待っ - みる会図書館


検索対象: 野わけ
172件見つかりました。

1. 野わけ

くれているという実感があったから、いままで苦しみながら迪子は阿久津に従っていけた。 そして、その愛されたという実感があればこそ、これからも阿久津とは別れても生ぎていけ 風がまた通りを吹き抜けていく。落葉が走り、その先で喪の花輪の黒白の紐が解けてはため いている。 ドアはやはり閉したまま開かない。 迪子は風のなかに立ち、門に向かって掌を合わせた。 このなかに、阿久津の妻が眠っている。いままで意地悪をしたのも、すべて阿久津の妻が憎 かったからではない。それどころか、本当はもっと親しく、仲良くなりたかった。あの人とな らうまくいきそうだった。 それがこんなことになったのは、迪子が阿久津を愛しすぎたためである。愛しすぎて迪子は 盲になってしまった。 「許してください」 け風のなかで迪子はひたすら眼を閉じる。 わやがて道の先から車が来て、徐行し、門の前で停まった。親戚なのか喪服を着た年輩の婦人 野が子供の手を引いて降りていく。 一瞬、迪子のほうに怪訝そうな顔を向け、それから、門のなかへ入っていく。 ドアをノックし、一分もせすに、ド アが内側から開き、婦人が腰を折った姿勢のまま消えて る。 しんせき ひも

2. 野わけ

180 「今日はこれから大学に行かねばならん」 「でも五時までには帰ってくるでしよう」 「戻るが、梅雨が終ってからのほうがいいだろう」 「そんなに長く入院なさるの」 「どうかわからないが : : : 」 「あたしを連れていきたくないのね」 阿久津はなにも答えず、伝票を持って立ち上がった。 いったん その日、梅雨は午後に一旦、上がったが、夕方近くまた降りはじめた。迪子が洗っていたコ ルべンで、左の人差指を切ったのは、その雨が降りはじめて一時間ほど経ってからだった。蛇 ロの下の使用済の籠のなかで、コルべンはすでにヒビが入っていたらしい。迪子はそれを知ら ず、手にもって強く布で拭いていた。割れたのはそれを数回くり返した時である。どこにぶつ けたわけでもない。手に持っている時、突然砕けるように割れてしまった。 一瞬痛みが走り、慌てて手を見ると、人差指の先から細く赤い筋が走り、そこからたちまち 血が噴き出てきた。向かい側にいた宮子が気がついて駈け寄ってきたが、その時は人差指のほ とんどが血でおおわれていた。 きずぐち 「大変よ、創口にガラスが入っているわ」 「動かしたら駄目、根元をしつかり縛るのよ」 かご

3. 野わけ

108 一時間ほどして五人はレストランを出た。 「今度はわたし達が前に乗るから、圭ちゃんうしろにお乗りなさい、若い人は若い人同士の にう力しいてしよう」 夫人はドアを開き、自分から前の助手席に坐った。 「失礼しますー 青年は小さくいって迪子の横に坐った。 車は橋にかかったが、まもなく大橋の一ばん高いところに来て停まった。そこからは南北に 琵琶湖を見通せる。橋から南を湖南と、 しし北を湖北という。湖南は周囲に人家が密集してい るせいで、水は濁っている力」を ; 、ヒよ昔のままの静かな琵琶湖の面影が残っている。 「写真を撮りましようか しようしゃ 夫人がカメラをとり出した。瀟洒な橋けたを背に、迪子と弓子が真ん中にはいり、阿久津と 青年が左右に立つ。一枚撮り終ったところで迪子がいった。 「今度わたしが撮ります」 「きみ達ははいっていたほうがいい」 阿久津が夫人に替ってカメラを構えた。カメラは誰でもうっせるカメラである。 「奥さま、どうそ真ん中へー 「あら、有沢さん、中へおはいりなさいよ」 「いいのです、わたしは。ヒイホケのほうがよく見えるのです」

4. 野わけ

朝、迪子は七時に目覚めた。 起きて歯を磨き、顔を洗い、朝食をとり、化粧をしてセンターへ出かける。 しようごいん 迪子の家のある紫野から聖護院のセンターまではスで三十分かかる。それに停留所まで歩 く距離や、待っ時間をくわえると四十分はみなければならない。 センターは九時からだから、遅くとも八時一一十分には家を出なければならない。夏の間はと もかく、冬や春先にはつい寝坊して七時半ごろに目覚めることもあゑそんな時、迪子は食事 をとらずに家を出る。化粧は特別こるわけではない。裾にきて外へカールした髪に櫛をかけ、 顔は化粧水をぬり、軽く白粉を叩く。口紅はその時の気分にもよるが、大体、オレンジにして け わ九時にセンターに着くと迪子はます、検査室の奥にあるロッカーで着替えをして、白衣をつ えり 野ける。白衣は襟をつめ、ウストを軽く絞った、美容師の白衣に似た、スマートなものである。 一年前普通の白衣では野暮だというので、女子職員が集まって相談し、その結果、所長に申 し入れていまの型に変えてもらったのである。 たくらみ すそ

