七代 - みる会図書館


検索対象: 本願寺と蓮如上人
27件見つかりました。

1. 本願寺と蓮如上人

カ避けるのに苦労しながら、その威儀を尊重していかざるをえなかっ た、本願寺苦難の時代は、もうしばらく続くのでありました。 綽如上人は四十四歳という若さでご往生されましたので、十八歳の 巧如上人が第六代を継承されたのであります。このころから、本願寺 ぞんによ は北陸方面の布教伝道に力を注ぎつつあったのです。殊に、第七代存如 上人は、北陸において教線を著しく伸展させた上人であります。 覚如上人以後、存覚、従覚、善如、綽如各上人の、いわゆる初期本 しよ、つぎよ、つー ) よー ) や 願寺のころは、聖教を書写して門末に授けられた様子は見当りません。 きようぎようー ) んしよう くでんしよう 次の巧如上人は『教行信証』や『ロ伝鈔』などを書写され、門弟にお 与えになるようになり、第七代存如上人になって、多くの聖教を書写 し、それを門末に交附するようになってまいりました。現在、存如上 ・か」わ、つ 人の花押のある「正信偈」が本願寺に伝えられております。 ぎよ、つこよ

2. 本願寺と蓮如上人

った如信上人から、ロ伝を承けて、覚如上人に伝授されてきたことを ーレーレ→て、フに ) よ、つ 主張して、師資相承の立場を明確にしておこうとされました。 こうした覚如上人の意図は、一つには法然門下の異流に対し、聖人 一流が法然上人を伝統することを示し、二つには門弟達に、覚如上人 を中心にした大谷本願寺が根本であることを顕すためであり、親鸞聖 人を宗祖、如信上人を本願寺第二代、そして覚如上人は自ら本願寺第 三代と位置づけて、法義の継承を内外に宣説したのであります。従覚 上人の子息善如上人を本願寺第四代と数えるために、覚如上人のそう した準備が整えられていたのであります。 このように継承され、第五代綽如上人の時代を迎えるのですが、本 願寺を公称したとはいえ、いまだ社会的にも力も小さかったし、未だ さんと 比叡山の本願寺末寺扱いは従来通り続いていたので、山徒の圧迫を極 しやくこよ

3. 本願寺と蓮如上人

位を、もっとしつかりしたものにしておきたいと、大谷廟堂を寺院化 し、親鸞聖人の浄土真宗を伝承すべき中心となる本拠にせねばならな いと努力されたのであります。 さんだいでんし そのために「三代伝持」を主張して、真宗教団における自らの地位 を築こうとされたのであります。 によー ) ん この三代伝持とは、法然上人、親鸞聖人、如信上人の三師を指し、 浄土真宗が伝承されているその決義継承者であることを、覚如上人自一 りんじゅ、つらいご、つ ら宣言し、合せて浄土異流の教学 ( 主に臨終来迎 ) を批判し、法然上 人を承けた親鸞聖人の特質を伝持していることを、明暸にしていかれ たのであります。 へいぜいご、つしよ、つ 浄土真宗の教義の特色の一つであります「平生業成」を多く用いら ぞんかく れるようになったのは覚如上人で、それにつづいて存覚上人でありま りゆ、つ ま、つ、ナいしよ、つしゃ

4. 本願寺と蓮如上人

ものであったのでしよう。比叡山へは、非戦の態度で、しかもそれを 軸に、上人独自の活動を展開していかれたのであります。 蓮如上人の後、実如上人も証如上人も、青蓮院で得度されたとなっ け - ′ん」にし ていまして、本願寺で独自の得度式を挙げられるのは、第十一代顕如 上人の時代になって、始めてなのです。このような本願寺の歩みをみ てまいりまして、代々の上人が、それぞれの時代を背に負いながら、 本願寺を中心に浄土真宗を伝承されたのであります。 じつによ ー ) よ、つこよ

5. 本願寺と蓮如上人

蓮如上人までの本願寺 一九九八 ( 平成十 ) 年は、浄土真宗本願寺第八代蓮如上人の五百回 遠忌法要の年であります。この本願寺という寺号は親鸞聖人は当然な がら用いておられません。浄土真宗という宗旨を開く意図も、もって おられませんでした。恩師法然上人を讃えるご和讃に 智慧光のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗をひらきつつ 送択本願のべたまふ 如来の智慧を身につけられた法然上人が、この世に現われて浄土真 宗を開いてくださいました、と詠まれました。

