宮子達がてんでに叫ぶが、そのうちにも赤い滴りが下のタイルを染める。みな血には慣れて あふ いるはずだったが、いざ実際に創口から溢れているのを見ると、自信はないらしい。 「部長さんは」 「さっき大学に行ったわ」 「ねえ、所長さんに見てもらったら」 所長はここへ来る前に国立病院の外科部長をやっていた。 「消毒薬とガーゼを持ってくるから、じっとしててねー 宮子が駈けていく。 創口を見ると血のなかで、ガラスの破片が輝いている。コルべンのガラスは硬質だが、それ だけに鋭い。迪子は光る破片をみながら、阿久津がこの場にいたらどんな処置をしてくれるだ ろうと考えた。 間もなく宮子が所長を連れて戻ってくる。 「どうしたんた」 け この前、食事をしてから半月ぶりに、迪子は所長と正面から目を合わせた。 わ「洗っている時にコルべンが割れたのです」 野宮子が替って答える。 所長は宮子が持ってきた消毒トレーから、。ヒンセットでガーゼをとると、創の上をゆっくり と拭いた。 したた
朝、迪子は七時に目覚めた。 起きて歯を磨き、顔を洗い、朝食をとり、化粧をしてセンターへ出かける。 しようごいん 迪子の家のある紫野から聖護院のセンターまではスで三十分かかる。それに停留所まで歩 く距離や、待っ時間をくわえると四十分はみなければならない。 センターは九時からだから、遅くとも八時一一十分には家を出なければならない。夏の間はと もかく、冬や春先にはつい寝坊して七時半ごろに目覚めることもあゑそんな時、迪子は食事 をとらずに家を出る。化粧は特別こるわけではない。裾にきて外へカールした髪に櫛をかけ、 顔は化粧水をぬり、軽く白粉を叩く。口紅はその時の気分にもよるが、大体、オレンジにして け わ九時にセンターに着くと迪子はます、検査室の奥にあるロッカーで着替えをして、白衣をつ えり 野ける。白衣は襟をつめ、ウストを軽く絞った、美容師の白衣に似た、スマートなものである。 一年前普通の白衣では野暮だというので、女子職員が集まって相談し、その結果、所長に申 し入れていまの型に変えてもらったのである。 たくらみ すそ
いしよう 衣裳も踊りも、美しく華やかで、さすがと思ったが、同時に、少し馬鹿げた世界たと思った 記憶もある。大学を目指していた迪子には、女があのように飾ることに、素直に納得できない ものがあった。それ以来、迪子は春秋をつうじて、その種の踊りを見たいとは思わない。美し こび くても、あんなものは女の虚栄心と、男への媚でしかないと迪子は思う。 だが十月に入り、街に鴨川踊りのポスターが出ると、迪子はきまって秋になったことを感じ る。叔父に連れてゆかれた時、妙に肌寒く、。フラウスの上に毛糸のカーディガンを羽織った覚 えがある。そのせいか、そのポスターには秋の思いが深い。圭次が京都に来たのは、この鴨川 踊りがはじまった十日の夜であった。今度も圭次の訪れは突然であった。その日の午後、新幹 線のなかから電話を寄こし、夕方着くから逢って欲しい、といってきたのである。 来るなら来るで、一日でも先にいってくれれば、衣裳にも気を使えるのにと、迪子は不満た ったが、断わる理由もない。 六時に迪子は約束の駅ビルのなかの喫茶店で圭次と逢った。四か月ぶりに見る圭次は、さら たくま に逞しく、男つ。ほくなっていた。 け「名古屋まで出張できたのですけど、逢いたくなったので、もう一日、休むことにしたので わす」 野 この前、妙な別れ方をしたが、圭次の態度は屈託がなかった。 「じゃあ、今夜は部長さんのお宅に泊まるのですねー 「あなたを待っている間にホテルをとりました。京都に来たことは義兄にはいっていない