5. 野わけ

「はじめからそういってくれたらよかったのに」 迪子は男が自分の思うとおりになったことに喜びを覚えながら、一方で男が少し可哀想だと 思っていた。 阿久津は表は強いことをいうが、根は甘えん坊の弱い男だった。いまも迪子が強く出たこと で前の意見をひるがえす。自分を強く押し出せないところがある。迪子が強引に泊まるといい 出したのもその弱さを知っているからだった。そしてこのまま中途で家に帰せば、また妻のい いなりになりそうな不安があった。 ホテルに二人が落ちついたのは九時を少し過ぎていた。駅の喫茶店で時間を費やし、小さな 争いがあったことが、時間を遅らせたのである。 くっぬ ホテルの部屋は迪子にはすでに馴染みだった。ドアをはいったところに半間の沓脱ぎがあり、 ふすま その先に六畳間があった。中央に座卓があり、右に冷蔵庫とテレビが並んでいる。襖をへだて て奥には寝室があり、電気スタンドが置かれている。左手はドアの先に。ハスルームとトイレが ある。このホテルへ来はじめたころは洋間に行ったこともあるが、このごろは和室にしか行か ない。それは阿久津の好みであり迪子もその方が落ちついた。 「ねえ、すぐおふろにはいったら」 女中が去るのを待って、迪子がいった。 「そうだな」 阿久津は背広を脱ぎ、ネクタイをゆるめた。迪子は立ち上がり、湯加減を見た。あらかじめ

6. 野わけ

者にもなりうる強者の愛に転化する。また迪子は初めから圭次と結婚するつもりはなく、ただ 自分の愛のかけひぎのために利用しただけだから、この両者の関係においては明らかに加害者 である。見方をかえていえば、被害者迪子は新たな被害者圭次を発見することによって、自ら 加害者に転化したことになる。もとより、こんな図式化に見かけ以上の意味があるわけではな いが、これたけの複雑な愛の構図を、わずかな会話と心理描写で感得させてしまう作者の手腕 は、いつもながら見事なものである。 さて、こうして強者の愛にめざめた迪子は、阿久津に対しても一歩攻勢に転ずる。圭次の真 帽にほたされそうになった迪子を阿久津が引きとめようとしたとき、迪子はこういって阿久津 に迫る。 《あなたが、そんなにあたしを愛しているのなら奥さんと離婚すべきだわ。離婚してはっき りと愛していることを証明すべきだわ》 ここにいるのは、もはや不倫の愛に耐え忍ぶ日陰の女ではない。はっきりとした自己主張を もった強い女である。それに対して、阿久津はこう答える。 《結婚しているからといって、愛しているわけではない。 一つ家にいたって憎しみあってい 説 る場合もある》 解これを中年男のするさと受けとってしまっては、身もふたもないだろう。迪子のいっている ことは正論たが、いわば正論にすぎない弱さがある。一方、阿久津のいっていることは一時の 弁解には違いないが、この弁解にはしたたかな人生の裏打ちがある。もちろん、迪子にしても

7. 野わけ

七月の末まで、迪子はその堅い決意で阿久津と逢わすに過ごした。もちろんセンターでは顔 をあわすし、話もする。だが常にまわりに人を置き、二人だけにならないように気をつける。 話す時も仕事の話を他人行儀にするたけである。 考えたとおり阿久津は苛立っているようである。「どうして急に逢わなくなったのか」「嫌い ひきだし になったのか」といった内容の手紙を机の抽斗にそっと置いていく。 だが迪子は返事をしなかった。いま変に甘い顔をしては、またするずると前と同じ関係に戻 り、同じ嫉妬と悲しみを覚えるたけである。男には好きたから別れたいという論理がわからな いようである。 しかしそれにしても阿久津が真剣に、今日逢ってくれ、といってくると辛くて、どう仕様も なくなってくる。何故こんな無理をしてまで逢わないようにしているのか、その根本の理由ま で疑わしくなってくる。 「六時に花山ーなどといわれると、六時が近づくと、そわそわして落ちつかなくなる。店の け奥のポックスで一人で待っている阿久津を思うと急に可哀想になってくる。悪いのは阿久津で しいような気もしてくる。 わはなく、阿久津の妻なのだと思し 、、、たから阿久津にだけは逢っても、 野自分の上司で、毎朝、顔を合わせるたけに、冷たく装うのは一層つらい いっそのこと他に好きな人ができると、こんなに苦しまなくて済む。その人と一緒にいれば 気が紛れると思う。 しっと

