85 野わけ 「でも万一、義弟さんと一緒になっても、あたしはあなたの方が好ぎよ」 囁きながら迪子は、自分は悪魔のようだと思う。こんな企みをするなど、普段の迪子ではな 。もう一人別の迪子が顔を出して、それに自分がふり廻されているのかもしれない。 だがいま迪子はそれをおさえる気はない。悪魔になった自分がむしろ楽しい 「きみはこの一週間、そんなことを考えていたのか」 「ううん、いま急に思いついたの、でも思いっきにしてはいい考えでしよう 阿久津は処置なし、といったように苦笑した。 「ねえ、やってみない」 「きみが、そんなにやってみたいのなら、やってもいいだろう」 「本当・・ : : 」 迪子は上半身を起こした。 「しゃあ、奥さんにもいっといてくれる ? 「もちろん、いわねばならんが、まだ十日以上も先のことだ」 「これで、ゴールデンウィークの楽しみができたわ」 「きみは楽しみのために、見合をするのか」 「そういうわけじゃないけど、でも、こんなことはあんまり深刻に考えないほうがいいわ、 名目は見合でも、実際はあなたの奥さんと義弟さんと、四人一緒にドライプに行きたいだけ よ
「そういうことになりそうた」 「お大事に」 「まだ他の人にいわないで欲しい」 「もちろんいいません いえるわけはない 、と迪子は心のなかでつぶやく 「とにかくそんなわけで、きみに連絡だけしておこうと思ってね」 「わかったわ」 「じゃあ・・ : : 」 迪子はうなずいて受話器をおいた。 部屋へ戻ると、秋の一日はすでに暮れていた。秋雨は相変わらず続いている。 迪子は単調な雨の音をききながら、また床に入った。 なにかを考えなければいけないと思いながら、その考えが少しもまとまらない。ただ・ほんや けりと暗くなった天井だけを見詰めている。 わ 「お姉ちゃん、どうしたの」 野亮子が再び部屋にきて、電灯をつけた。 またた 瞬間、蛍光灯が瞬き、迪子は明るさのなかに放り出された。 「泣いてたの」
「義弟さんだって、ただ仕事でくるだけしやつまらないでしよう、ついでに見合をしていっ たほうが楽しいんしゃない」 「しかしそんなことをしたら、ワイフにわかる」 「大丈夫、ついでに奥さんもお連れするの。実の弟さんの見合たから、奥さんがくるのは当 いささか悪のりたと思いながら、一度思いついた企みは、さらにふくらんでいく。 「あたし一度、あなたの奥さんを、きちんと紹介してもらいたいと思っていたの」 「そのために、義弟と見合をするのか」 「まあね」 「で、義弟がきみを気に入ったらどうするのだ」 「結婚しようかしら」 「いけない ? け ほおづえ わ迪子は頬杖をついたまま、首を傾けた。 野 「ねえ、これは別に悪いことじゃないでしよう」 阿久津は不機嫌に手に持った煙草を見ていた。 「あたしたち、どうせ結婚はできないのでしよう」 然よ」 る。
「愛について、はっきりと厳しく考えてはいけないのでしようか」 「多分、いけないたろう」 すいか そうめんのあとに西瓜がでてきた。白い氷柱と西瓜の赤の対照が鮮やかであった。迪子はそ の熟れた赤い面を見ながらいった。 「あたし妥協はしたくないのです」 「なにも妥協とか、ごまかしとか、そういうものではない。愛はいつも透明たというわけで はないということだ」 「でも・ : ・ : 」 「この説明ではきみは不満かもしれないが、人間はきみが考えているほど、単純で明快では ないということだが : : : 」 人間はたしかに複雑たと思う。いまこう思っていても、あとでまた別の考えに変わるかもし れない。しかし、だからといって、人間にとって最も大切な愛まで不透明で、どっちつかずで しいとは思えない。 け 「なにごとも簡単にきめつけるものではない」 わ 「あたし、きめつけてなんかいません。でもたた、あの人が結婚していて、奥さんと一緒に 野いるということたけは、はっきりした事実です」 「しかしきみはそれは承知の上たったのだろう」 「もちろん知ってはいました。でも : : : 」
