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検索対象: 徳川慶喜公伝1
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1. 徳川慶喜公伝1

他は幼弱事に堪へず、大老は外艦渡来して公務多端なればとて之を辞し、条約調印の事 に関しては、「不日上京すべき間部下総守、及新任の所司代酒井若狭守 ( 忠義、若狭小 浜藩主 ) に垂問を賜はるべし」と奏す ( 尚忠公記。三条実万公手録。岩倉公実記 ) 。是 れと前後して、「露国との条約も米国に準じて締結すべく、又遠からず英・仏両国とも 此例に拠りて締結すべし、共理由は総べて下総守の口上に附せん」と奏上し、又尾・ 水・越・三侯の責罰、紀伊宰相の立嗣の事をも奏上せり ( 孝明天皇紀 ) 。 かね 公卿の九条関九条関白の態度は予てより天皇・及公卿の疑を招きて、其在職を懌はざる者多かりしが 白排斥運動 ( 近衛家所蔵宸翰 ) 、此に至り青蓮院宮・鷹司右大臣・二条大納言等は、幕府の武断調印 は、職として関白が誠忠ならざるに由るとなし、之を排斥せんとす ( 秘書集録 ) 。但し三 たやす 条・久我 ( 関白の女壻 ) ・中山等の諸卿は輙く賛意を表せず、殊に共後任の得難きになや みて、内議未だ一致せず ( 近衛家所蔵宸翰 ) 。然るに鷹司右大臣は関白の邸に詣りて辞 職を勧め、二条大納言も亦関白に説きたれども、関白は之に応ぜず、却て深く宸意を疑 天皇と関白ひ奉るものゝ如し ( 秘書集録 ) 。天皇聞し召して、久我大納言と諮り、宸翰を関白に賜 ぬきん ひ、「目下当職罷免の叡慮なければ、将来は専ら忠誠を抽づべし」と論し給ふ ( 近衛家所 島田左近等蔵宸翰 ) 。されど関白は遂に地位の保ち難かるべきを危めり。九条家の臣島田左近は、 の防禦策 「関白を辞職せしめんとの密謀は、水戸老公に発源し、老公・及共与党の縉紳は、継嗣の 議に失敗せる余憤を含みて天聴を惑はし、朝命を請ひて以て一橋公の擁立を遂げんとす るなり」と疑ひ、青蓮院宮を始め、鷹司父子・近衛・三条・中山・正親町三条・諸卿の 行動を譏察し、誇張潤飾して之を井伊大老の家臣長野主膳に密報し、主膳は之を大老に 水野忠央等一達せり ( 秘書集録 ) 。紀伊家の附家老水野土佐守 ( 忠央、居城紀伊新宮 ) 徒頭薬師寺筑前 よろこ

2. 徳川慶喜公伝1

により、幕府に於ても歳旦の儀式を省略して、謹慎の意を表せんと発議せしかど、異議 ありて行はれず ( 懐旧紀事 ) 。十一月に至りて皇居竣工し、二十三日移御ましまし、蕃 府も崇奉の実を挙ぐるを得たり ( 公卿補任。遷幸新造内裏次第。御府文書。俊克卿記。 非蔵人日記。言成卿記。懐旧紀事 ) 。 京都警衛米艦渡来以後、叡慮を悩まさるゝこと大方ならず、外夷攘斥・京畿警備等につき、関東 彦根膳所高に仰せ下さるゝことも屡なるに因り、江戸にては井伊掃部頭は予て京都守護の家柄なれ 槻の三藩 ばとて、安政元年五月命じて封地に就かしめ ( 此時従来負担せる羽田・大森・海岸警衛 の任を解けり ) 、膳所 ( 藩主本多隠岐守康融 ) 高槻 ( 藩主永井遠江守直輝 ) の二藩にも、 同じく京都警備を命じたり ( 懐旧紀事 ) 。九月に及びて、露国水師提督。フ 1 チャチンの止 露艦大坂湾搭乗せる軍艦ヂアナ号、突然大坂の海上に現はれ、京摂の人心擾動す。彦根藩京邸の留城 登 に入る 守居は、警報を得て直に一隊の兵を発し、尋で彦根よりも出兵して非常に備へたり。程の なく露艦去りて事なかりしも、是より幕府は益京畿の防備を厳にし、十一月彦根の外に、と 小浜郡山の小浜 ( 藩主酒井修理大夫忠義 ) 郡山 ( 藩主松平時之助保徳 ) の二藩を加へて京都警衛に調 充て、膳所・高槻・笹山 ( 藩主青山下野守忠良 ) 淀 ( 藩主稲葉長門守正邦 ) の四藩には条 京都七ロの 守衛 京都の七口を守らしめ、傍近諸大名には急に応じて赴援せしむ。且外艦の近海に襲来せ利 近畿の守備んことを慮り、宮津 ( 藩主松平伯耆守宗秀 ) 田辺 ( 落主牧野豊前守誠成 ) 峰山 ( 落主京亜 極備中守高富 ) の三藩をして北海に備へしめ、紀州・阿州・明石の三藩をして摂海方面章 を守備せしめ、且紀伊の加太浦、淡路の由良・岩屋、播磨の明石の四砲台を築造し、洋第 式砲を備へて大坂湾を防護せしめたり。是亦京都の守備を固くせんが為と聞ゅ ( 言渡。 聰長卿記。土山武宗日記。陸軍歴史 ) 。

