り疑を容るべき余地なきに、水戸人の猜忌して敬遠の策となすは、越前守を誤解せるな るべし。越前守が公の在府を不可とせしは事実なれども、そは寧ろ公・及改革派の為に 計れるなり。越前守は宦女・侍妾の決して侮るべからざるを知り、公が滞府の請願出で て大奥に異議の起りしは、確に越前守の耳にせし所なれば ( 不慍録 ) 、公の此儘在府せ そこな んことは、益大奥の感情を害ふべければ、一日も早く帰藩して、国政の整理に専らなら んには若かじと思ひしなり。此消息は五月十六日烈公登営の時、越前守が語れる所に徴 しても明なり。日く、「御家は源威殿・源義殿を始め、御代々別段の御揃ひ、御前にも 大分世間の評判宜しく、そは宜しき事ながら、天下中にて、公辺より何事を仰出されて も、よき事は皆水戸様 / \ と申して、私など何程骨を折りても左様には申さず、斯くて は公辺の徳義消え申す事となる」と。是れ烈公の声望却て将軍の盛徳を掩ふを言へるに はじめ て、公の謙抑を諷せしものなり。十八日の上意にも、首に一昨年来といひて、共以前文 政十二年襲封以後引続きたる施設を言はざるは、天保十二年幕府の革新を以て一紀元と なし、新政の美を将軍に帰せしめんとするなり。藤田虎之介もこれを評して「さすがは 浜松侍従の筆なり」といひき ( 常陸帯 ) 。原来越前守は水戸藩政刷新に満腹の同情を表 し、且其声望を仮りて幕府の政策を遂行せんと欲せしなれば、五月十八日の恩賞は、唯 家 烈公を顕揚するのみならず、将軍をして公然幕府の新政を是認せしめ、天下をして異議 かく を出す余地なからしめんが為なりと解釈するを穏当とす。両者の関係此の如くなれば、 章 あんじよ 越前守倒るゝに及びて、烈公も亦晏如たるを得ざるは、已むを得ざるの数なるべし。而一一 して烈公の禍因は、結城寅寿 ( 朝道 ) が幕府の有司鳥居甲斐守 ( 忠糶 ) と結託せる事も、 けだ 其一因なりといへり、蓋し事実ならん ( 水戸藩党争始末。水戸見聞実記 ) 。されば重ね
準、幽眠と号す ) と相識なるに依りて、大学井に同家の諸大夫小林民部権大輔 ( 良典、 筑前守を兼ぬ ) に親しみ、遂に太閤を勧誘せり。斯くて鷹司太閤父子 ( 太閤の子輔煕、 時に右大臣たり ) が一橋党を助くるに至りしは、主として左内の力なり。されど主膳は 当職なる九条関白に結託すること深かりければ、左内等は未だ以て心を安んずるを得ず たけなわ 江戸に於ける京都に於ける両党の暗闘酣なる頃、江戸にては松平薩摩守の密書正月二十八日を以て 両党の対抗越前守の許に達し、薩摩守が近衛・三条・両公に入説して、朝旨を申し下さんとする由 いさぎよし を告げ来れり。初め越前守は幕府の親族として外藩と通謀するを屑とせず、まして朝 命を以て幕府を強要するを好まざりしが、公の立嗣を切望する余り、騎虎の勢已み難か りけん、薩摩守の報を得るに及び、再び苦肉の策を案じ、一一月朔日老中松平伊賀守を訪 ひて薩摩守の密書を示し、「此の如くなれば、内勅の下らざる以前、江戸にて議定あら まほし」と勧告せり。然るに伊賀守は備中守の帰府を待ちて議決せんとて応ぜざれば、 あた 此策も亦中らざるのみならず、却て幕威を張らんとする老中等を怒らしめ、弥一橋党外 の不利を招けり。蓋し越前守が薩摩守の密計を老中に洩らせるは、一は其近衛家への呈嗣 書中に、越前守の名を書入れありしかば、謀洩るゝ時連累を恐れて、予め辯疏の地を作 りたるものゝ如し。