は一般的には第一世界戦争の後において特に考えられることにな「たので、スイス民法が制定を 見た当時すなわち一九〇七年においては、これを規定に上せるべく機がまだ十分に熟していなか ったといえましよう。かような次第で、『私権は公共の福祉に遵ふ』というような規定は、スイ ス民法に規定せられるべくして、しかし、規定に上ばせられなか「たのであろうと考えるのであ ります。 しかし、個人本位から社会本位、権利本位から義務本位にと法律思想が変ってきた現在におい ては、すべての権利が公共の福祉に遵って考えられなければならないことは、もとより当然のこ とであります。それは、ただひとり私権にのみ止まりましようか。いや、それは、私権において すらしかり、ということになるので、いわんや公権においてをや、ともいうことになるのであり ます。わが民法改正の立案者は、民法新第一条の規定をも「てフランス民法やスイス民法の前Ⅱ 編的なものとは考えていなかったのだろうとおもいますので、日本国憲法第十二条の規定たる 『 ( 前略 ) 。又、国民は、これをーー憲法が国民に保障する自由および権利を指していっているので ありますーー・常に公共の福祉のために利用する責任を負ふ』というのを承けて、民法において 『私権は公共の福祉に遵ふ』と規定したのでありましよう。それで、ここに『私権云云』とあるの 。しもましたように、公権はもとよりのこととして、私権といえども、また、公共の福 祉に連うべきものであるという意味を規定したものと解すべきで、民法第一条第一項の規定は、 もとよりその立言においては私権とあるのでありますが、それにもかかわらず、その本来の意味 はひろく権利一般について規定しているものと解していい のであると考えます。いや、こういう
定に対してはやはり重い意味がありますので、これはどうしても削除するわけにい、 いうわけで第一条の一番、つしろに残存させた、ということになるのではないかと考えます。 私権は公共そこで、終戦後の改正で、民法の劈頭を飾「た規定は、これは『私権は公共の福 の福祉に遵祉に遵ふ』という新第一条第一項の規定であります。この規定が意味するところ は、これはワイマ 1 ル憲法の『所有権は義務を伴う』という規定の精神を拡大し て規定したもので、種子はワイマ 1 ル憲法がこの規定の種子にな 0 ています。ワイマ 1 ル憲法流 に規定すると『私権は義務を伴う』ということになるわけであります。そうして、よく考えてみ ると、義務を伴うのは敢えて所有権だけではありません。すべての権利が義務を伴うことになる わけです。そこで、私権も個人の勝手気ままに行使されることは許されないので、公共の福祉に 役立つように行使する義務を各人は負うということ、要するに、この規定は、従来の個入本位の 立場を捨てて、社会本位の思想に出ているということになりましよう。 さて、この『私権は公共の福祉に遵ふ』というわが民法の規定のようなのは、つづいてお話を する信義則に関する規定や権利濫用禁止の規定とはちが「て、フランス民法やスイス民法の前加 編の規定にも見えておりません。それは、フランス民法が制定を見た当時、すなわち十九世紀の 初葉におきましては、その法律思想を支配していたものは個人主義自由主義であ「て、個人本位 権利本位のものでありました。それで、社会本位義務本位の法律思想に基づくところの『私権は 公共の福祉に遵ふ』というような規定が、フランス民法の前加編において姿を見せなか 0 たこと はもとより自然の数であ「たと申さねばなりますまい。そうして、法の社会化というような思想
in das 冒ュ 4 オ cheDen e ド 19 まという法学の人門書をわたくしは手にして、その中にこの概括 的条項を一つの項目として説いているのを見たのであります。それを読んでみますと、それは、 やはり、概括的条項に重要性を認めたからなのです。ドイツの法学の教科書としても珍らしいこ とでありましようが、わたくしは、それを見てわが意を得たり、としたことでした。そうして、 シ 最近に、わたくしは、さらに概括的条項について書かれた一論文に接しました。それはエ・ = ミット Eberhard s 享 m 一 dt 教授に捧げられた祝賀論文集 ( 一九六一年 ) の中にウイルヘルム・ク ラス Wi1heIm C1ass の『刑法における概括的条項』 Generalklauseln in strafrecht とい、つのが これであります。ドイツの学界では、今、概括的条項ということを問題としているのであること がわかるのであります。 さて、法律は、その規定の中に、しばしば、『公の秩序』『善良の風俗』という 概括的条項ま たは一般的条ことを規定しています。また、最近においては、『公共の福祉』ということを 項と超法規性規定することにな「たことはまえにお話したとおもいます。そこで、まず『公 の秩序』『善良の風俗』ということを規定している代表的な規定は民法の第九十条であります。 そこには、『公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とす』る、こう規 定してあります。そうして、『公共の福祉』というのについては、憲法に多くの規定があります。 特にその第十二条および第十三条にこの言葉が出ておりますが、すでにいった民法第一条の第一 項『私権は公共の福祉に遵ふ』ということをお話したのでおわかりと思います。 それならば、一体、どういう一 標準、どういう基準に従って公序良俗或いは公共の福祉というこ
