( 対外投資額が日本への投資額よりも大きければ資本収支は赤字となる ) 。このことは何を意味 するのか。国際資本移動が自由化されているもとでは、本来、経常収支の黒字が長期海外投資 の原資とされる。しかし、日本はこれに加え、自ら短期の資金を調達して、これを長期の投資 にふりあて、「原資」以上の積極的投資を行っていたということになる。 八四年末の日本の対外純資産は、七四〇億ドル。八〇年末と比較すると約六 CXD 億ドル増加 しており、これは同期間の経常黒字の累積六七〇億ドルと見合う額である。ところが、この 間、 ( 債務を差し引かない ) 総資産では一八〇〇億ドルも増加しており、したがって債務もま トたかなり伸びていることがわかる。さらに総資産増加分の内訳は、長期資産が主体 ( 一四〇〇 四億ドル ) だが、これに対する長期負債の増加は六〇〇億ドル強にすぎず、他は短期負債、なか 病でも金融勘定が五〇〇億ドルと突出した増加を示している。 調つまり、この実力以上とも言える「転貸国家 . の主役は、生保ではなく邦銀である。この数 策字の背後には、日本の民間銀行の国際化にともなう急速な現地店舗網の展開があり、邦銀がド 際ル預金をとりまくっている姿が浮かび上がってくる。 ざや 国 「短期借り・長期貸し」の利鞘稼ぎである。短期の金利は低く、長期の金利はより大きなリス 三クを含むから当然高くなる。これは本来、日本国内であれば銀行にとって通常の安定したビジ ネスになるはすである。しかし、アメリカなど海外における邦銀の行動は、結局は日本のマネ
見積もると、これはアメリカの財政赤字の約一〇年分にも相当する。そこで、このバブル益を 引当てに日本の機関投資家が米国債投資を続け、アメリカはその間に双子の赤字を削減するこ とによって、経済を軟着陸させる。ざっとこんなシナリオが描けることになる。大幅なドル安 によってポートフォリオ投資の対象とはいえなくなってしまった米国債にとって、日本に発生 したバブル経済は、じつは最後のよりどころともいえるものであった。 また、八〇年代のジャパン・マネ 1 の米国債購人継続に、どんな仕組みが働いていたのか、 その点を解明しようとした理論。 よ、内外を通じて決して多くはないが、そうしたなかで、リチ ~ ャード・ヴァイナー ( ジャーディン・フレミング証券のエコノミスト ) の研究は、そこにバブルの 四役割が大きかったことを実証しようとした点で注目される。 彼は、日本の海外投資 ( 証券、株式などへの間接投資と、直接投資を合わせたもの。両者は代替的 の と彼は見る ) が八〇年代に急膨張し、九〇年代に人ると急減したのはなぜかという問題を実証 調 策的に解こうと試みた。その結果、この間の対外投資の動きをもっともよく説明する要因として、 際不動産関連融資の伸びを統計分析によって摘出した。 国 これら融資は大部分が投機的性格のものであり、こうしてつくりだされた「過剰な」通貨供 三給が内外の資本投資に向かったという説明である ( 八七頁図 ) 。 筆者としては、バブル益のなかでは、土地の含み益よりも株式の含み益を重視する。それは
戦後の高度成長時代には、日本経済は常に経常赤字、資本不足に悩まされ、資金をいかに国 内に配分するかが最大の問題で、そのために厳格な為替管理にもとづく円の国内封鎖体制がし かれていた。しかし、こうしたマネー経済の枠組みは、外資不足時代を過ぎ、高度成長を達成 した一九六〇年代をもって役割が終わった。経常収支が黒字化し、資本輸出を行うようになる ということは、日本が、いわば製造業の成長によって用意された新しい舞台のうえに立っこと を意味した。製造業に加え、新たにマネー部門が国際ビジネスに参人する段階にまで達したの である。 七〇年代に、経常収支の推移などを見て、これからは対外資本投資が本格化するであろうこ とを予想した国は日本だけではなかった。いかにして自国通貨の傘下で、影響力を保持しつつ 対外的に資本投下を行っていくかが、それら新興債権国の共通の課題であった。 一般に、資本輸人国の企業や政府 ( 資本輸出国にとっては「非居住者」 ) が、資本輸出国に おいて、その国の通貨建てで起債し、輸入国が発行した債券をその輸出国の貯蓄超過分 ( Ⅱ経 常黒字分 ) が吸収する ( 具体的には資本輸出国の機関投資家や個人が債券を取得する ) れがいわゆる資本輸出の基本である。こうした資本輸出は資本輸出国の国のマネー立ロ卩。 連業務を含めて多くのビジネス・チャンスをもたらし、結果としてその国に国際金融センター が育ってゆく。このように展望されるようになったとき、日本以外の各国はどんなことをした 182
