三帖和讃 - みる会図書館


検索対象: 本願寺と蓮如上人
3件見つかりました。

1. 本願寺と蓮如上人

べつぎよう このことは「正信偈」を『教行信証』から別行されたのは蓮如上人 といわれてもきましたが、すでに存如上人が別行しておられたのであ ります。蓮如上人がお書き写しになった「三帖和讃」がありますが、 これも存如上人の指示に従って書写されたもので、このように本願寺 におきまして「正信偈」や「三帖和讃」に深い関心をもたれたのは、 蓮如上人の父存如上人なのであります。 堂舎につきまして、綽如上人の時代は、大谷廟堂に御開山の影像の一 ほかに、ご本尊の阿弥陀如来像を安置されていました。このご影堂の 外に阿弥陀堂ができていたわけではございません。従来の影堂に本尊 を中心に御開山の影像を「かたわらへうっして」安置しておられた様 子がうかがえます。 第六代巧如上人時代の本願寺は、近くに天台関係の寺院が建ち並ん

2. 本願寺と蓮如上人

ご再興の意味 ごさいこ、つ 蓮如上人を本願寺中興の上人、御再興の祖師と仰ぎますその意味を たずねますと、誰もが『蓮如上人御一代記聞書』百八十八条の「雑行 をすてて後生をたすけたまへと一心に弥陀をたのめ」とあきらかにし らせられ候。しかれば御再興の上人にてましますものなり」のご文を一 もって「御再興の上人」と申しているわけであります。 父存如上人が別行された「正信偈」と「三帖和讃」を、一具として 刊行されたことは、仏教の伝道史において特筆すべき蓮如上人の発案 らいさん であります。存如上人までは、日常勤行は多く『礼讃』を用いておら れたのでありまして、蓮如上人が吉崎に赴かれて「正信偈」「三帖和讃」 ) 」んぎよ、つ ろ′ \ しゅびきちょうば を刊行し、それも和讃六首引を朝暮の勤行にお定めになったのであり ちゅ、つこ、つ

3. 本願寺と蓮如上人

父存如上人は六十二歳でご往生されましたので、継職問題が起るの おうげん も無理はありません。如円尼の実子応玄は、蓮如上人より十九歳も年 下でしたが、継職となると、応玄の存在は軽視できませんでしたが、 」い ~ し - に ) み、つ ただ瑞泉寺の叔父如乘は強く蓮如上人を推して譲らず、ついに蓮如上 人の継職が実現したのであります。 上人は継職の翌年も『三帖和讃』をはじめ聖教を書写し、交附する一 ことを続けられました。御開山聖人からの名号本尊とする伝統を承け一 こんじきんでい て、十字名号を、紺地金泥に仕上げて、縁ある門徒に交附するなど、 精力的に展開され、特に近江方面は早くから門弟も多く、三河方面に も、蓮如上人は教線を拡げていかれました。 このように蓮如上人の活動によって、門徒衆も増していきましたが、 おおたにはきやく 継職八年にして「大谷破却」と称する事態に遭遇いたします。除々に