第五章マネー敗戦アジアへ 1995 ~ 外貨準備の通貨別構成 ( 1913 ) 米ドル 1 % その他 4 % 支配的な通貨にのし上がったであろう、と後に観測されたほどの伸びを示していた。第一次大 戦は、基本的には基軸通貨の座をめぐるイギリスとドイツの争いでもあった。 そのイギリスのポンドを、かって同盟国・日本がマネー協力の形で支えたことがある。日英 同盟が結ばれたのは一九〇二年。その直後に、日本は「在外正貨 ( 外貨請求権 ) 」という形で多 額のポンドをロンドンの金融市場に委託している。これは当時の日本が経常収支の赤字を埋め るため、ロンドン市場でポンド建ての公債を発行、 円宀その結果得られたポンドのうち、緊急に必要とし 9 、聞 ない部分を短期で貸し付けたということである。 この日本の在外正貨が、ロンドン金融市場からの 突発的な金の流出による兌換制の危機に、緩衝装 置の役割を果たしたのである。 日英同盟にもとづくこのマネー協力を、そのま ま現代に置き換えるならば、日米安保体制下にお ける、八〇年代前半の日本の対米資金供給がそれ にあたるだろう。二〇世紀初めの対英マネー協力 は、経済的に日本を追いつめることにはならなか 尹物ド朝 % 、不明 19 % 独マルク 14 % 仏フラン 24 % 7
ある。 余談になるが、一九六〇年代、フランスのドゴ 1 ル大統領は、フランスの保有するドルを一 挙に金と交換するようアメリカに求めたことがある。アメリカに対するドゴールの嫌がらせと してよく知られた事件である。アメリカは応じざるを得なかったが、これでアメリカの金保有 の底が見えたともいわれている。 苦悶するパクス・アメリカーナ さて、ニクソン大統領が、金とドルの交換を今後はいっさい行わないと通告したため、世界 経済は大混乱に陥った。日本についていえば、ドゴール大統領のフランスと違って、保有ドル の金との交換を手控えていたために、そのダメージも大きかった。 ドルが、金という価値基準の裏付けを失ったため、各国通貨もまたドルを介して金と結びつ くことができなくなり、スミソニアン体制という固定相場制への試みがわすかな期間で挫折す ると、世界の通貨はたちまち変動相場に移行していった。 ドルも、もはや制度上は特別の通貨ではなかった。ただ、ドルに代わる基軸通貨が誕生する こともなかったので、その後もいわば不安定な国際通貨として相対的な信認を受け続けた。少 し先回りして付け加えると、そのドルに対して、あたかも金ドル本位制が健在であるかのよう
ホワイトいケインズ フランス文化相であったアンドレ・マルローは、かって「アメリカは、自ら求めないで世界 覇権を得たおそらく唯一の国である」と語ったことがある。しかし、マルローのこの認識は国 しささか文学的にすぎた。パクス・アメリカーナの成立は、 際政治の現場を見る眼としては、 ) 自然の成り行きというだけでなく、マネーこそが覇権の基盤であることを認識していたアメリ 力の、周到な戦略、演出によるものであった。 第二次大戦後のアメリカは、企業の多国籍展開による直接投資を武器に、すでに世界最大の 債権国の地位についていた。また、国土を直接にはほとんど戦火に曝さなかった唯一の戦勝国 として、その工業力、経済力も群を抜いていたが、そうした有利な条件にもかかわらす、戦後 のマネー秩序を決定するプレトンウッズ会議で、ドルの支配が自動的に確立するというわけに 。いかなかったようである 基軸通貨としてポンドの命脈は尽きていたけれども、この会議で、イギリスはケインズ案と して、新たに国際決算同盟とその通貨単位である「バンコ 1 ル」の創設を打ち出し、ドルの浮 上を抑えようとっとめた。これに対して、ウォール街の利益を反映させ、ホワイト案を押した てたのがアメリカだった。基軸通貨Ⅱドルを前提に、— ( 国際通貨基金 ) を、いわばその
