六カ国・地域 ) 企業の買収は、九八年上期に一二〇億ドルと、前期比三・五倍のペースである ( 米調査会社「セキュリティーズ・データ、による ) 。 アジア経済の破綻は、円高攻勢を逃れて形成された日本経済のフロンティアの崩壊を意味す る。先の『 : ・ : レビュ 1 』誌に掲載された写真が示唆するところは、日本もまた、アジア諸国 と同様、アメリカの実質的コントロール下で経済の再建をはからねばならない、少なくともア メリカはそう認識しているということである。 なぜ、このような現実を迎えなければならなかったのか。円高対応という守りの選択ではあ ったが、対アジアの直接投資は、本来は円圏成立のための基礎的条件を醸成するはすであった。 ところが、アジアが実質ドル圏であるために、日本の投資はかえって日本経済をドル圏に深く 組み人れる結果となっている。 ここで想起されるのが、八〇年代、マレーシアのマハティール首相が提唱した 0 (East Asian Economic caucus) 構想である。この「東アジア経済協力体、構想は、当時、アジ アにおける円経済圏への展望を示したものとして注目された。こうした動きが実を結んでいれ ば、の域内では、九七年のような危機は回避され、円基軸の安定した投融資の恩恵を 日本も域内国も、ともに享受できたはすである。また、そうした円経済圏を背景としてはじめ て、日本は円の対ドル・レートを相対的に安定させ、世界最大の債権国としての本来的な対外 ワ 4
れ、用地や道路などインフラの提供や、税制金融面での支援を受けたりもした。 だが、ジャパン・マネーは、さらにドル安で割安化したように見えた不動産の取得、企業の & < など実物投資にも向かった。これが命取りになった。不動産投資は、ずばりプラザ合意 以降の現象だが、早くも八八年には一六五億ドルというピークをつけた。不動産投資では、特 定地域への集中が顕著で、具体的にはハワイのホテルとニューヨ 1 クやロサンゼルスのオフィ スビルが投資対象として選択された。いずれも日本になじみがあり、確実な投資対象のように 見えたのであろう。「アメリカ人の魂を買った」と非難されたニューヨークのロックフェラー ・センターを含め、こうした実物投資が産み落とした政治的風圧は、その後のアメリカの対日 経済政策に微妙な影を落とす。 米国内には、ジャパン・マネーが財政・経常赤字を支えてきたことにさえ、好悪相反するア ンビバレントな感情があり、これが実物投資となると、目につきやすいものだけに、反応はよ り直截になる。日本の直接投資の立地傾向が偏るなかで、置き去りにされた形の既存工業地域 に依存している労働組合、少数民族を中心に、日本の投資を非難する世論が形成されやすかっ た。日本は、経済の論理では可能な、唯一残された為替変動の果実の享受を政治的に阻まれて しまったのである。
財政負担を講すること。 しかし、そのドイツも十年後の七〇年代末には、ドルと訣別する道を選択している。これは すでに見たとおりである。 ドイツにくらべて政治的自由度の少ない日本は、経済面でも健全な自主的思考能力を喪失さ せていた。それを世界に示した点で、プラック・マンデーに対する日本の反応はまことに象徴 的であった。 実物投資へ ドル安転換で米国債投資が膨大な為替差損を生んでいたにもかかわらす、ジャパン・マネー は当局の指導よろしきを得て、引き続きドル債への投資を継続していた。だが、その一方で、 為替リスクの少ない直接投資に資金をふり向けようという試みも目立つようになっていた。 工場や店舗の対米進出、あるいは不動産取得などの実物投資が、日本企業の新たな投資戦略 として浮かび上がる。ドル債の継続などと違って、これらの新規投資は、今までに為替差損を 被っておらず身軽であるうえ、ドル安で円の購買力が上昇し、米国内資産が割安化したことの メリットを、フルに享受できるように思われたからである。 工場進出などの直接投資は、長期にわたってドルの世界で利益を得ようとするものであるし、
