考え - みる会図書館


検索対象: 野わけ
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1. 野わけ

試験管に浮いている赤い血を見ている時、阿久津が肩ごしに「今夜、逢おう」と囁いた。素 直にうなずいたのは、その血の赤さに誘われたような気もする。 なんでもいい。迪子にはいま、行為とは別のそれらしい理由があれば、それで納得できた。 「どうだった、この前の見合は」 阿久津は迪子の変節を見透かしたように、肩に優しく手をかけながらきいてきた。その薄く ひアにじ 號の滲んだ横顔には、再び迪子を意のままにした自信があふれている。 しやく 迪子はその自信あり気な顔が少し癪だと思いながら素直に答える。 「やめたわ」 「なんた、慌てて帰ったくせに」 「あんなタイプは嫌いなの」 阿久津は床でうつ伏せになり、煙草に火をつけた。 「どんなタイプなら気にいるのた」 「もう断わったから、 しいでしよう」 け わ愛しあったうえ、断わったときいて、阿久津は安心したらしい。煙草をくわえている眼がか 野すかに笑っている。その眼を見るうち、迪子は阿久津をもう少し困らせてやりたくなった。こ のまま素直に仲直りしたのでは、阿久津を安心させるばかりである。 「あたしの好きなタイプ、教えましようか」

2. 野わけ

「お姉ちゃんは真剣に愛しすぎるからいけないのよ 「なあに」迪子は振り返った。 「だってそうじゃない、真剣に愛さなければ、がつくりすることもないでしよう」 「なにも知らずに生意気なこというもんじゃないわ。あたしはあなた達がやっているような、 しい加減な恋をしているんじゃないの」 普段は一緒に恋を語り、のろけ話もきいてくれる妹が、いまはかえってわすらわしい 「たけどそんな奥さんのいるような人に一生懸命になったって、うまくいきっこないわ」 「亮ちゃん、いっとくけど愛というものは、うまくゆきそうたからやるとか、うまくい力な いからやめるというもんじゃないわ、うまくいってもいかなくても、とにかくすすまざるをえ ないのよ 「それが真面目すぎるんたなあ」 亮子は救いがたい、 といった表情で迪子を見た。 「秋野ちゃんとだって、一生懸命になりすぎるから逃げられたのよ。 し気楽にやってもいいと思うんだがなあ」 「あたしはそういうのは出来ないの、したいとも思わないし」 迪子は立ちあがるとスリップを脱ぎ、。 ( ジャマを着た。亮子はネグリジ = 党たが、迪子は子 供の時から。ハジャマである。 「ねえ、下からウイスキーとグラスを持ってきて」 いくら恋だってもう少

3. 野わけ

326 渡辺淳一 幌市に生まれる。札幌医科大学を卒業。医学博士。元札幌医大 昭和八年 ( 一九三一一 I) ー。札 整形外科講師。昭和四一年、「死化粧」で第一一一回新潮社同人雑誌賞を受賞、四五年、「光と 影。で第六三回直木賞を受賞した。現在、科学的な人間認識を核に、華麗な現代のロマンを 描く作家として、文壇第一線で活躍している。 〔主要作品〕「花埋み、「無影燈」「雪舞」「氷紋、「リラ冷えの街」「野わけ」「自殺のすすめ」 「白い宴」「北都物語」「酔いどれ天使、「恐怖はゆるやかに」「母胎流転」「冬の花火、「阿寒 に果つ」「廃礦にて」「わたしの女神たち」「公園通りの午後」「遠き落日」「雪の北国から」 「華麗なる年輪」「失われた椅子」「四月の風見鶏」「風の岬」他 * 印角川文庫所収

4. 野わけ

かく、今夜は阿久津と初めから約束をしてある。 学会からの帰り、家へは帰らす二人でゆっくり泊まる。それは迪子がせがむというより、阿 久津が自分からいい出したことだった。男が妻にどのようないい訳をしてきているか、それは 迪子の知ったことではない。迪子はただ一夜、阿久津を独占できることに満足していた。 折角の一一人の夜なら山科へ行きたい。阿久津を学会に送り出した時から、迪子はそう考えて 「でも・・ : : 」 こ、つさ 阿久津はいいかけて止めた。車が交叉しその度に阿久津の顔の右半分が浮かび上がり、また 沈んだ。 「ねえ、もう五条よ」 かわらまち 車は河原町通りを北へ上がっていた。五条の広い通りが見え、右手に京阪電車の駅が見えた。 山科へ行くのなら、もうそろそろ運転手にいわなければならなかった。 「南禅寺でもいいだろう」 「あそこは街に近くて落ちつかないわー 阿久津は考え込むように腕を組み、外を見た。信号の前で修学旅行の女学生の一団が待って いる。それを右手に見て車は五条を横切った。 「きみは今日、泊まるつもりできたのか」 「そうよ、そう約束したでしよう、あなたは泊まれないの : : : 」

