イギリス - みる会図書館


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1. マネー敗戦

たものだが、それは「周辺部」の新入植地を、自国への食料や原料の供給地として組み込むた めに、イギリスが、労働 ( 移民 ) と資本を供給していたという考え方である。当初は英・米二 国の経済関係を意味していたが、やがてはカナダ、オーストラリア、アルゼンチンをも包括す る経済圏をさして使われるようになってくる。 こうした「大西洋経済」は、アメリカ、カナダ、オーストラリアに関していえば、人種、言 語などに同質性が認められる。経済圏としては閉鎖体系であり、イギリスの海外投資はいわば その掌の中で行われていたともいえるだろう。 ところで、資本循環の面で「大西洋経済」を成立させていたイギリスの海外投資は、何が原 因で隆盛をきわめたのか。その動因は結局のところ「内外金利差ーにあった。 当時、アメリカ国債の長期金利がイギリスより高かったのは、文字通り海を隔てた国への投 資がはらむ心理的リスク、債務不履行リスクを埋め合わせるためであって、アメリカの側から 見れば資本の誘引に腐心していたということになる。民間の鉄道債券等の場合は、希とはいえ ない倒産のリスクがこれに加わったから、アメリカ企業の支払い金利は当然、政府証券よりも 高かった。 こうしてイギリスは、貿易と海外投資を通じ基軸通貨ポンドを国際的に散布し、回収してい ったのである。「シティー」 ( ロンドン金融市場 ) 、なかでもポンドの守護神だったイングランド

2. マネー敗戦

て第二次大戦後にはパクス・アメリカーナが確立することになるわけだが、それでも投資収益 等の寄与によるイギリスの経常収支の黒字は、驚くべきことに、一九八六年まで崩れなかった。 九〇年代に人って経常赤字国に転じることはあっても、債務の累積が長期にわたって資産残高 を越えるということはなく、イギリスは、日本、ドイツに次ぐ世界第三位の純資産国 ( 対外資 産残高が債務残高を上回っている国 ) として踏みとどまっている。いかに一九世紀からの対外投 資が手厚かったかを物語るものといえよう。 一方、鉄道建設などに、主としてイギリスから大量の資本を導人していたアメリカは、第一 次世界大戦前には世界最大の工業国の地位を固め、大戦を契機に債権国、資本輸出国に変貌を とげていた。第一次大戦の圏外にあったことが幸いして、工業力を無傷のまま維持できたため、 亡戦中から輸出を急増させ、ありあまる外貨で負債の償却や直接投資を行うことができた。その の結果、第一次大戦後の一九一八年には、の八 % 近い対外純資産を持つにいたっている。 大さらに一九三〇年には海外投資残高がイギリスとほば肩を並べ、その後はまたたくまに差を広 ネげて、「中心的資本輪出国ーの座についたのである。 マ イギリスのケースとは異なり、アメリカの民間対外資産の中では直接投資が半分以上と、そ 一の中心を占めていた。地域別にみると、第二次大戦までは、アメリカが軍事的、政治的影響下 においていた「内庭」の中南米諸国が主要な投資の対象であった。

3. マネー敗戦

一方、年ごとの投資純収入 ( 対外投資で得られる利子等の収人から自国への投資に対して支払う利 子を差し引いたもの ) も、比で、 三・五 % ( 一八七〇—七四年平均 ) 六 % ( 一八九〇—九四年平均 ) 七・二 % ( 一九一〇—一四年平均 ) と増え続けた。 概算してみると、当時のイギリスの投資家は、一八五六年から一九一三年の五十七年間に、 海外投資額に対してその一三〇 % の利子・配当を受け取っていた計算になる。しかも、海外投 資のなかでも債券の比率が高かったため、所得は安定し、国内の景気の変動を緩和する作用も 亡果たしていた。 のイギリスの債券投資は、対ョ 1 ロッパに始まり、国際的な工業化の進展にともない、植民地 大インドのプランテーション、そして新大陸アメリカへと展開した。これらの地域では、工業化 イにともなう鉄道等のインフラストラクチャー整備、さらには農業開発などで、イギリスにとっ マ て投資機会が大きく、ピーク時の一九一三年にはアメリカ、カナダ、アルゼンチンの三国向け 一で、全投資額の四割近くを占めるにいたっている。 「大西洋経済ーという一言葉は、当時のイギリスを中心とした物とマネ 1 の流れを総体的に捉え

