裁判所 - みる会図書館


検索対象: 法律的ものの考え方
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1. 法律的ものの考え方

く理解しておいていただきたいと思います。特に二十世紀に入りましてから、諸国の立法がその 面目を一新しつつあるのは、学説が与って力があるのであります。 さらに、判例でありますが、裁判所が裁判をするにあたって下した判決例、 判例は法源とし ていかなる価値これが判例であります。先にサ 1 ・ヘンリ 1 ・メインの言葉を引用して、法 を有っているか律は原則から生じたものではなくして各事件の判例を積み重ねて原則を作る に至ったものだということをいいました。これは、むかしは法律の規定が現在のように緻密にで きていなかったので、裁判官は同時に立法官であったわけです。その裁判官が下した判決が、後 におこった他の同じような或いは類似の事件に関して先例として適用され、そうして、それにつ いて前と同じような判決が下されて、それが積もり積もって、積み重ねられて裁判例として原則 化されて判例法が成立し、その判例法がやがて法律となる、こういうことをいったものでありま す 9 それは、一国の裁判所で同じような事件に関して相異った判決をするときは、国家の意思表 示が互に矛盾することになるからです。そこで、むかしは判例は法律の一大淵源であったので、 例えば、イギリスでは、イギリス法のうちで重要視されている契約法、不法行為法というような ものも、成文で規定されて民法典となっているのではありません。不文法の国であますので裁 判所の判決例が積もり積もって判例法というものになっているのであります。そういうわけで、 イギリスでは、成文法であるスタテュ 1 トに対してコンモン・ローといわれるものは、いわゆる Judge ・ made-lav で、判事制定法といいますか、裁判官が判決を下すところに従っておのずか ら成立するものとされております。コンモン・ロ 1 は、それ自体として記憶を超越する過去より

2. 法律的ものの考え方

れを有効なものと認めた以上は、判決を執行するに当って、後から卑劣な詭弁をもって再び証書 を無意味なものとなすべきでない。証書を有効なものと宜告すると無効なものと宜告するとは一 に裁判官の選択によるところである。裁判官はその証書を有効と宜告したし、そうしてシ = ーク スピヤは法律上この判決以外には何もできないもののように書いている。ヴ = ニスの入は誰れで もこの証書の有効なものであることを疑うものはない。アントニオの友人たち、アントニオ自 身、総督、裁判所等悉く皆このユダヤ人のいうところの正当であることを一致して認めた。それ で、シャイロックは一般に認められた彼の権利を確信して裁判所に助力を求めて訴を提起した。 そうして、シャイロックが『賢明なダニエル』と呼んだ裁判官は復讐に渇えた債権者をして予め その権利を抛棄させることに努力したが、しかしついにそれが無効に終るや、証書を無意味なも の、実際上無効なものにしてしま。た。今や、勝利者はわが事成れりと確信して与えられた判決 を実行しようとしたときに、彼の権利を認めた裁判官は口実を設け、すなわち卑劣にして無効な 性質の詭計によってついにその権利を無効ならしめたのである。したが 0 て、このような詭計は これをまじめに反駁する価値がないものである。血を含まない肉があるか。シャイロックにアン トニオの身体から一ポンドの肉を切り取らせる権利のあることを認めた裁判官はまた血を取るこ とをも認めたものである。血のない肉は存在しない。そうして、一ポンドを切り取る権利を有っ 者はみずから欲するならば一ポンドより少ない肉をも切り取ることもできる。ところが、ユダヤ 人はその両方ともを禁ぜられ、肉を切っても血を流すことはできず、正確に一ポンドを切り取る ユダヤ人は、 ことができるだけで、これより多くも、また、少なくも切り取ることができない。