されど此後遠からずして、橋本左内は事実内勅降下に周旋せしかば、将 越前守は到底自ら潔くすることを得ず ( 昨夢紀事。秘書集録 ) 。さて南紀党は既に近習・章 奥向に結び、又老中の後援を恃みて自ら安んぜしに、斯く一橋党が京都・江戸の両地に第 活動する由知られしより、俄に周章し、若し一橋党に都合よき内勅下る事もあらば悔ゅ恥 とも及ばずと、群起して之を防がんとす。 ( 橋本左内全集。同履歴 ) 。
り。若し奥向にてかの上書の主意を洩聞きたりとすれば、其怨嗟は当然なり。且っ水野 越前守の倹約令は自ら烈公の主義と一轍なるのみならず、世には越前守は水戸の改革を れいこ ) 学びて幕府に行へるなりとさへいひ伝へし程なれば、大奥の輩がまのあたり節倹の厲行 を見ては、推源して直に烈公を怨むに至れるは知るべきのみ。されば烈公の帰国が大奥 や の反感に基く事尠からざるは、誠に已むを得ざる次第なりといふべし ( 不慍録 ) 。 烈公の恩命十四年五月十六日烈公登営して就封の暇を賜ふ、家老中山備前守・番頭中村与一左衛門 ・側用人藤田虎之介等同じく拝謁す ( 続徳川実紀 ) 。十八日烈公再び営中に召され、御 かきとり 座間に於て将軍に謁見せしに、親しく申含めらるゝ旨あり。共書取に日く、「一昨年来 ( 天保十一一年 ) 国政向格別行届かれ、文武とも絶えず研究これある趣、一段の事に思召 さる。尚此上在邑、御領分の末々まで公儀の徳化に靡き、御安心遊ばさるゝゃう、厚く 御世話なさるべし、因りて御伝来の御太刀遣はさる、御秘蔵なさる・ヘし。且御領中巡見 等の節用ゐらるゝ御鞍・御鐙を遣はされ、又何かの御用途として黄金を遣はさるれば、 ますます 源義殿 ( 光圀 ) の遺志を継ぎ、益忠誠を励まるべし」となり。斯くて大和国包清毛貫 形の太刀・鞍・鐙・黄金百枚を賜はりければ、烈公は拝謝して退出せり ( 続徳川実紀。 不慍録 ) 。これ烈公一世の栄誉にして、実に水戸君臣の意表に出でたる恩命なりければ、 歓声国中に満ち、多年藩政改革に尽力せし輩、皆共労苦の空しからざるを喜べり。斯く て烈公は六月本国に帰り給ふ ( 回天詩史 ) 。 もほ ) そもそも 抑烈公が滞府の請の許されざりしは、水野越前守が共改革に水藩摸傚の批評あるを快 しとせずして、公を遠ざけたるなりといへる説は、専ら水戸君臣の間に行はれたれども、 ヤ・いこ ' 、 こは必ずしも然らざるに似たり。五月十八日の賞賜は、越前守の推轂に出でたるは固よ 烈公の帰藩 烈公奇禍の伏 因
一方ならぬ暴政と思はしめ、殊に将軍井に大奥に憎悪の念を増さしめたるは、烈公の一 失たるを免れざるべし。六、弘道館を創建するに当り、三の丸外の模様替を要し、幕府 の允許を経て著手し、其指令の奉書には老中土井大炊頭も連署せし事なれば、此点に対 して烈公は罪を負はるべきにあらず。されど大炊頭は烈公と縁戚の親あれば、此度の罪 案には蝌ざりしか、若くは嫌疑を避けて口を緘せしなるべし。共他の老中阿部伊 勢守・牧野備前守 ( 忠雅 ) は、共に新任にして既往の事実を知らざれば、必ず堀大和 守 ( 親審信濃飯田藩主 ) 鳥居甲斐守等に誤られしものならん。又共土手の高さといふも、 二間半・三間には過ぎず、之を以て叛形となすは誣ふるも亦甚し。