを覚え、練習したのだろ うか。父に似た呼び出しの節に誘われて想った。父といっしょに、相撲が観たいな。 ゎ 7 相撲見物
まるで、小言幸兵衛。 この、ばか 燗のエ合を覚えさせるのに、手を取って教えた。徳利の底に指をあてがい、 っときた温度を覚えて忘れるな。徳利の胴をさわって熱くなっていても、燗はついてない。 徳利の底で計らなければ駄目だと言う。 ここまでで終れば、普通なのだが、そこが父で、このあとが悪い。 「順なあ、酒を注がれたら、どうするか教えておこう。よく、オットットットと盃の手を あげるが、あれは間違いだ。お前、 酒を注がれたらな、オットットットと手をさげるんだ 私はとても良い子で、その通り覚えた。たまたまお客があり、父は幾分改まってお酌を していた。挨拶に出た私は、堅苦しく頭をさげ盃を受けているその人に言ったものだ。 「小父ちゃん、オットットッて、手をさげるものなのよ」 その場のことは覚えていないが、 , 後年、父が、あのときは参ったと言っていたから、よ 業 修 ほどこたえたらしい 付き合い酒の多かった父は、よく酔って帰った。帰ったぞと一声かけて、玄関先へ寝て入 しまった父を、座敷へ運ぶのは大仕事だった。 ぐにやぐにやの軟体動物みたいになった父の腰の下へ、座布団を敷き込み、両手を引っ
そう言われれば反対する理由は何もない。その通りだからである。 けれども子どもは覚えている。自分のために母が刻んで刻んでくれたことを。手間ひま かけて煮てくれた、そのことを、覚えている。 大人になった人々が " おふくろの味。を恋うのは、昔風のお惣菜の味なのだろうか、懐 かしい味付けだけなのだろうか。 それをつくってくれた、母の手の想い出ではないだろうか。 月刻む
〃子守唄を聞きながら眠った〃という記憶がない。 いや、母はいつも、あの細い、しめりのある柔らかい声で、小さく歌いながら寝かせつ けてくれたはずなのに、それが思い出せないのである。 子守唄を聞き あまりに幼すぎたせいか、幼児の頃のことを、割合に覚えている私が、″ ながら眠った〃ことを思い出せないのが、何とも口惜しい気がしてならない。母に抱かれ て、背中を軽くたたいてくれた手も、布団の上から、優しくひびいてきた少し重い、母の 手も、覚えているのに、子守唄が聞えてこないのである。 母が歌っているのを聞いたことがない。 子守唄
米山甚句を歌った。 耳が覚えている通り、父の歌い方の通り。 歌い終ると、座は、妙にしんとして一拍おいてから拍手がきた。氏がうーむと唸って いつどこで仕 聞いこ私は、ほかんとした。おかみさんたちは、見かけによらないねえ、 込んだのだと口々に一一一一口う。仰せの通りの野暮天で、見かけによるもよらないもないけれど、 習った場所は父のあぐらの中。頭の上で鳴る節を耳が覚えたのだから、本式も何もこの歌 い方しか出来ないのだと答えると、氏、もう一度、「うーん、金がかかっている」 宴席の賑やかな歌い方でなく、しんみり差し向いの爪弾きの歌だとおっしやる。 父は、どこでそれを仕上げたのだろう。四十余年も後になって、父の遊蕩がバレた。さ ては、膝枕かなんかでと、今頃がたびししても間に合わない。ご本人は、とうの昔に、あ ちらへ行ってしまわれている。あちらで、にやにや笑っている顔が見えるようだ。 父という人は教育的でないと、つくづく 「この歌には、金がかかってるなあ」 乃米山甚句
また笑い一一一一口うのである。「俺は親馬鹿だ」。そして、カの入らない気の抜けた小声でつぶや いた。「親馬鹿ちゃんりん、そば屋の風鈴 : : : か」 親はわかる。馬鹿も使うと叱られる悪い言葉だから、よく知っているが、その二つがひ とつになるとわからない。おそば屋さんも風鈴も見知っている。だが、これらが続くと、 「言語明瞭・意味不明」 それは何だ、なんのことと、しつこく訊ねる私に、昔からそう一一一一口うのだと打ち切った。 覚えたばかりの呪文を得意になって「おやばかちゃんりんそばやのふうりん」と調子を つけて続けると、「こりゃあ、ほんとに親馬鹿だ」と苦笑した。 そのときは格別のことがなかったのと、節をつけて「おやばかちゃんりんそばやのふ うりん」と歌うように繰り返すと、なんとも調子がいいので鼻歌のようにふんふんと遊び ながらやっていた。呪文を覚えたときから、ずいぶん日が経った頃のことである。父がうつん むいて新聞を読んでいる後ろを、人形ぶらさげての通りすがりに、少しばかり癖になったん 例の「おやばかちゃんりんふんふんふん」をやった。意味なんぞない、人形の子守唄がわち 馬 りのふんふんふんである。 親 「なにツ」 父はふりむきざま強い声で言った。目が三角になり、本気で怒っている顔である。
一口食べると、あったはずの穴は消えた。半欠けになった穴もある。注意して、二ロ目 を食べたが残っていた穴も消えてしまった。途方に暮れて食べかけの蓮根を見ていると、 姉が吹き出した。兄もゲラゲラ笑い出した。姉も兄も仕掛けを知っていて、成り行きを楽 しんでいたのだ。 食後、父はからかった埋め合わせか、蓮の花や蓮の糸の話、それから、 いささか抹香臭 ) 話まで取り混ぜてしてくれたが、その真面目な話の方はすっかり忘れてしまって、蓮根 の穴のことだけをはっきり覚えている。 これに限らず、私は父から聞いた話をあまり覚えていない。真面目に話し合う年頃まで から 父が生きていてくれなかったからでもあるが、幼い頃のことでも、情けないことに、 かわれたり、かつがれたりした記憶の方がより強く残っている。 年月が経って、私は会社勤めをするようになったとき、母と話をしていてたまたま給料 の差ということと関連して、父に話が及んだ。母は大体無ロな人で、エピソードのようなの ことでも、言葉少なに、ばつりと話すので、そのときの状況などはこちらがあれこれ考え 合わせて聞くことになる。 「昔、お父さんが人を使って仕事をしていたとき、日本の人も、朝鮮の人も、同じ手間賃
さまざまな形で、母の手を、想い出す。 甘やかしてくれた手も、甘えさせてくれた手も、優しかった手も、厳しかった手も、全 部、母、そのものとなって想い出す。 中に、〃切ない手〃がある。 今、成長してのち、″切ない〃 と、そう思う手で、そのとき、そうと気付かずに受けて ″手〃である。 どこの寺だったのだろう、幼い頃で覚えていない。 大きな火鉢のようなものから、盛んに線香の煙が立ち上っていた。その前で手を合わせ、 手 せつ のぼ 89 手
父が亡くなって、十年近く経った頃、ある日、母がふいと方言で何か言った。 それは、あまりに自然で、さらりとしていたので、方言とは気付かず、聞き取りにくか ったために、もう一度と訊き返した。 母は、繰り返す途中で気が付き、言い直した。言い直したことで、私は、それが方言だ ったと気が付いた。 物の名前だったか、言いまわしだったか、 はっきりそのことを覚えていないが、語尾のれ っ 「し」と「す」が、混ったような東北なまりの言葉だった。 母は自分のことなのに驚いている様子だったが、聞いた私の方は、もっと驚いた。 穏やかで、おっとりとした母の話し方を、美しいと思って聞いて育ち、なまりを感じた ほっれ毛