あまね 阿部正弘の調烈公の盛名は、既に天保度の水藩改革、将軍家の褒賞等によりて、周く天下に知られ、 和政策 大名中に於ては、松平越前守 ( 慶永、越前福井藩主 ) 伊達遠江守・大膳大夫父子 ( 宗 烈公の盛名 紀・宗城、伊予宇和島藩主 ) 等最も之を欽慕し、遠江守 ( 宗紀 ) はー営中にても会見 して議論を上下し、天保九年八月の頃は小石川邸にも来りて、政談に暑の移るを覚えず ( 此時戸田・藤田の一一人も侍座せり ) 。越前守は天保十四年初度入国の前、特に対面して 治国の要領を問へり ( 昨夢紀事 ) 。此外松平薩摩守 ( 島津斉彬、薩摩鹿児島落主 ) 松平 肥前守 ( 鍋島斉正、肥前佐賀藩主 ) 真田信濃守 ( 幸貫、信濃松代落主 ) 板倉伊予守 ( 勝 明、上野安中藩主 ) 等、当時賢名ありし大名にして、烈公の盛徳を称せざる者なかりき。 きこえ 烈公も亦常に賢才の心を攬るを務め、英俊の聞ある者は、藤田虎之介等をして進みて交 を結ばしむ。新見伊賀守 ( 正路 ) 矢部駿河守 ( 定謙 ) 岡本近江守 ( 成、花亭と号す ) 川 路左衛門尉 ( 聖謨、敬斎と号す ) 羽倉外記 ( 用九、簡堂と号す ) 等の幕士は共最なり しゅんほう ( 東湖偶筆。回天詩史 ) 。此を以て諸藩の俊髦の水戸を訪ふ者亦極めて多く、水戸中納一言 えんじ の名遠邇に播き、天下の善政を論ずる者は、水藩を以て第一に数ふるに至れり。此の如 くなれば、阿部伊勢守は烈公を用ゐて幕府の声望を繋ぐの得策なるを感じたる折しも、 烈公と阿部弘化二年七月、烈公は伊勢守所蔵の望遠鏡借受を機として文書を往復せしが ( 是れ烈公 家 正弘との通 の用人吉野英臣の進言によれり。英臣は此等によりて十月八日転役せしめらる ) 、これ橋 より折にふれて文通し、年来の寃をも弁じ、藩内の情状をも述べ、且は国防上の施設及 章 政策につきての意見を開示し、又幕閣の議定をも与り聞かん事を望ませらる。其意見の一一 むび 中には実行し難き事もあれど、夢寐の間にも国家を忘れざる赤誠は、深く伊勢守の肺腑 まさ に入り、将軍の耳にも達したるが如し ( 新伊勢物語 ) 。高橋多一郎の大奥手入は方に此 = ロ しし【 ひかげ
見を辞するに至れるは、かの讒間の漸く傚を奏せしなるべし ( 懐旧紀事。昨夢紀事 ) 。 烈公と堀田正此時に当り、幕府の諸有司は知見稍開けて、外人は必ずしも異図を有する者にあらず、 睦との乖離 唯通商貿易の利益を求むるにある事を知れり。伊勢守が松平薩摩守に贈れる書中に、 開国気運の 進歩 「日夕海防筋の儀に携はり、外国の事情を聞知し居れる身は、決して軽率の処置に出で 難し、さりとて武備を廃して可なりと言ふにはあらず、益強盛ならしむべきは勿論なれ ども、外人の取扱方は、時勢を解して宜しきに処せずんば、決して国に忠なるものとい ふべからず」といひ、又松平越前守が主戦論を建議し、速に必戦の実を示して民心を鼓 舞すべしと言へるを評して、「是れ、からりきみのみ、一両年以前ならば斯かる理窟も 立ち得れども、今は富国を先にし戦を後にすること、強ち恥づべきにあらず」といへる が如き、以て当局者の進歩を見るべし。民間志士の攘夷を主張せる者に於ても、年を逐 ひて意見を変ずる者少からず、諸藩士も、在府と在国とによりて知見に広狭あり、海防 論にも硬軟あるに至りしかば、朝野を問はず、時勢を見るに敏なる者は、皆開国の已み さと 難きを暁るに至れり。