「夜の面会時間は七時までだから」 「じゃあ明日の朝早く行けばいいでしよう」 阿久津はしばらく考えこんでいたが、やがて伝票をとりあげた。レジでお金を払い、階段を ゅうやみ 昇って外へ出る。曇り空のせいでタ闇は濃く、雨でも来そうな感じたった。 「ねえ、病院にいったらいやよ」 阿久津は黙って駐車場の方へ向かう。車に乗ってから、阿久津は迪子を振り返った。 「明日は逢えるから、今日はいいだろう 「じゃあ僕が病院から出てくるまで待っていてくれるか 「そんなに行きたいんならいいわ」 迪子はドアを開けて出ようとした。 「おいつ、落ちつきなさい」 ハンドルに手をおいたまま、前を見ていた。 阿久津はなお迷っているらしく、 け 「どうして、そうききわけがないんだ」 わ しい子になっているのはいやなの」 「あたしはもういや、あなたのいいわけばかりきいて、 野阿久津は仕方なさそうに一つ息をつくと、駐車場から右へ、南禅寺のホテルの方角へハンド ルを切った。
情になんらかの反応が現れるはすだった。あれだけ真剣だった圭次たから、なにか喋っている かもしれなかった。いすれにしても無事で済むとは思われない。 だが阿久津は挨拶のあと、ちらと迪子に視線を流したたけで、ロッカーのある研究室へ消え てしまった。それはいつものことで、そのあと一度たけ検査室へ現れたが、変わった様子はな おとさた 音沙汰がないのは圭次のほうも同じだった。あのあとで阿久津からなにかをきいたとしたら、 電話ぐらいかかってぎそうなものだが、それもない。もしかして阿久津から本当のことをきい て、あきれ果て、黙って帰ったのかとも思うが、それにしても電話の一つくらいあってもよさ そうなものである。 無気味なほど静かなまま昼休みになった。 阿久津が近づぎ、「今晩六時に花山で待っ」という紙片を置いていったのは、午後の仕事が はじまって三十分経った時だった。阿久津はそれを、秋の東京での学会のことを報せに来たっ いでにおいていった。 け紙片を見て、迪子は一瞬、緊張した。いままで何度も受け取った紙片なのに、今度のだけは、 わなにか大きな意味を含んでいるように見える。 野午後、迪子はすっと、阿久津から問いつめられた時のことを考えていた。こうなったら下手 にじたばたしても仕方がない。すべて正直にいって制裁を受けるべきである。阿久津はなんと いうかわからないが、これで二人の間が駄目になるものなら駄目になっても仕方がない。その しゃべ
白であった。朝から夜まで一度も顔を合わせないし電話で声もきかない。 こんな経験は阿久津 を知ってからはじめてのことだった。 迪子はその空白をうずめるように阿久津の唇を吸った。旅から戻ったばかりの男と触れあう、 てあか それは妻の手垢のついていない新鮮な体を独占することである。阿久津は唇を触れたまま、今 度は迪子を抱きあげた。花模様のワン。ヒースがずり上がり、スリップの裾がうしろの鏡に映っ 「だめ : 迪子は唇を吸われたまま呟いたが、それは唇が動いたたけで声にはならなかった。阿久津は そのまま、迪子の小柄な体を奥の部屋へ運んだ。寝室は中央に布団があり、鹿の子絞りの掛け まくら 布団と二つの枕が薄赤い照明に浮かんでいた。その上に二人はもつれるように倒れた。 「お湯が出しっ放しよ」 迪子がいったが、阿久津はかまわず迪子の胸元を開いた。 「ねえ、とめてくるわ」 「いいから : : : 」 起き上がろうとする迪子を、阿久津は強引におしつけ、むしるように背のファスナーを外す。 せつかち 阿久津がこんなに性急に求めることは珍しいことたった。いずれ許すことはわかっているのに、 いま奪わねば逃げられるとでもいうように求めてくる。三日の空白は阿久津をも飢えさせてい るのかもしれない。 つぶや すそ
