れるかもしれないが、現実に展開したバブル崩壊へのプロセスを検証すると、実際、それを全 面的に否定することは難しい 同しバブル時代の日本経済のパフォーマンスを、アメリカの経済政策中枢と日本の一般国民 が、それぞれにどう受け止めたのか。そこから、どのような「共闘の力学が生じたのか。 アメリカ側の事情から見ていこう。 一つまでも 八〇年代の末期から九〇年代にかけて、国際政治の面では大きな変動があった。い なく冷戦の終結がそれである。ソ連という「悪の帝国ーを共通の敵として意識しなくなった日 米関係のなかで、とくにアメリカ側の対日認識が、それなりに変質せざるを得なかったのは当 然であろう。にわかに元気づいたアメリカの日本異質論者に、「ノーと言える日本、を標榜す る日本側のナショナリズム いま、こうした当時の日米関係を背景にふり返ると、日本のバ プル経済の絶頂期において、アメリカの対日経済戦略に、通商派、資本市場派といった立場の 相違を超えた明白な変化が兆していたことがわかる。 八〇年代後半の低金利政策が結果としてバブル経済を生み、そのバブルによって「国際政策 協調」が成り立ち、対米資金流人が維持されていたことはすでに見たとおりである。その限り では自身にとってもメリットの大きかった日本のバブル経済を、しだいにアメリカは「脅威」 として認識するようになる。その最初の端的な現れは、邦銀のマネー パワーを減殺すべく設
もっとも、構造協議の結果を見ると、日本側が直接、個々の問題を解決すべく新たな立法措 置を講ずるといった局面は少なかった。そればかりか、アメリカは、日本の高地価が米国債へ の投資を支えてもいることを認識したためか、徐々に要求を公共投資増額の方向へとシフトし ていった。日本の社会資本の不足を指摘して、貯蓄Ⅱ投資バランス論から政府部門の赤字増大 による経常黒字の縮小をせまり、日本は、十年間に四三〇兆円の公共投資を対米公約すること になったのである。このようにして予算編成にまで踏み込まれた結果が、財政の破綻にもつな がってゆく。 だが、ここではそのことよりも、日米構造協議が、九〇年に始まるバブル経済の崩壊に与っ て力あった、そのメカニズムの裏側にひそむ問題を少し考えてみたい。 」八〇年代末のバブル経済が私たちに残した教訓の一つは、マネー経済の成熟が、資産の保有 で潤い、生活基盤が安定したと感じられる層を増大させることにあったとするならば、日本の 逆資本主義は、まさにこの「ストック経済」の時代に、それに失敗しつつあったということであ 米る。バブル経済は、むしろ逆に個人から法人へ富の移動を促し、経済の発展から国民を疎外す 日 る役割を果たした。そして疎外された「声なき日本国民」に働きかける形で、日本異質論を背 四景とする構造協議が展開され、メディアもまたアメリカ側に寄った姿勢をとったために、日本 の経済システムへの国民の信頼感は内部から崩壊していった。
貿易黒字の正体 日本の機関投資家が、にわかに出現した大きな対米金利差に誘われたためか、あるいはそこ に西ドイツに代えて日本資金を引込むための米側の意図もあったのか。ギルピンらの観察をみ るまでもなく、事実は後者に近かったであろう。 八〇年代に入って、ジャパン・マネーが米国国債の大規模な取得に乗り出した結果、新たに 形成された日米間のマネー関係は、基本的には貿易関係の裏返しといえるものであった。外国 民間人によるアメリカ国債保有は、八一—八五年間に六一一〇億ドルも純増した ( 米商務省資料 ) が、これは西ドイツが手を引いている以上、実質的に日本の投資によるものと考えられる。他 方、この期間の日本の経常黒字は、五年間の累計が約一二 CXD 億ドルに及ぶ。つまり日本は経 常黒字の約半分を、長期国債取得の形で安定的にアメリカに環流させていたことになる。 この時期のアメリカが、日本をはじめ海外からの流入資金で経常収支の赤字を埋め、さらに その余剰分で自ら海外投資を実行していた点については第一章で述べ、「帝国循環」という名 称を紹介しておいた。 ところが、興味深いことに、日本側の資金収支もこれに対応する姿を示していたのである。 日本は八四年頃には、貿易黒字の拡大で年間の経常黒字、三五〇億ドル近くを計上するまでに なった。しかし、長期の資本収支のほうは、経常収支黒字を上まわる赤字を常に続けていた