然るに烈公は幕議に参じながら、尚主戦論を守株するのみならず、 堀田備中守を蘭僻家といひて其入閣に反対し、営中会見の節も、折に触れて之を難詰し、 共応接も冷淡を極めたりといへば、両者の乖離は遂に免るべからず。此を以て安政三年 烈公は特命の初、幕府は烈公に対して、爾後特命あるにあらずんば登城せらるゝに及ばずと達して、 の外登城に 之を遠ざくるに至れり ( 昨夢紀事 ) 。此原因は両者政見の乖離にありといへども、共裏 及ばす 面には水藩の党禍の累をなせることも亦注意せざるべからず。 水藩の党禍と水藩の保守派は、初より烈公の幕政参与を喜ばず、谷田部藤七郎の如きは、「隔日の御 公の苦心 登城は大老などのやうにて、三家たる家格を貶すものなり」といへるが ( 水戸見聞実 あなが 114
を松平和泉守に問はせ給ふ。和泉守も事情を察し、たゞ永き御事にあらざるべければ、 素直に御請あるべしとありしも、御不審まします事なれば、重ねて詰問せしめられし も、後には御請と決し給ひぬ」とあり。此事親しく公に伺ひまつりしに、「心中には 不平なりとも、斯かる場合に反問がましき事申すべきにあらず、又和泉守の答として、 素直に御請せよなどあるも老中の答ふべき詞にあらず、全く誤伝なり」と仰せられき。 諸士の処罰斯くて八月二十七日より十月二十九日に至るまで、公推戴の運動に参加し、又は勅諚下 賜の運動に与れる名義にて、処罰せられたる者差あり。先づ水戸藩にては、中山備前守 ( 差扣 ) 安島帯刀 ( 切腹 ) 茅根伊予之介・鵜飼吉左衛門 ( 各死罪 ) 鵜飼幸吉 ( 獄門 ) 鮎 沢伊太夫 ( 遠島 ) 大竹儀兵衛 ( 押込 ) 山国喜八郎・海保帆平・荻信之助・菊池為三郎・ 加藤木賞三 ( 各謹慎 ) 等あり。公卿の家臣共他にては、小林民部権大輔・六物空万 ( 各 遠島 ) 飯泉喜内・頼三樹八郎 ( 各死罪 ) 伊丹蔵人・丹羽豊前守・森寺若狭守・三国大学・ 入江雅楽頭 ( 各中追放 ) 池内大学・藤森恭助 ( 各追放 ) 森寺因幡守・山科出雲守・春日隠 讃岐守 ( 各永押込 ) 村岡・飯田左馬・山田勘解由・高橋兵部権大輔・富田織部・飯泉春の 堂・藤田忠蔵・大沼又三郎 ( 各押込 ) 宇喜田一蕙・蒲市正 ( 各所払 ) 若松木工権頭 ( 洛と 内外構 ) 横山湖山 ( 謹慎 ) 等、諸藩にては越前藩の橋本左内・長州藩の吉田寅次郎 ( 各の 死罪 ) 土浦藩の大久保要・高松藩の長谷川宗右衛門・亀山藩の奥平小太郎・薩州藩の大安 山正阿弥 ( 各永押込 ) 鯖江藩の大郷巻蔵・姫路藩の菅野謙介・土州藩の小南五郎右衛門章 おも ( 各謹慎 ) 宇和島藩の吉見長左衛門 ( 重追放 ) 等を重なる者とす。此外其妻子・姻戚・ル 及縁坐の百姓・町人・二十余名に及べり ( 藤井但馬守・梅田源次郎・日下部伊三次等は 是に先だちて病死せり。〇安政録。鈴木大日記。唱義見聞録。孝明天皇紀 ) 。