手だと思いませんか」 「もしかして、義兄はあなたを好きなのじゃないでしようか」 「まさか」 思わず迪子は眼を伏せた。 「たって、そうでなければ僕達が近づくのに、いちいちうるさくいうわけはないでしよう」 「紹介した責任があるから、心配していらっしやるんじゃありませんかー 「それならいいんですが、ちょっと冷たすぎるような気がするのです」 迪子はもう一口ジントニックを飲みこんだ。アルコールがゆっくりと全身へ廻っていくのが わかる。 「明日はお姉さんのところへお寄りにならないのですか」 「今回はこのまま、寄らずに帰ります」 斜め前の席にいた外人の一団が去っていく。お喋りの客達が帰って け 「あなたは僕のことを知っていますか」 わふと思い出したように圭次がいう。 野「知っているって ? 」 「名前とか年齢とか、そういうことしゃなくて、僕の月給とか友達とか将来への考えとか」 いわれてみると、たしかに迪子は圭次のそれらについてはなにも知らなかった。 しゃべ 、。、ーは急に静かになる。
仕方なくといった程度のものである。見合をしたくないといえば嘘になるが、したいといって も嘘になる。正直なところ、その中間のところで、迪子の心は揺れている。 「そうか、仕方がないか : : : 」 。ほっりと阿久津がいった。いいすぎたと思いながら、迪子は自分の一撃で男が参っているこ とに、秘かな満足感もあった。 「いつまでも、一人でいるわけにもいかないわ」 いま迪子は、頭のなかでこれから見合をする女になりきっていた。 「やつばり女の幸福は結婚でしよう」 はんばっ 日頃は反撥している平凡な考えが口を出た。反撥していると思っていたのは表面だけで、心 の奥底では肯定している部分があるのかもしれなかった。 いいのかな」 「しかし、好きでもない相手と結婚しても、 「そりや好きな人と結婚できるにこしたことはないわ、でもそれができなければ替りでも仕 方がないでしよう」 「替り ? 「そう、ビンチヒッターよ その一一一一口葉も的確に阿久津を苦しめているらしい。それを知りながら迪子はさらにいう。 「多少、気にいらない人とでも、結婚したら女は結構うまくやっていけるものだと思うわ」
いぶか トイレから出てくると、妹の亮子が訝しそうに迪子を見た。 三十分して、母が朝の食事を伝えに来たが、迪子はまったく食欲がなかった。炊きあげるご 飯の匂いを思ったたけで、また胸がむかついてくる。 「お医者様にでもいってきたら」 「いいの、少し休んでいれば治るわ」 医者にみられたら悪阻であることがわかるかもしれない。そうでなくても母はこういうこと には勘が鋭い。 全身のけだるさのなかで、うつらうつらと眠りながら、迪子はいろいろ考えなければならな いことが沢山あると思った。 圭次のこと、阿久津のこと、妊娠のこと、それぞれに切羽つまって、重要なことである。 だが、といって、それをどうすれ。よ、 。ししか、ということになると、少しも考えがまとまらな い。ただいらたつばかりである。そのまま午前中が過ぎた。 昼過ぎ、また強い吐き気があった。 け吐き気の度にトイレに駈けこんたのでは母に怪しまれる。迪子は洗面器に新聞紙をしいて顔 わを突っ伏したが、今度も吐き気だけでなにもでなかった。 野母が妊娠を知ったら驚くに違いない。驚くどころか仰天して寝込んでしまうかもしれない。 それを思うと憂うつだが、一方で小気味よい気もする。 いっそのことなにもかもわかって、両 ののし 親からも世間からも、「不良娘」と罵られるといい。真面目なお利口さんでなく、あばずれの