4. マネー敗戦

外国資本の流入で工業化を推進していた経常赤字国は、経常収支の黒字化とともに債務の返 済を始め、いすれ返済し終えたあとは未成熟の債権国となる。やがて年を追うごとに増加する 経常黒字がそのまま資本輸出に結びつき、やがては成熟債権国の段階にいたる。しかし、成熟 期は永遠には続かず、ピークを過ぎると、その後は経常収支の赤字化などによって債権をとり くすすようになる。 債権がとりくずされ、成熟債権国の看板を降ろしたあとはどうなるのか。おそらくは債権小 国として生き残る道が想定されているのであろう。 イギリスこそは、この「発展段階説」のモデルというべきで、ビクトリア循環は成熟段階に いたった後、第一次世界大戦をきっかけに変調を来す。 イギリスは、新興工業国・ドイツと対決する連合国側の盟主として戦費を調達するために、 アメリカなどから借り人れを行う一方、自らの購人してきた米国債や連合国側の保有する大量 の債券類をニューヨーク市場などで売却した。さしもの対外資産も、相当の侵食を余儀なくさ れ、イギリスの大債権国としての基盤を揺るがしたが、これに拍車をかけたのが、一九二九年、 ウォール街の大暴落を契機とする世界恐慌であり、それに続く一九三〇年代の世界経済の混乱 であった。 イギリスの中心的債権国としての地位は後退し、資本輸出の中心はアメリカに移る。こうし

5. マネー敗戦

業の競争力に早くも黄信号が点り始めていたことを示しているが、マネー循環の立場から見れ ば、この赤字は、イギリスが自国通貨のポンドを、基軸通貨として国際的に散布するチャネル が満足に機能していた証しでもあった。 イギリスの貿易赤字は、二〇世紀に入っても続いたが、その間、経常収支べースでは常に黒 字であり、しかもその黒字幅は拡大基調にあった。なぜだろうか。 イギリスは、世界の商船隊の約三分の一を擁する大海運国として、海運収人によって貿易赤 字を埋め、経常黒字を維持していた。しかも、この経常黒字がさらに海外への投資に向かった ため、その利子収入が、もともと大きかった海運収人に加わり経常収支の黒字をいっそう引き 上げた。増加した経常黒字はさらに海外投資に向けられる。「海外投資↓利子収入による経常 黒字増↓海外投資ーという循環のなかで、一九世紀後半には、黒字の雪だるま式増大の過程が 明確に見てとれるようになった。 このプロセスを数字を追って確認してみよう。 ビクトリア時代の海外投資残高は、一八七〇年の約七億ポンドから一九〇〇年末には約一一四 ヒークとなった第一次大戦前の一九一三年には約四〇億ポンドにまで達した 億ポンドに増加、。 と見られる。この年のイギリスのは二三億ポンド強と推定されるので、海外投資残高は ピーク時において、 Z の約一・七倍の規模だったことになる。

6. マネー敗戦

英国のビクトリア循環 歴史が近代の扉を開いて以後、世界には、工業化による豊富な経常収支の黒字を、対外投資 にふり向け、世界の資本移動の中心軸となった国々があった。時代順にあげれば、イギリス、 アメリカ、そして日本である。これら三国を歴史上の「中心的債権国」もしくは「中心的資本 輸出国」と呼んでおこう。 近代世界にはじめて大債権国として姿を現したのはイギリスで、とくに時の女王の名を冠し て呼ばれた「ビクトリア時代」 ( 在位一八三七—一九〇一年 ) は、「世界の工場」「世界の銀行」 の呼称とともに、イギリスの覇権時代として歴史に名をとどめている。 はじめに、「経常収支」についてひと一一一口。 私たちが新聞の経済面などでよく目にする「経常収支 . という言葉は、輸出と輸人の差額を 表す貿易収支にくらべて、ややわかりにくい。 経常収支は、「貯蓄Ⅱ投資バランス」と言われるように、一国の経済の民間部門と政府部門そ れぞれの、国内投資に対する貯蓄の過不足を合算した数字だと定義されることがある。 また、一面では対外取引関係の面から説明されることもあって、この場合は貿易収支が経常 収支を左右する主要な要因となるほか、他にも貿易外収支として海運などのサービス収支、投 資収益なども影響を与えたりする ( 最近では貿易収支とサービス収支を合算して貿易・サービ

7. マネー敗戦

対しており、三一年になって、イギリスが金本位制を持ちこたえられす、ポンドが切り下げら 。いたったという。 れたとき、ようやくイギリス経済の前途を楽観するこ スウェーデンの経済学者バーティル・オーリンは、イギリスによるポンド切下げの数日後に、 こうした内容の手紙をケインズから受けとっている。この事実を自らのノーベル経済学賞受賞 ( 一九七七年 ) の記念講演で回顧しながら、オーリン自身も、通貨の過大評価が過大評価された 国のみならず世界経済に悪影響を与えたと指摘していたのである ( 『アメリカン・エコノミック ・レヴュー』九三年十二月号 ) 。 ここで、九二—九五年の公共投資が目に見えた効果を生まなかったのはなぜか、という間題 四を、あえて整理すれば、次のように考えることもできるのではないだろうか。 一般に通貨の過大評価が不況を招いている場合、景気対策の正面に据えるべきはその是正で あって、財政拡大ではない。九二年秋の「総合経済対策。以降、六次にわたる景気対策Ⅱ総額 逆六五兆円のうち、いわゆる「真水、部分を約半分の三三兆円と見積もると、それは財政出動と 米平行して進んだ円高による対外純資産の差損 ( Ⅱデフレ効果 ) によって、ほば帳消しにされて 日 しまったのではないか ( 一四七頁図参照 ) 。九二—九五年に発生した為替差損をあらためて数字 四で示すと、九五年四月の円高ピーク時までで約二九・三兆円、九五年の平均レートをとっても 二〇・六兆円に及んでいる。これでは景気浮揚効果がかぎられるのも当然たろう。 49