一方、年ごとの投資純収入 ( 対外投資で得られる利子等の収人から自国への投資に対して支払う利 子を差し引いたもの ) も、比で、 三・五 % ( 一八七〇—七四年平均 ) 六 % ( 一八九〇—九四年平均 ) 七・二 % ( 一九一〇—一四年平均 ) と増え続けた。 概算してみると、当時のイギリスの投資家は、一八五六年から一九一三年の五十七年間に、 海外投資額に対してその一三〇 % の利子・配当を受け取っていた計算になる。しかも、海外投 資のなかでも債券の比率が高かったため、所得は安定し、国内の景気の変動を緩和する作用も 亡果たしていた。 のイギリスの債券投資は、対ョ 1 ロッパに始まり、国際的な工業化の進展にともない、植民地 大インドのプランテーション、そして新大陸アメリカへと展開した。これらの地域では、工業化 イにともなう鉄道等のインフラストラクチャー整備、さらには農業開発などで、イギリスにとっ マ て投資機会が大きく、ピーク時の一九一三年にはアメリカ、カナダ、アルゼンチンの三国向け 一で、全投資額の四割近くを占めるにいたっている。 「大西洋経済ーという一言葉は、当時のイギリスを中心とした物とマネ 1 の流れを総体的に捉え
不動産などの実物投資は、その後の値上がりがドル安を相殺するかもしれないという点で、唯 一残されたポートフォリオ投資であった。 八〇年代半ば以降、日本の対米直接投資は急増した。ドル・べースで八四、八五年には前年 比三—四割、八六年には倍増といった増勢である。この結果、累計額としては三五〇億ドル ( 八七年三月末、大蔵省による ) となり、これは日本の全地域への投資額の三分の一を占め、投 資先一国としてはむろん最大となった。アメリカは、直接投資の相手先としても、日本にとっ 馴て最大、最重要の比重を持つにいたった トとはいえ、これをアメリカから見ると、日本から見た場合ほどの比重を持っているわけでは なかった。米商務省によると、日本の対米直接投資残高は八七年末に三三〇億ドルで前年末よ 病り約二四 % 増えた。ただし、それでも全地域からの合計額のなかでは一三 % にすぎない。日本 調の対米投資は歴史が浅く、先行のイギリス、オランダに次いで残高ではなお第三位であり、イ 策ギリスの七五〇億ドルにくらべれば半分以下の規模だった。 政 際 問題は、絶対水準ではまだこのレベルにおりながら、日本の対米直接投資は、なぜか現地で 国 のプレゼンスが目立ちすぎる性格を持っていたことである。 = 一工場などの対米直接投資は、既存の東北部の「錆びついた」工業地帯 (Rust Be1t) を避け、 南部あるいは西部に対して行われる傾向があり、立地した各州から雇用創出などの点で歓迎さ
「強いアメリカ」を掲げる共和党のロナルド・レーガンが、八〇年代の大統領として選ばれた のは、こうした背景のもとにおいてであった。 たちまち債務国に アメリカのマネー経済は、レ 1 ガン政権の下で急激な変貌を遂げる。パクス・アメリカーナ の安定期である五〇年代から六〇年代にかけて、世界の資本市場では、アメリカを中心とした、 ビクトリア循環のミニチュア版とでもいうべき資本の流れが観察されたが、八〇年代にはこの 資本の流れが大きくねじれ、やがて覇権国のマネーのふるまいとは似ても似つかぬ姿に変質す つの間にか組み人れられていたのが日本 る。その結果姿を現した新しい資本循環の回路に、い であった。 アメリカのマネー パワーの減衰は、八〇年代に入ると顕著となった。経常収支は八三年か ら赤字の拡大が目立ち、これを埋めるため、海外からの投資が盛んに行われ、アメリカは、海 外からの投資額が同じ時期の対外投資額を上回る、資本の純輸人国になった。海外からの投資 は、当初はもつばら直接投資が主役であった。八〇年代前半、ドル高であったにもかかわらず、 アメリカ多国籍企業による対外直接投資の増勢は弱く、逆に対米直接投資の方は日本からをは じめとして急速に伸び、アメリカは、直接投資のフローで、たちまち大幅な受入超過となって
米国債投資にともなう為替差損へのバッフアとして、とくに大蔵省が機関投資家に米国債投資 と、 いっそう現場に即した解釈をとるものだが、少な を強制する材料として強く作動した くとも、このヴァイナーの結論は、先にあげたドラッカーの表面的観察よりは、事実に肉薄し ているといえるだろう。 いずれにせよ、米国国債の利回りといった内外金利差や、為替レートの予想変化率など、標 準的な教科書にある「要因候補」では、八〇年代後半から九〇年代に入るまでの日本の海外投 資の動きがほとんど説明できなかった、という点は重要である。それは、日本のドル債投資が、 いかにポートフォリオ投資としての合理的な範囲を超えていたかを何より雄弁に語っている。 ウォール街を守れ ところで、バブル経済の特異な状況を背景に行われた「政策協調」とは何だったのだろうか。 八〇年代後半の対米投資は、それなりに資産の最適運用をめざした八〇年代前半の投資とは著 しく異なり、対米資金供給を是とする「国策」に、民間資金が協力したという性格が色濃く現 れていた。プラザ合意が生み出した対米資金流人への障壁 ( Ⅱ過度のドル安 ) は、経済のレベ ルでこれを乗り越えることはもはや不可能であって、それを取り繕うために、さしあたり日米 これこそが金利調整をめぐる政策協調の本当の姿であろう。 間の政治力学が利用された
