動かぬ米国産業 クルーグマンの唱える「ヒステリシス」の仮説においては、貿易収支が顕著な変化を示さな い理由として、日本企業とアメリカ消費者の行動パターンが分析されているが、そこには不思 議なことにアメリカ企業の姿がない しかし、アメリカの慢性的な貿易赤字は、アメリカ ( 系 ) 企業の多国籍展開、海外調達によ る生産の実質海外移転、さらには輸入品に敗れての完全な市場からの撤退など、さまざまな要 因がからみ合って、米国内の生産基盤の縮小をもたらした結果ではないのだろうか。為替レー トが大幅に変化し、競争条件が有利になっても、米国内での生産再開が難しいというのであれ 四ば、アメリカ企業の側にもクルーグマンの一言う「ヒステリシス、に似た何かがあると考えるべ 病きであろう。 調かって筆者は、プラサ合意後の円高も、アメリカの貿易収支にさしたる変化はもたらさない 策だろうと予想し、アメリカの産業構造の「不可逆性を強調したことがある ( 「転換過程のアメ 際リカ経済と日本。『世界経済評論』一九八六年四月号 ) 。ドル安への転換はあっても、ドル高下でい ったん形成されたアメリカの生産・供給体制が、もとに戻ることはあるまいと考えたのである。 章 三いま、この点を多少展開してみると、国内の生産基盤を縮小 ( ないし極端な場合は廃止 ) して しまった場合、その再開への障害として、
「強いアメリカ」を掲げる共和党のロナルド・レーガンが、八〇年代の大統領として選ばれた のは、こうした背景のもとにおいてであった。 たちまち債務国に アメリカのマネー経済は、レ 1 ガン政権の下で急激な変貌を遂げる。パクス・アメリカーナ の安定期である五〇年代から六〇年代にかけて、世界の資本市場では、アメリカを中心とした、 ビクトリア循環のミニチュア版とでもいうべき資本の流れが観察されたが、八〇年代にはこの 資本の流れが大きくねじれ、やがて覇権国のマネーのふるまいとは似ても似つかぬ姿に変質す つの間にか組み人れられていたのが日本 る。その結果姿を現した新しい資本循環の回路に、い であった。 アメリカのマネー パワーの減衰は、八〇年代に入ると顕著となった。経常収支は八三年か ら赤字の拡大が目立ち、これを埋めるため、海外からの投資が盛んに行われ、アメリカは、海 外からの投資額が同じ時期の対外投資額を上回る、資本の純輸人国になった。海外からの投資 は、当初はもつばら直接投資が主役であった。八〇年代前半、ドル高であったにもかかわらず、 アメリカ多国籍企業による対外直接投資の増勢は弱く、逆に対米直接投資の方は日本からをは じめとして急速に伸び、アメリカは、直接投資のフローで、たちまち大幅な受入超過となって
また、内心、アメリカ大統領と共同して対ソ冷戦にあたる戦友のつもりでいたのであろう。 冷戦構造を背景に眺めると、日本経済は西側のホープであった。サッチャー英首相は、こう した日本の姿を、資本主義経済の成功モデルとしても貴重なものたと評価していたし、アメリ ・プレジンスキーの、日米経済が融合した「アメリッ 力の有力な戦略家とされるズビグニュー ポン」説も、アメリカ側にとって都合のよいモデルを提示したものと理解される。 このように見てくると、八〇年代前半、日米は共同して「強いアメリカ , 「強いドル」を演 出していたともいえる。 もちろん、日米両国の国民にとって、それぞれの経済は別個の現実である。アメリカ国民の 前には、減税が消費を刺激するなどして、八二年から息の長い上昇に入ったアメリカ経済があ 3 った。レーガン政権が、この成果に、日本からの借金に支えられて米国民は「生活水準」を落 想とさないですんだ、などと解説をつけるはすはない。 一方、にわか大債権国・日本の投資家の方は、アメリカ国債が安全有利な投資先と見えたの 米で委細かまわずに殺到したといったところだろう。 日 しかし、もし日本からの資金の流人が途絶えた場合、アメリカにとって、経常赤字の大幅な 二圧縮が不可避であったことは、ギルピンが断定するとおりである。レーガノミックスは挫折し、 国民は消費を大幅に削減しなければならなかった。また、軍事的に見ても、冷戦末期の様相は