あります。われわれは木木の稍の木の葉がすべて散ってしまったのを見て、はじめて、ああ秋が きたとして、天下に秋の来たのを知るのではありません。桐のひと葉のすでに落ちて行くのを見 てわたくしどもは天下に秋が来たのを知るのです。それと同じように、民法においてかように法 律的な考え方が個入本位から社会本位に変ったということは、一葉落ちて天下の秋を知るわけ で、全法律の思想が同じように個人本位から社会本位に変ったという現象を示していると考えて よいのではなかろうかと考えるのであります。従来、民法のような私法の領域では、平等対等な 個人間の関係を規定したものでありまして、国家の権力を排して、所有権の不可侵と契約の自山 と過失責任の原則とから成る私的自治の原則が支配していたのでありますが、公共の福祉、信義 誠実の原則によってこういうものが統制され、憲法は所有権は正当の補償の下に公共の福祉のた めに使用できるように規定し ( 憲法第二十九条第三項 ) 、そうして、民法第一条が私権は公共の福祉 のために行使することを規定したということは、元来私法として国家権力を排除した私法に見ら れなかったところで、法の社会化をあらわに示しているということになるわけでありましよう。 この法の社会化という現象は世界を通じてのもので、こういう趨向はこれからも続くものと考 えられます。それで、わたくしどもは、法律を解釈し運用するにあたって、このことを充分に理 解しておかなければならないと考えるのであります。かような次第で、法の社会化ということを はじめにお話したわけであります。
て運用すべきものだ、ということになるのであります。例えば、公序良俗の原則、そうして、最 近においては、公共の福祉の原理によって事を解決する場合のようなのがこれであるといえるの であります。 なお、まえにい、 もましたように法律学は自然法と絶縁したように見えた時期もか 自然法の復 ってあったのでありますが、しかし、自然法論には疑問とされるものがないでも ないでしようが、しかし、なお多分に発展性があり、人をひきつけるものがある ので、最近また人間性ということと関連して自然法の思想が大いに論ぜられるに至ったのであり ます。自然法の復興が見られることを附言して自然法と実定法の話を終ることにいたしましょ
定を除いて、新たにその民法第一条だけについて見ても、『公共の福祉』とか『信義誠実』とか或 いはさらに『権利の濫用』というような概括的条項に属する概念が採り入れられるに至ったこと はすでにお話した通りであります。民法のみならず憲法においても 、いたるところに『公共の福 祉』というような言葉が出てきているのであります。そうして、さらに、民法についていうと、 『信義誠実』という概括的条項の適用された数において、ドイツのライヒ労働裁判所はレコ 1 ドを つくったほど沢山に信義誠実という用語を用いて裁判をした、と、こういわれているのでありま す。わが国においても、すでに大審院時代において示された判例には、しばしば、信義誠実の原 則が採用されていたわけであります。この信義誠実の原則は、すでにロ 1 マ法において認められ ていたところで、フランス民法でも、ドイツ民法でも、そうしてスイス民法 ( 一九〇七年 ) でも明 かに規定されていたのであります。そこで、スイス民法の規定が信義則に関する規定として最も 包括的な規定で、これについての最も模範的なものとされるので、わが民法第一条第二項は、こ れに倣ったということは前にお話した通りであります。スイス民法は、社会生活の取引における 全体の関係に通ずるものとしてこの原則を掲げたのでありますし、わが国においても、かって大 審院は、債権債務の関係を支配するものは信義誠実の原則だ、と揚言したのでありますが、しか し、信義誠実の原則は、単に債権債務の原則を規律するだけでなく、民法全体を通じての原則と して、今日では、重要な意義を有っことになってきて、この原則は、全法律を通じての原則たる ・ヘき意義を有っことになったのであります。学者によりましては、すなわち、わたくしの師匠牧 野博士は、法律は信義則にはじまり信義則に終る、こういわれているのであります。そういう意
て言葉の科学的意義における社会主義、すなわち社会主義といいますと、そこにいろいろな色彩 特に政治的な色彩をつけて解されるのですが、そういう政治的意味のつかない、純粋に学間的な 意義での社会主義の意味において社会主義といってもいいでありましよう の思想が支配的と なるに及んで十九世紀の市民法的な私的自治が修正を余儀なくされ、資本主義が漸くその欠陥を あらわにするとともに貧富の懸隔が甚しくなり、社会にはみずからの生存をささえてゆけない者 すら多くなって来た。そこで、資本主義の社会で信ぜられた『見えざる手』 invisible hand また は『或る知られざる原理』 the unknown principle が利害関係の調和 harmony of interests を 行なってきたという考は荒唐無稽な学説で、アダム・スミス AdamSm 一 ( h が天上の世界において こそ妥当する予定調和 e ・ stab 三 zedharm 目の学説を無条件に地上の世界に引き降ろしてきた ところに誤謬があったと気づかれることになりました。そうして、『見えざる手のカ』がすでにな いということになってみますと、これに代って国民の利害関係の調和をはかりうるものは国家よ り外にはないということになり、二十世紀の国家は社会政策を行な「て経済上の弱者社会的劣者 を保護しその生存を保障することが国家の目的とされることになり、私的自治の制度に国家は制 限を加えることになったのであります。これとともに、二十世紀の文化国家は、国民の生存権の 主張に対して、ただに経済的社会的弱者を救いこれを保護するだけでなく、さらに積極的に文化 の恵沢をあまねからしめて国民の福祉を増進する責務を負うものとなった。したがって、従来個 人間の権利義務を規定した私法は公共の福祉、信義則によって統制が行われることになり、所有 権の絶対および契約自由の原則に対しても制限が加えられるに至ったのであります。要するに、
