152 迪子が圭次と逢った次の月曜日、阿久津はセンターを休んだ。 「今日、部長さん、お休みですって」 まっさきにその情報をもってきたのは宮子だった。九時少しすぎて、皆はまだ検査室の隅で ひとかたまりになって仕事前のお茶を飲んでいた。 「奥さんが風邪なんですって」 「そんなことで休むかしら」 噂好きの伸代がきき返す。 「それがかなり悪くて、入院なさるかもしれないんですって」 「風邪で入院 ? 」 「事務の上崎さんにきいたのだから、よくわからないけど、もし奥さんが入院なさるとなる と、お子さんもいるし大変なんしゃない」 「じゃあ部長さん、今日はすっと奥さまの看病してらっしやるわけね いってから伸代は迪子のほうをちらと見た。 長雨
たしかに宮子達のいうとおり、このごろ勤務が終ると阿久津はまっすぐ病院へ行っているら しい。たまに二人で逢うこともあるが一時間くらいで、そそくさと席を立っていく。 迪子はもう初めの時のように無理に引き止めたりはしない。引き止めてホテルへ行ったとこ ろで、二人が燃えるのは一時で、それが終ってしまえば、また阿久津は妻のことを考えるにき まっている。はじめはそれで復讐をしたつもりだったが、そのあと病室で逢っている二人のこ むな とを思うと、抵抗することも虚しかった。 「ご病気になって、かえって奥さんの有難味がわかったんしゃないの」 昼休み、久しぶりに阿久津と〃リべラ〃でコーヒーを飲みながら、迪子は皮肉をいった。 「そんなことはない」 「でも、毎日よく病院に行くって、みな感心していたわー 「いま足の関節に痛みがあ「て歩けないし、義も体があまり元気ではないからね、俺が行 かなければ仕方がないのだ」 「奥さま歩けないんですか」 け 「トイレぐらいはなんとか行けるが、それも歩かないにこしたことはない」 わ 「一度、お見舞に行こうかしら、あたしがお世話になっている上司の奥さまだし、圭次さん 野とのお見合の時にも逢ってるし、行くのが礼儀じゃない ? 」 阿久津は黙ってコーヒーを飲んでいた。 「ねえ、今日でも連れていって、早いほうがいいでしよう」 は おれ
「義弟さんだって、ただ仕事でくるだけしやつまらないでしよう、ついでに見合をしていっ たほうが楽しいんしゃない」 「しかしそんなことをしたら、ワイフにわかる」 「大丈夫、ついでに奥さんもお連れするの。実の弟さんの見合たから、奥さんがくるのは当 いささか悪のりたと思いながら、一度思いついた企みは、さらにふくらんでいく。 「あたし一度、あなたの奥さんを、きちんと紹介してもらいたいと思っていたの」 「そのために、義弟と見合をするのか」 「まあね」 「で、義弟がきみを気に入ったらどうするのだ」 「結婚しようかしら」 「いけない ? け ほおづえ わ迪子は頬杖をついたまま、首を傾けた。 野 「ねえ、これは別に悪いことじゃないでしよう」 阿久津は不機嫌に手に持った煙草を見ていた。 「あたしたち、どうせ結婚はできないのでしよう」 然よ」 る。
178 七月になった。六月にはさほど目立たなかった梅雨が六月の末から降り続き、五日間ほど、 ほとんど晴れ間がなかった。はじめは一週間くらいで退院できるといわれていた阿久津の妻は まだ入院していた。 「部長さんの奥さん、リウマチらしいわよ」 昼休みに、検査部員が集まって、阿久津の妻の噂をした。 「肺炎しゃなかったの」 「それもあったんだけど、いろいろ調べてみたらリウマチの熱もくわわっていたらしいわ」 「リウマチだったらなかなか治らないんでしよう ? 」 「そうだと思うわ、お気の毒ね」 「お宅には奥さんのお母さんが来て、お子さんの面倒を見てくれてるのでしよう」 「奥さんのお母さんたったら、部長さんにしてみたらやつばり窮屈でしようね」 宮子が同情する。 阿久津の話になると、迪子は自然に話の輪から外れてしまう。特別どうというわけではない が、みなが迪子と阿久津の関係を意識しているからである。 「でも部長さん感心だわ。仕事が終ったら、いつもまっすぐ病院に行かれるでしよう」 「そういえば、このごろ当直室でマージャンしてることないわね」
「奥さん、冬に一度、センターにいらしたことあるでしよう 「ええ、ええ、参りました」 「あの時、受付の窓口から見ていたのですー 「いやだわ、わたしどんな格好してました ? 」 「冬で、たしかべージュのコートを着て : : : 」 「そうだわ、主人が帰りに急に先輩のところに寄るから、渡す品物を持ってこいといわれ 「おきれいなので吃驚しました」 、つ洋」 0 くら 「ありがとうございます。こんな姥桜をきれいなんていっていただいて」 「きれいだわ、今日お逢いして、ますます、そう思いました」 「そんなに褒めていたたいて怖いわ」 道の左右に野が開け、「左、三千院右、寂光院」という道標がある。芝を焼いているのか、 その方角の野から白い煙が上がっている。 「部長さんは、奥さんのようなきれいな方をもらって、本当に幸せだと思いますー 「あなた、きいている。大変なことになったわ 「うん : : : うん 阿久津は要領をえない返事をする。迪子は、さらに意地悪をしたい衝動にかられる。 「こんなきれいな方がいるから、部長さんは真面目なのですね」