七、水戸常磐山の東 照宮拜に台徳院以下の霊屋は、従来神職・僧侶・両持の姿にて、固より排仏に傾ける水 戸君臣の喜ばざる所なる上に、共僧侶多くは破戒不如法の輩なりしかば、祖廟の奉祀を 彼等に委するは、神威を賁る所以にあらずとなし、改めて神道を以て祭られたり。然る おめみえ に此宮の別当は上野吉祥院主の兼帯にて、今之を止めらるれば幕府の御目見席を下るが 故に、吉祥院主これを怨みて、輪王寺宮を動かし、幕府に訴ふるに至りしなり。 七箇条以外の此の如く老中の推問せし七筒条は、特に罪跡を云々すべきものにあらざるに、斯く幕府続 禍因 の嫌疑を招きたる所以は、一には公の数年在国せる事、井に夫人の下向を請願せる事、 一一には水野越前守と心を合せたりといふ事、三には国許に於て大砲鋳造の事、四には国橋 許に於て武装調練・追鳥狩の事、五には江戸にて二月十二日甲胄目見の事等、累り積り て俗人の猜疑を引けるのみ ( これ公の自記に見えたり ) 。これらを認めて叛形となすの 妄なるは言説を要せざれども、水野越前守と心を合せたりとの一事は注意を要す。公の 自ら言はれし所に拠れば、公は越前守と同意して異船打払の令を廃し、夷国に通じ異船 かざ
( 落主松平 ( 毛利 ) 大膳大夫慶親 ) の三落に ( 官武間周旋記。武家吟味書 ) 、一条家より は肥後 ( 藩主細川越中守斉護 ) 備前 ( 藩主松平 ( 池田 ) 内蔵頭慶政 ) の二藩に達し ( 璞 記抄 ) 、土藩へは近衛家を経て薩藩士有馬新七の手より、越前・宇和島の二藩へは松平 土佐守より、大坂城代土屋采女正 ( 寅直、常陸土浦藩主 ) へは其家臣大久保要より達せ り ( 銘肝録 ) 。此外因州 ( 藩主松平 ( 池田 ) 因幡守慶徳 ) 筑前 ( 藩主松平 ( 黒田 ) 美濃 守斉溥 ) へも亦各達する所あり。斯くて伝達を受けたる諸藩の態度は一様ならず。尾 ・津は答ふる所なく、加州・阿州・長州・肥後・備前・薩州等は各答ふる旨ありき ( 璞記抄。武家吟味書。都日記 ) 。そも / 、此度の降勅は極めて秘密に行はれしかば、長 野主膳の如きも、八月十一日に至りて始めて之を知れるが ( 秘書集録 ) 、日下部・鵜飼 有志の歓喜等の同志の間には早く伝はりしかば、越藩の志士は大に喜び、「是れそ一橋公が改革に 著手するの端緒なる。万一水藩にて恐懼することもあらば、吾藩は勅旨を奉行するに於 て、決して人後に落つべきにあらず」と奮起するもあり ( 橋本左内全集 ) 。梅田源次郎 は之を以て若州藩の決心去就を促し ( 秘書集録 ) 、大久保要は書を在京の志士に送りて、 此上は水府老公を副将軍とすべしとさへいへり ( 銘肝録 ) 。斯かる間に、老中間部下総 梁川星巖の守上京の期近づきたるが、志士は下総守の上京を以て其運動に妨害ありと信じ、梁川新 病死 十郎は甞て下総守と面識あるを以て、彼を上京の途上に要して説服せんと企てしが、未 だ果さるに九月四日病を以て死せり ( 唱義見聞録 ) 。 九条関白排斥九条関白は予て硬派公卿の忌む所なりしが、幕府に取りて対京都策を行ふ唯一の機関な ひそか 運動の再発 れば、公卿・志士等は下総守の上京以前に関白を斥けんと、竊に其機を覗へり。初め関 白は密に広橋・万里小路・両伝奏をして勅諚の添書を作らしめたるが ( 添書の文は上に