無理をしても仕方がない : そう自分にいいきかすと、迪子は急いで試験管を洗浄籠のなかへ入れ、白衣を脱ぎ、白い。フ ラウスに着替えた。 「またどうせ来ないと思っていた」 駈けつけてきた迪子を見ると、阿久津は喜びを素直に表した。迪子はそれをきいて、はじめ て自分がいままでのタブーを破って、のこのこ出てきたことに気がついた。 「二か月ぶりかなあ」 阿久津は懐かしそうに迪子を見た。検査室でなく、喫茶店で見る阿久津の顔はいままでと変 わって、優しく、少しくたびれて見えた。 「とにかく来てくれてよかった」 久しぶりに迪子と逢えて元気がでたのか、阿久津は早速ビールを頼んだ。 「どうして避けていたのか、理由をききたいな」 「別に理由なんかないわー け「嫌いになったのか ? 」 わ嫌いだからではない、好きだから逢いたくなかったのだ。これ以上っきあっていたら、する 野ずるとどこまでも泥沼に引きずりこまれていく。絶対に別れられない。阿久津のほうはそれで いいかもしれないが、引きすられる迪子のほうはそれではかなわない。引きずられても、それ はそれなりに迪子にとっても、前向きの人生でありたい。なんらかの形で、それが実りにつな
126 「でも、とにかく送ります」 迪子はもうそれ以上逆らわず、先になってゆるやかな坂道を下った。 「近々に、東京にでてくることはありませんか 「さあ・・ : : 」 迪子は東京に去っていった秋野のことを思った。最後に逢ってから、もう二年ちかい月日が 経っている。 「もし来るようなことがあれば連絡して下さい 圭次は街灯の下で立ち止まると、背広のポケットから名刺をとり出した。 「電話はこれです」 「明日お帰りですか」 「九時の新幹線で帰ります」 いちべっ 光の下で名刺を一暼すると、迪子はそれをハンド。ハッグのなかにおさめた。 「今度、また来たら連絡してもいいですか」 「お待ちしています」 二人は無言のまま坂を下った。八坂神社の鳥居を下り、明るい道に出た時、迪子はようやく あんど 二人の間になにもなかったことに、かすかな安堵を覚えた。
それは燃えるような夏のあとの秋のように、冷たく虚しい こんちいん 車は金地院の石塀を右に見て、左へ曲がった。あたりの古い家並に似合わぬのを恥じるよう に、ホテルのネオンが樹の間ごしに輝いていた。 車を降り、ホテルの入口に向かいながら、迪子はまた、前と同じことがくり返されると思っ いろど もう何度、同じ行為を重ねてきたのか、その抱擁の一つ一つは、めくるめく思いに彩られな がら、まとめて、振り返ってみると、そこにもある虚しさが顔を出していた。 くり返してもなにも残らぬ、それを知りながら、迪子は阿久津のあとに従いていく。 考えてみると、迪子は虚しさを知りながら、それをたしかめるために、ここへ来ていたのか もしれない。男と女はどれほど強く結ばれても、なお虚しさは残る。それを知るために、ここ へ来続けたのかもしれなかった。 かおなじ ホテルの女中は迪子とも顔馴染みだった。愛想笑いをして、照明を暗くした廊下を案内する。 部屋はいつも和室だった。ほとんど無一一一一口だった阿久津が部屋に入って、女中が去った途端、 はっこう け急に迪子を抱きしめた。いままで黙りこんでいた分だけ、思いが内に釀酵していたのかもしれ わな、。逆らう迪子を荒々しく抱え、そのまま隣の間の床へ運んでいく。 野接吻を受け、愛撫を受けながら、迪子は次第に、自分がもう一つの別の女性になる予感を覚 えていた。 なにかはわからぬが、また己れを失う瞬間がはじまる。失えば失うほど、あとで虚しさが残