3. 徳川慶喜公伝1

勢なり。然れども掃部頭の行動は、たゞ此反感によれるものとのみは解すべからず、掃 おもえ 直弼の養君部頭はかねて養君の選定に関して一種の見解を有せり。以為らく、「二百年来徳川家の 選定意見 治世無比の太平を致せしは、全く将軍家の威徳に由る、其人の賢愚に因るものにあらず。 正しき近親を措きて英明を択ぶは、外国の弊俗にして、皇国の美風に背けり。我邦にて は血脈近き人を立つるこそ人心を繋ぐ所以なれ。且将軍家の台慮を矯めて衆望に従はん とするは道にあらず」と。此に於てか紀伊宰相を擁立せんとす。然らば所謂将軍家の台 慮なるもの果して如何 ( 秘書集録 ) 。 大奥と南紀党将軍家の内情は、深秘にして知り難きを常とすれども、家定公の性質は、強ひて我意を 立つる人にあらざれば、此問題については、大奥の嚮背を観察するを要す。此時家定公 の生母本寿院 ( 堅子、於美津の方、跡部氏 ) を始め、奥向に勢力を張れる婦女等は皆烈 公を忌むこと甚しければ、公の西丸に入るを喜ばざるは疑ふ所なし。且大奥の内部にも わだかま 情実蟠り、薩摩守の内旨を承けたりといふ天璋院夫人も ( 内旨の事前節にいへり ) 、手 を措くに所なき有様なりしは、却て南紀党が奇貨居くべしとなせる所と伝へらる ( 昨夢 紀事 ) 。紀伊家の人々が掃部頭と結び、又幕府の内外に周旋したる曲折は、詳にするこ ・水野忠央のと能はざれども、多くは紀伊家の附家老水野土佐守 ( 忠央 ) が周旋の力なりといへり。 周旋 土佐守は紀伊新宮三万五千石を食み、紀藩の附庸なるが、予て独立の大名たらんの望を 懐き、紀伊宰相を西丸に納れて、己れ老中の地位を占めんと企て、共周旋は頗る隠密に して、多く賂遺・請託によれりと伝ふれども、共真偽は明ならず ( 橋本左内全集。照国 公文書 ) 。但し家慶公の妾杉氏 ( 於広の方、後に於琴の方と称す ) は、実は土佐守の妹 にして、鐐姫君・田鶴若君・鋪姫君・長吉郎君等の生母なれば、大奥に縁故深かりしは - よ 5 ま、