一時的に資金の環流も滞ったが、ここにふたたび日本側の銀行救済のための低金利が、クリン トン政権のドル高政策への転換を背景に対米資金供給を加速させていた。 為替リスクに曝される老後資金 九六年、わが国全体としての資本収支の帳尻を見ると、邦銀の規制への対応にともな う海外資産の圧縮などから、流出超三兆三五〇〇億円と、対外マネー純供給額の減少 ( 円ベー ス ) がさらに進んだことを示している。しかし、そのなかで、対外証券投資だけは、債券を主 体に、純増分・四兆五一 C)O 億円というレベルに達している。九八年には一—三月分だけで三 兆五七〇〇億円。これは、日本の経常黒字にほば見合う数字で、超低金利政策のため、国内に ア合理的な投資対象を見出せなくなった生保などの機関投資家などが、やむをえす米国債投資を ア再開した事情を物語っていよう。 賺機関投資家ばかりではない。超低金利のもとで、個人マネーも、外債投資に向かった。銀行 ネは不良債権を抱えたまま、空前の低金利による高収益を確保している。年金生活者などの立場 マ から見れば、本来、国内で得られるはずの利子所得を金融機関に移転させられたうえ、生活防 五衛のため、乏しい金融資産を為替リスクにさらしていることになる。デュアル ( 二重通貨 ) 債 のような「新商品」がプ 1 ムになっているのは、本来の円建てによる対外資金供給チャネルの
業の競争力に早くも黄信号が点り始めていたことを示しているが、マネー循環の立場から見れ ば、この赤字は、イギリスが自国通貨のポンドを、基軸通貨として国際的に散布するチャネル が満足に機能していた証しでもあった。 イギリスの貿易赤字は、二〇世紀に入っても続いたが、その間、経常収支べースでは常に黒 字であり、しかもその黒字幅は拡大基調にあった。なぜだろうか。 イギリスは、世界の商船隊の約三分の一を擁する大海運国として、海運収人によって貿易赤 字を埋め、経常黒字を維持していた。しかも、この経常黒字がさらに海外への投資に向かった ため、その利子収入が、もともと大きかった海運収人に加わり経常収支の黒字をいっそう引き 上げた。増加した経常黒字はさらに海外投資に向けられる。「海外投資↓利子収入による経常 黒字増↓海外投資ーという循環のなかで、一九世紀後半には、黒字の雪だるま式増大の過程が 明確に見てとれるようになった。 このプロセスを数字を追って確認してみよう。 ビクトリア時代の海外投資残高は、一八七〇年の約七億ポンドから一九〇〇年末には約一一四 ヒークとなった第一次大戦前の一九一三年には約四〇億ポンドにまで達した 億ポンドに増加、。 と見られる。この年のイギリスのは二三億ポンド強と推定されるので、海外投資残高は ピーク時において、 Z の約一・七倍の規模だったことになる。
第三章国際政策協調の病理 1985 ~ 1990 ( 兆円 ) 6.4 日本の海外投資と不動産融資の関係 Richa1 ・ d Weiner; Japanese Foreign lnvestment and Land Bubble"Review of lnternational Economics, 円 94. ーー海外投資 ・・・不動産関連融資 0 一方、日本の政策当局は何を考えていたか。 プラザ合意後も、米国債投資に向けて、民間の 資金を動員するーー当時、どこまで意識された かは不明だが、これはかなり大胆で重要な意思 決定だったといえるであろう。なぜなら、日本 側にとって、いったん深く足を踏入れた以上、 米国の経常収支赤字が続く限り、日本がこれを 埋め続けなければ、ドルの暴落を引起こす危険 性がある。ドルが暴落すれば、それまでに投資 され、ドルに姿を変えたジャパン・マネ 1 はさ らに大幅に減価する。そうならないようにと、 皹ドル債投資を続けることが、唯一の方策となっ てしまった。一蓮托生、ドルと運命をともにす る。これが日本側から見た「ドル買い第二幕 の基本的構造である。 国際政治面はともかく、経済面では独自の構 7