五年 - みる会図書館


検索対象: 徳川慶喜公伝1
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1. 徳川慶喜公伝1

べき、居常御心を父兄両卿の諧和に注がれしこと、大方ならざりしならん。されば兄の 卿にも親しみ深く、互に訪問し給へるのみならず、父君と共に三人座を同じうして閑談 くつわ しばしま せらるゝは論なく、轡を並べて小梅に放鷹せられし事も屡ーなりき。されば烈公も慶篤 卿も、数度一橋邸を訪問せられ、烈公は又永代新田なる一橋家の別墅に臨まれし事もあ りき。殊に嘉永五年烈公不時登城の恩命は、公が予て峯寿院夫人に内願せられし事も与 りて力ありしなるべし ( 晩香堂雑纂所収公・及烈公・書翰 ) 。蓋し烈公が屏居の鬱懐を まがき 慰むるは公に如くものなからん。前年の正月、公に追らすとて烈公の、「白雪は籬の山 と積れども、道ある世とて春は来にけり」と詠ませ給へるは、偶然にも此吉兆を表せし に似たり ( 松宇日記 ) 。 〕結婚 さて公は嘉永四年二月二十八日を以て袖留の儀を行ひ、五年二月五日を以て前髪を除か 千代君解約 れしが、六年二月六日に至り、予て婚約ありし一条家の千代君は、近頃病身となれるを 更に一条家もて、縁組破約の申出ありとて、台命をもて共婚約を解かる。尋で一条忠香公は今出川 サネアヤ の延君と婚 三位中将実順卿の妹延君を養女として、更に縁組ありたき旨申出でられしかば、其情願 約 に任せ、五月十八日、老中松平和泉守を上使として共由仰出さる。翌年延君の称を美賀 君と改め、名を省子 ( 維新の後美賀子と改む ) といふ。安政二年九月十五日京都を発し て江戸に下り、十月十五日江戸城広敷に著せらる ( 一橋家日記。興山公年譜別記 ) 。京都 を発するに先だち、格別の由緒を以て、参内の上、天盃を賜はりしといふ ( 刑部卿様御 婚礼御用留 ) 。十一月十一日、誠順院夫人 ( 斉位卿夫人 ) に引取られて一橋の邸に徙り、 やがて十五日御結納の儀あり、十二月三日に至りて御婚儀を行はる ( 公年十九、美賀君 年一一十一 ) 。公は結納・婚儀の両日、家老土岐信濃守 ( 朝義 ) をして酒・吸物・肴・ 、結納 婚儀 うよう べっしょ

2. 徳川慶喜公伝1

詐を疑ふ者もありたれど、始めて世界の趨勢を開き、鎖国の危険なるべきを会得しけれ ば、幕府の有司は是が為に開国の国是を決定せんとするに至れり。十一月大目付土 ただ 岐丹波守等五人は、ハ リスを其旅館に訪ひて種々の疑問を質しけるが、やがて諸有司討 論の末、大体に於てハリスの要求を容るゝに決し、材幹の聞えある下田奉行井上信濃 守・目付岩瀬肥後守 ( もと修理、去年十一一月叙爵して伊賀守と称し、程なく肥後守と改 貿易開始及む ) を委員となして、 ハリスに応接せしめたり。十二月備中守は再びハリスと会見して、 公使在府の貿易の開始・公使の在府・共に許容する旨を告げ、委曲の交渉を応接掛に譲れり。尋で 許可 ハリスは十六条より成れる通商条約、及六則より成れる通商規定の草案を提出せり ( 開 国起原。堀田家書類。 リス奉使日記 ) 。 リスとの条斯くて通商条約議定の為に、十二月十一日より明年正月十二日に至るまで、十三回の応 約談判及其締 接を重ねて、通商条約十四箇条・貿易章程七則を議定せり。而して条約の要領は下の六 結 一、公使領項に存す。一、公使の在府・領事の開港場駐在・及国内旅行の権は、総て彼の要求を容係 事の駐在 れて之を許容す。二、開港・開市の場所につきては、彼は下田・箱館の外、新に大坂・国 一一、両都五 港開市長崎・平戸・京都・江戸・品川の六箇所、及本州西北海岸の二港を要求せしかど、我がの 委員は極力反対して、結局下田・箱館の外 ( 下田は神奈川を開く後六箇月にして之を鎖 す事 ) 、神奈川・長崎を西暦一千八百五十九年七月四日 ( 安政六年六月五日に当る ) よ相 、新潟を一千八百六十年一月一日 ( 万延元年十一月ニ十一日に当る ) より、江戸を一章 千八百六十一一年一月一日 ( 文久元年十一一月二日に当る ) より、大坂・兵庫を一千八百六第 十三年一月一日 ( 文久二年十一月十二日に当る ) より開くに決せり。我の京都を避けた るは、攘夷論を憚れるなり。三、貿易の方法は、我は依然蘭・露・両国の追加条約を基 方法 三、貿易の