為に祖法を変通するは拠なく、征夷府の任にて遊ばさるゝことなれば、品によりては却 て孝道とも存ずれども、万々一夷狄よりの願に因り、総べて夷狄の意の儘に、重き祖法 までも変ぜば、天朝に対しても、東照宮を始め代々に対せられても、忠孝の道にあらざ るべし」との語あり。これ強ひて鎖攘の見を固執せらるゝにはあらざれども、大体に於 幕府其答議て暮議と扞格するを免れざれば、大老・老中等は松平越前守・伊達遠江守の力を仮りて、 を修正せし 共答議の修正を勧説せしめんとす。越前守等は之に同意せざるにあらざれども、大老が めんとす 松平慶永の紀侯擁立の志奪ひ難く、松平伊賀守の之に左袒するが為に、一橋公推戴意の如くならざ 苦策 るに憤りしかば、先づ条約問題を以て之を苦しめ、以て幕府の反省を求めんとす ( 第四 章参照 ) 。されば五月九日備中守は越前守を招きて、「水戸老公の答議は、例の流義にて 忌諱に触るゝ文段もあれば、時態に相応し、御趣意にも触れざるやう修正あらまほし、 此事につきては貴君の尽力を希ふ所なり」といへる時、越前守、「そは辞する所にあら ねども、唯修正とありては老公の承引もあるまじ、今後幕府の処置如何を承りて、老公 の安心あるやう申上げずしては叶ひ難し。結局松平伊賀守の意見をも叩きて後に、調停 の事に従ふべし」と答へたるは是が為なりき。条約問題についても、越前守は日頃松平 土佐守・伊達遠江守等と凝議し、大広間諸大名の建白既に成り、共趣旨は条約調印を可 とするものにて、遠からず幕府に提出するに定まりたるに、幕府は之を知らずして、共 意嚮を憂慮する由聞えたれば、越前守は之を利用し、当分共提出を抑止せば、幕府は気 を置きて、養君の事も不決なるべく、其躊躇不断の間に挽回の策をも講ぜんと企てたる が、議未だ熟せざるに、十五日既に提出せられしかば、越前守が苦策も行はれず。此に 广永尾水の於て、せめては尾・水・両卿の答議の修正を差控へて、幕府の反省を促さんと、十六日 178
郎・藤田虎之介等は此機徴を察し、越前守の傾敗を慮りて、烈公の参府に先だち、こも たとい ごも進言して日く、「仮令公命に因るとはい〈、数年在国し給〈るに、江戸にても世子 かど 鶴千代君 ( 後の慶篤卿 ) の登城さへなきは、幕府に対して憚るべき廉なきにあらず、故 に此度参府の上は、必ず幕府に請ひて一年許りも在府し、世子君を伴ひて登城し給ひ、 諸般の儀礼を教 ( られ、其之に熟するを待ちて再び帰藩せらるゝ事、最も時宜に叶ふ・ヘ からん」と。蓋し烈公が永年在国の許可は、もと越前守の周旋に出で、其真意はともあ れ、表面幕府より見れば極めて寛優の待遇なり、越前守当局の間は斯くてもあるべけれ こっしょ ども、一旦政局転変せば、公は越前守と結託して、厳制を忽諸し私を営めりとの讒間入 るまじきにもあらず、これ予め備へざるべからずとするなり。因りて烈公此言を容れ給 ひ、日光予参の前、越前守に城中に逢ひて此事を語り、世子さへ登城せざるは憚り多き 由述べられしに、越前守は、「御三家としてさる無益の配慮には及ぶまじ、又御父子登 城ありては万般の資用もかゝるべし、されど強ひて御希望あらば、唯何となく、本年中 若くは秋まで滞府の願として、内旨を請ふべし」といへり。然るに日光より帰府の後 ( 五月四日 ) に至り、越前守は書を以て、未だ最初沙汰ありし程の年数に達せざれば、 本月中旬には帰国の暇を賜はるべき内旨なる由を伝へ来れり ( 不慍録 ) 。 