4. 徳川慶喜公伝1

のなれば、伊賀守は固より公を喜ぶべくもあらず。されば越前守は先づ伊賀守の心を攬 ること緊要なりとて、中根靱負をして斎藤弥九郎 ( 篤信斎、江戸の剣客、甞て伊豆韮山 代官江川太郎左衛門 ( 英龍 ) の手附たり ) と謀り、伊賀守の老臣岡部九郎兵衛等に説き、 上田藩の財用豊ならざるに乗じ、利を以て伊賀守を誘はしむ ( 昨夢紀事。中根氏雑書 ) 。 越前守は又内藤駿河守 ( 頼寧、信濃高遠藩主 ) を己が党となして、先づ堀田備中守の意 を探らしめ、十六日自ら備中守を訪ひ、ー始めて共意を述べ、尋で久世大和守 ( 広周、下 総関宿藩主 ) 松平伊賀守の両老中をも歴訪して尽力を請ひ、平岡円四郎が記せる公の行 状を示して、公の英明美徳を賞揚し、以て共心を動かさんと試みたり ( 昨夢紀事 ) 。此 〕継嗣の議公に至りて刑部卿推戴の事は、有志者が隠密の希望にあらずして、幕府と諸大名との公然 然たる政治 たる政治問題となれり。越前守は尚も尾張中納言を援きて党与となさんとし、十一月再 簡題となる び家臣石原甚十郎をして田宮弥太郎に説かしめ、又書を中納言に贈りて反復時勢の艱難 を説き、英明の儲嗣なくんば、いかでか天下の人心を一にすべきと切論せしが、中納言 は尚幕府の嫌疑を憚る由答へて応ぜざりき。越前守は更に幕吏中の同志を糾合せんと、 先づ平岡円四郎をして、共実父岡本近江守 ( 成 ) と親しかりし川路左衛門尉を説かしむ。 左衛門尉はたやすく真意を吐露せざれども、固より志を公に寄せたるものゝ如し。大目 付土岐丹波守・目付永井玄蕃頭・鵜殿民部少輔・岩瀬肥後守・箱館奉行堀織部正・田安 家老水野筑後守等は、皆越前守等と声息を通じ、相呼応して運籌怠りなかりしに、何時 しか世子は紀伊宰相 ( 安政一一年十二月中将より昇進す ) に決せりと伝ふるに至れり ( 昨 夢紀事。橋本左内全集。銘肝録 ) 。 南紀党の由来是より先、養君には紀伊宰相を迎立せんとする南紀党の一派あり、共首領を井伊掃部頭

5. 徳川慶喜公伝1

て、幕府に於て如何やうにもし返納せしむべし、朝廷より再三御催促の儀は聴許せられ 幕府の再願難し」と伝へしめたり ( 俊克卿記。三浦吉信所蔵文書 ) 。されども幕府が再び奏請する に及びて、天皇已むことを得させ給はず、遂に御聴許あり。但し「幕府提出の勅諚案中、 「唯今以て返上もなく、朝廷に対して不敬の至につき」といへる文字は削除すべし。且 っ水戸に対して斯く寛宥の沙汰に及ばゝ、彦根の方より朝廷を怨みて事変を生ぜん、彦 根は近国の事なれば安心なり難し」と仰せ下されしに、若狭守は、「彦根にても此勅書 を下されたる内情は自ら洞察す・ヘく、尚幕府よりも懇諭すべければ、此儀は叡慮を労せ 還勅催促のられ給ふに及ばず」と答へ奉りたれば、六月十三日遂に還勅催促の勅書を幕府に下され 勅書下る たり ( 七月朔日江戸に達す。〇内覧文書。光成公記。俊克卿記 ) 。暮府は七月に入りて 高松・郡山 ( 藩主松平 ( 柳沢 ) 時之助保申 ) ・雲州 ( 藩主松平出羽守定安 ) ・桑名の四藩 に京都の警衛を、淀 ( 藩主稲葉長門守正邦 ) 高槻 ( 藩主永井飛騨守直輝 ) 膳所 ( 藩主本 多主膳正康穣 ) 篠山 ( 藩主青山下野守忠良 ) の四藩に共四方要ロの警衛を命じ、又夙く 京都警衛の任にある彦根藩に対しても、更に共警衛を厳にし、尚特に関白邸の警戒に意 を用ゐしめたるは、水戸共他の激徒に備へて、所司代の奉答を実行せるものなるべし ( 嘉永明治年間録。井伊家譜 ) 。 幕議変化の由是より先、暮府は井伊大老の政策が人心を失へるに鑒み、政局を刷新して幕威を改張せ 来 んとせり。共掃部頭の大老を免するや、翌日老中内藤紀伊守は密に公用人を彦根藩邸に 最初の強硬 政策 遣はし、「今度幕議急に一変し、水戸へ還勅を厳達し、若し違背せば取潰す外なしと決 したれば、いずれにも争乱に及ぶべきにつき、共手当を為し置くべし。但し之が為に新に 国許より人数を呼び寄するは宜しからず。さて斯く水戸に厳ならんとすれば、勢ひ彦根 かんが はや