3. 徳川慶喜公伝1

きねん 文化文政の世烈公の襲封は文政の季年にして、将軍家斉公漸く政に倦み、寛政の治蹟既に荒みて、 閣の威権は老中水野出羽守 ( 忠成、駿河沼津藩主 ) 若年寄林肥後守 ( 忠英、上総貝淵藩 っと 主 ) 等に帰し、而して二人の為す所は、たゞ上意を迎合して、泰平の粉飾にカむるのみ なりければ、幕府衰亡の兆は日一日に長ず、一代の文豪賴山陽が、武門の天下を治平す る此に至りて其盛を極むといへるは正に此時なり。今之を各方面の事実に徴して其概要 を叙せんか。 財政の窮乏幕府が財政の窮乏に苦めるは一朝一タの故にあらず、既に五代将軍綱吉公の時より、共 びほう 幕府の窮乏 破綻を弥縫せんが為に貨瞥を改鋳し、共品質を悪しくして出目の収益を謀りたるが、水続 およそ 野出羽守執政の時 ( 文政元年より天保五年まで ) には、改鋳凡八次に及びて、貨幣の品 位最も劣悪を極めたれども、遂に官庫の窮乏を救ふを得ず、出羽守の卒後、天保八年よ一 り十二年までの経常歳入は平均百十四万七百余両にして、共経常歳出は平均百七十七万章 五千両余なれば、年々六十三万四千両余の不足なりしといふ ( 吹塵録 ) 。幕府既に此の 旗本御家人如くなれば、旗本・御家人の窮状は、後人の想像し能はざるものあり。当時一廉の官職 の窮之 にも就き、多くの役料・足高を賜はる者、若くは世々高禄を食みて生計に余裕ある少数 第一一章一橋家相続 ひとかど

4. 徳川慶喜公伝1

在せしめ、数挺の小砲を備へしむるに過ぎず。松平越中守 ( 定信 ) が海防に注意し、寛 みずから 政五年自豆相の沿海を巡視し、又吏員を派して房総の海洋を巡検せしめし時も、十数箇 所の要地に役所を設けんとしたるのみ、それも老中戸田采女正 ( 氏教、美濃大垣藩主 ) 局に当るに及びて沙汰止となれり ( 陸軍歴史。蜑焼藻 ) 。文化年間露人北海を寇掠し、 英船長崎を侵擾せしより、俄に沿海の警備を急ぎ、文化四年鉄砲方井上左太夫をして 豆・相・房・総の海岸を見分せしめ、翌五年より始めて相模・及安房・上総の海岸に台 場を建設し、又諸方に燈明台を設けしめたるは、正に国防の一進歩たるを失はざれども、 海警弛べば警備も亦従って弛び、共七年より天保八年に至る二十九年間は、遂に何等の 施設をも見ざりき。天保八年米船モリソンの浦賀に来りしより、幕吏の沿海巡検再び始 まりたれども、砲塁の築造は多く弘化以後に属せり ( 陸軍歴史 ) 。 ただ 改革の率先者右に叙述せし所は、文化・文政の交に於ける幕府の政教弛廃の一斑なるが、此現象は啻 は水戸烈公 に幕府のみに止まらず、太平の余習天下推しなべて皆然らざるはなかりき。故に有為の 諸大名はいたく之を憂ひ、意を藩治に用ゐ、刷新の政を布きたる者尠からず、薩州・長 ・肥前・諸藩の如き是れなり、然れども共事業の見るべきは皆天保の中葉以後に属す。 然るに是等に先ちて落治の改革を断行し、率先して天下を警醒せしめたるを水戸烈公と す。烈公の藩政改革は、畢竟時勢の要求にして、独り其栄誉を壟断するを得ざれども、 模範を天下に示して革新の気運を促進したるは、確に烈公の力なりしなり。按ずるに烈 公の改革事業は其襲封の翌日を以て始まる、実に文政十二年十月十七日の事なり。烈公 は此日書を老臣に伝へて改革の方針を示し、十一一月には前代よりの権臣を退け、明くる 天保元年正月以来著々之を実施せり、今共大要を左に概説せんとす。 ゆる