5. 野わけ

阿久津がロビーの先のラウンジを指さした。ガラスごしに日本庭園の見える席に、一組の男 女と子供が坐っている。それを見て一度竦みかけた心が、再び燃えはじめる。 「ねえ、どう ? 先に行こうとする阿久津の腕を迪子は軽く引いた 「お化粧、おかしくない」 「きれいだよ」 緊張しているのか、阿久津はにこりともせす答えた。 待っていた二人は窓を見ていたが、迪子達が近づくと振り向いて、立ち上がった。 「遅くなりまして、有沢迪子です」 迪子は阿久津の妻と青年を、半分すつ見て挨拶をした。 「ワイフと、ワイフの弟の圭次君、これは娘の弓子ー 阿久津が生真面目な調子で紹介した。 「阿久津の家内です。いつも主人がお世話になって」 白の。ハンタロンスーツに、首に巻いた緑のネッカチーフが、細身の体によく似合う。青年は 阿久津より少し大きい。一メートル七十はある。きちんとワイシャツにネクタイをしているが、 鼻筋がとおり、眼が張っているところは夫人にそっくりである。 、え、わたしのほうが部長さんにいつもお世話になっているのです」 迪子は夫人の「主人が」といういい方が、気になった。

6. 野わけ

9 野わけ は国立病院の輸血部長であった。二人とも同期生であるうえに、同じ京都の公立の機関に勤 ている関係もあって、親しい。今度の車中で一緒になったのも、二日前から東京でおこなわ 4 た輸血学会に出席した帰りであった。 同じ西京薬大を卒え、阿久津の下で検査技師として働いている迪子も、守屋は何度か逢っイ 知っていた。守屋がセンターに迎えにきて、二人並んで飲みに出かけるのを見る時なそ、迪ヱ しっと は男同士ながら、その親しさに軽い嫉妬を覚えることさえあった。 「ほとんどの方は今日帰ってきたのでしよう。どこへ行くの ? 」 阿久津は旅行鞄を持ったまま、ホールの出口とは反対の方へ歩きはじめた。 ちょっと 「またその辺りのタクシー乗場に守屋がいるたろう。一寸用事があるといって別れたのだ ら逢うとますい。喫茶店に行ってお茶でも飲んでから行こう 鞄が重いのか、阿久津は持つ手を右から左に変えた。 「お食事は」 「守屋とビ = ッフ = で食べた。きみはまだだろう」 「家で食べてきたわ」 「家から直接きたのか」 「そうよ、どうして」 阿久津は一瞬ロ籠ったが、すぐ くち′」も

7. 野わけ

たしかに宮子達のいうとおり、このごろ勤務が終ると阿久津はまっすぐ病院へ行っているら しい。たまに二人で逢うこともあるが一時間くらいで、そそくさと席を立っていく。 迪子はもう初めの時のように無理に引き止めたりはしない。引き止めてホテルへ行ったとこ ろで、二人が燃えるのは一時で、それが終ってしまえば、また阿久津は妻のことを考えるにき まっている。はじめはそれで復讐をしたつもりだったが、そのあと病室で逢っている二人のこ むな とを思うと、抵抗することも虚しかった。 「ご病気になって、かえって奥さんの有難味がわかったんしゃないの」 昼休み、久しぶりに阿久津と〃リべラ〃でコーヒーを飲みながら、迪子は皮肉をいった。 「そんなことはない」 「でも、毎日よく病院に行くって、みな感心していたわー 「いま足の関節に痛みがあ「て歩けないし、義も体があまり元気ではないからね、俺が行 かなければ仕方がないのだ」 「奥さま歩けないんですか」 け 「トイレぐらいはなんとか行けるが、それも歩かないにこしたことはない」 わ 「一度、お見舞に行こうかしら、あたしがお世話になっている上司の奥さまだし、圭次さん 野とのお見合の時にも逢ってるし、行くのが礼儀じゃない ? 」 阿久津は黙ってコーヒーを飲んでいた。 「ねえ、今日でも連れていって、早いほうがいいでしよう」 は おれ

