るために制定されたものではありません。それで、法律の内容はおのずから抽象的、形式的、概 念的にできております。その抽象的形式的概念的な法律を具体的な事件に当てはめるためには、 抽象的な法律が具体的な事実に妥当するすなわち当てはまるようにその内容を再構成しなければ ならないわけで、ここに法律の解釈という問題が生じてくるわけであります。このような次第で、 法律を事実に当てはめる場合には常に解釈を必要とする、ということになるのです。ナポレオン は、自分が制定した民法典が公布されて後、いくばくもなくしてそのナポレオン民法の註釈書が 世に現われるのを見て、『わが法典は喪われた』目 code est perdtl! こう嘆いたと伝えられて おります。それは、ナポレオンは自己の制定した民法典をも「て形式内容ともに世界の模範法で、 日常生活上およそ人事百般にわた 0 ての事理を規定しつくしていて、その上、その法文は字義平 明にできており、完備の極をきわめておる、それで、ナポレオン民法典さえあれば、社会に生起 する万般の事象はすべて直ちに解決される、こう信じておりましたので、そこで、その法典を実 施し運用し具体的の事件に適用する場合には全く疑間の出る余地のないものと信じていたのであ ります。したが「て、その法典については、もう註釈或いは解釈を施す必要がないと考えていた ところが、それについて註釈書が世に出たので、右のような嘆声をもらしたのであります。 しかし、フランス民法典の編纂にあたって、ナポレオンの懐ろ刀として働いて、『民法典の父』 といわれたポルタリス Jean-EtiennePorta1is という人はこういっております。『法典はどんな に完全にできているように見えても、それが出来上るや否や、待ち設けられなか。た無数の疑間 が裁判官の前に持ち出されるものである。それで、或る程度の事柄は、必ずや一般の慣習、有識
者の論議、裁判官の判断に委せられるのである。成文法の職能は、大体の観察の上から一般の原 理を定め、その原則を立てることである。その原則は、これを敷衍するにおいては豊富なものだ ろうが、しかし、成文法は、細かい各個の問題にまで立人るものではない。その適用を導いてゆ くのは、成文法の一般精神を理解している裁判官および学者の仕事である』といっているのです。 すなわち、成文法というものは細かい各個の間題にまで立ち入って詳しく規定されているもので ありませんので、その適用を導いてゆくのは、成文法の一般精神を理解している裁判官および学 者の仕事だ、こういっているのであります。そういう次第で、法律は、それがいかに完全にでき ておりましようとも、いやしくも疑って疑いえないものはないといわれております。それは、さ きほどいいましたように、法律は、事物の合理性を表現するものとして、一般的抽象的にその規 範内容を表現しているに過ぎないので、これを具体的な事実に適用することになると、具体的な 事実は千差万別、それぞれ特殊の事情の下に置かれておりますので、これを一般的抽象的に表現 されている法律で一律に規律することは当をえないということになるからであります。こういう ようなわけから、法律は、その形式上、いかに整備されておりましようとも、そうして一見もう ほとんど疑いがないように規定されておる場合でも、実際の事件との関連においては疑問を免れ ないことがしばしばある、こういうことになるのであります。 こういう次第で、単なる実在の法律すなわち実定法には不明なことが少なくないのです。いや、 法律はどんな法律でも何等の解釈をしないで明らかなものはありません。そこで、その不明なと ころは、これを明らかにしなければなりません。それで、その不明なところを明らかにするため