につき合ってしまったのが、八〇年代の「円」であった。 もっとも、七〇年代は、ある意味でドルの価値の不安定さが露呈することなく過ぎていった ともいえるたろ、つ。 七三年には、石油危機が世界を襲ったが、アメリカは石油消費量の半分を国産でまかなって と、外為市場はアメリカ経済のファンダメンタルズ ( 基 いた。産油国通貨だからドルは強い、 礎的条件 ) よりもそのことを評価した。また、ドルは「有事に強い」通貨としても評価され、 相対的に上昇さえ見せていた。 ところが、ドル相場が安定していたのは七六年までで、七〇年代後半には、アメリカの経常 収支の趨勢的な悪化が顕在化し、政府当局者の口先介入を契機に、ドルはたちまち下がり始め 亡る。その間、アメリカは、ついにベトナムで建国以来はじめての敗戦を体験。七九年にはイラ のン革命が発生し、これが第二次石油ショックとなって国際経済を揺るがすが、特にアメリカに 大とっては、在イラン大使館人質事件という悪夢と重なり、政治的威信を傷つけることになった。 ネさらにソ連によるアフガニスタン侵攻で、アメリカは冷戦下における西側の盟主として政治的 マ 対応をも迫られた。 一金ドル本位制の放棄に始まる七〇年代は、基軸通貨のドルにとっても波乱の十年間であった が、アメリカは政治的にもパクス・アメリカーナの維持再編に汲々としていたといってよい
対外資産と政治的パワー やがて各国で戦後の復興が進むと、アメリカの次の戦略は、ドルによる対外投資である。こ れによってアメリカのマネー 、ワ 1 はいっそう強固なものになる。 四〇年代から五〇年代にかけて蓄積した貿易収支の膨大な黒字を、対外投資にふり向けるこ とによって、アメリカは六〇年代には資本輸出国として絶頂期を迎える。その中軸はひき続き 直接投資で、アメリカは、化学、石油、自動車などの生産、販売拠点をヨーロッパに移動させ ている。それは当時のヨーロッパ人に、「アメリカの挑戦」 ( セルバン・シュレベール ) と映り、 少なからぬ脅威感を抱かせた。 亡一九六〇年の時点では、対外資産 ( 八六〇億ドル ) のうち、直接投資は三七 % でヨーロッパ 向けはさらにその二割に過ぎなかった。それが十年後の七〇年には、「アメリカの挑戦」の結 大果、対外資産は一六六〇億ドル、その五割近くを直接投資が占め、その三分の一がヨーロッパ ネに向けられるまでになった。製造業の場合、七〇年の海外生産比率は、資産べースで一〇 % 弱 マ にまで高まったと見られる。 一対外債権が、一定の政治的パワーを生み出すことをアメリカはよく認識していた。五六年、 エジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化宣言に対して、イギリスはフランス、イスラ
エルを誘ってスエズに出兵する軍事干渉を試みたことがある。ここではアメリカの間接投資が、 意外な政治的パワーを発揮している。このときアメリカは干渉に強硬に反対し、イギリスが応 じなければ保有する英国債を売却すると警告した。英仏の行為は時代の変化を読みそこなった 帝国主義の残滓にすぎなかったろうが、アメリカにとっては、軍事力のみならずマネー・ ーもまた、国際的政治力を発揮するための有効な手段となり得ることを確認する、またとない 機会となった。 鎖を断った基軸通貨 しかしながら、債権大国アメリカの覇権も長くは続かなかった。六〇年代に入ると、早くも アメリカからの資本流出が、逆にドル不安を招くといった現象も発生し、ケネディ大統領によ ってドル防衛策が打ち出される。さらに六〇年代後半にかけては、アメリカの貿易収支が黒字 幅を狭め、七一年には戦後はじめて貿易赤字を記録するにいたる。 七一年八月、ニクソン大統領は「新経済政策。を発表して、世界経済に衝撃を与える。いわ ゆるニクソン・ショックである。この新経済政策のマネー戦略としてのポイントは、金・ドル の交換を停止したことで、これ以後、ドルは金の束縛から逃れ、その価値の変動が世界経済を 混乱させる独特の基軸通貨となった。
かなり異なるものになっていたにちがいない が、ともあれ、アメリカの経常赤字は続いたし、ジャパン・マネーの補給も滞ることはなか った。八四年にはいっそう成長が加速するなかで、「アメリカの夜明け」を謳ったレーガン大 統領は楽々と再選を果たしたのだった。 八〇年代の前半という時期は、七〇年代以来、経常黒字基調となった日本が、突然、大債権 国として頭角を現し、アメリカは、逆に、経常赤字を累積させて債務国に転落するにいたる、 戦後の国際経済史に特筆されるべき五年間であった。前章で述べた歴史的見方に従うならば、 この現象はまぎれもない「中心的債権国の交代」である。この重大な現実の推移が、いまふり 返ると、きわめてスムーズに進行したように見えるのは、やはりアメリカにとって日本が対ソ 冷戦の「戦友」だったためだろうか。アメリカ人に豊かな消費生活を保証したあげく、冷戦が 終わると、日本は一転、「経済的脅威」とまで認識されるようになる。八〇年代前半、日米両 国はまことに奇妙な共同幻想にとらわれていたというほかはない。 金利ただ乗り論 もっとも、当時、突然のように現出した、二つの経済大国の一体化と貿易・資本の両面にわ たる非対照性は、国際経済の現実としてきわめて異様な事態ではあった。覇権国アメリカの経