8. 野わけ

104 「冗談は止しなさい」 阿久津は急に生真面目な表情になって、前を見た。 二階のレストランからは広い窓を通して、湖がよく見渡せた。 あし ひろ 眼下に葦があり、その先に青い湖が拡がっている。その湖をまたいで右手に琵琶湖大橋が見 もりやま かなた える。琵琶湖が東西で一ばん細い、守山市と堅田町を結んた、全長一三五〇メートルの橋であ る。橋の下を船が航行できるように中央部が盛り上がり、銀色の欄干と淡青色の橋けたが、湖 上に半弧を描いて輝いている。 レストランでは、阿久津と青年が並んで坐り、向かいあって夫人と娘と迪子が坐った。迪子 と青年がまっすぐ向かいあうようにしたのは、夫人の配慮かもしれなかった。 「なににしましよう メニューが来たが、迪子はあまり食欲はなかった。 阿久津と青年がエビフライを頼み、夫人と弓子はスパゲティにした。迪子は少し考えて野菜 サラダとコーヒーにしこ。 「この橋は有料ですか」 圭次青年が阿久津にぎく。 「普通乗用車が三百円だったかな」 「へえ、橋を渡るだけにしてはすいぶん高いんですね」 「公団もなかなか商売がうまい」 らんかん

9. 野わけ

「はじめからそういってくれたらよかったのに」 迪子は男が自分の思うとおりになったことに喜びを覚えながら、一方で男が少し可哀想だと 思っていた。 阿久津は表は強いことをいうが、根は甘えん坊の弱い男だった。いまも迪子が強く出たこと で前の意見をひるがえす。自分を強く押し出せないところがある。迪子が強引に泊まるといい 出したのもその弱さを知っているからだった。そしてこのまま中途で家に帰せば、また妻のい いなりになりそうな不安があった。 ホテルに二人が落ちついたのは九時を少し過ぎていた。駅の喫茶店で時間を費やし、小さな 争いがあったことが、時間を遅らせたのである。 くっぬ ホテルの部屋は迪子にはすでに馴染みだった。ドアをはいったところに半間の沓脱ぎがあり、 ふすま その先に六畳間があった。中央に座卓があり、右に冷蔵庫とテレビが並んでいる。襖をへだて て奥には寝室があり、電気スタンドが置かれている。左手はドアの先に。ハスルームとトイレが ある。このホテルへ来はじめたころは洋間に行ったこともあるが、このごろは和室にしか行か ない。それは阿久津の好みであり迪子もその方が落ちついた。 「ねえ、すぐおふろにはいったら」 女中が去るのを待って、迪子がいった。 「そうだな」 阿久津は背広を脱ぎ、ネクタイをゆるめた。迪子は立ち上がり、湯加減を見た。あらかじめ

10. 野わけ

よく飲むようになった。それ以来、スタンドバ ーに行けば飲むが、せいぜい水割りを二、三杯 である。 正直なところ、いまだにウイスキーが美味しいとは思えない。 こんな辛いものを何故飲むか 不思議である。だがなにか心が乱れた時にはウイスキーを飲むにかぎる。それを酔いつぶれる たけ飲んで次の日になれば心もまた変わっている。 いままでで最高に飲んだのは、秋野に去られた時であった。その夜は朝の三時まで飲んで最 後は、友達の部屋で酔いつぶれてしまった。翌日は昼まで起きられなかったが、その一夜で、 ともかく死にたいほどのつきつめた気持は失せていた。今夜はまだそれほどの気持ではない。 表面に現れたやりとりだけみれば、さほどの傷ではなかったが、じっとしているとやはり、阿 久津のことが思われる。阿久津と妻が向かいあっている姿が想像される。 二人が一つの家に住んでいることはなにもいまに始まったことではない。阿久津を知った時 からそれは承知のことだった。いまさら妻の存在についてとやかくいうのはおかしい。 今夜にかぎって心が落ちつかないのは、阿久津が自分との約束を破ってまで、妻を守ろうと したことだった。二人の間を続けるためには仕方がない、と阿久津はいったが、それはあくま でいい逃れのようである。 しゃべ 「ねえ、一人で考えてないで、今夜のこと喋っちまいなさいよ。そのほうがすっきりするわ よ 亮子がグラスを持ったまま、上眼づかいに迪子を見た。丸く大きな眼が好奇心にあふれてい