べつぎよう このことは「正信偈」を『教行信証』から別行されたのは蓮如上人 といわれてもきましたが、すでに存如上人が別行しておられたのであ ります。蓮如上人がお書き写しになった「三帖和讃」がありますが、 これも存如上人の指示に従って書写されたもので、このように本願寺 におきまして「正信偈」や「三帖和讃」に深い関心をもたれたのは、 蓮如上人の父存如上人なのであります。 堂舎につきまして、綽如上人の時代は、大谷廟堂に御開山の影像の一 ほかに、ご本尊の阿弥陀如来像を安置されていました。このご影堂の 外に阿弥陀堂ができていたわけではございません。従来の影堂に本尊 を中心に御開山の影像を「かたわらへうっして」安置しておられた様 子がうかがえます。 第六代巧如上人時代の本願寺は、近くに天台関係の寺院が建ち並ん
ご再興の意味 ごさいこ、つ 蓮如上人を本願寺中興の上人、御再興の祖師と仰ぎますその意味を たずねますと、誰もが『蓮如上人御一代記聞書』百八十八条の「雑行 をすてて後生をたすけたまへと一心に弥陀をたのめ」とあきらかにし らせられ候。しかれば御再興の上人にてましますものなり」のご文を一 もって「御再興の上人」と申しているわけであります。 父存如上人が別行された「正信偈」と「三帖和讃」を、一具として 刊行されたことは、仏教の伝道史において特筆すべき蓮如上人の発案 らいさん であります。存如上人までは、日常勤行は多く『礼讃』を用いておら れたのでありまして、蓮如上人が吉崎に赴かれて「正信偈」「三帖和讃」 ) 」んぎよ、つ ろ′ \ しゅびきちょうば を刊行し、それも和讃六首引を朝暮の勤行にお定めになったのであり ちゅ、つこ、つ
父存如上人は六十二歳でご往生されましたので、継職問題が起るの おうげん も無理はありません。如円尼の実子応玄は、蓮如上人より十九歳も年 下でしたが、継職となると、応玄の存在は軽視できませんでしたが、 」い ~ し - に ) み、つ ただ瑞泉寺の叔父如乘は強く蓮如上人を推して譲らず、ついに蓮如上 人の継職が実現したのであります。 上人は継職の翌年も『三帖和讃』をはじめ聖教を書写し、交附する一 ことを続けられました。御開山聖人からの名号本尊とする伝統を承け一 こんじきんでい て、十字名号を、紺地金泥に仕上げて、縁ある門徒に交附するなど、 精力的に展開され、特に近江方面は早くから門弟も多く、三河方面に も、蓮如上人は教線を拡げていかれました。 このように蓮如上人の活動によって、門徒衆も増していきましたが、 おおたにはきやく 継職八年にして「大谷破却」と称する事態に遭遇いたします。除々に