6. 徳川慶喜公伝1

き、日本の開国を勧告せし事ありければ、伊勢守は其処置について烈公の意見を聴かん 御城書の廻と欲し、烈公の藩政参与をさへ禁じたるに拘らず、二年の冬より、御城書を小石川本邸 示 より駒込邸に廻覧せしめ、三年の頃よりは外交の機密書類をも送りて、共意見を聴くを 外交文書の 内示 常とせり。烈公も亦喜びて意見を陳べ、「此上とも夷狄の使の来らんは計り難ければ、 衆評を尋ね、三家は勿論、たとひ外様大名たりとも、有志の者へは内々意見を諮問せら れ、有志一同の考慮尽力によりて、日本の恥辱とならざるやう致したき事なり」といへ り ( 嘉永六年米使渡来の時幕府の諮詢は、蓋し此意見も一因をなせるならん ) 。予て烈 公は、「三奉行評議の席へ老中出座あらば、下官も相加はりて、互に伏蔵なく衆論を詳 悉し、天下万世の為に遺策なきゃうあらまほし」との宿論なりしが、当時退隠の身分な れば、斯かる事の行はれ難きを知り、伊勢守に来邸して評議を尽さんことを求めたり。 されど伊勢守は尚中外を憚りて之を辞し、唯筆翰によりて意見を交換せんと答へたり ( 新伊勢物語 ) 。 関 打払令復旧論烈公は異船打払令の廃止を以て国家の大患と信じ、屡伊勢守に改令を迫り、伊勢守も異 国 の頓挫 船出没して煩擾一方ならざるを憂ひ、筒井紀伊守 ( 政憲 ) 等に打払令復旧の可否を諮詢 有司の復旧せしに、紀伊守は「異船の渡来、必しも乱妨・狼藉・又は戦争等の異図あるにあらず、 反対 然るを岸に近づきたればとて、故なく打払はゞ、却て之を名として不慮の戦を開くこと あるべし」とて、反対せり ( 海防彙議所収筒井紀伊守備夷船議 ) 。伊勢守も亦故なく打章 武備充実後払に復せば闘争を招く嫌あり、且海岸の守備未だ全からざるに、我より打払を決行して の打払 必勝覚束なくば、此上もなき本邦の恥辱なり、先づ浦賀を始め諸国海岸の防禦を厳重に し、武備充実するを待ちて取計ふべし、此の如きは年月を要する事なれば、せめては浦

7. 徳川慶喜公伝1

一橋刑部卿慶昌卿 ( 天保九年十四歳にして薨ず ) とのみ。弘化四年の頃には唯家祥公一 人なりしが、家祥公年一一十四歳に及べども、宿疾ありて子女を得る望なかりき。当時将 なんな 三家の子弟年家の統絶ゆるに垂んとせしを見るべし。さて三家は如何にといふに、尾張家にては、 第十一一代大納言斉荘卿弘化一一年七月薨じて嗣なく、第十三代中納言慶臧卿田安家 ( 大納 ばか 言斉匡の第八子なり ) より入りて家を承け、同年十二月元服せし許りなり。紀伊家にて も第十一代斉順卿 ( 家斉公の第六子 ) 昨三年閏五月薨じ、十数日を距てゝ遺腹児菊千代 君 ( 長じて慶福といふ即ち将軍家茂公 ) 生まる。清水中納一言斉彊卿 ( 家斉公の第二十 子 ) 一旦其家を嗣ぎしが、将軍家の旨により、本年四月菊千代君を共養子となせり。次 に三卿の中、田安家にありては、第五代宰相慶賴卿年漸く弱冠に達せるのみにて、未だ 一子なく、二弟慶永 ( 松平越前守斉善の養子 ) 慶臧 ( 尾張大納言斉荘の養子 ) あれども、 既に他家を相続せり。清水家は中納言斉彊卿前述の如く紀伊家を襲ぎし後は、暫く嗣を 立てずとの議定まりて空邸なり。此に於てか将軍必ず一橋家の後を立てんと欲せば、之 を水戸家に求むるの外なかりしなり ( 三家三卿系図 ) 。 てんきゅ 5 け 三卿の地位家康公の時、尾張・紀伊・水戸の三家を立て、家綱公襲職の初、甲府・館林の両典厩家 を起したるは、明に親族を封じて大名に列したるものなれども、吉宗公の宗武・宗尹の 二公子を田安・一橋の私邸に住ましめたるは、共旨同じからず。幕府の公料にも限あれ ば、いつまでも子弟に分知を行ひ難きは自然の勢なり。田安・一橋・二卿が各元服当日 を以て叙爵し、従三位中将に任ぜられながら、尚封土を得ざりしは此理由に因れるもの ならん。二卿は間もなく私邸を賜はり、高位・高官に陞り、又近衛・一条等の摂家の姫 君と婚して別に一家を成したれども、其地位は尚家族にして、独立したる大名にはあら ナリカッ