蝦夷地下賜の初め水戸藩は、斉脩卿の季年国計窮迫して如何ともなし難かりしかば、藩の有司中には 内請 幕府に増封を請願せんといふ者もありたれども、共議未だ定まらざりしに、烈公襲封の 後も国用尚乏しかりければ、有司遂に前議を進む、烈公は、「余父祖の余沢を以て三藩 いさぎよし の一に居り、未だ毫髪の功なきに、窮乏の故を以て増封を望むは我が屑とする所にあ さやく らず」とて、之を用ゐ給はず。然れども烈公は常に蝦夷地が北門の鎖鑰として辺要の地
烈公の幕閣更一是より先一一十一日、烈公は書を大老等に寄せて ( 此時既に調印を了〈たれども未だ公表 迭計画 せず ) 、若し条約に調印せんとならば、必ず大老・老中の中上京して朝旨を請ふべし、 若し幕府にて専断するが如き事あらば、祖宗以来朝廷尊崇の大義を失却するに至るべ し」と忠告し給ひ、又条約の内容を縮少すべき意見をも述べられたれば、大老は調印の 已むを得ざる所以、又事情奏聞の為には、不日御使を出発せしむべき旨を答へたりしが、 烈公は尚得心せず、尾・越・両侯と共に大老を責めんと憤激し給ふ。翌日幕府は遂に条 烈公大老等約調印の由公布せしかば、即日烈公は安島弥次郎をして、越前の中根靱負・一橋家の平 を黜けて天 岡円四郎等と会して、井伊大老以下条約調印に関係ある諸有司を退け、幕府の為に天朝 朝に謝せん とす に謝するの道を講じ、又松平越前守をして政権を握らしむべき手段を凝議せしむ。伊達止 松平慶永を遠江守も亦岩瀬肥後守等と内外策応し、一一三の老中を説き、越前守を薦めて大政に参城 大政に参与 与せしめんと企てたりしかば、大老・老中等は、越前守に政権争奪の非望ありて、其源の せしめんと す は烈公の使嗾に出づと疑へり。此頃幕府が英・仏・軍艦の渡来に備へんが為に、越前守と に命じて、松平隠岐守 ( 久松勝成、伊予松山藩主 ) と共に、神奈川・横浜を警衛せしめ調 慶永の言動しに、越前守は「在府の家臣少くして、到底数十艘にて渡来すべき外敵に対抗し難けれ条 は、国許より兵士到著するまでは出兵し難し」といひ、又「御家門の列にありながら、利 なら 隠岐守如き譜代大名と肩を比ぶれば、先祖を辱め家臣の不平を招くべしーなど称して、亜 之を辞したる事ありて、挙措俄に変じたれば、幕府の嫌疑を招きしも亦已むを得ざる所章 なるべし ( 昨夢紀事 ) 。 烈公等の不時翌二十四日、烈公は水戸中納言・及尾張中納言と共に不時に登城し給ふ。これ違勅調印 登城 の事を以て井伊大老を責めんが為なり。烈公は先年政務参与を解かれし後は、曽て登城
ず、烈公の政務参与も名のみなるを見て、此上は力を継嗣問題に尽すこそ当今の急務な れと、此に先づ同志を糾合するに務めたり。蓋し越前守等は、」、 公を看たる眼を移して 公に属し、烈公によりて得んとせし所を公に求めんとするなり。因りて越前守は尾張中 尾張慶勝の納言と松平阿波守とを延きて同志となさんとし、十月密使を尾張に遣はして同意を求め 不同意 しに、中納言は、「刑部卿とは唯一面の識あるのみにて、談論せしことなければ、其人 物を熟察せし上にあらずば、軽々しく推挙し難く、且親族結党の嫌疑を恐る」と答へて 肯ぜず、趣前守は尚も書を贈り、又家臣橋本左内 ( 綱紀 ) をして、尾落の臣田宮弥太郎 ( 篤輝、後に如雲と号す ) を懇説せしめたるが、総べて共効なかりき。