ク」にも回ったであろう。アメリカの場合は、同じ株式・社債発行額に対して純投資が一〇〇 〇億ドルある。また、アメリカの場合は、株式・社債の発行と借入金の増額がほば平均して行 われており、日本のように前者に極端にシフトしていることはない。 株による資金調達を主力とし、さらにエクイティ・ファイナンスへのシフトによって、八〇 年代、日本企業は資金調達コストを平均二 % 台で推移させており、五 5 八 % のアメリカ企業と の間に大きな格差を生じさせている。これが、生産要素価格の内外同一性をも「公正な競争ー のスタート・ラインに置こうとするアメリカ側に、いわばつけいる隙を与えていた。 アメリカの半導体業界などは、資本コストの格差が産業の競争力を左右するという点を指摘 して、だから日本とは公正な競争ができない、 といった主張を展開してきた。あまりに企業側 の利益に偏った資金調達のあり方が、アメリカに必要以上の警戒感を抱かせてしまったようで ある。 だが、対米格差そのものよりも、日本側としては、低い調達コストが合理的で堅固な基礎に 基づいているのかどうかが、じつは大問題であった。 たとえば、規制をクリアすべく、エクイティ・ファイナンスによって中央突破をはか った銀行の場合、それはどうだったか。株式市場の水準を示す指標としては、値動きの激しい 日経平均に対して、対象銘柄の株式総数まで考慮に入れたが、より実態に近いとさ 108
れるかもしれないが、現実に展開したバブル崩壊へのプロセスを検証すると、実際、それを全 面的に否定することは難しい 同しバブル時代の日本経済のパフォーマンスを、アメリカの経済政策中枢と日本の一般国民 が、それぞれにどう受け止めたのか。そこから、どのような「共闘の力学が生じたのか。 アメリカ側の事情から見ていこう。 一つまでも 八〇年代の末期から九〇年代にかけて、国際政治の面では大きな変動があった。い なく冷戦の終結がそれである。ソ連という「悪の帝国ーを共通の敵として意識しなくなった日 米関係のなかで、とくにアメリカ側の対日認識が、それなりに変質せざるを得なかったのは当 然であろう。にわかに元気づいたアメリカの日本異質論者に、「ノーと言える日本、を標榜す る日本側のナショナリズム いま、こうした当時の日米関係を背景にふり返ると、日本のバ プル経済の絶頂期において、アメリカの対日経済戦略に、通商派、資本市場派といった立場の 相違を超えた明白な変化が兆していたことがわかる。 八〇年代後半の低金利政策が結果としてバブル経済を生み、そのバブルによって「国際政策 協調」が成り立ち、対米資金流人が維持されていたことはすでに見たとおりである。その限り では自身にとってもメリットの大きかった日本のバブル経済を、しだいにアメリカは「脅威」 として認識するようになる。その最初の端的な現れは、邦銀のマネー パワーを減殺すべく設
依存の道を選んでしまったかを、いっそうあからさまに示していた。それはアメリカが貿易収 支の不均衡是正に失敗した以上に深刻な間題を、今度は日本に突きつけることになった。 アメリカにとって、大幅なドル安への転換にもかかわらず、目に見えた貿易赤字の圧縮が実 現できなかったことは、たしかにちょっとした誤算ではあったろう。アメリカ産業の「不可逆 性についてはある程度まで予想できたにしても、為替と貿易収支全般を時間差を挟んで結び つける「ヒステリシス、理論は、いわば後講釈であって、レーガン政権が、あらかじめこれを 頭に人れていたとは、とうてい考えられない。もしそうであれば、より早期にドル安への転換 こ迫っている を図るか、あるいは強力な輸人抑制措置をとったであろう。対外債務国化が目前 ! というのに、なお「教科書」を信していたアメリカの通商政策担当者にとって、全ては遅過ぎ た感もある。 しっそう深 しかし、予想の範囲を大きく越えたドルの下落が、日本側にもたらした被害は、ゝ 刻であった。 八〇年代の初めから日米間の金利差やドル高の趨勢を誘因として、膨大なジャパン・マネー がアメリカに流人したが、急激な円高・ドル安で、それら日本のドル資産は四割も価値を失っ てしまった。アメリカ国債を買いまくった生保などの機関投資家、証券会社の勧めるままにそ れを購人した個人投資家に、巨大な為替差損が発生したのである。ドルの急激な減価は、日本