3. 法律的ものの考え方

裁判し且っ処罰することを妨げるものでない』、こう規定されておりますのは、要するに、条理 による処罰が認められた、こうい 0 て差支えないのではなかろうか、こう考えるのであります。 そうして、これがニールンベルヒおよび東京裁判の基礎とな 0 た、こういうことであります。 さて、法律がいかに発達整備を遂げても、法律が現在、特に将来の生活上のあらゆる事項にわ た「てそれを網羅して規定して余すところなしということはとうてい不可能であるといわなけれ ばなりません。しかも、裁判所は、さきほどいいましたように、法律に規定がないからというこ とをもって裁判を拒むことができない、 こういうことになりますと、この場合一種の規範である 条理の扶けによ 0 て裁判をするのは当然で、裁判の実践上このことは常に行なわれているところ であります。わが国の判決を見ますと、法律の適用を示すにあた 0 て、特に刑法第何条或いは民法 第何条というような法律の条文を具体的に示さないで、単に『当然の筋合』または『当然の法則』 なのでこういうことになるのだ、こうい「ているような場合が少なくありません。これも条理を 援用しているということになるわけでありましよう。なお、条理はこれを『法の一般原則』とい うことがあります。これは、まえに引用した国際人権規約草案の第十条第二項にも見えているこ とはすでにお気づきのことと思いますが、なお、国際司法裁判所規程の第三十八条にこういう言 葉が見えております。外に、条理を称して『行平及び善』といわれている場合もあるのです。こ れも、また、国際司法裁判所規程の第三十八条にえているところでありますが、古くはケルス ス Ce1sus が『法は善と衡平との術である』 lus est ars boni etaequi. と規定したといわれ、 = スティニアヌスはその法典にこれを載せたのであります。

4. 法律的ものの考え方

五条 ) 、『爆発物に類する破壊力を有する物』 ( 第百八十三条第二項 ) 、『凶器その他の危険な器具』 ( 第 三百一一十一条、第三百二十五条、第三百三十八条第二項 ) 等、等がこれであります。そうして、ドイツ ( 西ドイツ ) における最近の刑法改正諸草案例えば一九五六年案、一九六〇年案においても事は同 じなのであります。 そうして、わが裁判所は、すでに大審院の時代から、その判例において、しばしは『社会の通 念』『社会観念』という言葉或いはこれに類する言葉を用いて判決を下しているのをみるのです が、これも、また、一種の概括的条項を用いたということになるのであります。 このような次第で、最近の立法は、諸国を通じて、事を概括的条項に譲る場合が 概括的条項 ますます多くなっているのであります。殊に諸国を通じて最近四十年ないし六十 の蔓延性 年の間に概括的条項は驚くべき進出をしているのですが、概括的条項がこのよう に驚くべき進出を見るに至「た道程においては、立法だけでなく、法律学も、それから学者も、 裁判も与「て力があるといわれております。フランスの民事の裁判官は、はやくからすでに概括 的条項ということを知「ていたとされるのですが、ドイツにおいては、一九〇〇年にドイツ民法 とともに生まれ出た概括的条項は、ただ民法の領域だけに止まらないで、いろいろの法律の領域 に、出したのであります。しかし、そのうちで特にはなばなしい進出を遂げたのは、ドイツにお いては、労働法の分野においてであ「たといわれております。この労働法というものは、元来、 市民法である民法が識らず識らずのうちに社会法に移。てゆく領域だ、こういわれているのです が、その労働に関する領域において裁判上概括的条項が非常にしばしば適用を見たということ

5. 法律的ものの考え方

て『具体的衡平の原則』ということがいわれることになったのです。それは、要するに、法の進 化が、従来の形式的な法律的平等ということを排斥して、社会的に経済的に本当の意味の平等化 を確立して、社会のいろいろの紛争を解決し、本当の意味の平和、真の平和を確立しよう、こう いう二十世紀の理想が法律の領域に反映した結果取り人れられた原則がすなわちこの『具体的衡 平の原則』ということであります。いかにわれわれの法典が形式的に団体主義或いは社会連帯の 思想に立脚して編纂され、そこに自由平等が規定され、そうして、或いは概括的条項というよう なものが取り入れられて、法典そのものは完備された体裁をなすとしても、実際の社会に法律に おける具体的衡平の原則が行なわれないで、具体的衡平ということがもたらされないということ であるならば、それは、結局、法典に規定されたところは空文におわり、空念仏とならざるを得 ないことでありましよう。 この自【体的衡平の原則 Prinzip der konkreten Bi11igkeit は、これを、また、 具体的衡平 います。それは、裁判所が具体的な一つ一つの事件 の原則と損『裁判上の個別主義』ともい 害贈償 を円固リリにある範囲において裁判所が自由な裁量によって判断をすることをい ノーノーロ〃ロ〃 うのです。すなわち、裁判所は、一つ一つの具体的事ィー 牛こついて、ある範囲内で自山な裁量によ って千編一律でなく個個別別にそれぞれに具体的衡平が完うされるように裁判をすることをいう ので、そのためには、どうしても裁判が個別化されなければならない、こういうのであります。 そこで、これを、また、『裁判の個別化』、ともいっております。そうして、この裁判の個別化と 7 いうことは、具体的衡平とそうして特に具体的妥当性ということを刑事上に実現するために、特