た。「悪の帝国」ソ連を打倒する「強いアメリカ」を掲げて当選した大統領にとって、「強いド ル」が「強いアメリカ」を象徴したと言っては、やや単純なもの言いになってしまうが、それ は基軸通貨国の責任者としては当然の感情でもあっただろう。少くとも就任直後から、ドルの しささか姿勢が違っていたのである。 さらなる下落を望むような若きクリントン大統領とは、ゝ もっとも、レーガン政権は、こうした理由だけでドル高を歓迎したわけではなかった。それ は、「供給の経済学」と並ぶレーガノミックスのいま一つの柱、マネタリズムからしても、首 肯できるものだったはすである。経済運営において通貨供給を重視する考え方を、為替政策に 適用するならば、市場が混乱するなどの場合を除いて政府・通貨当局は市場に介入しないのが 7 原則になる。アメリカ経済のファンダメンタルズが改善されれば、当然、通貨の対外的価値が 強化される、つまりドル高となる。ドル安にして輸出を増やしたい産業界やその利益を代弁す 想る議会が何と言おうと、これを介入で押さえようとすれば通貨供給を拡大させることになり、 同望ましくない、 というのが、ミルトン・フリードマン ( シカゴ大学教授 ) を中心とするマネタ んリストの考えかたであり、それはレーガン政権にも強い影響を及ばしていた。 日 加えて、時の財務長官リーガンは、「強いドル」をビジネスの基盤とするウォール街の出身 二であったから、財政責任者自身にとってもドル高は何ら問題ではなかった。 だが、ここにじつは落とし穴があった。レーガン政権前期のドル高は、はたして、アメリカ
ドルをいかに散布するか もちろん、現実には基軸通貨の交代が瞬時に実現するはずもなく、ドルは、さまざまな問題 に直面する。 ます第一に、とくにヨーロッパで、ドルは、従来の基軸通貨であるポンドを押しのけて広が 亡らねばならなかった。アメリカは大戦中から、武器貸与法に基づく対欧軍事援助に際して、つ のとめてドルを使用する等の手を打ってきたが、戦後は東西対立を背景にヨーロッパの復興援助 大のためのマーシャル・プランを実施した。 この一三〇億ドルに上る対欧復興援助は、アメリカの寛容さを示す伝説となっているが、そ マ れがドル建てで行われ、ドルがポンドを押しのけてヨーロッパに浸透するために活用された経 一緯は伝説の陰に隠れてしまった感がある。 その装置となったのは、 (European payment Union) である。 分身として生み出そうと試み、両案せめぎ合うなかでようやくアメリカは勝利を得たのである ( ただし、後述するように、基軸通貨としてのドルは、中央銀行間ではなお、金とのリンクを 維持するものとされ、これによって将来のドルの暴走に歯止めがかけられるとして了解され た ) 。
銀行などが、「世界の銀行」の一大インフラとして機能したことはいうまでもない 一般に、世界に君臨する覇権国の基盤として、経済力が不可欠であることは明らかであるが、 ここで示したかったのは、覇権国の経済力はもっとも端的には国際マネー循環に現れるという ことである。世界経済をリードするマネー循環を形成し、その中心軸に位置できるか否か。そ うした存在になるためには、対外純資産を擁し、それを背景に自国通貨を基軸通貨として世界 に信認させる必要がある。そうしてはじめてマネ 1 は、パワー性を発揮する。 その意味でパクス・プリタニカは、極めて安定した基盤の上に成立していたといえるだろう し、世界覇権の一つの「理念型」を示していたと見ることもできる。 イギリスは、こうして「ビクトリア循環」とも呼ぶべき世界の資本循環の中心に位置しつつ、 亡後発国の膨大な資金需要をまかない、自ら世界最大の対外資産を積み上げたのである ( 本章扉 の図参照 ) 。 国 大 ネ国際収支発展段階説 マ 一九世紀の末から国際経済学などで展開されてきた「国際収支発展段階説」によると、大債 一権国の対外 ( 経常 ) 収支や資本輸出は、あるパターンをたどって進展するという。こうした考 え方にはいくつかバリエーションがあるが、ほば共通したシナリオは以下のようなものである。
この着眼には、たいへん深い意味が含ま 引き続き中心的資本輸出国といえるのかもしれない。 れているので、後であらためてふれることにしたい。 いっそう重要な点がある。ビクトリア時代の基軸通貨はポンドであり、イギリス もう一つ、 は海外債券への投資をポンド建てで行い、したがって、その果実もまたポンドという自国通貨 で得ている。アメリカの中心的資本輸出国時代においても、やはり基軸通貨・ドルが資本循環 の主役である。ただ八〇年代に始まる日本の中心的債権国時代のみ、資本輸出が円建てではな 、主としてドル建てで行われている。歴史的に見て、これは異常な現象といえないだろうか。 ポイントは、レーガン政権以降のアメリカのマネー戦略にある。それに日本がどのように対 応し、巻き込まれ、その結果、無惨な結末を迎えるにいたったのか。次章以降は、八〇年代の 日本とアメリカの経済関係に焦点を合わせ、両国間のマネーの流れと政策決定のプロセスをつ かむことにしょ一つ