の士、いかでか手を袖にして傍観すべき、此に於てか雪寃運動起る。大番頭武田彦九 郎・郡奉行吉成又右衛門は出府して、老中水野越前守・牧野備前守・老中格堀大和守を 歴訪するなど、士民の動揺大方ならざれば、幕府も之に鑑みたりけん、弘化元年十一月 烈公の慎御二十六日慎御免の命を伝へたれども、なほ藩政に参与するを許さゞりしかば、政権は依 保守派の出然保守派の手にあり、烈公襲封の時退けられたる鈴木石見守は、興津蔵人と共に家老た 身と進歩派り、其他家老太田丹波守・側用人内藤藤一郎・遠山童介・奥右筆尾羽平蔵・谷田部雲八 の転免 ( 後に藤七郎と称す ) の如き、いづれも結城寅寿 ( 是より先八月大寄合頭に転ず、蓋し 反対派の指目を避くるなり、されど実権を掌握すること旧の如し ) の股肱と聞えしに、 あまっさ 剩へ五月以来三木庸之介・原田兵介・矢野唯之允等をはじめ、進歩派の有司の転免せ らるゝ者四十人に及べり。此に於て高橋多一郎 ( 愛諸 ) は紀藩の儒者遠藤勝介を経て紀 伊大納言 ( 斉順 ) に哀訴し、菊地為三郎・梶八次郎もまた同地に潜行して歎願する所あ り。桑原幾太郎・豊田彦次郎 ( 亮 ) 海保帆平・大胡聿蔵・武田魁介 ( 彦九郎の子 ) 吉成 恒次郎 ( 又右衛門の子 ) 等は前後出府して、老中阿部伊勢守に上書し、烈公藩政参与の 件を訴願し、水藩領内の郷士・神官・百姓等にして、此事に与る者また数百人の多きに 達す ( 遠近橋。水戸藩史料 ) 。斯くて弘化一一年には紀伊大納言参府せしかば ( 続徳川実 えんおうそそ 紀 ) 、高橋多一郎は大納言に上書して、烈公の為に寃枉を雪がんことを請ひ、大納言は橋 為に将軍に説き、阿部伊勢守にも論す所ありしといふ ( 水戸小史。殉難録稿。寒緑雑録。 続徳川実紀 ) 。斯かる間に弘化も三年になりぬ、水戸家の支族の長倉 ( 常陸那珂郡 ) に 館せる者に松平申之助 ( 頼譲 ) といへるあり、時事に憤慨し、正月元日紀侯の邸に赴き て内訴せしに、落府は之を会沢恒蔵等の教唆と思惟し、遂に恒蔵及び山国喜八郎・吉成
仙台藩 因州落 薩州藩 は到底為し難しとの見込なりや、又は随分好ましき模様なりや」と垂問せられし事あり ( 近衛家所蔵宸翰 ) 。左大臣の奉答今知るべからざるも、叡慮が幕府の奏上を疑ひ給へ るは、略察知すべし。此頃中納言幕府に建白して、「今般の御一挙は、開闢以来の大変 革につき、能く叡聞に達し、勅命の上にて御治定あらせらる・ヘし」とあるは、亦幕議を 阻遏するも朝旨を奉ぜんとの趣意なること、窺ひ知るべきに似たり ( 昨夢紀事 ) 。次に 阿州藩松平阿波守は、実は家斉公の子にて、外様なる蜂須賀氏を嗣ぎたれば、幕府宗族中の故 老たり。且っ初は松平越前守等と手を携へて、一橋公推戴に尽力し、四年十一月・十二 月・両度の建白には、越前守と同じく明に交易・及公使在府の許可を賛成しながら、五 年の一一月には京都に入説し、外舅鷹司太閤 ( 政通。三年十一一月特旨を以て太閤と称せし むすめ む。阿波守の室は太閤の女なり ) に密疏して、「従米数次幕府に上書し、老中へも存意 を申し立てたれども採用なく、もはや諫争の道絶え果て、歎息に堪へず」といひ、「近来 諸夷が皇居近き海岸を望むは、天下の大事にして危急の勢なり。万一非常の事あらば、 警固の為め軍勢を差出し、愈騒乱とならば自身上京し、列侯に先ちて禁裏を守護しまゐ らすべし」と述べたるは、反覆の譏を免れ難けれども、是亦落論の変化に因れるものな る・ヘし ( 堀田家書類。昨夢紀事 ) 又松平相摸守 ( 池田慶徳、因幡鳥取藩主 ) も、烈公の 公子なる上に藩論亦保守に傾きたれば、此頃も尚鎖攘の見を持し、重臣の中には上京し て密に周旋する者あり ( 昨夢紀事 ) 。松平薩摩守は近衛家の縁戚にして、尊王の志厚く、 時々内献等もありしかば、天皇の賴み思召す事も一方ならず。既に安政二年の春、近衛 右大臣 ( 忠熙 ) の手を経て、宸筆の御製を賜はりし事さへあり ( 近衛家所蔵宸翰。孝明 天皇紀。史談会速記録 ) 。松平陸奥守 ( 伊達慶邦、陸奥仙台藩主 ) も亦近衛家の姻親な