目次 第一講法の社会化 ( 1 ) 法律は生長し、たえず発展する ( 一 l) 十九世紀の法律 思想から二十世紀のそれへの変遷 ( 一三 ) フランス民法 の特色 ( 一一 (l) 民法の三つの基本原則 ( 一四 ) ドイツ民法 の特色 ( 一九 ) ワイマ 1 ル憲法と社会化諸規定 ( 二 I) 人 たるに値いする生活の保障 ( 一 = l) 所有権は義務を伴う ( 一一三 ) 労働の社会的意義 ( 一一五 ) 第ニ講法の社会化 ( 2 ) 全法律と法の社会化 ( 毛 ) 民法思想の変遷 ( 一び私権 の享有は出生にはじまる ( 一一九 ) 私権は公共の福祉に遵 ふ ( 三六 ) 信義誠実の原則 ( 一穴 ) 権利濫用の禁止 ( 三九 ) ナポレオンの五法典 ( 四 l) 全法律における民法の地位 ( 四一 D 第三講法律の種類 ( 1 ) 法律を分類する実益 ( 四四 ) 公法と私法 ( 四五 ) 公法と私 四四
ように考えると、権利というものは社会関係に由来するものだ、こういうふうに二十世紀におい ては十九世紀で考えられたところが考えなおされることになったのであります。そこに、『私権 は公共の福祉に遵ふ』という考えが生まれて来たわけで、法律というものは、元来、人と人との 関係を規律するもので、そこに信義戒実の原則が生まれて来た、ということになるわけでありま す。このように考えると、十九世紀においては、法は個入のためのものと考えられたのですえ 二十世紀においては、法は社会的なものだ、と考えられることになったのです。こういう考え方 ということになるのであります。しか からいたしますと、法律は決して個人的のものではない、 し、個人を離れて社会は存在いたしません。したがって、個人の発展が社会の進歩と発展とに必 要な限りにおいて、社会はやはり個人を保護しなければならないし、法律は個人の自由を保障し なければならないということになるわけで、このように考えてくると、法律は決して個人的なも ということになるのであります。そ のではないが、また、法律は純粋に社会的のものでもない、 こで、社会は各個入を保護し、その自由を担保しなければならない義務を負うのですが、しかし、 同時に、また、各個人の権利は常に社会の利益によって制約を受けなければならない、 こ、つい、フ ことになるわけで、したがって、個人の絶対的な権利というものはありません。すなわち、二に 世紀の個人の権利、しこゞ オカって人権というものも社会性を帯びるに至ったのは、こういうところ に原因するということになりましよう。要するに、法律は、十九世紀においては、国家の権力か ら個人を守るという消極的な目的のものでしたが、二十世紀に人りますと、社会間題が発生し、 個人の自由とか平等だけでは法本来の使命を達成することができなくなりました。個人の権利を 127
の父親の利益のために証拠を潭滅したというような場合には、やはり、刑が免除される ( 第百五 条 ) 、こういうことにな 0 ております。これは孔子の人間性ということを認めたものだ、こう、 、つことになるわけで、」 法も決して人間性を無視してその正義を権力的に強行しようとはいたさ ないのです。それで、個人の合理観からして、個人の勝手な合理観からして法律を解釈すること になりますと、そうして何処までもそれを権威的権力的に押し通してあくまでも貫ぬこうという ことになると、実際にはかえって最大の正義は最大の不正義ということになるので、そこにやは り『法の極は不法なり』こういうことがいわれるという次第であります。 法律の解釈はこういうわけで、法律の解釈は時代によって進化しなければならないというこ 時代とともにとになるわけであります。個人主義自由主義を信条とする時代と団体本位を基 進化する 本とする時代とによ 0 て、同じ規定がその運用を異にするのは当然でなければ ならないわけでありましよう。特に概括的条項というものが活躍し、それによ「て法律の正文は 時代の要請に従い、その意義に変遷を見ることになるのです。例えば、概括的条項としての公共 の福祉、公序良俗或いは信義誠実等によ「て、法律の正文は、時代の要求に応じ、その意義が変 遷することになるのです。こういう立場で法律を解釈するのが、『進化的解釈』というものであ ります。そうして、その進化的解釈において特に重要な機能を営むのが類推解釈です。これにつ いてはまえに申しましたが、それは法律の文理によ「て法律の精神を捉え、その精神によ「て文 理の適用を発展させようとするもので、ここに法律の精神を捉えると、 いますのは、法律の規定 における事実的要素からして価値的要素を醇化してくみ取り出すことをいうのであります。それ