6. 法律的ものの考え方

することもできるようになっているので、それを人れると、さらに広い範囲において、裁判所は、 具体的な事件に対して適当に刑を選択し、そうして、その刑期を量定することができるのでありい ます。なお、一例を挙げると、窃盗罪に関する刑法第二百三十五条の規定です。ここには、『他人 の財物を窃取したる者は、窃盜の罪と為し、十年以下の懲役に処す』、こう規定されております。 窃盗の動機そのものも実に千差万別でありましよう。そこで、窃盗については、裁判所は上は儲 役十年から下は懲役一月までの間で具体的事件に対して適当にその刑期を量定することになって いるのです。こういうような場合に、具体的衡平の原則は大いに活躍をするわけで、そこで、ま た、これを裁判上の個別主義ともいうわけです。前にい「たように、刑事上、裁判所に自由裁量 を認める範囲の広いことは、これは日本刑法が二十世紀のはじまりにおいて、諸国の立法例に対 して模範を示したところとして誇るに足りるものであります。諸国の最近の立法例はだんだんと わが刑法に倣って日本刑法の例を追って来ているというのが実情であります。このような次第 リヒ、また、刑個化とい、つことが で、特に刑事上では、裁判上の個別主義または裁判の個男イ 大いに重要視されているのであります。 具体的衡平なお、法律の適用を離れて考えてみると、調停制度というものがありますが、こ の原則と調の調停は、専ら具体的衡平の原則によって行なわれなければならないものだ、と 停制度 いうことになるのであります。 この調停制度は、大正十一年の借地借家調停法にはじまって、その後、大正十三年の小作調停 法、大正十五年の商事調停法、同じ年の労働争議調停法というものに拡大をされ、さらに、

7. 法律的ものの考え方

のです。 こういうようなわけで、具体的衡平の原則は、民事上、特に損害賠償についてそ 具体的衡平 の原則と刑の適用を見ることが多いのですが、しかし、民法だけでなく、刑法についてい「 法 てみても、刑を量定する場合の裁判所の裁量権の大きいという点において、具体 的衡平の原則はその適用の重要なもので、こういう場合に大いに活躍をするということになるわ けです。特にわが国の刑法においては、裁判所は有罪の被告入に対してどう刑を量定するかとい うことについて、裁判所は非常に大きな裁量権を与えられているのです。これは格別に日本の刑 法において著しい特色ということができましよう。その量刑に関する裁量権の大きい一例とし て、わが刑法の第百九十九条殺人罪の規定を挙げることができます。そこには『人を殺したる者 は死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処す』、と規定してあります。ここに『三年以上』と あるのは、殺人といっても、その殺人をするに至「た動機は実に千差万別です。したが「て、そ の情状もいろいろで、その情状の重い場合にはもとより死刑ですが、情状が軽く殺人の動機のあ われむべき場合においては、これを懲役三年にまで刑を下すことができることになっております。 なぜ三年にまで刑を下したかというと、それは、立法者は『嬰児殺』の場合を予想して、嬰児を 殺す、生まれたての赤ん坊を殺す場合を予想して、これに適用するためとしてこういうような立 法がなされたのだ、こういうふうにきいております。この第百九十九条の規定により、殺人罪は 上は死刑或いは無期懲役から下は懲役三年という広い範囲において、裁判官は刑を量定すること 9 になるわけです。そうして、実際には、三年以下の懲役の場合には情状に因り執行猶予の言渡を