て値の引き上げによりドル・べースで、九二年には八五年より二割近く増えてしまった。 以上のように、日本の対米輸出は在来型品目で為替調整が進捗している反面、八〇年代後半 から現れた新しいハイテク品目の比重が上昇してきた。 日米貿易不均衡の原因としてアメリカ側が取り上げる日本異質論や構造的輸入障壁説は、日 米間の不均衡をもたらした原因が、直接には日↓米の輸出側であって、米↓日の輸人側ではな かったことからしても、論点のすり替えであることは明らかであろう。 少なくとも、こうした議論。 こ耳を傾けることは、日本の在来型産業が被った円高の深甚なダ メージから目をそらせることになりかねない。アメリカ側の対日要求の声が高いために、日本 人は、日本のモノ作り部門の健在を信じて疑わないが、実態はまったく違う。モノ作り部門の 勝者は、ハイテク部門の数少ない品目に限られるのであって、在来型の多くの産業は、アメリ カ市場に見切りをつけ、あるいは後に詳述するように、アジアへと生産の拠点を移動せざるを 得なくなっていた。 その後、日米間の貿易不均衡は、ドル・べ 1 スでは、アメリカ側の五七〇億ドルの赤字 ( 九 七年 ) と居すわったままだが、アメリカの対日要求は、包括協議が一応の決着を見て以来、途 絶えている。アメリカ経済が目に見えた好況の局面に人ったためである。 リ 6
第三章国際政策協調の病理 1985 ~ 1990 ( 兆円 ) 6.4 日本の海外投資と不動産融資の関係 Richa1 ・ d Weiner; Japanese Foreign lnvestment and Land Bubble"Review of lnternational Economics, 円 94. ーー海外投資 ・・・不動産関連融資 0 一方、日本の政策当局は何を考えていたか。 プラザ合意後も、米国債投資に向けて、民間の 資金を動員するーー当時、どこまで意識された かは不明だが、これはかなり大胆で重要な意思 決定だったといえるであろう。なぜなら、日本 側にとって、いったん深く足を踏入れた以上、 米国の経常収支赤字が続く限り、日本がこれを 埋め続けなければ、ドルの暴落を引起こす危険 性がある。ドルが暴落すれば、それまでに投資 され、ドルに姿を変えたジャパン・マネ 1 はさ らに大幅に減価する。そうならないようにと、 皹ドル債投資を続けることが、唯一の方策となっ てしまった。一蓮托生、ドルと運命をともにす る。これが日本側から見た「ドル買い第二幕 の基本的構造である。 国際政治面はともかく、経済面では独自の構 7
輸出入の各約四割しかドルの変動には反応していないのである。すなわち、貿易収支が為替レ ートで補正できる範囲は「教科書」が想定しているほど全面的なものではないことが、こうし た分析からも確認される。 と同時に、産業ごとに不可逆性の視点を導入することによって、ある特定の時期 ( この場合 は八〇年代半ば ) のアメリカ産業における為替調整の機能する分野が、ある程度まで具体的に 特定される。とすれば、アメリカ側にとっての処方箋も、古典的な貿易理論やクルーグマンの モデルから導き出される「全面的円高戦略」にはならないはずである。 隠された日本産業の疲弊 ただし、ここで急いで強調しておかなければならないことがある。 以上の考察は、いずれも輸出人統計をドル・べースでとらえたものである。したがって、プ ラザ合意がアメリカの期待した貿易収支の改善をもたらさなかったからといって、それは日本 側輸出企業のダメ 1 ジが僅少であったことを意味するものではない。 対米貿易が基本的にドル建てで行われるなかで、四割もドルの価値が下がれば、日本側輸出 企業は、まずはドルの建値の引き上げによって円の手取りを確保するしかない。建値を引き上 げて、なおどれほどの手取りの目減りに耐えられるか。リストラその他、日本企業の対応が当
抗しがたい要求 「日米構造協議」 (n——) は、その名の示すとおり、経常収支不均衡を是正するため、双方 が相互に経済社会の構造間題を指摘し、話し合おうというものであった。しかし「双方向性」 を謳っていたとはいえ、問題点を声高に指摘されるのが日本の側であることは明らかだった。 「構造協議」の「構造」は、そのまま「構造改革」という一言葉に受け継がれ、やがて日本の経 済社会に残る根本的欠陥として意識されるようになる。その意味では、日本社会に対して、当 時考えられた以上に大きな影響を残したといえるであろう。 構造協議の応酬は、九〇年に入って本格化したが、ます、日本の株式市場が俎上に上った。 囲アメリカ側はすばり斬り込んできた。閉鎖的な取引慣行、系列などとからめて企業の株式相互 持ち合いを問題にし、さらに具体的に、①銀行による株式の保有制限を現行の五 % から二 % に 逆引き下げる、②総合商社による製造業企業の株式保有の制限または禁止、③子会社による親会 米社の株式保有の制限強化、などの要求を行って、高株価を成立させている需給条件の基本を瓦 解させようとした。 日本の株式市場の特徴となっていた株の持ち合いは、もともとは資本自由化への対策として 進められたもので、これはアメリカのように持ち株会社が認められていない制度下での便法で