5. 徳川慶喜公伝1

れり ( 三条実万公手録 ) 。但し堀田備中守等が上京して条約の勅允を得んとするに当り、 そあっ 烈公が之を阻遏したりとの世評は、悉く誣言なり。烈公は外国通交を喜ばざれども、寧 ろ前関白に申し進めて、公武の諧和を希望せられしなり ( 昨夢紀事所載安政五年正月ニ 十一日附鷹司家宛の書、同ニ十六日附大坂城代土屋采女正宛の書、又三条実万公手録所 載三条内府の近衛左府に呈するニ月四日附の書等証すべし。今繁を省きて載せず ) 。 尾州及諸藩の尾張中納言は、癸丑以来幕府の外交意見と合はず、亜米利加通商条約につきても拒絶の 態度 意見を有し、建白両度 ( 四年十一一月・五年正月 ) に及びしが、其趣意は、「外人の願意を 尾張慶勝の さじん 意見 許さば将来皇国の維持困難なるべく、蛮夷の法術を信用せば、終には左袵の風俗にも押 移るべく、痛歎に堪へず」といふにあり ( 堀田家書類。昨夢紀事。三世紀事略 ) 。安政止 外交につい五年の春、附家老竹腰兵部少輔 ( 正諟、居城美濃今尾 ) が堀田備中守の命を含みて名古城 登 て 屋に赴き、米国の処置につきて商議せる時も、中納言は甚だしく幕府を非難し、関東はの 天朝に対しもはや見放したりなどの激語ありしといふ。又嘗て松平越前守に告げて日く、「天朝とと て は君臣の義あり、幕府とは父子の親あり。国家艱難の際に当りては、父子の親を棄てゝ調 も君臣の義をば立つべきなり。今や幕議に随はゞ叡慮に応ぜず、寧ろ専ら天朝に奉仕す条 るの外なし。徳川家中原の鹿を失はゞ、又得る人あるべし、其時こそ天下治平に属すべ利 けれ」と。是れ蓋し藩祖義直卿の遺訓に基ける尊王心に因るといへども、亦自ら然るべ亜 尊王心の淵き縁由なきにあらず。尾藩はもと近衛家と姻親ありて、近衛家が尾藩に信賴するは大方章 源 ならず。随って中納言が尊王の志は、近衛左大臣によりて宸聴に達せし事も一日にあら第 ざるべし。嚮に堀田備中守上京の時、天皇は密勅を近衛左大臣に賜ひて、「公と親族の 間柄なる武家 ( 尾・薩等を指し給ひしなるべし ) は、備中守の申す如く、外夷との戦争

6. 徳川慶喜公伝1

しきわえいい 渋沢栄一 1840 ( 天保 11 ) 年埼玉県生。一橋家臣 , 羃臣 , 大 蔵省出仕を経て , 第一国立銀行を創始 , 以後 5 余に及ぶ株式会社を設立し , 日本資本主義の「大 御所」とされた。 1931 年没。 ふじいさだぶみ 藤井貞文 19 年山口県生。国学院大学文学部国史学科卒。 専攻幕末史 , 神道史。 1994 年没。 主著『近世に於ける神祗思想』『吉田松陰』。 徳川慶喜公伝 1 1967 年 4 月 10 日 1998 年 1 月 14 日 〔全 4 巻〕 初版第 1 刷発行 初版第 16 刷発行 著者 発行者 印刷 製本 渋 下 東洋文庫 沢栄 中弘 株式会社共立社印胤所 株式会社石津製本所 電話編集 03 ー 5721 ー 1252 〒 152 東京都目黒区碑文谷 5-16 ー 19 発行所営業 03 ー 5721 ー 1234 振替 0018 四 639 株式会社平・丿宅ヒ ◎株式会社平凡社 1967 Printed in Japan 乱丁・落丁本は直接読者サービス係 でお取替え致します ( 送料小社負担 ) ISBN4-582-80088 ー 2

