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検索対象: 本願寺と蓮如上人
19件見つかりました。

1. 本願寺と蓮如上人

ご再興の意味 ごさいこ、つ 蓮如上人を本願寺中興の上人、御再興の祖師と仰ぎますその意味を たずねますと、誰もが『蓮如上人御一代記聞書』百八十八条の「雑行 をすてて後生をたすけたまへと一心に弥陀をたのめ」とあきらかにし らせられ候。しかれば御再興の上人にてましますものなり」のご文を一 もって「御再興の上人」と申しているわけであります。 父存如上人が別行された「正信偈」と「三帖和讃」を、一具として 刊行されたことは、仏教の伝道史において特筆すべき蓮如上人の発案 らいさん であります。存如上人までは、日常勤行は多く『礼讃』を用いておら れたのでありまして、蓮如上人が吉崎に赴かれて「正信偈」「三帖和讃」 ) 」んぎよ、つ ろ′ \ しゅびきちょうば を刊行し、それも和讃六首引を朝暮の勤行にお定めになったのであり ちゅ、つこ、つ

2. 本願寺と蓮如上人

カ避けるのに苦労しながら、その威儀を尊重していかざるをえなかっ た、本願寺苦難の時代は、もうしばらく続くのでありました。 綽如上人は四十四歳という若さでご往生されましたので、十八歳の 巧如上人が第六代を継承されたのであります。このころから、本願寺 ぞんによ は北陸方面の布教伝道に力を注ぎつつあったのです。殊に、第七代存如 上人は、北陸において教線を著しく伸展させた上人であります。 覚如上人以後、存覚、従覚、善如、綽如各上人の、いわゆる初期本 しよ、つぎよ、つー ) よー ) や 願寺のころは、聖教を書写して門末に授けられた様子は見当りません。 きようぎようー ) んしよう くでんしよう 次の巧如上人は『教行信証』や『ロ伝鈔』などを書写され、門弟にお 与えになるようになり、第七代存如上人になって、多くの聖教を書写 し、それを門末に交附するようになってまいりました。現在、存如上 ・か」わ、つ 人の花押のある「正信偈」が本願寺に伝えられております。 ぎよ、つこよ

3. 本願寺と蓮如上人

父存如上人は六十二歳でご往生されましたので、継職問題が起るの おうげん も無理はありません。如円尼の実子応玄は、蓮如上人より十九歳も年 下でしたが、継職となると、応玄の存在は軽視できませんでしたが、 」い ~ し - に ) み、つ ただ瑞泉寺の叔父如乘は強く蓮如上人を推して譲らず、ついに蓮如上 人の継職が実現したのであります。 上人は継職の翌年も『三帖和讃』をはじめ聖教を書写し、交附する一 ことを続けられました。御開山聖人からの名号本尊とする伝統を承け一 こんじきんでい て、十字名号を、紺地金泥に仕上げて、縁ある門徒に交附するなど、 精力的に展開され、特に近江方面は早くから門弟も多く、三河方面に も、蓮如上人は教線を拡げていかれました。 このように蓮如上人の活動によって、門徒衆も増していきましたが、 おおたにはきやく 継職八年にして「大谷破却」と称する事態に遭遇いたします。除々に

4. 本願寺と蓮如上人

位を、もっとしつかりしたものにしておきたいと、大谷廟堂を寺院化 し、親鸞聖人の浄土真宗を伝承すべき中心となる本拠にせねばならな いと努力されたのであります。 さんだいでんし そのために「三代伝持」を主張して、真宗教団における自らの地位 を築こうとされたのであります。 によー ) ん この三代伝持とは、法然上人、親鸞聖人、如信上人の三師を指し、 浄土真宗が伝承されているその決義継承者であることを、覚如上人自一 りんじゅ、つらいご、つ ら宣言し、合せて浄土異流の教学 ( 主に臨終来迎 ) を批判し、法然上 人を承けた親鸞聖人の特質を伝持していることを、明暸にしていかれ たのであります。 へいぜいご、つしよ、つ 浄土真宗の教義の特色の一つであります「平生業成」を多く用いら ぞんかく れるようになったのは覚如上人で、それにつづいて存覚上人でありま りゆ、つ ま、つ、ナいしよ、つしゃ

5. 本願寺と蓮如上人

ものであったのでしよう。比叡山へは、非戦の態度で、しかもそれを 軸に、上人独自の活動を展開していかれたのであります。 蓮如上人の後、実如上人も証如上人も、青蓮院で得度されたとなっ け - ′ん」にし ていまして、本願寺で独自の得度式を挙げられるのは、第十一代顕如 上人の時代になって、始めてなのです。このような本願寺の歩みをみ てまいりまして、代々の上人が、それぞれの時代を背に負いながら、 本願寺を中心に浄土真宗を伝承されたのであります。 じつによ ー ) よ、つこよ