8. 法律的ものの考え方

われてもこれはできないのであります。公序良俗に反するか否かというような形式的概念的な標 ー力ない。具体的にその公序良俗に反するか否か争われている事件をもってき 準を示すわけによ、ゝ てもらって、そうして社会通念すなわち価値判断にしたがって、この程度なら公序良俗に反する 行為といえるとかいえないとか、こういうふうにきめるより仕方がないということになるわけで あります。そうして、その価値判断は、実際においては、法律では裁判所が自由な裁量によって これを判定することになっております。例えば、公序良俗ということを考えるにつきまして、シ 工 1 クスビヤの『ヴェニスの商人』の劇を例に引くことにしましよう。ヴェニスの商人について は、まえにも例に引いたのであります。この劇に出てくるユダヤ入シャイロックというかね貸し が青年紳商アントニオに金銭を用立てたのですが、もしその金を一定の返済期日までにシャイロ ックに返済できない場合は、シャイロックはアントニオの身体から胸の肉一ポンドを切り取るこ とができるという約東の下に金の貸し借りが行なわれたのであります。アントニオは竹馬の友か らその結婚費用の調達を頼まれ、折あしく自分がそのとき調達することができなかったので、日 頃心よく思っていなかったシャイロックからやむを得ず金銭をかりることになったのです。この 話は皆さんがすでによく御承知のこととおもいますので、わたくしがここにくどくどとお話する 必要はないとおもいます。そこで、シャイロックは日頃の意趣返しのためにアントニオの胸の肉 一ポンドを切り取らせるという約東を果たすべくヴェニスの裁判所に訴えて、その法廷で強引に その約東を果たさしめるべく主張して実行を裁判所に迫ったということになるわけですが、しか し、裁判官の機智によって、そういう中立ては退けられたということになるのであります。すな

9. 法律的ものの考え方

ます。要するに、この調停は法律だけでなくして法律に加えるに物の道理或いは常識というよう なものを加えて、そうして、その上に、さらに、当事者が譲り合うこと、こういうようなことに よって、実情に即した解決すなわち具体的妥当な解決を図るのが、これが調停法の目的で、そこ にただ法律だけで事件を解決しようとする民事裁判というようなものがとかく形式的妥当という ところに止まるのを超えて、具体的に妥当に事件を解決し得るところに調停制度の値うちがある ということになります。そうして、もしも調停が成立しないで、裁判所が調停に代るべき裁判、 すなわちこれを強制調停といいますが、この強制調停をなすべき場合については、かって、金銭 債務臨時調停法の第七条に規定がありました。それには『調停委員会に於て調停成らざる場合に 裁判所相当と認むるときは職権を以て調停委員の意見を聴き当事者双方の利益を衡平に考慮し共 の資力、業務の性質、既に債務者の支払ひたる利息手数料内入金等の額共の他一切の事情を斟酌 して調停に代へ利息、期限共の他債務関係の変更を命ずる裁判を為すことを得、此の裁判に於て は債務の履行共の他財産上の給付を命ずることを得』と規定されていましたが、この規定は、そ の後、戦時民事特別法によって広く調停一般に準用されていたのであります。ところが、この金 銭債務臨時調停法も戦時民事調停法も終戦後廃止されたので、そこで、金銭債務臨時調停法の第 七条の精神は、その後、民事調停法第十七条に生かされております。それによりますと、『裁判 所は、調停委員会の調停が成立する見込がない場合において相当であると認めるときは、調停委 員の意見を聞き、当事者双方のために衡平に考慮し、一切の事情を見て、職権で、当事者双方の 申立の趣旨に反しない限度で、事件の解決のために必要な決定をすることができる。この決定に ー 2 3

10. 法律的ものの考え方

ない。自ら法理を作るのは、固より詩入の自由である。そうして、自分はシェ 1 クスビヤがこの 劇を作ったのを、いや、むしろ古い物語をそのまま維持したことを嘆くものでない。 ( シャイロ ックのこの話は、すでにロ 1 マの時代にロ 1 マに存在していたことは確かであるといってい それは、十二表法の編纂者は、債務者の身体を截断するのに関し in partes secare 債権者はそ の肉片の大きさについては自由であるべきことを明言することを必要としない Si plus minusve 1 リングはいっています ) 。 sec uerint, sine fratlde setO! としていることから知 . られるとイエ しかし、法律家にして、これに批評を加えようとするならば、この証書は善良の風俗に反する内 容を含んでいるので、証書自体は無効であるとせねばならない。それで、裁判官ははじめからこ の理由で証書を拒絶すべきであった。それなのに、裁判官はこうしないで、賢明なダニエルは証 書を有効なものたらしめた後、すでにその者には生きた肉体から一ポンドの肉を切り取る権利の あることを判示したのにかかわらず、当然これに附随している出血を禁じたのは卑劣な口実であ り、悲しむべき詭弁で、これは、ちょうど裁判官が地役権者にその権利の行使を認めるにかかわ らず、地役権を設定する際に条件としなかったという理由で足跡をつけることを禁じるようなも のである。 といっているのであります。要するに、一定の事項が善良の風俗に反するかどうか、すな わち概括的条項を判断するには、実際には、こういうふうにして、裁判所が自由な裁量によって 判定をするということになるのであります。