8. 徳川慶喜公伝1

しよし ! しんし 藩邸には有司頻に更迭して、三連枝の影ー邸門に参差たり。之を見聞せる小金大発 ( 当時水藩人の常用語 ) の志士は、憤激の余り屠腹する者相続ぎ、江戸・水戸の間暗雲 慘澹たり。中納言いたく之を憂ひ、屡人を遣して水戸の人心を鎮撫せしめ、親書を以て、 「前中納言・及我等が身の上に拘ることなきを以て、動揺すること勿れ」と諭さしめ給 ひしも、毫も其効なく ( 水府内訌筆記。水戸藩史料。水戸藩党争始末。松宇日記 ) 、大 屯衆に対す発の士の屠腹する者益多く、或は狂して刃傷に及ぶ者あり。此状況にて永続せば、如何 る小石川邸 なる椿事を起すべきかと在府の重臣安島帯刀・白井織部・茅根伊予之介等は大に心を労 の態度 し、議を凝らすこと連日なり。中には目下の勢を利用し、直に兵を以て幕府に迫らんな ど、暴論を立つる者ありて、安島・茅根等之を憂ひたれども、さりとて激論を圧伏せば、 また藩論に分裂を来さんことを憂ひて、躊躇せざるを得ざりき ( 鈴木大日記 ) 。 三連枝の干渉此に於て中納言は、老中太田備後守・内藤紀伊守 ( 信親、越後村上藩主 ) によりて、三 解除 連枝の干渉を停めんと請ひ ( 鈴木大日記。水戸藩史料。松宇日記 ) 、二人は頗る同情せ あまっさ しも、井伊・間部等は飽くまでも敵視して、十分鎮圧せんの志なりしが如し。剩へ幕 府は更に別勅の水戸に下らんことを懼れたれば、大老は松平讃岐守をして中納言に言は しむるやう、「若し更に勅諚の下ることもあらば、御封のまゝ幕府へ差出さるべし」な ど、警戒をさ ~ 、怠らざりしが、小金の屯衆に対しては、将軍家中陰の間なればにや、 未だ断乎たる処置をなさず ( 公用方秘録 ) 。唯取締不行届の故を以て三連枝を責むるの くるし みなりければ、三連枝も今や其処置に困み、自ら立入を辞するの意あり、九月十六日幕 府遂に共監政を解除せり ( 水戸見聞実記。水戸藩史料 ) 。 屯衆の解散と十九日中納言は、執政白井織部・太田誠左衛門・教授頭取青山量太郎・目付生熊治右衛