な場合が少なくありません。そこで、そういうような場合に、法律は立証に伴う煩雑にして困難 な問題を避ける目的で、公益その他の理由からして、一定の事実の存在或いは不存在を推定した り、また、擬制というものをいたします。 そこで、まず、推定というのは、法文に『 : : と推定す』と規定している場合がこれ 推定 であって、この推定は、特に反証がない限り反対の証拠を挙げない限り、法律が一定 と擬制 まわり の事実の成立を認める場合であります。いろいろの周囲の事情や或いはものの道理か ら推して、法律が一応事実を推定するのですから、これは主として便宜の上から出ているわけで あります。したがって、反対の事実を主張する当事者は反証を挙げてすなわち反対の証拠を挙げ てこれを否定することができます。例えば、民法の第百八十六条や第七百六十二条の第二項、そ うして第七百七十二条のようなのがこれであって、そのうち第七百六十二条第二項には、夫婦の いずれに属するか明らかでない財産は、夫婦の共有に属するものと推定しております。そこで、 夫婦のうちのどちらかが自分の財産だということを主張するならば、反証を挙げてその推定を覆 えすことができることになるわけであります。なお、これに関連して、証明と疏明との区別があ ります。証明というのは裁判所をして十分に心証を得させる場合で、例えば民法第三十二条、民 事訴訟法第五十二条がこの場合です。また、疏明というのは裁判所をして一応の心証を得させる 場合をいうのであって、例えば民事訴訟法第三十八条、第五十六条がこれであります。これは民 事訴訟法に関してよくいわれることでありますので、ここでは、詳しいことは割愛いたします。 次に、擬制というのは、公益その他の理由から、法律政策上、一定の事実を他の事実と看做す
この講では、、 もよいよ法律の解釈とうロ 、門題に人ってお話をいたします。 法は、社会生活の規範でありますので、わたくしどもの実生活の裡においてそれ 裁判と法の がよく守られることが必要で、国家は、それが守られることを保障し、法律が具 具体的実現 体的に存在しているということをわれわれに示すのであります。そうして、個人 個人の間に正義を具体的に実現するということになります。法を具体的に実現するということ は、具体的、個別的な社会事実について法律を適用し、抽象的な法律の意義を明かにすることで あります。すなわち、具体的な事実について法的価値判断をするということになるわけでありま す。これは、実際上は、裁判において最もよく行なわれるところであります。裁判においては、適 用されるべき法を大前提とし、規律される社会事実を小前提として、三段論法の形式において結 論を導いてくる、こういわれるのであります。しかし、それは単に形式論理の操作をもって足り るものではありません。実体論理または価値の論理を必要とすると、こういうことになるわけで あります。すなわち、悟性によって事物を形式的に観たり、また、形式的にだけに思惟するとい 第 + 一講法律の解釈 ( 1 )
この場合、その権利のために欺かれたといっても過言ではないであろう。これは、実に、人道の ためになされたのである。しかし、人道のために犯された不法は不法でないということになろう か。そうして、もし、目的は手段を神聖にするものとするならば、なぜにあらかじめ判決をした 後にはじめてそれをしたのであろうか。 といっているのであります。もっとも、このイエ ーリングの批評に文しては、コ Josef Ko 三 e 月という法学者が『法学の法廷に立たされたシ = 1 クスピャ』 schakespeare vor dem Forum der Jurisprudenz, Würzburg 1883 という書物の中でちがった批評をしているの ですが、しかし、ここではそれには触れないでおきましよう。 さて、まさに、 この裁判は非常し こ機知に富んだ裁判で、この劇の幕じりに来てこ ヴェニスの 商人と民法の機知に富んだ裁判の結果があって、観客もほっとするということになるのであ 第九十条 りますが、しかし、あとからよく考えてみますと、後味のあまりよろしくないも のを残しているといえましよう。何となく割れ切れないもの、すっきりしないものが感ぜられる でありましよう。それで、当今の裁判官ならば、かねが返済期日に返せないときは肉一ポンドを 切り取らせるというような約東は、わが民法でいうなら民法第九十条、すなわち善良の風俗に反 する事項を目的とするからしてそういう契約は無効だ、こう判定してユダヤ人の申立てを退ける ことができたであろうと考えるのであります。イエ 1 リングも、それで、 自分の見るところでは、シャイロックのわれわれに懐かしめた大なる悲劇的興味はまさしく彼 は事実その権利のために欺かれたもので、法律は少なくともこの事件をかように見なければなら