して大老若しくは後見に薦め、其声望を以て公を輔佐せしめんと、中根靱負等に語れり。 越前藩の覚水戸の安島帯刀 ( もと弥次郎 ) も之に賛成せしが、越前藩の君臣は、斯る重任に堪 ( ま じけれども、一橋公西城に入らば、我が藩侯は已む事を得ず、幕閣の首位に立たざるを 得ざるべしと覚悟したるが如し。これ異日越前守等が政権争奪の陰謀ありとの嫌疑を蒙 れる一因なり ( 昨夢紀事。橋本左内全集 ) 。 橋本左内の策斯かる間に、京都にては、三月一一十日堀田備中守に亜米利加条約否認の勅答を下し賜は 英明人望年 り、二十二日近衛・三条・両公等の斡旋により、「急務多端の時節、養君を治定して西 長の三要件 丸を守護し、政務の扶助とならば、にぎやかにて宜しかるべく思召さる、此序を以て申 入るべしと、関白・太閤・命ぜらる」との内旨を伝へらる ( 三条実万公手録。昨夢紀事。 橋本左内全集。伊達家文書 ) 。蓋し此時一橋党の公卿は、橋本左内の策に随ひ、此御沙 汰書に英明・人望・年長の三語を加へて、一橋殿共人なるを暗示せんと欲し、叡慮も亦 此の如くなりしに、九条関白中に居りて之を削りしかば、一橋党の苦心は功を一簣に欠 き、幕府をして随意に継嗣を定むるの余地を存せしめたり ( 尚忠公記 ) 。後日近衛左大 臣より天璋院夫人に書を寄せて、世嗣は一橋殿然るべしと申し越したれども、今は寸効 だもなかりき ( 昨夢紀事 ) 。 鷹司太閤に世に伝ふる所に拠れば、鷹司太閤も一橋党を援くる意ありしに、立嗣の御沙汰書を達 ・対する伝説 するに当り、九条関白は太閤の不参に乗じ、専断に三語を除き、年長の事のみ口頭に て伝宣せり。然るに堀田備中守は如何に思ひけん、御沙汰書に年長の一一字の附箋を請 へりとぞ。されど此ロ達の一事、真偽確ならざるのみならず、鷹司太閤は必ずしも一 橋党薬籠中の者とは言ひ難かりしなり ( 昨夢紀事。橋本左内全集。伊達家文書 ) 。 148
徳信院夫人りしに、先年御身の相続せられしは、こよなき悦びなる上、当節御身の評判殊の外よろ との談話 しく、めでたき事の極みと思へり。然るに世上の風説の如く、又他所へ御移りあらば如 何すべき、何とかなされんやうはあるまじきか」との事なり。公「そは忝き仰なり。さ れど世間に申すは全く取留めぬ沙汰にて、万一さやうの事ありとも、一刧御請は申すま じと、其初めより堅く思ひ定めたれば、御心安く思召さるべし」と答へ給ひっゝ、なほ 予め万里小路 ( 大奥の老女にて、徳信院夫人を京都に迎へたる縁故により、夫人とは殊 みずか に親しき間なりぎ ) にも申含めばやとて、公親ら、「西丸云々の風説、実にはあるまじ けれど、若しさる事もあらば、計らひ止め給ふべき」由書きて、徳信院夫人の手により 送られしに、万里小路は「斯かる御書取は宜しからず」とて、共儘還し奉れり。されど 大奥の内情公は尚懸念の廉なきにあらねば、人をして密に幕府の大奥を探らしむるに、上の方は、 南紀といひ一橋といひ一定ならず、中より下の方にては、いづれと聞き分けたる事もな く、唯遠からず西丸の立たせ給ふ由なれば、婦人の召抱もあるべしとて、共時の心仕度 平岡円四郎に、部屋子など抱へ込む者ある由聞えたりとぞ。