7. 徳川慶喜公伝1

のにして、烈公が奉公の誠を徴すべきものなり。将軍感賞措かず、特に甲斐守等に下し て熟読せしめ、又能書の侍臣に浄写を命じ、美装して常に鷹の間の架上に置けりといふ ( 朝比奈閑水手記。水戸小史 ) 。将軍の烈公を重んずること此の如くなれば、外警日々に 急なる時に当り、国家の機務、殊に国防の議に付きて、烈公に倚頼せんとの心も亦漸く 加はれること推して知るべし。将軍・老中・共に烈公に近接せんとす、公が一橋家相続 の原因も亦推知するに難からず。 かまびす 天保十二年按ずるに、安政五年将軍家継嗣問題の世に喧しかりし時、大目付土岐丹波守 ( 頼 の頃家慶公 旨 ) が、松平越前守 ( 慶永 ) の臣中根靱負 ( 師質 ) に告げし語中に、「一橋公を西城 公を西城に 入るゝの意へと申す事は、恭廟 ( 家斉公 ) 薨去の砌、慎廟 ( 家慶公 ) の思召付けられて其内慮あ ありといふ りしを、本郷丹州 ( 丹後守泰固、御側御用取次 ) の、御時節もあるべき事にて、唯今 説 仰出されては悪しかりなんと御止め申上げし事は、余も正しく伺ひ知りたり」とあり ( 昨夢紀事安政五年四月ニ十七日の条 ) 。之に拠れば、家慶公は天保十二年の頃、既に 公を以て幕府の儲君に擬せられしものゝ如し。されど此時公は未だ四歳に満たせ給わ ず、此説果して如何あるべき。故に今採らず。 家慶公公を西家慶公が公に対して夙に思召ありし事は、証跡に乏しからず。嘉永一一年小金原鹿狩の催 城に入るゝの あり。こは将軍一代の大事にて、共事奉れる御場掛は、五百石を加増せらるゝ旧例なり。 内意 此度は小納戸頭取朝比奈甲斐守共任を勤めしかば、後日御側御用取次本郷丹後守は甲斐 守の為に加増を請へるに、将軍しかと答ふる旨もなし、其後月を経て再び申す旨ありし に、「甲斐守は早晩汝の相部屋となる者なれば、今加増にも及ぶまじ」との台慮なりき。 これ甲斐守が将軍の左右にありて、公が一橋相続の件に周旋し、共功大なりしかば、公 っと

8. 徳川慶喜公伝1

ししょ 安藤信正の等欧洲巡行御用留。文久紀事 ) 。三使出発の前後、安藤対馬守は屋ーオルコック・べレ 悃誠 ク 1 ル等に会して延期の助力を求め、延期の代償としては、対馬を開港するも可なりと 2 いひしが、オルコック等は、「開市延期は本国政府に於て容易に許諾すべしとも思はれ ず、新潟はともかくも、兵庫・大坂は必ず開市せざるべからず」と答へしかば、対馬守 は大に心を痛ましめつゝありしに、二年正月十五日坂下門の変ありて、兇刃の為に負傷 じよ′、 したれども、尚褥中にありながら、通弁頭取森山多吉郎等に旨を含め、屡ォルコックに 就いて周旋を求めしかば、オルコックも共国事を念ふの厚きに感じ、「然らば遠からず 余は賜暇帰国すべければ、本国政府に周旋せん、但し延期に対して、幕府は相当の代償 を提供せざるべからず」と告げたれども、代償の如きは全く幕府の予期せざる所なれば、 議纒まらず。ォルコックは又、「貴国の使節に訓令すべき事もあるべければ、外交の枢 機に通じたる人を派遣するを宜しとす」とて、森山多吉郎を推薦しければ、幕府は其議 に従ひ、三使への訓令を多吉郎に授け、調役淵辺徳蔵と共にオルコックに随行せしめた り。ォルコックの一行は二月二十三日横浜を出帆して、五月上旬倫敦に到著し、多吉郎 は共齎せる訓令を三使に伝達せしかば、此に再び英国政府との談判は開始せられたり ( 開国起原。懐往事談。奉使日本三年間記。竹内下野守等欧洲巡行御用留 ) 。 英国の延期承斯くて談判の末、英国は両都・両港の開市を、千八百六十三年一月一日 ( 文久一一年十一 月十ニ日 ) より、向ふ五箇年間延期することを承諾すべし ( 五年後の一月一日は慶応三 れいこう 年十ニ月七日に当る ) 。其代償として、日本は既開の三港に於ては条約の趣旨を圍行す なかんずく ると共に、外人擯斥の古法、就中商品の輸出の制限、外人が日本のエ匠・人夫等を雇 使するの禁、諸大名が其物産を直接外人に売るの禁、運上所役人等の賞を貪りて事を拒