国ももとより成文法の国となり、法典国となったことはいうまでもありません。 そこで、近世諸国は成文法主義を採り、法典国とな。たのですが、しかし、それ 法例第ニ条 と民法第九は不文法を全く排斥したわけではありません。そうして、不文法のうちで、特に 十ニ条 重要な慣習法のようなのは、やはり法律としての効力を持続しているのでありま す。こういうことをよく記意しておいていただきたいので、すなわち、わが法例第二条には、「公 の秩序善良の風俗に反せざる慣習は法令の規定に依りて認めたるもの及び法令に規定なき事項に 関するものに限り法律と同一の効力を有す』、こう規定してあります。なお、民法第九十二条に は『法令中の公の秩序に関せざる規定に異りたる慣習ある場合に於いて法律行為の当事者が之に 依る意思を有せるものと認むべきときは其慣習に従う』、こう規定している外に、商法第一条には 『商事に関し本法に規定なきものに付ては商慣習法を適用し商慣習法なきときは民法を適用す』、 こう規定しております。 事実たる慣そこで、慣習法というものは、社会の慣行として発生した社会生活の規範が成文 習から慣習にならない、すなわち不文のまま国家によって法律規範として承認され強行され 法へ るようになったものをいうので、まだ法として認められるまでに至っていない慣 習、すなわち事実たる慣習、わたくしどもが朝おはようございますとあいさつをかわすのも、こ れは事実たる慣習です。これを慣習法と区別しなければならないのです。実は、この置習法もそ のはじまりは事実たる慣習であったのでしようが、それが、水い年月を経るにしたがって、やがて 社会から規範として認められるようになり、それがさらにその規範に従うことが権利または義務 142
として確信され強行されるにいたって、すなわち国民の法的確信 Rechtsüberzeugung を得るに いたって慣習法ということになったわけです。わたくしが先にいいました法例第二条に慣習とい うのは慣習法を意味するし、民法第九十二条に慣習というのは事実たる慣習をいうものだ、こう 一般にいわれております。したがって、慣習法は法令によって認められた場合または法令に規定 のない事項に関する場合に限って法律と同一の効力を与えられるのでありますが、これに反して、 事実たる慣習は法令に規定がある場合であって、その規定が公の秩序に関しないもの、すなわち、 任意法規であるために、もしもこれとちがった慣習があって、当事者がこの慣習によるという意 思を有っておったことを認めることができる場合には、この慣習に従わさせる、こういうわけで あります。一例を挙げますと、民法には家賃は毎月月末に支払われなければならないという第六 百十四条の規定があります。この規定は公の秩序に関しない任意法であります。家賃は何時払わ なければ公の秩序に反するというけのものでありませんので、そこで、前払または一年分とり まとめて歳末大晦日に支払う或いはお盆と歳末とに二度に取りまとめて払う、こういうような慣 習がありまして、当事者がこの慣習によるべき意思があると認められる場合には、この慣習に従 わせるのであります。このような慣習に従う意思が当事者間に認められないとき、或いはこうい うような慣習がない場合に民法第六百十四条の規定が適用される、こういうことになるわけで す。そうして「慣習法は法律であるので、当事者がこれによるべき意思があると否とにかかわら ず、また、それが存在するかしないかを知ると否とにかかわらず、裁判所はこれを適用しなけれ ばならないのでありますが、事実たる慣習は当事者がその存在を知ってそれに従おうという意思 14 う
事実の確定そこで、まず、事実の確定、または事実の認定ということは、社会的事実をあり 或いは事実のままにすなわち自然的に認識することではありません。法的に認識することで の認定 あります。すなわち、同じく暴行といっても、殺人の意思で暴行することもあり ますし、傷害、傷つける意思で暴行することもあります。或いは単に暴行するために暴行する単 純暴行の意思ですることもありますが、そういう場合に、殺人の意思でしたか、傷害の意思で暴 行したか、単純暴行かということは、自然的事実としては動かないのでありますが、それをどう いうふうに決定するか、殺人の意思をもってした暴行か、傷害の意思をもってした暴行か、そう いうふうに決定するのが法的に認定する、こういうことになるわけであります。