公は平岡円四郎を召して是等の趣を告外 との問答 け、尚厳しく戒めらるゝゃう、「我等西丸云々の風説あるは以ての外の次第なり、汝等嗣 かねん \ 申す旨あれども、如何に考ふるも、此衰世に処して施すべき術を知らざれば、家 汝等もはや其念を断っぺし」とありしに、円四郎は承服せず、尚種々に論じ申せしが、将 いささか 公は聊も聞入れ給はざりき ( 昔夢会筆記。昨夢紀事。〇昨夢紀事などには、円四郎が章 自ら語りし趣とて、彼が陳ぜし次第を詳に書きたれども、誇張多くして信ずべからず。第 又次に記すが如き越前守後見云々の円四郎の策も、円四郎より公に申上げしことなしと 御親話ありき ) 。されど円四郎も亦思ひ止らず、公若し世嗣となり給はゞ、越前守を起 おおせ
からず」と、御憂慮の事ども、しみん . 、と諫め申されしかば、烈公もさすがに頷き給ひ、 「もはや為すまじきぞ」との御詞あり。「さらば其由備中守へ御書をなし下さるべし」と あるに、初は否み給ひしかど、折節文明夫人も御同座にて勧め給ひしかば、「此程の事 は思ひ違へたり、京都への事は此後申遣はすまじ」と、簡単に記して公に授け給ひぬ ( 世に之を水戸老公の怠状などいへど、実は京都へ文通せぬ事を主と記し給へるなりと そ ) 。斯くて四日、公は川路・永井・岩瀬の三人を一橋邸に召して謁を賜ひ、「過ぐる日 老父が左衛門・玄蕃に申し聞けられし事どもは、御相談の筋の余所になりて、不敬の罪 遁れ難し、両人始め備中守の思はんやうも気の毒なり」と宥め給ひ、「尚老父よりの書 状あり、備中守へ伝へられよ」と懇に物語ありて、さて能装束を取り出で、手づから三 海防掛へ唐人に頒ち賜はり、「是は故儀同殿 ( 一橋治済卿 ) の御時の唐織にて、今は用なき物なれ 織頒賜 ども、各には陣羽織なれ小袴なれ、時に取っての晴著になさば、唐織も再び世に出づる 栄あるべし」と仰せらる。三人はいたく公の誠意に感じ、涙を攬って退出したり。旧臘 の事一たび洩れてより、世間にては水戸老公又もや幕譴を得給ふべしなど取沙汰せし程 なりしかど、公の執り成しによりて事なきを得たりき ( 昔夢会筆記。昨夢紀事。一橋家 日記。癡雲随筆 ) 。 諸大名の開国此頃松平越前守・松平阿波守 ( 蜂須賀斉裕、阿波徳島藩主 ) ・松平兵部大輔 ( 慶憲、播磨 明石藩主 ) 等は意見大に進歩し、殊に越前守の如きは松平薩摩守と同じく、明に開国の 条約勅許奏請 の世論 已むべからざるを言へり。其他は開鎖の論区々なりといへども、大体に於て米艦初航の 時の如く、無謀なる攘夷論を主張する者は頗る減じたるが如し ( 堀田家書類 ) 、これ風 気漸く開けて、ほゞ海外の事情に通じたる結果なるべし。但此に注意すべきは、諸大名
烈公滞府の不 許可 許容せらるゝが如きは、未だ曽てあらざる所、今之を許されしは、実は敬して遠ざけた るにて、許容とはいへども実は命令に均しく、一種の責罰なり。斯かる際に夫人入邑の 請願を呈出したるは穏当の態度にあらず、されども此事が後年奇禍の一因たらんとは、 水戸君臣の想ひ及ばざりし所ならん ( 東湖封事稿。不慍録 ) 。 烈公の日光予藤田虎之介の出府せる頃、烈公は藩地より幕府に上書して、国家中興の議を建て、主と 参 して将軍の日光廟参詣を復せらるべき旨を論ぜられしが、十三年の春、幕府此議を容れ、 来年四月を以て日光山御参詣ある・ヘしと布達せり。