業の競争力に早くも黄信号が点り始めていたことを示しているが、マネー循環の立場から見れ ば、この赤字は、イギリスが自国通貨のポンドを、基軸通貨として国際的に散布するチャネル が満足に機能していた証しでもあった。 イギリスの貿易赤字は、二〇世紀に入っても続いたが、その間、経常収支べースでは常に黒 字であり、しかもその黒字幅は拡大基調にあった。なぜだろうか。 イギリスは、世界の商船隊の約三分の一を擁する大海運国として、海運収人によって貿易赤 字を埋め、経常黒字を維持していた。しかも、この経常黒字がさらに海外への投資に向かった ため、その利子収入が、もともと大きかった海運収人に加わり経常収支の黒字をいっそう引き 上げた。増加した経常黒字はさらに海外投資に向けられる。「海外投資↓利子収入による経常 黒字増↓海外投資ーという循環のなかで、一九世紀後半には、黒字の雪だるま式増大の過程が 明確に見てとれるようになった。 このプロセスを数字を追って確認してみよう。 ビクトリア時代の海外投資残高は、一八七〇年の約七億ポンドから一九〇〇年末には約一一四 ヒークとなった第一次大戦前の一九一三年には約四〇億ポンドにまで達した 億ポンドに増加、。 と見られる。この年のイギリスのは二三億ポンド強と推定されるので、海外投資残高は ピーク時において、 Z の約一・七倍の規模だったことになる。
エルを誘ってスエズに出兵する軍事干渉を試みたことがある。ここではアメリカの間接投資が、 意外な政治的パワーを発揮している。このときアメリカは干渉に強硬に反対し、イギリスが応 じなければ保有する英国債を売却すると警告した。英仏の行為は時代の変化を読みそこなった 帝国主義の残滓にすぎなかったろうが、アメリカにとっては、軍事力のみならずマネー・ ーもまた、国際的政治力を発揮するための有効な手段となり得ることを確認する、またとない 機会となった。 鎖を断った基軸通貨 しかしながら、債権大国アメリカの覇権も長くは続かなかった。六〇年代に入ると、早くも アメリカからの資本流出が、逆にドル不安を招くといった現象も発生し、ケネディ大統領によ ってドル防衛策が打ち出される。さらに六〇年代後半にかけては、アメリカの貿易収支が黒字 幅を狭め、七一年には戦後はじめて貿易赤字を記録するにいたる。 七一年八月、ニクソン大統領は「新経済政策。を発表して、世界経済に衝撃を与える。いわ ゆるニクソン・ショックである。この新経済政策のマネー戦略としてのポイントは、金・ドル の交換を停止したことで、これ以後、ドルは金の束縛から逃れ、その価値の変動が世界経済を 混乱させる独特の基軸通貨となった。
文存新書 膩ⅡⅢⅡⅢⅧⅢ馴 マネー敗戦 002 文春新書の新刊 名字と日本人武光誠。 ー先祖からのメッセージ 物語イギリス人小林章夫 ~ 科学鑑定石山昱夫 " ーひき逃げ車種から QZ< まで これでいいのか、につほんのうた藍川由美 渋沢家三代佐野眞 : マネー敗戦 経済危機にあえいできた日本は、じつは世界最大の債権国。 この国際経済の常識を逸脱した現象の背後には、ドルとい う通貨が、事実上の基軸通貨でありながら、アメリカ一国 の経済政策と分かちがたく連動し、その意向を反映した価 値の変動をほしいままにしているという現実がある。ドル とともに生き、ドルの罠に落ちた日本経済一一十年の禍根 : 吉月元忠 ( きっかわもとただ ) 一九三四年、兵庫県に生まれる。五八年、東京大学法 学部を卒業し、日本興業銀行に入行。産業調査部副 部長などを歴任した後、コロンビア大学客員研究員 を経て、現在、神奈川大学経済学部教授。著書に、「プ ッシュでアメリカは救えるか』 ( 時事通信社 ) 、『アメ リカの産業戦略』 ( 東洋経済新報社 ) 、『は日本 人を幸せにするか』 ( 出版 ) など。 6 マネー敗戦 制元忠 1 9 2 0 2 5 3 0 0 6 6 0 2 I S B N 4 ー 1 6 ー 6 6 0 0 0 2 ー 8 C 0 2 5 3 \ 6 6 0 E 定価 ( 本体 660 円 + 税 ) 014 吉川元忠 文 新 書 82 Y660 文藝春秋 装幀 : 坂田政則