どの国が、ジャパン・マネーの肩代わりをしていたのか。ここで財務省証券五 ( D(D 億ドルを 含めた公的資金流人七 ( 只 D 億ドル強の内訳をみると、その九割はインド、マレーシア、プラジ ルといったアジア、中南米諸国の中央銀行からの投資であることが明らかにされている ( 『ニ ューヨーク・タイムズ』一九九四年七月一二一日付 ) 。 西側諸国からの膨大な直接投資や、これら「新興市場」で高いパフォーマンスを狙う年金、 投信からの資金流人が、これら新興工業国を潤し、余剰分を対米投資にふり向けさせていたの である。 形のうえでは、かっての日本に新興国が人れ替わった好になっているが、こうしたアジア ・マネーは、それが中央銀行の投資行動であっても、あくまでドルを支えようといった使命感 。とは無縁で、むしろドルの変動に応した機敏な動きが特徴である。したがって、対米証券投資 も、かってのジャパン・マネーとは違って、長期の安定的な投資ではなく、アメリカは、対外 逆マネー収支において、この段階では、決して安定した基盤のうえに立ち戻ったとはいえなかっ 米た 日 クリントン政権を迎えた九三年という年の、アメリカの対外資金収支をめぐる状況は以上の 四ようなものであった。
得なくなった。八〇年代後半には、アメリカは、巨額の経常赤字に対し、その二倍近い資金流 人を得て、差額を海外への直接投資や証券投資、融資に回していた。これが九〇年以降は、大 きな変貌を見せる。 九〇年には、資金流人額が、経常赤字をわずかに上回る程度に落ち込んだ。とくに財務省証 券、その他証券では、海外の民間部門からは実質的に流人がとまったといってよい。その結果、 米銀の海外貸出しもこの年はついに回収超過となるほどで、海外投融資に急プレーキがかかっ たのである。 続く九一年は、五四〇億ドルの湾岸戦争戦費の国際支援が、経常赤字をほとんど消してしま うという特殊な状況だった。 対イラク戦争で米軍が使用した武器弾薬類は、大部分がすでに予算処理されており、実際に 経費として支出されたのは一 OO 億ドル以下だと推定されている。アメリカは国際的な政治カ で、五 OO 億ドル近い海外からの資金純流入を確保したのだった。 九二、九三年と経常赤字は再び拡大に転じたが、九三年は次の点が目立っていた。 対米証券投資の増大によって資金流人量が増え、これにともなってアメリカから海外への証 券投資も活発になっている。特にアメリカの財務省証券の取得では、落ち込んだ民間部門を前 年の三倍もの公的部門による投資が埋めている。 6
パプル潰しの日米共闘 土地と株式という、わが国の一一大投資対象が連動して上昇したバブル経済は、八〇年代末期 に頂点に達し、九〇年代に入るや、瞬く間に崩壊していった。 バブル経済の生成は、ジャパン・マネーの対米資金流人を継続させるための長期にわたる低 金利政策が主因ではあったが、とくに指摘しておきたいのは、こうした政策の効果が、とかく 画一的行動に走り健全なチェック機能を欠く日本人、あるいは日本社会の特性によって増幅さ れたことである。 ここで一七世紀オランダのチュ 1 リップ投機が思い出される。オランダでは、古くから銀行 家、投資家のみならす、一般庶民にいたるまで投機本能が強く、これが当時はチューリップな どという対象にまで及んだ。国民は、新奇な品種を求め、高値で売ることによって財産をつく るという投機熱に浮かされたのである。しかし、重要なことは、それでもこうした動きに対し ては、カルヴァン派、ルター派の厳格なプロテスタントの教義が一定のチェック機能を果たし ていたことである。 これは明らかに投機の崩 さらに、一八世紀に起きたヨーロッパの不況を例に引いてもいし 壊によるものであったが、危機はイギリスにくらべ、フランスでは、はるかに軽微であったと いう。チャールズ・キンドルバーガ 1 (ä—名誉教授 ) は、フランスでは厳格な破産法が投 ー 02
て第二次大戦後にはパクス・アメリカーナが確立することになるわけだが、それでも投資収益 等の寄与によるイギリスの経常収支の黒字は、驚くべきことに、一九八六年まで崩れなかった。 九〇年代に人って経常赤字国に転じることはあっても、債務の累積が長期にわたって資産残高 を越えるということはなく、イギリスは、日本、ドイツに次ぐ世界第三位の純資産国 ( 対外資 産残高が債務残高を上回っている国 ) として踏みとどまっている。いかに一九世紀からの対外投 資が手厚かったかを物語るものといえよう。 一方、鉄道建設などに、主としてイギリスから大量の資本を導人していたアメリカは、第一 次世界大戦前には世界最大の工業国の地位を固め、大戦を契機に債権国、資本輸出国に変貌を とげていた。第一次大戦の圏外にあったことが幸いして、工業力を無傷のまま維持できたため、 亡戦中から輸出を急増させ、ありあまる外貨で負債の償却や直接投資を行うことができた。その の結果、第一次大戦後の一九一八年には、の八 % 近い対外純資産を持つにいたっている。 大さらに一九三〇年には海外投資残高がイギリスとほば肩を並べ、その後はまたたくまに差を広 ネげて、「中心的資本輪出国ーの座についたのである。 マ イギリスのケースとは異なり、アメリカの民間対外資産の中では直接投資が半分以上と、そ 一の中心を占めていた。地域別にみると、第二次大戦までは、アメリカが軍事的、政治的影響下 においていた「内庭」の中南米諸国が主要な投資の対象であった。