6. 本願寺と蓮如上人

べつぎよう このことは「正信偈」を『教行信証』から別行されたのは蓮如上人 といわれてもきましたが、すでに存如上人が別行しておられたのであ ります。蓮如上人がお書き写しになった「三帖和讃」がありますが、 これも存如上人の指示に従って書写されたもので、このように本願寺 におきまして「正信偈」や「三帖和讃」に深い関心をもたれたのは、 蓮如上人の父存如上人なのであります。 堂舎につきまして、綽如上人の時代は、大谷廟堂に御開山の影像の一 ほかに、ご本尊の阿弥陀如来像を安置されていました。このご影堂の 外に阿弥陀堂ができていたわけではございません。従来の影堂に本尊 を中心に御開山の影像を「かたわらへうっして」安置しておられた様 子がうかがえます。 第六代巧如上人時代の本願寺は、近くに天台関係の寺院が建ち並ん

7. 本願寺と蓮如上人

趣も異っていたわけですが、すでに本願寺を公称した以上、そこにご 本尊安置の問題が起ってきたのも、当然のことであります。 最初は御開山聖人の影像を傍にして、阿弥陀如来像を立てることに しましたが、それが実現したのは、覚如上人がご往生された後であり ます。 上人の後継者は、長子存覚上人であるはずでしたが、青蓮院とのし一 ぎせつ がらみや、再度に互る父子義絶の複雑な問題が続いたため、次男の従 カ / 、 ぜんによ 覚上人を越えて、その長子であった善如上人が継承されることになり ました。 先にのべましたように、覚如上人は、法然上人、親鸞聖人、如信上 人をもって三代伝持を主張し、法然上人の正しい教義の伝承は親鸞聖 人において実現し、さらに、聖人の孫であり、初期教団の高弟でもあ

8. 本願寺と蓮如上人

像をご安置しておられます。それは、木像も絵像も、名号本尊を礼拝 するのも、すべて方便法身の如来であり、本願の成就されたすがたで あります。要するに、浄土真宗の教義の特色であります平生業成の法 義を、頂くことが何よりも肝要なのであります。 覚如上人四十三歳の時、大谷廟堂の修復を機会に「専修寺」という 寺額を掲げて、ここが真宗の本寺であることを示したところ、比叡山一 せんしゅねんぶっとが るざい の衆徒から「親鸞は専修念仏の咎によって流罪に処せられたのだ、そ 7 れ以来「専修」は使用禁止になっているはずだ、しかるに専修寺の額 を掲げるのはよろしくない。すみやかに徹去せよ」とのはげしい抗議 をうけ、やむをえず、額を降したのであります。 降額のやむなきに至ったものの、覚如上人は、それ以前から、浄土 に ) ー ) ゅ、つ 真宗は、一遍の時衆と同視されてきて、幕府から停止命令をうけてい はうべんはっしん

9. 本願寺と蓮如上人

著者略歴 大阪府堺市に生る ( 1929 年 ) 関西大学中退、中央仏教学院研究科 卒業、竜谷大学大学院修士課程卒業、 本願寺輔教、得度教師教修所講師、 中央仏教学院講師、布教団連合顧問、 NHK 文化センター講師 著書 『念仏における問いと答え』 『蓮如さまのこころ』 『一日一話』 『蓮如上人と赤尾の道宗』 『親鸞聖人と私』 『生死を超える道』 『僧侶の道』 『人間の願いと如来の願い』 『蓮如の生涯』監修 『町角のことば』共著 『人生とことば』共著 『念仏春秋』共著その他 住所大阪府堺市南半町西 4 丁 1 ー 18 本願寺と蓮如上人 平成 10 年度用 豊島學由 著者 福田裕子 発行者 京都市下京区油小路通六条上ル 発行所百華苑 T E L 075 ー 371 ー 5760 F A X 075 ー 344 ー 0556 印刷所株式会社同月月舎

10. 本願寺と蓮如上人

録されたこの機会に、遺産は相続してこそ生きるのですから、聖人一 流の門弟として「如来より賜わりたる」南無阿弥陀仏のご信心を相続 することであります。 十字名号も六字名号もご絵像もお木像も、方便法身のおすがたであ り、如来さまの直接のお喚び声であります。お喚び声となってくださ っている如来のいのちを頂く人を、信心の行者というのですよ、と、 御開山聖人のお聖教を読破された蓮如上人が、「聖人一流の ) 。勧化のお一 もむきは信心をもって本とせられ候」と『御文章』に示してください ました。このご法義を聴聞することこそ、遺産相続人の責任と喜びで あります。