「それと、義弟さんがあたしを気にいらないようにね」 「この計画ではどう転んでも、俺に得はないな」 すわ 「ねえ、車はあなたが運転して、奥さんがその横に坐って、あたし達二人がうしろね」 「きみにうしろから見られるのはいやだから、義弟に運転させよう」 「駄目よ、その日はあたし達はお客様なんだから」 「そんなことをいうのならやめる」 「じゃあまず約束して、席のことは別にして義弟さんがきたら必ず四人でドライ・フに行くっ 迪子は白い小指を阿久津の顔の前につき出した。阿久津はしばらくそれを見ていたが、やが て手首をとらえると、体ごと自分のほうに引きつけた。 「ゲンマンして」 「わかったよ」 苦笑しながら阿久津は迪子の小さな体を抱き寄せた。 「でもあたしがお見合をしておけば、奥さんは安心するわ」 け わ阿久津の胸のなかで、迪子は小さく笑った。 野 四月一杯、二人の間は順調であった。 順調というのは、一週間に一度くらいのわりでホテルに行き、あとは一緒に昼食に行ったり、
85 野わけ 「でも万一、義弟さんと一緒になっても、あたしはあなたの方が好ぎよ」 囁きながら迪子は、自分は悪魔のようだと思う。こんな企みをするなど、普段の迪子ではな 。もう一人別の迪子が顔を出して、それに自分がふり廻されているのかもしれない。 だがいま迪子はそれをおさえる気はない。悪魔になった自分がむしろ楽しい 「きみはこの一週間、そんなことを考えていたのか」 「ううん、いま急に思いついたの、でも思いっきにしてはいい考えでしよう 阿久津は処置なし、といったように苦笑した。 「ねえ、やってみない」 「きみが、そんなにやってみたいのなら、やってもいいだろう」 「本当・・ : : 」 迪子は上半身を起こした。 「しゃあ、奥さんにもいっといてくれる ? 「もちろん、いわねばならんが、まだ十日以上も先のことだ」 「これで、ゴールデンウィークの楽しみができたわ」 「きみは楽しみのために、見合をするのか」 「そういうわけじゃないけど、でも、こんなことはあんまり深刻に考えないほうがいいわ、 名目は見合でも、実際はあなたの奥さんと義弟さんと、四人一緒にドライプに行きたいだけ よ
花曇りのせいか月はなかった。街灯の光のなかで疎水べりの柳が、黒い繁みを見せていた。 阿久津はその暗い影を見ながらつぶやくようにいった。 「別に、怖いわけではない」 「奥さんが怖くなくて、じゃあなんなの ? 前を見たまま迪子がすぐきき返した。少しの間があって阿久津が答えた。 「今夜でなくたって、またゆっくり逢える。この次の土曜日はどうた、土曜日なら次の日 ( け わ休みでゆっくりできる」 野 「いやだわ」 イいがはっきりした声で迪子は答えた。 「今夜でなければいやよ」 道はすぐ暗くなり、低い家が続いた。つい少し前、学会のことを話した時の陽気さは、阿ん 津の表性旧にはなかっこ。 「今日、守屋に逢ったから」 「守屋さんに逢ったことがどうかしたの。奥さんにわかるのが怖いのね」 迪子は窓からの風に髪を吹かれながらまっすぐ前を見ていた。何ものか、潜むかと思われ「 夜は、近づくとたちまち平凡な風景となってうしろへ消えた。そのまま車は四条に近づいた。
「車を買い換えるの」 これまで阿久津は社の一五〇〇 8 セダンに乗っていた。その車で迪子は何度かドライプに 連れていってもらったことがある。 「今度はなににするの」 ードトップにしろというのでね 「前のと同じでいいと思ったんたが、弟がハ 「弟さん車にくわしいの ? 」 「ワイフの弟たから、義理の弟だけど、車気狂いでね」 「どこにお勤め ? 」 「東京の商事会社だが、こちらに支店があって時々来る」 ードトップなら格好がいいのでしよう」 「格好はともかく、今までのよりカはあるだろう 「ねえ、その義弟さん独身 ? 」 「たしかきみが見合をする人と同じ一一十八だ」 「ハンサム ? 」 「さあ、どうかな」 「奥さんに似ているのでしよう」 「そりや姉弟だから」 「じゃあきれいね、あたしその人と見合しようかしら」 おとうと
阿久津はまだ、納得しかねているらしい 「あなたの奥さん、あたしを知らないでしよう 「有沢という女性がいて、よく僕の仕事を手伝ってくれている、という程度は知っている」 「こんなところにきていることは ? 」 「少し怪しいとは思っているようだが、もちろんはっきりは知らない」 「愉快だわ、あなたどういう顔をするの」 「どういう顔つて : : : 」 「奥さまと一緒にいて、あたしに話しかける時ー 「別に、いまと同しさ」 開き直ったように阿久津は胸を張った。 「〃おい〃なんて、あたしを呼び捨てにしたら、たちまちばれるわよ」 「俺のことより、きみはどうするのだ」 「あたしは大丈夫、こんなことは女のほうが上手いのよ」 「義弟に勘付かれては困る」 「まかしといて」 たた 迪子の胸を叩いた仕草がおかしくて、二人は顔を見合わせたまま小さく笑った。知らず知ら ずのうちに、阿久津も迪子の悪魔の遊びに魅かれてきたらしい 「とにかく、ばれないことを望んでいるよ」