ための為替市場の操作」に行きつくのであるが、彼は、資本の動きについても「モデル」 に基づいて、八〇年代後半、利子率の低下にかかわらずアメリカが外国資本の流入を誘引しつ づけられたのはなぜか、という大問題を解こうとする。その答えは結局、貿易におけると同じ ように、ある時点でのドルのじゅうぶんな切下げであるとして、以下のような論理を展開する のである。 財政が緊縮的で金融が拡張的な国 ( アメリカをさす ) は : : : 国内金利が低下し、そのため通 貨は切り下がって経常赤字は圧縮される。しかし短期的には、カープ効果のため、実際はこ の国の経常赤字が拡大するので、外国人投資家が引き続き赤字を埋める気がなければ、通貨は 1 とめどなく下落してしまうことになる。 病国内金利が低下しているこの国で、何が外資流人をひきつけるか ? その答えは通貨の下落 調それ自体にある。通貨が経常収支をバランスさせるような、きわめて低い水準にまで下がると、 策いずれこの低水準から回復するはずだ、と投資家はみる。外国人投資家としては、ここで通貨 際 ( ドル建て資産 ) を買っておけば将来大きな値上がり益を得られると予測するがゆえに、資本を 国 流入させる。この資本流人は通貨 ( ドル ) の下落に歯止めをかけるし、 ( 収支が均衡化するま 三での ) 経過期間の赤字を埋めるために利用できるだろう : : : 。
もピッチを上げている。資金流入は六九〇〇億ドル、前年を約一四 CO 億ドルも上回るべ 1 ス である。すでに主役は公的部門ではなく、財務省証券や株式などに対する民間証券投資に移っ ている。国内の低金利に泣くジャパン・マネーがその中心にいたであろう。 アメリカからの資金放出で目立つのは、米銀が融資を前年比五割以上も増大させていること である。直接投資も増えたが、国内の株式プームに吸引されて対外証券投資の方は急減した。 世界最大の経常赤字を続けている国が、異常な低金利という日本側の「自滅」にも助けられ て、赤字をはるかに上回る規模の外国資金を引き寄せ、結局はこれを原資として巨額の対外投 資を行う。アメリカはふたたび「帝国」として世界マネー移動の中心軸を形成することになっ た。形の上では、日本発のドル高として八〇年代の前半に顕著に見られた「帝国循環」の再来 である。 この新「帝国循環」ともいうべき体制を支える基本的な条件、日米間の長期金利差は、九六 年から九七年にかけて五 % ( 米Ⅱ七 % 、日Ⅱ二 % ) にまで拡大した。 八〇年代の前半、為替差損に経験の薄いジャパン・マネーは、やはり内外金利差に引かれて 雪崩のようにドルの世界に殺到した。そして、八〇年代後半には、プラザ合意による巨額の差 損にもかかわらす、バブル益のバッフアと政治的誘導の風圧を受けて、対米資金流入が継続さ れた。やがて低金利が産み落とした空前のバブル経済が破砕すると、協調金利の呪縛も解け、 ー 62
氷山の一角 九七年の春に経営が破綻した日産生命の話から始めよう。契約者の受取額が七割にまで減額 されるという処理案が打ち出されたこの事件は、生命保険という商品の中身にあらためて国民 の目を向けさせ、懸念の高まりから解約が急増、業界の総資産が減少するという結果をもたら した。この一件はいったい何だったのだろう。 バブル崩壊後に表面化した信用組合、住専 ( 住宅金融専門会社 ) 、銀行などの経営破綻に新た な一頁が加わった、と一般には受けとめられたであろうが、よく考えてみると、日産生命の場 合は、激しい土地投機のつけとして膨大な不良債権が発生、これが直接経営の足を引っ張った というわけではなかった。株式バブルの崩壊による含み益の減少は当然あっただろう。異常低 金利が長期化したことによる資産の逆ザャ運用が主な要因であったことも指摘された。だが、 この生命保険会社という業種が、かっては「ザ・セイホ」の名をほしいままにした機関投資家 として、膨大なジャパン・マネーをアメリカに注ぎ込んでいた事実を指摘する人は少なかった。 日産生命の経営危機は、それを氷山の一角として裾野に広がる機関投資家の膨大な為替差損 を明るみにだした。それはとりもなおさず、大蔵省が取り仕切ってきた日本のマネー戦略の敗 北を象徴する事件だったのである。 余談になるけれど、生命保険会社という業種は、もとはといえば戦前から通産省 ( 商工省保 180