9. 徳川慶喜公伝1

史所収浦賀奉行上書 ) 。是より先嘉永三年、勘定奉行石河土佐守 ( 政平 ) 西丸留守居筒 井紀伊守 ( 政憲 ) 以下、目付・勘定吟味役・鉄砲方等をして、豆相房総拜に浦賀の防備 を検分せしめ、砲台・屯所を設くべき場所、警衛の人数、備砲の員数を取調べしめたれ はかばか ば ( 陸軍歴史 ) 、多少の施設をなしたるべけれど、捗々しき事もなかりしにや、。ヘリー 渡来の時、浦賀の砲塁は未だ建造中のものあり、其既に成れるものも据附の砲なかりし といへば、かの奉行の自白せる所と大差なかりしならん ( ペリー日本紀行 ) 。江戸関門 の防備此の如くなるに、今忽ち外艦の威圧に会ふ、自己の弱点を知れる有司が、決然と して断すること能はざるは当然のみ。 内海の警衛と此に至りて幕府の有司議して日く、「寛永以来の大法を破るは恐懼の至なれども、即今 烈公への謀議 渡来の外艦に対し、時勢の変をも顧みず、軽忽に打払を決行して、忽ち国家の危難を招 しばら くは不策の甚しきものなり。姑く耻を忍びて外夷の要求を容れ、速に退帆せしむるやう 取計らひ、其後徐に衆論を聴きて国是を一定し、再渡の時を待ちて何分の返答を与ふる係 関 に如かず」と。言ふ所怯懦・因循の嫌なきにあらずといへども、責任の地位にある暮府 国 いわれ が、専ら平穏の落著を希望せしこと、其謂なきにあらず。さりとて警戒を怠るべきにあ外 らざれば、万一外艦が挑戦せんか、さなくとも富津・観音崎を乗り越して、直に江戸の崩 せま 内海に逼ることあらば、ゆゝしき大事なりとて、五日夕越前・阿州・高松・肥後・長州続 相 姫路・柳川の七藩に密示して、万一の節、内海警固の準備を命じたれども、率爾には出 章 張すべからずとの事なりき ( 昨夢紀事。大日本古文書 ) 。此夜老中阿部伊勢守は急使を馳に せ、書を烈公に呈して異船の渡来を報じ、且「前年来異船に関し度々建白もありしこと なれば、此度も必ず良策あるべし、ついては国家の為、自分よカ御相談申上ぐるなり」 そっじ

10. 徳川慶喜公伝1

憤を条約問題に移すを恐れて之を発表せず、越前守も亦養君の発表は、必ず条約可否の ことさ 慶永の策答議のほゞ出揃ひたる後ならんと考へ、尾張・水戸・井に大広間の諸大名と結び、故ら に答議を出さず、時日を遷延して、其間に回復の策を講ぜんと謀りたるが、事齟齬して 行はれず。又水藩の策士は、尾水両侯に不時登城を勧め、直接将軍家に謁し、一挙して 掃部頭等を排斥せしめんと企つるに至りしかど、是亦決行の運びに至らざりき。五月の 継嗣につき末には、諸大名の答議もほゞ出揃ひ、残れるは松平越前守等の二三藩に過ぎず、此に於 将軍の裁決 て大老は時機至れりとや思ひけん、老中と共に将軍家に謁し、一橋刑部卿・紀伊宰相・ 両説につきて裁決を請へるに、「宰相をこそ」との台命ありて、養君の議確定しければ、 六月朔日、三家・両卿・溜詰大名に、「御筋目の内より御養君遊ばさるべし」との内意 朝載を仰ぐを示し、翌日宿次奉書を以て京都へ伺を立てらる ( 昨夢紀事。公用方秘録。言渡 ) 。さ あまっさ れど養君共人をば明言せず、剰へ御養君は一橋公に定まれりとの風評さへ府の内外 に流伝せしかば、一橋党は之にやゝ生気を復し、半信半疑ながらも、万一の望を繋ぎ、 一橋党の乗越前守・遠江守等は最後の策として、松平土佐守をして三条前内大臣 ( 実万、本年三月 ずべき機会 内大臣を辞す ) を説かしめ、又近衛左大臣等と謀り、叡慮を候して、「目下の時局、将 ちよじ 軍儲貳たる者は、英明・人望・年長の三件を具有する刑部卿に限るべし」との内勅を賜 はらんことを企て、又前内大臣が井伊大老と縁故あるを以て、大老に勧告せしめんと試 みたれど、是も亦行はれざりき ( 昨夢紀事。中根氏雑書。伊達家文書 ) 。さて立嗣の勅 許は六月八日に下し賜はりたるに、如何にしたりけん、十五日に及びても尚老中の手に 達せず、此時諸外国軍艦沓至の報あり、米国使節ハリスは条約調印を逼ること急なりし かは、掃部頭は人心を定め、反対党の密謀を破らん為め、養君の発表を急ぎたれども、