然るに清・英・両国は鴉片の事によ ゆるがせ りて葛藤を生じ、戦争の風説さへ伝はりしかば、烈公は海防の忽にすべからざるを思 ひ、前論を翻し、十一月再び書を幕府に上りて、日光参詣を延期し、三家を始め諸大名 扈従の資用を転じて、国防上の施設に充てしめんことを請はれたり ( 近衛家書類。東湖 封事稿。回天詩史 ) 。老中答へて日く、「日光の行は既に決せり、公若し予参するを得ず んば、宜しく窮乏の故を以て之を辞せらるべし」と。烈公怒らせ給ひ、「水戸貧なりと いへども、何ぞ数十里の旅資を欠かんや、畢竟老中等は余を私を営む者と疑ふか」と ( 回天詩史 ) 。やがて将軍家は十四年四月を以て日光参詣あるべきに定まりければ、烈公続 は三月十五日先づ水戸を発して十八日参府し、四月十日日光山に先発せらる。十三日家 慶公社参の途に上らせられ、事果てゝ二十一日台駕帰城あり。烈公も之に随ひ二十三日 江戸に帰著せらる。此行水藩の儀衛最も整備し、号令厳明にして従士静粛、宿駅の輩大 章 に歓喜せしかば、帰府の後、老中水野越前守は烈公を見て此事を語り出で、頻りに称揚 せりとぞ ( 続徳川実紀。不慍録。松宇日記 ) 。 是より先に越前守の改革岐急にして、漸く士民の怨望を招きしかば、水藩の戸田銀次 あへん
徴命に応じて上京するまで、御猶予遊ばされたし」と請ひ奉りて罷り出で、二十九日を 以て三家・大老の中一人上京すべしとの勅命を奉行せり ( 九条家所蔵宸翰。尚忠公記。 璞記抄 ) 。 三家大老召命是より先、越前藩士橋本左内 ( 綱紀 ) は、公卿の力に頼りて一橋党の頽勢を挽回せんと の内情 欲し、密に同藩士近藤了介を派し、青蓮院宮 ( 尊融親王 ) 鷹司・三条・諸家につきて周 一橋党の挽 回策 旋せしめ、伊丹蔵人 ( 重賢、青蓮院宮侍 ) 小林民部権大輔 ( 良典、鷹司家諸大夫 ) 三国 大学 ( 直準、幽眠と号す。鷹司家の侍講 ) 森寺因幡守 ( 常安 ) 同若狭守 ( 守邦〇父子共 に三条家諸大夫 ) 等これに策応せり。七月の初め、了介は南紀の事全く定まるを偵知す るや ( 此時立嗣の公報未だ達せず ) 、憤慨に勝へず、直に伊丹・三国等を説き、青蓮院 宮・鷹司太閤等の力を仮り、朝命を申し下して紀伊宰相を排し、強ひて一橋公の擁立を 継嗣問題も遂げんと企つるに至れるが、幕府は遂に堀田備中守が帰府の際賜はれる勅旨を東閣して、 違勅なりと 幼弱なる紀伊宰相を立てたりければ、京都の人々は、継嗣の事もまた幕府は違勅の責を隠 論す 免るべからずと論するに至れり。此度三家・大老を召さるゝに決せし所以、一は此に存の と す。これ青蓮院宮・三条前内大臣・中山大納言等の主張する所にして、大老上京せば、 これを廷上に厳詰して辯疏の辞なからしめ、若し上京を断らば、もはや関東へは仰せ進の められず、直に先づ水戸前中納言 ( 烈公 ) 松平越前守 ( 慶永 ) 尾張中納言 ( 慶恕 ) に勅安 章 して時局を救済せしめ、次に一橋公を立てんとの計画なりしが如し ( 橋本左内全集 ) 。 召命に対する幕府にては既に老中間部下総守を上京せしめて、条約調印は事情切迫の為に天裁を請ふル 幕府の答奏 べき暇なかりし所以を辯疏せしむるに決したるが、未だ発せざるに、七月六日を以て三 家・大老の召命江戸に達す。因りて十八日、三家の中、尾・水・両家は共に謹慎中、共 ゆえん