「どういうのだ」 「中年の、落ちついて、仕事熱心で、そして優しい」 「なんた : : : 」 「いってみればあなたのようなタイプだけど、でもあなたには奥さまがいるから : : : 」 今度は阿久津は困ったような表情をした。それを見るうちに、迪子の頭にふと、新しい計画 が浮かんできた。 おとうと 「それで、あたし考えたんだけど、今度あなたの義弟さんを紹介してくれない」 「義弟を ? 」 「そう、来月になったら出張で来るのでしよう」 「京都を見物したいといっているので、車で案内してやろうかと思っている」 「その時、一緒にドライプに連れてって」 「それよ、 をししが、一緒に行ってどうするのた」 「ドライプがてら、あなたの義弟さんとお見合をするの」 「何をいうんだ」 「たって義弟さん独身でしよう」 「二十八だといってたけど、あたしの四つ上だから丁度いいじゃない」 阿久津はあきれはてたように迪子を見た。彼が困った顔をすればするほど、迪子は愉快にな
204 受話器を置いた。 翌日、迪子は九時丁度にセンターに着いた。日曜をはさんで六日ぶりの出勤たけに、みなが 珍しそうに寄ってくる。 「どうた、創はよくなったか」 阿久津は迪子を見るとすぐ声をかけてきた。迪子が休む前とは違って、宮子のいうとおり元 はつらっ 気そうである。妻の病気が治ると男はこうも剌としてくるものなのか、迪子は阿久津の元気 なのがいやらしく見えた。 午後、久しぶりに交差試験をしていると阿久津が近づいてきて、横に紙片を置いていった。 くずばこ 「六時、花山」と書いてある。迪子はちらと見て、すぐそれを破り、丸めて屑箱に捨てた。 そのまま仕事が終るまで、行くべきかどうか、迷っていたが、結局、迪子は〃花山みに行っ た。逢いたくて行くというのではなく、阿久津の本心をたしかめるためだと自分にいいきかせ 「ずいぶん久し振りだな」 今度も先に来ていた阿久津は例によって新聞から目を離すと、懐かしげに迪子を見た。 「肝炎になりかかったんだって」 「たいしたことはないんです」 「遊びすぎたんじゃないか」
阿久津はさすがに手慣れていて、十分もせずに残っていた交差試験を片付けてしまった。 普段なら礼をいうのだが、迪子は黙っていた。勝手に来て、勝手に手伝ったのだから礼をい う必要もない。迪子は迪子なりの理屈を考えている。 「さあ、ご飯を食べに行こうか」 礼をいわれなかったことに阿久津は格別こだわっている様子はな、。、 っこ 0 「そんな気をつかってもらわなくても結構です」 け わ昨夜、あんな仕打ちをしておいて、なにをいまさら、と迪子は冷たく装った。 〃リべラ〃に一丁こう」 野 「まあそう怒らないで、 「あたしお弁当持ってきていますからー 蛇ロで迪子は使い古した試験管にブラシをいれて激しく掻き混ぜた。阿久津は所在なさそう 迪子は答えなかった。いま答えては、阿久津をつけあがらせるばかりである。 「手伝ってやろう」 「一人でできますー 「まあいい そう強盾をはるものではない」 そういうと阿久津は勝手に開いている乾滅器から試験管をとり出した。 しつもの屈託ない声だ
71 野わけ 「だから用事があるの」 「なんの用事 ? 「お見合よー 「見合・ : 阿久津が頓狂な声をあげたが、それ以上に、いった当の迪子も驚いていた。 、つめられて咄嗟に出た言葉だが、い ってみると意外に効 どうしてそんな嘘がでたのか、問し 果があったようである。阿久津は・ほんやり迪子を見ている。 「今日、これから ? 」 「そうよ 「しかし、昨夜はなにもいってなかったじゃないか」 「黙っていたの」 走り出した嘘はもう止どめようがない。い 「どこで ? 「あたしの家で」 「相手の男性がきみの家に来るのか」 「そうよ」 「しかし家でやる場合は、大抵は女が男の方へ行くものだそ」 「ご自分もそうたったの、あ、部長さんは恋愛ね」 まとなっては、そのまま進むだけである。 とっさ