ク」にも回ったであろう。アメリカの場合は、同じ株式・社債発行額に対して純投資が一〇〇 〇億ドルある。また、アメリカの場合は、株式・社債の発行と借入金の増額がほば平均して行 われており、日本のように前者に極端にシフトしていることはない。 株による資金調達を主力とし、さらにエクイティ・ファイナンスへのシフトによって、八〇 年代、日本企業は資金調達コストを平均二 % 台で推移させており、五 5 八 % のアメリカ企業と の間に大きな格差を生じさせている。これが、生産要素価格の内外同一性をも「公正な競争ー のスタート・ラインに置こうとするアメリカ側に、いわばつけいる隙を与えていた。 アメリカの半導体業界などは、資本コストの格差が産業の競争力を左右するという点を指摘 して、だから日本とは公正な競争ができない、 といった主張を展開してきた。あまりに企業側 の利益に偏った資金調達のあり方が、アメリカに必要以上の警戒感を抱かせてしまったようで ある。 だが、対米格差そのものよりも、日本側としては、低い調達コストが合理的で堅固な基礎に 基づいているのかどうかが、じつは大問題であった。 たとえば、規制をクリアすべく、エクイティ・ファイナンスによって中央突破をはか った銀行の場合、それはどうだったか。株式市場の水準を示す指標としては、値動きの激しい 日経平均に対して、対象銘柄の株式総数まで考慮に入れたが、より実態に近いとさ 108
それが基本的に資本の動きによるものであったことを示している。日本の機関投資家は、ドル 高の背後に、こうしたシンポル経済化の進行があったことを読み切れなかった、あるいは甘く 見ていた。 為替レートの変動が、古典的な教科書の説くカープを描かなかったーーっまり、アメリカと いう国に現実に貿易赤字、あるいはそれを反映した経常収支の赤字拡大があるのに、ドル高が 続いたのは、全く別の理由による資本流入があったからである。 すでに述べたように、その流人した資金の主力はアメリカの国債購人などに動いたジャパ 5 ン・マネ 1 である。そしてその正体はほかでもない、日本が対米貿易を中心にして手にした膨 大な貿易黒字、経常黒字であった。これがドルを買い支え、為替レートをねじ曲げていた。マ ネー敗戦の端緒となる日本側の誤った第一歩は、八〇年代のはじめに、このようにして踏み出 想されたのである。 ん日米経済の奇妙な共生 日 日本が貿易黒字で得たカネをアメリカに注ぎ、それによってアメリカは日本からの輸入を増 二大させる。そもそもこんな奇妙なカネの流れはなぜ起きたのだろうか。 カーター民主党政権下の七〇年代末から八〇年代はじめにかけて、アメリカでは二桁の公定 一口
確立を怠ってきた日本の資本市場の象徴といえるだろう。 逆転した太平洋共栄圏 さて、このように見てくると、新旧の帝国循環は、基本的パターンを同じくしつつも、そこ には資本を流入させる側と供給する側の、立場の逆転がはっきりと見て取れる。第一に、八〇 年代前半の「日米共同幻想」の時代を、国際政治学者のギルピンは、日本による「太平洋共栄 圏」生成の時代と捉えたが、日本の資本投下が「共栄圏」通貨で行われ、「共栄圏」のアメリ 力に為替変動の主導権があったため、ここに主客が逆転してしまったのである。 第二に、再三述べてきたように、新・帝国循環では、ドル高が株高の進行とセットになって いる点がとくに目を引く。ダウ工業株の平均を見ると、九四年が三七九〇ドル、九七年は七四 〇〇ドル ( 各年平均 ) 、九八年六月には九三〇〇ドル。その後アジアやロシア通貨危機、日本の 株安に揺さぶられるまで、きわめて高い水準で推移していた。また、旧・帝国循環では、「強 いアメリカの象徴」でもあった「強いドル」が、新・帝国循環では株高を誘導するための手段 として明確に意識されている。それは世界最大の証券会社出身のルービン財務長官の意図でも あったであろう。レーガン政権がイデオロギーを優先したがゆえの、ある意味での「おおらか さはここにはも一つ目亠ョたらない