迪子がそのホテルで阿久津に初めて抱かれたのは、いまから一年前の六月の初めであった。 その日、迪子は検査室に残り、阿久津の仕事の手伝いをした。仕事は過去五年間の供血者に ついて <no 式血液型検査におけるデープテストとスライドテストの結果の比較であった。 一口に五年間といっても、膨大な数になる。これを一年ずっさかのぼって調べ、統計を出す。 阿久津は一週間後の学会に備えて、十日前から、毎日のようにこの仕事のために八時か九時ま あわたぐち 迪子は首を左右に振った。車は疎水べりの美術館の、黒く細い柵を抜け、粟田口にさしかか った。そこをすぎ左へ曲がり、もう一度右へ曲がると南禅寺の山門へ出る。 二人の行きつけのホテルはその山門を過ぎ、右へ曲がった角から百メートルほどのところに あった。その角まで来て阿久津が、運転手に停めるようにしオ 、つこ。車は小路を横切った先の電 灯の下で停まった。 阿久津はすでに用意していた金を払い、先に降りた。運転手はドアを開けたまま迪子が降り るのを待って自動ドアを閉めた。 車から降りると若葉の匂いがした。新緑には少し早いが、夜のなかに草の匂いがあった。 阿久津は当然のように、山門をくぐるとすぐ右へ曲がった。右手に。ハッグをもち、軽く右肩 を下けている。行手の左に、「ホテル」というネオンが見える。そこが二人の馴染みのホテ ルであった。 さく
一度だけ、迪子は阿久津の妻に逢ったことがある。いまから半年前の十一月の末であった。 なにか急な用事でもあったのか、阿久津の妻は夫の勤め先である輸血センターに現れた。その 時、迪子は検査室で阿久津と背中合わせに輸血用血液の交差適合試験をやっていた。 「阿久津部長、奥さんが見えてます」 呼びに来たのは受付の杉井という女性だった。阿久津はその時、若い検査部員にオーストラ リア抗原の見分け方を指導していたが、呼ばれると「一寸失敬」といって部屋を出ていった。 初めからそんな約束になっていたのか、出ていく阿久津の顔に不審そうな表情はなかった。 あしおと 迪子はガラス板の上で血液の凝固を見ていたが阿久津の跫音が廊下に消えるのを待って部屋 を出た。 検査室は正面玄関を入って右へ曲がった三つ目の部屋だった。そこからは窓を通して中庭ル 見渡せたが、表の方は見えなかった。迪子は廊下を二つ先の受付に行き、そこで黒板の日程弄 を見るような素振りで待合室の方をうかがった 正面フロアーの採血者待合室の手前で、阿久津は女性と向かいあって立っていた。手にはい ま受け取ったのか、小さな紙包みを持っていた。女性は横向きで、阿久津へなにかいってい け わ小柄で下から見上げるように、阿久津を見ている。べージ = とオレンジ色の混じったツィー 野のコートを着て、手に。ハッグを持っている。待合室を行き来する人々にさえぎられてあまり上 ほそおもて くは見えないが、細面で整った顔立ちのようである。女性はやがてうなずくと阿久津から離 迪子の手前、十メートル先の窓口に来た。そこで受付の女性に軽く頭を下げると急ぎ足で正而
「するわ、今日、あたしを呼び出して、どうするつもりだったの」 「二人たけで逢いたかっただけだ」 「でも昨夜逢ったでしよう」 「逢ったが、別れ方が気になったからね」 「それだけ ? 」 「なにか : : : 」 「ううん、 本当をいうと、迪子ははっきりと阿久津に謝ってもらいたかった。昨夜は嘘をいって悪かっ た、一旦、泊まるといって途中で帰ったが、本当はきみの方をずっと愛していると、そうはっ きり一一 = ロ葉でいってくれればそれで安心できる。阿久津がスムーズにそれをいってくれないこと が、迪子の心をかえって依怙地にさせていた。 「今日はお互い、早く帰ったほうがいいわ、あたしはお見合たし、あなたは奥さんが待って いる」 和解を望んでいながら、ロから出るのは逆の言葉ばかりたった。 「あたし帰るわー 阿久津はうなすいたが、なお立ち上がりかねているらしい 「明日でも、結果を教えてくれ」 「心配しているの ? 」