9. 徳川慶喜公伝1

送らず、露国は領事ゴシケウヰッチを箱館に駐在せしめ、和蘭は総領事デ・ウキットを 長崎に駐在せしめたり ( ォルコック奉使日本三年間記。、 リス奉使日記。続徳川実紀。 外国奉行長崎奉行伺留。各国公使姓名 ) 。幕府は亜米利加条約調印の後、外国奉行の職を設けて、 専ら外交事務を掌らしめ ( 五年七月八日の事なり。〇続徳川実紀 ) 、六年五月、英・米・ 三港を開き仏・露・蘭の五国に対して横浜・長崎・箱館の三港を開くべきを布告し、六月二日より 外国貿易を 外国貿易を開始せり ( 条約によれば、露・英は六月一一日、蘭・米は六月五日、仏は七月 開始す 十七日に開港すべき定めなりしも、実際は五箇国とも同時に之を開きたり。 ( 幕末政治 神奈川奉行家 ) ) 。此に於て更に神奈川奉行を置き、外国奉行をして之を兼ね、開港場を掌らしめ 下田港を鎖 ( 万延元年九月十五日より専任の神奈川奉行を置く ) 、十二月八日下田港を閉鎖せり ( 安 政録。奉使日本三年間記。外国奉行伺留。柳営補任 ) 。 遣米使節 万延元年の初までには、英・露・仏・蘭四国の条約は江戸にて交換を了へたるが、唯米 国条約のみは、其第十四条の明文に随ひ、米国に於て交換せんが為に、此年正月外国奉 行新見豊前守 ( 正興 ) 村垣淡路守 ( 範正 ) 目付小栗豊後守 ( 忠順 ) 共使節として、米艦 使節海外派。ホ 1 ハタンに駕し品川を発したり。これ幕府が使節を海外に派遣するの始なり。三使は解 遣の始 閏三月二十五日米国華盛頓に著して厚遇せられ、大統領プカナンに謁し、四月三日交換謹 うつわ を了へたり。使節の中、新見・村垣は尋常の器なれども、小栗豊後守と、一行の護衛た公 る軍艦成臨丸 ( 軍艦奉行木村摂津守喜毅之に将たり ) の艦長勝麟太郎 ( 義邦、後安房守章 と称す ) 等は、一代の俊才にして、此行大に見聞を広めたれども、九月二十八日帰朝の第 際は、時勢既に一変したれば、皆口をみて海外の事情を語らず、たゞ軍艦が邦人の手 いささか を以て始めて太平洋を航海せし一事は、聊人意を強くするに足れり ( 条約彙纂。続徳 其帰朝 つかさど

10. 徳川慶喜公伝1

出府 際にありしかば、烈公の謹慎宥免井に戸田・藤田等の赦免は偶然にあらずといふべし。 斯くて大奥の感情も融和し、幕閣の首班たる伊勢守も推服せる時に当りて、一橋家相続 の議起る。 一橋家相続の一橋家の第七代民部卿慶寿卿は、田安大納一言斉匡卿 ( 一橋儀同三司治済の第五子 ) の第 内命 五子にして、天保九年刑部卿慶昌卿 ( 家慶公の第五子 ) の後を承けたるに、弘化四年五 マサ 月七日一一十五歳にて薨じ、嗣子なく、尾張大納言斉荘卿 ( 家斉公の第十一一子 ) の次子昌 丸君、民部卿 ( 慶寿 ) の養子として相続せしに、これも七月十六日病を以て卒し、八月 二十日共喪を発せり ( 三家三卿系図。一橋相続略記 ) 。此月の朔日、老中阿部伊勢守は ふき 水戸の附家老中山備後守を召して内論すらく、「此度一橋昌丸君病重ければ、若し不諱 に臨む節は、水戸の松平七郎麿君を以て共後とせらるべしとの内密の台慮なり、但し右 相続の廉は尚極秘となし、唯何となく中納言殿 ( 烈公 ) の旨をも伺ひし上、七郎麿君の 速に出府あるやう取計ふべし」となり。備後守は予て烈公の素意七郎麿君を以て世子の 控となし置くにありて、他家相続は好まざるを知れば、「右は七郎麿君に限りたる事に や、又は他公子にても差支なきや」と問ひ試みしに、伊勢守は、「深き思召もあれば、 必ず七郎麿君に限りたる事なり」と答〈ぬ。やがて備後守は水邸の老女小川を経て、事 の由を言上せしに、烈公は台命とあれば背き難しとて、共出府を諾せられ、又己が隠居 の寂寞をも慰めん為にとて、同時に五郎麿君の出府をも命じ給へり ( 一橋相続略記。新 伊勢物語 ) 。 七郎麿君は出府の命に接して直に旅装を整へ、八月十五日御兄五郎麿君と共に馬上ゆた かに水戸を発程あり。随従の士は井上甚三郎・渡辺半六等を頭として凡そ十三人なり かど