しかも、事実は 複雑多岐でありまして、この複雑多様な社会的事実関係の中から法の要求する事実だけを選択し て確定するのが、これが法的に認識するということであります。それ故に、事実の確定は、その 事実に適用されるべき法の存在およびその法について事実と関係あることの大体の見透しを必要 といたしますので、適用されるべき法の存在と関連性とを事実の内包として前提しておりますの で、法律の解釈と無関係になされるものではありません。そうして、事実の確定は、法律の適用 の基礎でありまして、法律の適用があるかないかを決定する重要な問題であります。そこで、わ が国の法制においては、すなわち民事訴訟法においても、刑事訴訟法においても、事実の確定は 証拠に基づいてなされることを必要としているわけです。民事訴訟法第百八十五条刑事訴訟法第 三百十七条はこれを明かにしております。事実の確定は証拠に基づいてなされることが必要であ りますが、しかし、実際には、立証、証拠立ての困難な場合がありますし、また、立証の不可能 160
法律の解釈と前講にいいましたように、法律の解釈にはいろいろありますが、要するに、法 はどういう意律の解釈というものは、法律を理解するために論理的な方法によ「て事物の性 味のものか質、これは Natur der sache というドイツ語か la nature des choses 29 一 ( 一 ves というフランス語の翻訳かと思いますが、要するに事物の合理性或いは法律の条理を明らかにし、 法律の有っている合理的な意義を探求することであります。そうして、こういうような法律の解 釈を通して法が発見されることになるのです。極端ないい方をしますと、法律の解釈は、同時に、 法律の不備欠陥を補うことであります。それは、法律は、人間の作ったものでありますので、は じめから不完全なのを免かれないのです。そうして、それがたとえ完全であったにしても、社会 が変遷を重ねるので、新しい社会に対しては不備欠陥のあるのを免れないということになります し、また、社会の予見されなかった新しい事実の発生に対しては、法律も予見し得ないことがあ こ、つい、つことになり、そこで、この法律の不備欠 りますので、そこに欠陥不備あるを免れない、 陥は、結局、解釈によって完全化されなければならないということになるのであります。こうい 第 + 三講法律の解釈をめぐる諸間題
ことによって、その他の事実に対する効果をその事実について与えること、これが擬制というわ けであります。法律に『看做す』『看なす』または『みなす』と規定されてある場合がこれにあた るわけで、擬制は、今いいましたようなところから、事実に反することを事実として処理するの が本質であります。そういう意味で、これはいわば一種のうそ、すなわち法律によるうそであり ます。嘘の効用ということになりましようが、それが案外法律をして円滑に社会のいろいろのこ とを処理させることになるので、社会政策を遂行する手段、技術として法律上の擬制がしばしば 行なわれるのであります。そういう次第で、公益を維持するためやその他の法律政策の見地から この擬制は出ているので、これは有権的措置ということになります。そういうわけで、擬制は、 真実に反していても、推定された事実とちがって、当事者の反証によって、これを否定すること はできません。例えば、民法の第五百二十八条、第七百二十一条、第八百八十六条、それから刑 法第二百四十五条のようなのはこれです。民法の第七百二十一条第八百八十六条については前に いましたが、これによりますと、胎児は損害賠償請求権と相続についてはすでに生まれたもの と看做されるのであります。 そこで、この事実の確定ができますと、次に、法律を適用することになりますが、 法律の適用 と法律の解法律を適用するためには、法律を知るだけでは十分ではありません。さらに法律 を理解することが必要です。法律を理解するということは、法律の意味を知るこ と、すなわち法律を解釈して、その合理的な意味を明らかにすることです。それは、確定された 事実は法律に当てはめられなければなりませんが、法律はそういうような特定の事実に適用され