「年齢は ? 」 「二十八かな、わりあいいかす男性よ」 「それで見合をする気になったのか」 「そういうわけじゃないけど」 どうやら阿久津は信じはじめたようである。迪子はこの嘘のゲームが少しばかり楽しくなっ てきた。 「で、きみは乗り気なのか」 「あたしもう一一十四よ、お見合の一つや二つくらい、なくては困るでしよう」 「そんなこときいているのではない、きみ自身が見合をしたがっているのかどうか、という ことだ」 「別にしたいわけじゃないけど、いつまでもこうしていても、仕方がないでしよう」 「こうして ? 」 「あなたとっき合っていても : ・ 瞬間、阿久津は迪子を見たが、やがて考えこむように眼を伏せた。 け 迪子はよこ、 オ冫力いいすぎたような気がした。 わ 野たしかに、 こうして阿久津とっき合っていても仕方がないような気がするが、といって迪子 はいま積極的に見合を望んでいるわけでもない。いまはこのまま阿久津に愛されていれば、そ れでいい。見合をしてみたいという気持がないわけではないが、それは両親がすすめるから、
258 全に治ることはないらしい」 「それなら、もうずっと : : : 治らないのですか 「一時的によくなることはあっても、根本的に治るということはないらしい」 迪子は五月の琵琶湖で風にうたれていた夫人を思い出した。美しく満ち足りた人妻として、 憎しみの対象であったはずの人が、治る目途のない病気で入院するというのである。迪子は気 の毒そうな顔をしながら、心の奥ではかすかな小気味よさも覚えていた。 「で、いっ入院なさるのですか」 「いま病室があかないので待っているんだが、来週には入れると思う」 「大変ね」 迪子は病気の夫人より、阿久津のほうに同情していた。 第行こうか」 阿久津はいやなことを忘れようとするように、残ったビールを飲み干すと腰を浮かしかけた。 「どこへ行くの」 「どこって : : : 」 曖昧な答え方をするのは、いつものホテルへ行く時の阿久津の癖だった。迪子は白い壁を見 てから、思いきっていってみた。 「最近、圭次さんはお元気ですか」 「元気なのたろうが、このところすっと音沙汰がない」
「行かなくていいのなら、それにこしたことはないが」 「どうしてですか」 「男と女は、お祈りしたくらいで、簡単に別れたり、一緒になれるものでないからね。 「でも、あたしは別れたいのです。いつまでもあの人のいうままに、ずるずる引きずり廻さ れているのは嫌なんです」 「きみのいうことはわかるが、それは彼だけの責任でもないだろう」 「そうでしようか」 「彼を愛しているから、結果として引きすり廻されることにもなるともいえる」 「あたし、あの人をもう愛してなんかいません」 迪子は強い口調でいったが、所長はゆっくりコーヒーを飲んだ。 「無理をしなくても、別れる運命のものなら、そのうち自然に別れるときがくるだろう」 「あたし、当てもなく、漠然と待っているのは嫌なのです」 「しかし別れるのは理屈ではない。頭でこう考えたから、こうなる、という単純なものでは けない。理屈どおりにゆかないから愛は素晴らしいのしゃないかね」 わ所長のいうことは迪子にもなんとなくわかるような気がする。たしかに頭で考えたとおり二 野人の愛がすすむとは思えない。それどころか、迪子一人のなかでも、阿久津への憎しみと愛し さが入り混しっている。 「でも一人の人間が、別れると決めたらまっすぐそれに向かってすすむべきじゃないでしょ
ろうと思う。だがそれは心に余裕がある時のことで、いざとなると、そんな冷静にふるまうこ とはでぎない。冷静でなくなることが愛なのだから、いまの迪子にそれを求める方が無理であ る。 阿久津は無言のまま自分のグラスにビールを注ぎ、それから迪子のグラスに注いだ。相手が 怒っている間は黙っている。相手が怒り、しゃべり、やがて疲れるのを待っているように沈黙 を守る。その無一一 = ロも男のするさかもしれなかった。 「帰りたければ帰ってもいいわよー 今度は迪子は少し冷やかな声でいった。 「あなたが落ちついて研究できるのも、奥さまのおかげよー 「なにをいう」 「知らないわ」 男好きする迪子の顔が崩れている。まだ涙は出ないが、いま一つ、きっかけがあればたちま ち溢れてしまう。ぎりぎりのところで迪子の顔が耐えていた。 「今夜、帰るのはなにも妻のためではない」 け わ「奥さんのためでなくて、なんたというの」 野「僕達のためた」 「いい加減なことはいわないで」 「とにかくききなさい。今日帰らなければ外泊したことがわかる。守屋は親友だが、ワイフ