8. マネー敗戦

カ ドイツの場合は、ユーロ・マルクによる起債を中軸に据えて認め、発行後は債券をドイツ国 内のいすれかの市場に上場することを求めた。実際にはフランクフルトが国際資本市場として 育ってゆくことになる。イギリスでも、ほば同様の方法がとられた。金融立国のスイスでは海 外の発行体にも国内起債を原則とし、これを、証券を兼営する三大銀行中心に取り仕切ること こよっこ。 日本の場合はどうであったか。七〇年代の変動相場制の時代を迎えて、円の安定のためにも 「円の小世界」を展開していくことの重要性がいよいよ高まっていたが、他方で、二度のオイ ル・ショックが、日本の経常収支の黒字基調を見えにくくしてしまったのは不運というほかは なかった。 ただし、オイル・ショックがなければ、円建て資本輸出への態勢が整っていたかといえば、 代それもまた大いに疑問であった。 国日本の資本市場は、イギリスやドイツやスイスとは異なるシステムを維持していた。そこで 鎖 発行される社債は、古くから「安全・高コストがその特徴であった。しかし、七〇年代に人 六ると、マネーの国内封鎖体制は相変わらずであったが、安全だがコストの高い社債発行システ ーバル・スタンダ 1 ド」を有利と考 ムをめぐって、旧来のシステムを維持したい銀行と「グロ ゝ 0

9. マネー敗戦

比率で三 % 以上にも達している。世界最大の経済規模を持つアメリカが、かくも大規模な資本 輸人を必要とし、しかもなおドルが基軸通貨然として世界に流通しているという姿は、世界経 済にとって未経験の現実であった。 アメリカの中心的債権国時代は、せいぜい六十年程度と、イギリスにくらべれば、はるかに 短かった。これは一つには対外純資産の厚みが、かってのイギリスにくらべると意外に薄かっ たことにもよる。純資産額が世界最大だった八一年でも、対比では四・六 % にすぎず、 経常収支の変化に対して脆い面があったことは否定できない。アメリカの経常収支は、八〇年 代初めまでは、過去の直接投資の果実である利子・配当などの投資収益が、貿易収支の赤字を カバーする形になっていたが、その投資収益も貿易収支の急激な悪化には勝てなかったという ことである。対日貿易赤字がその主たる原因としてクローズ・アップされたのは、まだまた記 憶に新しい 大債権国日本と「帝国循環」 ところで、アメリカの経常赤字は、八〇年代半ばにかけて毎年一〇〇〇億ドルからさらに増 勢をたどったが、海外からの資金流人の規模は、毎年これを大幅に上回っていた。アメリカは、 日本を中心とする資本輸出国の資本を流入させて自らの経常赤字を埋め、さらに流入資本の余

10. マネー敗戦

第五章マネー敗戦アジアへ 1995 ~ 外貨準備の通貨別構成 ( 1913 ) 米ドル 1 % その他 4 % 支配的な通貨にのし上がったであろう、と後に観測されたほどの伸びを示していた。第一次大 戦は、基本的には基軸通貨の座をめぐるイギリスとドイツの争いでもあった。 そのイギリスのポンドを、かって同盟国・日本がマネー協力の形で支えたことがある。日英 同盟が結ばれたのは一九〇二年。その直後に、日本は「在外正貨 ( 外貨請求権 ) 」という形で多 額のポンドをロンドンの金融市場に委託している。これは当時の日本が経常収支の赤字を埋め るため、ロンドン市場でポンド建ての公債を発行、 円宀その結果得られたポンドのうち、緊急に必要とし 9 、聞 ない部分を短期で貸し付けたということである。 この日本の在外正貨が、ロンドン金融市場からの 突発的な金の流出による兌換制の危機に、緩衝装 置の役割を果たしたのである。 日英同盟にもとづくこのマネー協力を、そのま ま現代に置き換えるならば、日米安保体制下にお ける、八〇年代前半の日本の対米資金供給がそれ にあたるだろう。二〇世紀初めの対英マネー協力 は、経済的に日本を追いつめることにはならなか 尹物ド朝 % 、不明 19 % 独マルク 14 % 仏フラン 24 % 7