95 野わけ すか」 ホテルの出口でみなが待っているところに、阿久津が奥の駐車場から車を運転してきた。 「さあ乗って」 内側から阿久津がドアをあける。 「俺が運転するから、お前と弓子は前に乗ったほうがいいたろう」 「でも、女性は女性同士でうしろに乗ったほうがいいんじゃない。ねえ、有沢さんいかがで 「わたしはどちらでもー 「まずはじめはそうしましよう。圭次、 。ハの横に乗って」 夫人はそういうと、うしろのドアをあけた。 運転席に阿久津、助手席に圭次青年、うしろに夫人と迪子と弓子の三人が坐る。 「さて琵琶湖大橋まで行くとして、どちらから行こうかな」 ひえいざん 「この前は比叡山のドライプウェイから行ったのよね」 「やつばりそれを通ってみようか」 「八瀬のほうからも行けるんじゃありませんか」 迪子の心に、また意地悪な気持が湧いた。 かなた 「八瀬から寂光院を抜けて堅田に出たらどうでしよう」 去年の秋、迪子は阿久津とそのコースを抜けて大橋の手前まで行ったことがある。平日の勤 務のあとで、日の暮れが早く、橋に出る前に引き返してきたが、途中、山道の脇に車を止め、 わき
307 野わけ 七時だっこ。 迪子はなに気なく、阿久津の家へ行ってみようかと思った。 それはこれといった理由もなしに、風の音のなかで、ふと浮かび上がった思いである。 阿久津の家には一度だけ行ったことがある。一年前、阿久津との愛にまだなんの疑いもなか ったころ、ホテルで愛されたあと、彼を先に家へ送った。場所は下鴨神社の裏の閑静な住宅地 であった。人口の小さな繁みの先の玄関の前で、阿久津は少し照れたように手を握った。 その時迪子は、自分へすべての精力を使い果した脱け殻を、妻の許へ送り帰してやるのだと いった、意地悪な気持があった。小さな街灯のなかに消えていったのは、実体のない男の外見 だけなのたと思っていた。 いま、その憎んた相手はもういない。かって妻が待っていた家には呆然と阿久津が一人、な なキ、が・ら すこともなく妻の亡骸を見詰めているかもしれない。 迪子は服を着て、髪を直した。 しようすい 鏡台にうつった顔には、二日間、なにも食べず、考え尽した憔悴が現れていた。 「どうしたの、もう出かけるの」 いつもより一時間も早い身仕度に、母は不審そうに迪子を見た。 「ちょっと、早くからしなければならない仕事があるの」 迪子はそれだけいって家を出た。 この数日の迪子の行動を、母と妹は疑っているようである。なにかあったのだろうかと思っ ぼうぜん
だが気が付いてみると、迪子はやはりこの前のホテルに来ていた。 一週間、焦らされたせいか、阿久津の愛撫はいつもより激しく性急であった。たが迪子も心 の奥では、そのような荒い愛撫を待ちかまえていた。初めは抵抗を示しながら、やがてその波 にもまれ、途中からはむしろ迪子のほうが積極的に燃えてしまう。 登りつめ、すべてを忘れる一瞬を経たいまは、それまでの苛立った気持はきれいに消え、心 けだる 地よい気怠さだけが全身を満たしている。 迪子は本当に不思議だと思う。 いままでは男が卑怯とか、彼の妻に負けたくないとか、誰にも渡したくないとか、そんなこ とばかり考えていた。 それが愛をたしかめあったいまは、すべて他愛なく、つまらないことに思える。どうしてあ んなことにこたわったのか、不思議である。 少し前までは、相手に思いきり冷たくしてやろうと心に決めていたのが、いまはそのかけら もない。。 とうしてこんなに自分が素直で優しくなれるのか、あまりのあっけない変節に迪子は 自分であきれてしまう。迪子はこの変節の理由を男に抱かれたから、とは思いたくない。もう 少しそれらしく、なにか精神的な理由が欲しいと思う。たが考えてみても、意地悪な心から、 めぼし 優しい心に変わった間には、愛撫を受けたこと以外、目星い変化はなにもない。もう少しなに かがほしい 考えあぐねた末、迪子はふと、あの時血を見ていたからではないかと思った。 あいぶ