又松平阿波守は 蜂須賀斉裕家斉公の子にして、将軍近親中の古老なれば、勧めて幕府の為に養君の議に賛成せしめ の同意 しに、阿波守は同意せり ( 昨夢紀事。橋本左内全集。中根氏雑書 ) 。 継嗣問題の発斯かる間に、幕府継嗣の事は越前守等一部の希望にあらずして、世上一般の問題となり、 公を推戴せんとする者漸く多く、板倉伊予守 ( 勝明、上野安中藩主 ) 等も越前守と声息 板倉勝明の 勧説 を通じて、阿部伊勢守・及若年寄本多越中守 ( 忠徳、陸奥泉藩主 ) に勧説せり。又松平 島津斉彬の薩摩守は、養女篤姫 ( 名は敬子、後に天璋院 ) を更に近衛右大臣 ( 忠熙 ) の養女とし、 意見 之を将軍に配せんとして力を尽せるが、其幕府と結婚の目的の一つは、夫人をして親し く将軍家に説かしめ、内より援引して、公を西城に入れんとするにありといへり。其真 意の程はともあれ、薩摩守が公に心を傾けしは事実にして、安政四年三月謁見の際、公 の徳量・資質を熟察し、後越前守に書通して、「一橋殿は真に人君の器なり、一日も早 く西城と仰ぎ奉りたし」と賞讃せるにて知らる。但し薩摩守は密に越前守に忠告して、 水戸老公と・文通せず、疎遠なる方却て天下の為なる由をいへりとぞ ( 昨夢紀事。橋 しましー
幕府は確証なき流言飛語と知りつゝ、斯く厳重なる処置に出づといふ、其藩臣たる者い かでか之に服すべき ( 水戸見聞実記。安政雑記 ) 。二十九日水戸中納言 ( 慶篤 ) は、武 田修理 ( 正生、後に耕雲斎と称す ) 太田誠左衛門の二人を老中太田備後守の邸に遣はし 永戸慶篤のて陳情せしむ。「前中納言蒙譴以来、敬上の素志を守りて何等不謹慎の実なきに、唯風 そむ 陳情 聞の為に斯くまで疑念を受け、連枝の干渉を受くる事、祖宗忠孝の志に負き、恥辱此上 なし。殊に三家は一体といひながら、尾・紀・両家の家老どもに取締を命ぜられては、 三家の規格を失ひ、中納言一身の孝道も立ち難し。又前中納言謹慎の後、国許士民動揺 の姿ある折柄、此度の台命によりては、如何に動き立つ者あらんも計られず」とて、切 に連枝・及取締の立入を免ぜんことを請へども許されず ( 公用方秘録。水戸見聞実記。 安政雑記 ) 。八月朔日命を水戸家に伝へ、讃岐守等の家臣を烈公の左右に侍せしめんとせ 永藩士の決り。駒込邸の諸士、水野・竹腰の家臣も亦至ると聞き、「幕府は我が君を他藩に移さん しばら とするか」と、一同死を決して迎へ闘はんとす。幕府も已むことを得ず、姑く著手を猶隠 予せしめしかば、血を躁むまでには至らざりき ( 鈴木大日記。〇大目付山口丹波守・目の あまっさ 付松平久之允の異論に因ると、本書に見ゅ ) 。されど幕府は尚も前令を撤せず、剰へ 連枝井に家老等の召出さるゝこと頻なりければ、厳譴再び水戸家に下るべしなど風聞し、の 越前藩の動物情ます / 、険悪なり。やがて又越前藩主 ( 松平越前守慶永 ) にも連累す・ヘしなど聞え安 揺薩藩の加 しかば、同藩も亦動揺せり。果ては「吹上の苑内に牢獄を作りて、烈公と越前守とを拘章 ととの 禁せんとし、其施設も既に調〈り」など、あるまじき妄説も流伝し、幕府は密偵を放ちル て頻に両落邸を窺ひければ、両家は皆虎の尾を蹈むの思をなし、互に牒知して深く戒心四 せり。此時越前家にては、幕府若し伝ふる如き暴挙に出でなば、秘策を設けて越前守を たたか