6. 本願寺と蓮如上人

すが、やがて蓮如上人の時代になりますと、浄土真宗の法義を、この 平生業成に集約して、大きく本願寺の時代を築かれるのであります。 この平生業成は、すでに親鸞聖人が、法然上人の語録を編輯した ご、つしよ、つじゅ さいほ、つしなんしよ、つ 『西方指南抄』に「往生の業成就、臨終・平生にわたるべし」とあり ますところから、法然上人、親鸞聖人、覚如上人に伝承された教義で あることは明らかであります。 ぎよ、つぞ、つはんぞん 親鸞聖人は、伝統的な形像本尊を否定されたのではありませんが、 そんすう 特に名号本尊を尊崇されまして、帰命盡十方無碍光如来の十字名号、 乃至、南無阿弥陀仏の六字名号のうち、多く十字名号を用いられてい ます。親鸞聖人はどんな事情で、このような名号本尊を多く用いられ るようになったのでしよう。 学説に依りますと、 へんしゅう

7. 本願寺と蓮如上人

った如信上人から、ロ伝を承けて、覚如上人に伝授されてきたことを ーレーレ→て、フに ) よ、つ 主張して、師資相承の立場を明確にしておこうとされました。 こうした覚如上人の意図は、一つには法然門下の異流に対し、聖人 一流が法然上人を伝統することを示し、二つには門弟達に、覚如上人 を中心にした大谷本願寺が根本であることを顕すためであり、親鸞聖 人を宗祖、如信上人を本願寺第二代、そして覚如上人は自ら本願寺第 三代と位置づけて、法義の継承を内外に宣説したのであります。従覚 上人の子息善如上人を本願寺第四代と数えるために、覚如上人のそう した準備が整えられていたのであります。 このように継承され、第五代綽如上人の時代を迎えるのですが、本 願寺を公称したとはいえ、いまだ社会的にも力も小さかったし、未だ さんと 比叡山の本願寺末寺扱いは従来通り続いていたので、山徒の圧迫を極 しやくこよ

8. 本願寺と蓮如上人

上人を敬慕する門徒衆の参集の増加につれて、遂に一大宗教都市の様 子を呈するほどの吉崎になっていくのであります。 蓮如上人は御開山聖人以来の十字名号を交附してこられたのを、大 谷破却以後、おやめになって、六字の名号を本尊として交附していか れました。このご本尊が変ったことは、教団にとって大変な出来事で ありました。 吉崎時代に執筆された『御文章』の数が、他の時代よりも群を抜い ていますのも、この六字名号に変えられた事情と無関係ではないので す。事実『御文章』に六字のいわれを讃嘆なさっていないのをさがす のに苦労する程、どの『御文章』を頂いても、六字のいわれがのべら れています。 蓮如上人にとりましては、六字名号のご本尊と『御文章』は一対の

9. 本願寺と蓮如上人

読んでしまわないで、良くなろうとする心とよむと、はっきりしてき ます。その良心が働くと、善人になるのではなく、逆に罪悪感が深ま るのです。しかも、これを徹底していくと遂に絶対絶命の淵に沈んで しんざいふくしん くのです。そこで必死に救いを求めようとするのを、信罪福心とい う自力の極みであります。 危機の要請に応じてくれるのが宗教だと、宗教学ではその定義にな一 っているようですが、一つ間違えば、世界を破滅に導く恐れが含まれ ているのです。 命がけの求道で、真実や正義を自己の所有にした状態は、あたかも 確信犯のような心理状態になり、所有した真実や正義に酔うてしまう かご、つ のであります。そこを御開山聖人は「本願の嘉号をもっておのれが善 根とするゆえに、信を生ずることあたわず」と、自力信におちる相を

10. 本願寺と蓮如上人

とうひ 蓮如上人の「後生の一大事」を、現実逃避の意味に解釈する人もい こんじようつい ますが、それは誤解です。後生は確かに今生と対句の表現ですが、今 生は迷の境界であり、後生は悟の境界ですから、迷を延長しても悟に は到達いたしません。 後生という表現は、菩提と連ねて後生菩提とも申します。その菩提 とは悟りの境地であり、煩を断じて、真理を明らかに得られる境地一 でありますから、「極楽はたのしむと聞いて参らんと願いのぞむ人は仏一 にならず、弥陀をたのむ人は仏になると仰られ候」と申される通りで あります。 最近、本願寺が「世界文化遺産」に登録されたとききました。遺産 といわれるかぎり、祖先からの七百年に亘る遺産であるわけです。 浄土真宗の祖先からの遺産としての本願寺が、「世界文化遺産」に登