8. 野わけ

家の手前で迪子がいったが、車は二十メートルほど行きすぎたところで停まった。 「じゃあ、明日、わかったね」 降り立った迪子に、阿久津はドアのなかからいった。 阿久津の視線をうしろに感しながら迪子は答えず足早に歩いた。やがて背後で排気音がして、 車が去っていくのがわかった。 十一時を過ぎて両側の店はすべて閉していた。家の前まで来て、迪子ははしめて車が過ぎて いった方を振り返った。小路の先に阿久津の乗っていった車の赤い尾灯が遠ざかり、やがてそ れが右へ曲がって消えた。 それを見届けてから、人影のない小路の真んなかで、迪子は自分の家を仰ぎ見た。栄養剤の 名が入った大きな看板の先に中二階の窓の明りが見える。 ど一つしようか 母には宇治の友達のところに泊まるといって出てきたから、今夜は帰らなくてもよかった。 阿久津の前でも、家には帰らない、といい張った。阿久津はそれを心配していたようだが、正 直いってどこへ行く、という当てもなかった。その時はたた、阿久津を心配させたくて、 け わ出したまでのことである。 野宇治まで行かなくても、清水にも、山科にも泊まるだけなら友達の家はあった。しかしここ おっくう まで来て、わざわざ出かけて行くのはさすがに億劫である。どこへ行ったところでそのことが 阿久津に知れず、彼を心配させられないのでは無意味だった。やはり阿久津が強引にここまで

9. 野わけ

307 野わけ 七時だっこ。 迪子はなに気なく、阿久津の家へ行ってみようかと思った。 それはこれといった理由もなしに、風の音のなかで、ふと浮かび上がった思いである。 阿久津の家には一度だけ行ったことがある。一年前、阿久津との愛にまだなんの疑いもなか ったころ、ホテルで愛されたあと、彼を先に家へ送った。場所は下鴨神社の裏の閑静な住宅地 であった。人口の小さな繁みの先の玄関の前で、阿久津は少し照れたように手を握った。 その時迪子は、自分へすべての精力を使い果した脱け殻を、妻の許へ送り帰してやるのだと いった、意地悪な気持があった。小さな街灯のなかに消えていったのは、実体のない男の外見 だけなのたと思っていた。 いま、その憎んた相手はもういない。かって妻が待っていた家には呆然と阿久津が一人、な なキ、が・ら すこともなく妻の亡骸を見詰めているかもしれない。 迪子は服を着て、髪を直した。 しようすい 鏡台にうつった顔には、二日間、なにも食べず、考え尽した憔悴が現れていた。 「どうしたの、もう出かけるの」 いつもより一時間も早い身仕度に、母は不審そうに迪子を見た。 「ちょっと、早くからしなければならない仕事があるの」 迪子はそれだけいって家を出た。 この数日の迪子の行動を、母と妹は疑っているようである。なにかあったのだろうかと思っ ぼうぜん

10. 野わけ

で残っていた。 迪子が手伝うことを申し出たのは、特別の理由があったわけではない。たた毎夜、遅くまで かわいそう 一人で残ってやっている部長が、少し可哀想だっただけである。もっとも遅くまでといっても、 それは、阿久津が学会へ発表したいために、学問的興味から勝手に調べていることで、センタ ーの正規の仕事ではなかった。だから、迪子が彼の下の検査技師だからといって、手伝わなけ ればならない義務はなかった。 現に検査部には、迪子と同じ薬剤師の免許を持った女性や検査技師、検査助手など八名ほど いたが、時たま手伝うのは検査部でただ一人の男性である布部という技師たけで、あとの女性 達は黙って帰っていく。 仕事は上に赤丸のついた交差試験成績報告書を読みあけ、そこにある一一つのテストの結果を チェックする作業だから、二人が組んでやる方が能率があがることはたしかだった。 迪子はデータを読みあげ、阿久津はそれをチェックする。 その仕事が一段落したのは八時半たった。五時で勤務が終り、出前の夕食を食べてからでは あるが、約三時間近く働いたことになる。 け 「今日は、これまでにしておこう、おかけですいぶん進んだ」 わ 野阿久津はそういうと、センターからほど近い花見小路の、スタンド。ハ ーへ迪子を誘った。仕 事で疲れていたせいか、そこでウイスキーの水割りを一一杯飲んだだけで迪子は酔いを覚えた。 店を出た時、少し足一兀が不安だったが頭はたしかなつもりだった。そのあと、なぜ、ホテル